最終更新日 2025-05-19

南部政直(宮内少輔・季賢)

戦国期安東家外交官・南部宮内少輔政直(季賢)の実像

I. 序論

本報告は、日本の戦国時代において、出羽国の有力大名であった安東(あんどう)氏の外交官として活動した「南部宮内少輔政直(なんぶくないのしょうゆまさなお)」なる人物に焦点を当て、現存する史料に基づき、その出自、具体的な活動、歴史的意義を詳細かつ徹底的に明らかにすることを目的とする。

近年の研究、特に工藤利悦氏による指摘 に基づけば、この人物の諱(いみな)は「季賢(すえかた)」であり、「政直」は別称、あるいは一部史料や研究者間での呼称である可能性が高い。この点を踏まえ、本報告では、史料状況を鑑み、主たる呼称を「南部宮内少輔季賢」(以下、季賢と略す場合あり)としつつ、史料や研究史上の呼称として「政直」にも言及する。

利用者からの明確な指示にもある通り、本報告の対象人物は、南部利直の次男である南部政直(慶長4年(1599年)生誕 – 寛永元年12月3日(1625年1月11日)死去) とは全くの別人である。後者は江戸時代初期の盛岡藩の人物であり、本報告の対象とする戦国期の外交官・季賢とは時代も活動内容も明確に異なるため、その混同を避けることは本報告の重要な前提となる。

季賢の活動を伝える主要な一次史料としては、公家・山科言継(やましなときつぐ)の日記である『言継卿記(ときつぐきょうき)』 1 、織田信長の伝記である『信長公記(しんちょうこうき)』、そして『秋田藩家蔵文書(あきたはんかぞうもんじょ)』 2 や『新羅之記録(しんらのきろく)』 などが挙げられる。また、近世こもんじょ館 や弘前市立弘前図書館デジタルアーカイブ(ADEAC) 3 などで公開されている研究成果も重要な手がかりとなる。本報告はこれらの史料群を博捜し、季賢の人物像と彼が果たした役割について多角的な分析を試みる。

本報告の構成は以下の通りである。まず、季賢の出自と安東家における立場を明らかにし、次いで安東家の外交官としての活動全般を概観する。その後、具体的な外交交渉の事例として、山科言継との接触、および織田信長との会見について詳細に検討する。特に『信長公記』に見られる「津軽の南部宮内少輔」という呼称と、浪岡北畠(なみおかきたばたけ)氏との関連性についても考察を加える。最後に、これらの分析を踏まえ、季賢の歴史的評価を試み、結論として調査結果を総括する。

冒頭において対象人物の呼称に関する問題を整理し、本報告が「季賢」という諱を主軸に据える根拠を示すことは、報告全体の明確性と学術的信頼性を高める上で極めて重要である。利用者は「南部政直(南部宮内少輔政直)」と指定しているが、工藤利悦氏の研究によれば「南部宮内少輔は諱を季賢と云い、秋田安東家の郎従」 とされる。一方で、菊池克好氏の問いかけとして「南部宮内少輔は南部政直」 という見解も存在する。このような史料・研究上の情報の錯綜を冒頭で整理し、本報告が依拠する呼称とその理由を明示することで、以降の議論における混乱を未然に防ぎ、専門性の高い報告であることを示す一助となるであろう。これは単に情報を提示するに留まらず、史料批判的な視座を初期段階で示すことにも繋がる。

II. 南部政直(宮内少輔季賢)の出自と安東家における立場

「南部」姓を持つ安東家臣:その背景と経緯に関する考察

南部宮内少輔季賢が、安東愛季(あんどうちかすえ)の家臣(郎従)でありながら「南部」という姓を名乗っていた事実は、複数の史料から確認できる。この一見矛盾するような所属関係は、戦国時代の北奥羽における安東氏と南部氏の複雑な力関係を背景に理解する必要がある。

安東氏と南部氏は、陸奥国北部から出羽国北部にかけて勢力を有した有力大名であり、その領地は隣接していた。両氏は長年にわたり、鹿角郡(かづのぐん)などを巡って激しい抗争を繰り広げる(例:「鹿角郡争奪戦」)一方で、時には婚姻関係を結んだり、一方の勢力が他方に従属したりすることもあったと推測される。このような流動的な状況下において、南部氏の一族または庶流の人物が、何らかの理由で安東氏に仕えるという事例が発生し得たと考えられる。例えば、南部氏が安藤宗家の庶子系である師季(後の政季)を傀儡(かいらい)として擁立した例 の逆パターンとして、南部氏の血を引く者が安東氏の麾下(きか)に入ることも不自然ではない。中国のウェブサイトには「南部氏一族」との記述もあるが、その具体的な系譜や安東家への仕官の経緯については、現時点では史料的裏付けが乏しい。

季賢の「南部」姓は、単なる出自を示すだけでなく、当時の安東氏の対南部氏戦略や、北奥羽全体の勢力均衡の中で、何らかの象徴的あるいは実質的な意味を持っていた可能性が考えられる。長年のライバル関係にあった南部氏に対し、安東氏が「南部」姓の人物を外交の前面に立てることは、南部氏本宗家への牽制、あるいは南部氏の庶流との連携を示す意図があったかもしれない。また、京都の中央政権や織田信長といった交渉相手にとって、「安東」よりも「南部」という姓の方が、奥羽の有力氏族としてある程度の認知度があった可能性も考慮すべきである。季賢が南部氏のどの系統に連なるのか、そして安東家との具体的な主従関係がどのように成立したのかという点は、彼の外交官としての役割の特殊性を理解する上で重要な論点となるが、史料の制約から詳細は不明である。

諱「季賢」と官職「宮内少輔」について

南部宮内少輔の諱が「季賢」であることは、工藤利悦氏の研究や弘前市立弘前図書館所蔵史料など複数の資料で確認されている。

一方、官職名である「宮内少輔(くないのしょうゆ)」については、その性格を慎重に検討する必要がある。これが朝廷から正式に叙任された官職であったのか、それとも主君である安東愛季によって与えられた私的な称号(いわゆる武家官位)であったのか、あるいは外交活動を行う上での自称であったのかは判然としない。戦国時代には、大名やその家臣が朝廷の許可を得ずに官職を名乗る例は頻繁に見られた。S96の史料では「湊宮内大輔(みなとくないのたゆう)(南部季賢)」という記述も見られ、官職名に「少輔」と「大輔」という揺れがある可能性も指摘できるが、これらは明確に異なる官職であるため、史料の誤記や混同も考えられる。

「宮内少輔」という官職名は、中央との交渉において、相手に一定の格式を示すための戦略的なツールとして機能した可能性が高い。安東愛季自身も活発な官位運動を行っていたことが知られており、その家臣である季賢が「宮内少輔」を名乗ることで、山科言継や織田信長といった中央の有力者との交渉の場で、安東家の使者としての正式性を高め、交渉を有利に進めようとしたと考えられる。これが自称であったとしても、無位無官の使者よりは外交儀礼上、有利に働いたであろうことは想像に難くない。

安東愛季の家臣としての活動概観

季賢は、安東氏の戦国大名化を成し遂げた智勇兼備の当主・安東愛季 の時代に、その外交政策を担う重臣として活動していたことが、諸史料からうかがえる。彼の活動は、主君・愛季の指示のもと、頻繁に京都へ赴き、公家や中央の武家政権との間で多岐にわたる外交交渉を行ったことに集約される。その目的は、主家である安東氏の勢力維持と拡大、日本海交易における利権の確保、主君や一族の官位獲得、そして何よりも中央の最新情報を収集することなど、複合的なものであったと推測される。

以下に、南部宮内少輔季賢の活動に関連する主要な出来事を年表形式で示す。

表1:南部宮内少輔季賢 関連年表

年月日

季賢の活動(呼称は史料に基づく)

関連人物

史料根拠

備考

永禄12年(1569年)3月15日

奥州津軽南部弥左衛門(季賢カ)、山科言継を訪問し揖保庄代官を所望。近日摂津国へ入国する軍勢に編入されていると伝わる。

山科言継

『言継卿記』 1

「弥左衛門」は季賢を指す可能性が高い。

天正3年(1575年)2月20日

織田信長、下国安東愛季郎従南部宮内少輔季賢の帰国に際し、愛季へ書状を送り、鷹の所望と鷹師下向を伝える。

織田信長、安東愛季

「秋田湊文書」等(弘前市立弘前図書館ADEAC所引)

季賢は熊野参詣の途次であったとの説もある。北畠顕村の使節かとの注記あり。

天正3年(1575年)

南部宮内少輔、熊野参詣の途中で織田信長に鷹三据を献上。

織田信長、安東愛季

『秋田藩家蔵文書』、秋田県公文書館所蔵織田信長朱印状

天正5年(1577年)6月1日

織田信長、下国安東愛季の鷹進上を謝し、使者と太刀を送る。

織田信長、安東愛季

「秋田家文書」「歴名土代」(弘前市立弘前図書館ADEAC所引)

この使者が季賢であった可能性も考えられる。

天正6年(1578年)8月5日

奥州津軽之南部宮内少輔(安東愛季郎従南部季賢)、安土へ上り、織田信長に鷹五疋を進上。

織田信長、安東愛季、蠣崎季広(四男正広も同道)

『信長公記』、『新羅之記録』

天正6年(1578年)8月10日

織田信長、南部の使者(南部宮内少輔)を万見仙千代邸に迎え、饗応して返礼。

織田信長、万見仙千代

『信長公記』

万見仙千代の没年については諸説あったが、天正6年12月説が有力。

天正7年(1579年)7月

奥羽の諸大名が織田信長に鷹・駿馬を進上。信長はこれを饗応し安土城天主を見せる。安土滞在中の「津軽の南部宮内少輔」(南部季賢)もこの接待にあずかる。

織田信長

『信長公記』

(豊臣期)

湊宮内大輔(南部季賢)、湊右近(北畠季慶)らと共に上洛し政治工作を展開(安東実季の時代)。

安東実季、石田三成、北畠季慶

小田島氏のブログ記事

史料的裏付けの確認が必要。官職名が「宮内大輔」となっている点に注意。

この年表は、季賢の外交活動が永禄末年から天正年間、さらには豊臣期にまで及ぶ可能性を示唆しており、安東家が中央政権の動向を常に注視し、継続的な外交努力を行っていたことを浮き彫りにする。

III. 安東家の外交官としての南部政直(季賢)

戦国期における安東家の外交戦略と中央政権との関係

戦国時代、出羽国北部に確固たる勢力を築いた安東氏は、単に一地方の豪族に留まらず、日本海交易にも深く関与し、広域的な経済活動を展開していた。このような背景から、安東氏にとって中央政権との関係構築は、自領の安堵、交易利権の保護・拡大、そして何よりも北奥羽における自家の政治的地位を確立する上で不可欠な要素であった。

特に、安東愛季の時代(1539年~1587年)には、中央集権化の動きが加速し、織田信長、次いで豊臣秀吉が天下統一事業を推進した。愛季はこの激動の時代を巧みに生き抜くため、中央の動向を鋭敏に察知し、積極的に政治工作を展開したことが史料からうかがえる。朝倉義景が「列島を俯瞰する外交」 を展開したように、安東氏のような地方勢力もまた、京都の朝廷や公家、そして勃興しつつあった武家政権との間に多角的な外交チャンネルを構築しようと試みていたのである。

季賢が担った外交的役割と京都への派遣

このような安東家の外交戦略において、南部宮内少輔季賢は中心的な役割を担った。彼は安東愛季の命を受け、複数回にわたり京都へ派遣され、困難な外交交渉の任にあたったとされる。その交渉相手は、伝統的権威を有する公家である山科言継から、当代随一の実力者である織田信長まで、多岐にわたっていた。

季賢の外交活動の目的は、多岐にわたっていたと考えられる。第一に、主家である安東氏の領土と権益を中央政権に公認させ、その地位を安定させること。第二に、日本海交易を中心とする経済活動のさらなる発展のため、中央とのコネクションを利用して新たな利権を獲得すること。第三に、主君・愛季やその一族のための官位獲得運動。そして第四に、激動する中央の政治・軍事情報を迅速かつ正確に収集し、主君の意思決定に資することであったろう。

季賢が山科言継や織田信長といった、性質の異なる交渉相手と渡り合い、かつ複数回にわたって上洛し交渉を重ねているという事実は、彼が単なる主命を帯びた使者ではなく、高度な交渉能力、状況判断力、そして広範な情報網を備えた、専門的な外交官僚として機能していたことを強く示唆している。戦国期には、禅僧などが外交僧として活躍する例も散見されるが、季賢は武士の身分でこの重責を担っており、安東家における彼の特異な立場と、主君・愛季からの厚い信頼をうかがわせる。彼の存在は、安東家が中央集権化の波に対応するために、専門的な外交スキルを持つ人材を登用し、戦略的な外交を展開していたことの証左と言えるだろう。

IV. 山科言継との交渉:『言継卿記』の記述を中心として

永禄十二年(1569年)三月十五日の記録分析

南部宮内少輔季賢の具体的な外交活動を示す初期の記録として、公家・山科言継の日記『言継卿記』の永禄12年(1569年)3月15日の条が注目される。この日の記録には、「奥州津軽南部弥左衛門、予に来(きた)る。揖保庄(いぼのしょう)代官を所望す。近日摂津国へ入国すべき軍勢に編入せらるると云々。酒一樽到来す」 1 と記されている。この「南部弥左衛門」について、史料には「季賢カ」という注記が付されており、これが南部宮内少輔季賢を指す可能性が高いと考えられる。

この記述から、季賢(弥左衛門)の山科言継邸訪問の主目的が「揖保庄代官を所望す」ることにあったことがわかる。揖保庄は播磨国(現在の兵庫県南西部)に位置する荘園であり、安東氏の本拠地である出羽国からは遠隔の地である。安東氏がなぜこの地の代官職を求めたのか、その背景には、安東氏の経済基盤強化、特に日本海交易ルートの西国への延伸や畿内市場へのアクセス確保を狙った戦略があった可能性が考えられる。揖保庄は瀬戸内海にも近く、水運の利便性が高い地域であった。安東氏が日本海交易に深く関与していたこと を考慮すると、この代官職を得ることで、日本海から瀬戸内海を経由して畿内へと至る新たな交易ルートを確保し、さらなる経済的利益を追求しようとしたのではないだろうか。

山科言継がこの件にどのように関与し得たのかについては、いくつかの可能性が考えられる。山科家は室町時代に播磨国守護であった赤松氏と関係があり、揖保庄に関して何らかの権益を有していたか、あるいは影響力を行使できる立場にあったのかもしれない。また、言継自身が朝廷や当時力を持っていた三好三人衆、あるいは台頭しつつあった織田信長への取次役として期待された可能性もある。季賢が言継に酒樽を贈っていることからも、この交渉が安東家にとって重要な意味を持っていたことがうかがえる。

さらに注目すべきは、「近日摂津国へ入国すべき軍勢に編入せらるると云々」という記述である。永禄12年当時、織田信長は前年(永禄11年)9月に足利義昭を奉じて上洛し、畿内における支配権を急速に固めつつあった。この「軍勢」が織田信長の軍事行動に関連するものなのか、あるいは当時まだ畿内に勢力を有していた三好三人衆などの他の勢力の動きを指すのかは判然としない。しかし、この情報が揖保庄代官職の所望と併せて語られていることから、安東家が畿内の軍事・政治動向と自家の経済的権益確保を結びつけて考えていた可能性が示唆される。もしこの「軍勢」が信長に関連するものであれば、安東家が信長の台頭を早期に認識し、何らかの形で信長との関係構築を模索していた初期の動きを示すものと解釈できるかもしれない。この時点ではまだ信長との直接的な接触ではなく、山科言継のような公家を通じた間接的なアプローチであった可能性も考えられ、これが後の天正3年(1575年)以降に見られる織田信長との直接的な交渉へと繋がる伏線であったとも言える。

当時の政治状況と安東家の戦略における当該交渉の位置づけ

永禄12年(1569年)は、織田信長が足利義昭を擁立して上洛を果たし(永禄11年)、畿内における覇権を確立しつつあった時期にあたる。一方で、三好三人衆などの反信長勢力も依然として活動しており、畿内の政治状況は未だ流動的であった。このような中央の情勢不安は、地方の勢力にとっては危機であると同時に、新たな権益を獲得する好機ともなり得た。

安東家がこの時期に、遠く出羽国から季賢を京都へ派遣し、山科言継を通じて播磨国の代官職を求めたことは、単なる経済的利益の追求に留まらず、激動する中央政局への能動的な対応を示すものであったと考えられる。特に、「津軽」という呼称がここでも用いられている点は、後述する浪岡北畠氏との関連も視野に入れる必要があるかもしれない。安東家は、伝統的な公家とのパイプを維持しつつ、新たな実力者である織田信長の動向も見据え、多角的な外交戦略を展開しようとしていたのであろう。この『言継卿記』の記述は、そのような安東家の戦略の一端を垣間見せる貴重な史料と言える。

V. 織田信長との会見:『信長公記』及び関連史料の比較検討

南部宮内少輔季賢の外交活動の中で、特に注目されるのが中央の覇者・織田信長との接触である。この交渉は、主に鷹の献上を通じて行われたことが複数の史料から確認できる。

天正三年(1575年)の鷹献上と信長からの書状

季賢と信長の最初の交渉として記録されているのは、天正3年(1575年)の出来事である。『秋田藩家蔵文書』や秋田県公文書館所蔵の織田信長朱印状などによれば、この年、安東愛季の家臣である南部宮内少輔(季賢)が織田信長に鷹を献上したとされる 2 。弘前市立弘前図書館デジタルアーカイブ(ADEAC)所引の「秋田湊文書」「八戸湊文書」「秋田藩採集文書『湊矩季家蔵文書』」には、天正3年2月20日付で、織田信長が南部宮内少輔季賢の帰国に際し、主君である安東愛季へ宛てた書状の存在が記録されている。この書状の中で信長は、愛季に対して鷹の献上を求めるとともに、鷹師(鷹の飼育・調教を行う専門家)を愛季のもとへ派遣する旨を伝えている。これは、単なる儀礼的な贈答に留まらず、安東家と織田家の間に、鷹を通じてより具体的な交流があったことを示唆している。

一部史料では、季賢はこの時、熊野参詣の途次であったとされている。この外交の目的は、急速に勢力を拡大する織田信長との友好関係を構築し、北奥羽における安東氏の地位を中央政権に認知させること、さらには交易上の便宜や最新の政治・軍事情報を収集することにあったと推測される。

『信長公記』における関連記述の分析と史料批判

織田信長の最も信頼性の高い一代記とされる『信長公記』(太田牛一著)にも、南部宮内少輔と信長との接触に関する記述が見られる。しかし、その解釈にはいくつかの注意すべき点が存在する。

天正六年(1578年)八月五日の鷹献上記事

『信長公記』の天正6年8月5日の条には、「奥州津軽之南部宮内少輔」が鷹五疋(ひき)を織田信長に献上したと記録されている。これに対し、信長は同月10日に、側近である万見仙千代(まんみせんちよ)の邸宅で南部宮内少輔を饗応(きょうおう)したとされている。

ここで問題となるのが、饗応役を務めた万見仙千代(重元)の没年である。かつて『戦国人名辞典』などでは、仙千代は天正6年2月8日の摂津国有岡城攻め(荒木村重の反乱)に関連して戦死したとされており、この説に従うならば、同年8月の饗応は不可能ということになる。しかし、近年の研究では、菊池克好氏が『多聞院日記(たもんいんにっき)』同年12月9日条の記述を根拠に、仙千代の討死は天正6年12月9日であったとする説を提示しており、こちらが有力視されている。この説に基づけば、8月10日の饗応は時間的に可能となり、『信長公記』の記述の信憑性はある程度担保される。この万見仙千代の没年に関する日付問題の解決は、単なる事実確認以上に、史料批判のプロセスそのものを示す好例であり、季賢が信長側近と直接的な接点を持ったことの確度を高める上で重要である。

天正七年(1579年)七月の饗応記事

『信長公記』にはさらに、天正7年7月にも南部宮内少輔に関する記述が見られる。この時、奥羽地方の諸大名がこぞって信長に鷹や駿馬を献上し、信長は彼らを饗応するとともに安土城の天主を見物させた。その際に、「津軽の南部宮内少輔」(南部季賢)もこの接待にあずかったと記されている。これは、季賢が天正6年の遣使後も、引き続き安土に滞在していたか、あるいは短期間のうちに再訪し、信長との関係を維持していたことを示している。

『信長公記』における「南部政直」記載の信憑性に関する諸説

利用者からの照会にある「南部政直」という呼称について、『信長公記』との関連で注意すべき点がある。近世こもんじょ館を運営する工藤利悦氏によれば、『信長公記』の原本や信頼性の高い写本には「南部政直」という名前は直接的には記録されておらず、一貫して「南部宮内少輔」と記されているという。

「南部宮内少輔=南部政直」という見方は、菊池克好氏の質問や一部研究者の間で見られるもの であるが、これは後世の史料や編纂物における解釈や混同に起因する可能性がある。例えば、S65では、『南部史要』の著者が『信長公記』の記述を南部晴政の事績として解釈した可能性や、『信直公記』には「南部政直」の名が見られないことから、誰かの補注ではないかとの推察がなされている。これは、後世の編纂過程で「政直」という名が「南部宮内少輔」と結びつけられた可能性を示唆する。

したがって、『信長公記』に登場するのはあくまで「南部宮内少輔」であり、これが本報告の対象人物である季賢を指すと考えるのが妥当である。「政直」という呼称が『信長公記』に直接由来するものではない可能性が高いという事実は、対象人物の呼称問題を再確認させるとともに、史料編纂における情報の変容や混同の危険性を示唆している。工藤氏が「南部宮内少輔は諱を季賢と云い、秋田安東家の郎従と突き止めました」 と結論付けていることと合わせると、「宮内少輔=季賢」が一次史料に近い呼称であり、「政直」はその別称か、あるいは後世の研究や伝承の中で結びついた呼称であると理解するのが適切であろう。

信長への外交活動の目的、内容、及びその成果と影響

天正3年、6年、7年と、少なくとも三度にわたり南部宮内少輔季賢が織田信長と接触した記録が残されていることは、安東愛季の外交戦略が場当たり的なものではなく、中央政権の動向を冷静に分析し、継続的かつ戦略的に関係を構築しようとしていた深慮遠謀の現れと言える。特に天正年間は、信長の勢力が急速に拡大し、天下統一事業が現実味を帯びてくる時期であり、地方の戦国大名にとっては中央政権との関係が文字通り死活問題であった。

その目的は、第一に、織田信長の急速な台頭に対し、友好関係を構築し、安東氏の北奥羽における伝統的な地位や権益を新たな中央政権に公認させることにあったと考えられる。第二に、鷹の献上という儀礼的な外交を通じて、信長政権下での交易上の便宜を図り、さらには最新の政治・軍事情報を収集することも重要な目的であったろう。

その内容の中心は鷹の献上であったが、天正3年の信長からの書状に見られる鷹師の派遣の申し出 などは、単なる儀礼に留まらない、より具体的な交流があったことを示唆している。

これらの外交活動の成果として、安東氏は織田信長との間に一定のパイプを築き、その存在を中央に強く印象づけることに成功したと言える。天正7年の饗応記事 では、他の奥羽大名と共に安土城天主に招かれており、信長政権下における奥羽外交の一翼を担う存在として認識されていた様子がうかがえる。これにより、安東氏は北奥羽における自家の立場を相対的に強化し、周辺勢力に対する優位性を確保しようとしたと考えられる。

以下に、主要史料における南部宮内少輔季賢の織田信長への遣使記録を比較検討のため表形式で示す。

表2:主要史料における南部宮内少輔季賢の織田信長への遣使記録比較

年月日

史料名

記述内容(使者名、献上品、信長の対応、饗応役等)

史料間の異同・特記事項

出典

天正3年(1575年)2月20日

「秋田湊文書」等(弘前市立弘前図書館ADEAC所引)

織田信長、下国安東愛季郎従南部宮内少輔季賢の帰国に際し、愛季へ書状。鷹の所望と鷹師下向を伝える。

季賢が北畠顕村の使節かとの注記あり。熊野参詣の途次との説も。

天正3年(1575年)

『秋田藩家蔵文書』、織田信長朱印状(秋田県公文書館蔵)

南部宮内少輔、熊野参詣の途中で織田信長に鷹三据を献上。

天正6年(1578年)8月5日

『信長公記』

奥州津軽之南部宮内少輔、鷹五疋を信長に献上。

「南部政直」の呼称は見られない。「津軽の」と冠される。

天正6年(1578年)8月10日

『信長公記』

信長、南部の使者(南部宮内少輔)を万見仙千代邸にて饗応。

万見仙千代の没年について議論あり(天正6年12月説が有力)。

天正6年(1578年)8月

『新羅之記録』

奥州津軽之南部宮内少輔(安東愛季郎従南部季賢)、安土へ上り信長に鷹を進上。蠣崎季広の四男正広も同道。

『信長公記』の記述とほぼ一致。蠣崎氏の動向も記載。

天正7年(1579年)7月

『信長公記』

奥羽諸大名の鷹・駿馬献上。信長饗応し安土城天主を見せる。安土滞在中の「津軽の南部宮内少輔」(南部季賢)も接待にあずかる。

季賢がこの時期にも安土にいたことを示唆。

この表からもわかるように、南部宮内少輔季賢の信長への遣使は複数回に及び、その呼称や細部において史料間の差異や検討すべき点が存在する。しかし、彼が安東家の重要な外交官として信長との交渉にあたった事実は揺るがないと言えよう。

VI. 「津軽の南部宮内少輔」という呼称と浪岡北畠氏との関連

南部宮内少輔季賢に関する史料、特に『言継卿記』や『信長公記』において、彼が「津軽の」という枕詞を伴って呼称される点は、その出自や活動背景を考察する上で非常に興味深い。

安東氏の勢力圏と津軽地方

安東氏は、鎌倉時代から戦国時代にかけて、陸奥国北部から出羽国北部に広大な勢力圏を築き、特に津軽半島先端に位置する十三湊(とさみなと)は、日本海交易の拠点として安東氏の経済的繁栄を支える重要な港であった。しかし、戦国時代に入ると、津軽地方の支配を巡って、同じく北奥羽に勢力を張る南部氏や、後に津軽氏として独立する大浦氏との間で激しい抗争が繰り返された。このような状況下で、安東家にとって津軽地方は戦略的に極めて重要な地域であった。

南部季賢と浪岡北畠氏との関係性に関する史料的検討

季賢が「津軽の南部宮内少輔」と称された背景には、いくつかの可能性が考えられる。一つは、彼自身の出身地が津軽地方であった、あるいは津軽地方に何らかの所領や活動基盤を有していた可能性である。もう一つは、安東家における彼の役割として、津軽方面の外交や統治を担当していた可能性である。

さらに注目すべきは、弘前市立弘前図書館デジタルアーカイブ(ADEAC)所引の史料、具体的には「秋田湊文書」などに付された注記である。天正3年(1575年)に南部宮内少輔季賢が織田信長へ使者として赴いた際の記事に、「波岡御所北畠顕村(なみおかごしょきたばたけあきむら)の使節か」という注記が見られる。これは極めて重要な指摘であり、季賢の外交活動が単に安東家個別のものに留まらなかった可能性を示唆する。

浪岡北畠氏は、津軽地方の名門であり、伊勢国司北畠氏の庶流とされ、公家としての高い家格を有していた。戦国時代においても「浪岡御所」として一定の権威を保っていた。そして、安東愛季の娘が浪岡北畠氏当主・北畠顕村に嫁いでおり、安東氏と浪岡北畠氏は婚姻を通じた強固な同盟関係にあったことが知られている。

S96の史料(小田島氏のブログ記事、史料的裏付けの確認が必要)には、安東実季(愛季の子)の時代に、「家臣の湊右近(北畠季慶)・湊宮内大輔(南部季賢)らを上洛させて巧みな政治工作を展開」したとの記述があり、これが事実であれば、季賢が北畠氏とも関連の深い湊氏の家臣、あるいは湊姓を名乗る北畠氏関係者と共に活動した可能性も出てくる。この「湊宮内大輔」が本報告の対象である「南部宮内少輔季賢」と同一人物であるかは慎重な検討を要するが、興味深い情報である。

これらの情報を総合的に勘案すると、南部宮内少輔季賢の外交活動は、単に安東家個別の利益を追求するだけでなく、津軽地方における安東氏と浪岡北畠氏との連合、あるいは安東氏を盟主とする何らかの地域連合体の対中央交渉という側面を持っていた可能性が浮上する。浪岡北畠氏は公家出身の名門であり、その家格と権威は、中央の公家社会や武家政権との外交交渉において、安東氏単独で臨むよりも有利に働く可能性があった。安東愛季が娘を顕村に嫁がせていることからも、両家が緊密な同盟関係にあったことは明らかであり、季賢が両家の共通の利益を代表して、あるいは北畠氏の名分を借りて外交活動を行っていたとすれば、それは安東家の外交戦略の巧みさを示すものと言えるだろう。

また、季賢の呼称に見られる「南部」(出自)、「津軽」(活動領域または代表した地域勢力)、「宮内少輔/大輔」(官職名または外交上の称号)、そして場合によっては「湊」(安東家内の特定派閥や拠点との関連)といった複数の要素は、彼の出自、活動領域、そして安東家内部での立場や役割の変遷を反映している可能性がある。一人の人物が持つ多層的なアイデンティティや、戦国期の武士の複雑な所属関係が、これらの呼称の背後に隠されているのかもしれない。彼の活動時期が安東愛季から実季の代にまたがる可能性も考慮すると、これらの呼称が時期によって変化したか、あるいは状況に応じて併用されていた可能性も探る必要がある。

VII. 南部政直(宮内少輔季賢)の歴史的評価

南部宮内少輔季賢の生涯や活動の全貌は、現存する史料の制約から未だ不明な点が多い。しかし、断片的な記録を繋ぎ合わせることで、戦国末期から織豊期にかけての北奥羽の雄・安東家の外交戦略において、彼が果たした重要な役割の一端を垣間見ることができる。

安東家の外交政策における政直(季賢)の役割と貢献

季賢は、安東愛季、そして可能性としてはその子・実季の時代において、中央政権との外交交渉の最前線に立った人物であった。彼は主家の意向を的確に中央の権力者に伝え、友好関係の構築や維持に尽力した。特に、山科言継のような伝統的権威を持つ公家との接触から、織田信長のような新興の軍事政権のトップとの交渉まで、幅広い相手と渡り合った形跡が見られることは、彼が高度な交渉術と政治感覚を身につけていたことを示唆する。

彼の活動を通じて、安東家は中央の目まぐるしい政治・軍事状況を把握し、自らの立場を有利に進めるための方策を講じようとした。季賢の複数回にわたる上洛は、安東家が孤立を避け、新たな天下の秩序の中で生き残りを図ろうとした能動的な試みであったと言える。

中央政権(織田信長)との交渉における意義と限界

織田信長との間に直接的なパイプを築いたことは、北奥羽の僻遠(へきえん)の勢力であった安東家にとって、大きな意義があった。信長の威光を背景に、周辺勢力に対する優位性を確保し、また交易上の便宜を得るなど、具体的な利益に繋がる可能性もあった。天正7年(1579年)に安土城で他の奥羽大名と共に饗応を受けたことは、安東家が信長政権から一定の認知を得ていた証左と見なせる。

しかし、その外交成果がどこまで持続的かつ具体的な利益に結びついたかについては、慎重な評価が必要である。信長の天下統一事業は本能寺の変によって未完に終わり、その後の豊臣政権、徳川幕府へと中央政権が移行する中で、安東家(後の秋田氏)は必ずしも順風満帆な道を歩んだわけではない。また、安東家自身の地理的制約や、中央政権の関心が主として畿内や西国に向けられていたことなども、外交成果の限界要因となった可能性がある。

史料的制約と今後の研究課題

南部宮内少輔季賢に関する研究は、史料的制約が大きい。彼の詳細な経歴、個人的な思想信条、そして具体的な交渉内容の全貌は、断片的な史料からはうかがい知ることが難しい。特に、「南部」姓を名乗りながら安東家に仕えた正確な経緯、南部氏のどの系統の出身であったのか、そして「津軽の」という呼称が具体的に何を意味し、浪岡北畠氏との間にどのような関係があったのかといった点は、依然として未解明な部分が多い。

今後の研究においては、『青森県史』などの地方史資料のさらなる精査や、未発見・未整理の古文書からの新たな情報発見が期待される。また、安東氏や南部氏、浪岡北畠氏といった関連氏族の家譜や記録類を比較検討し、季賢の位置づけをより明確にすることも重要な課題となるであろう。

南部季賢の外交活動は、戦国末期から織豊期にかけて、地方の有力大名が中央政権の激動にいかに対応し、自家の存続と発展を図ろうとしたかを示す、一つの典型的な事例として評価できる。彼の活動は、安東家が孤立を避け、新たな政治秩序の中で生き残りを図ろうとした能動的な試みであり、その成功と限界は、そのまま戦国期地方大名の外交が有した可能性と制約を反映していると言えるだろう。季賢の交渉相手が、旧来の権威である公家(山科言継)と、新興の軍事政権のトップである織田信長であったという事実は、安東家が過渡期の多様な権力構造を的確に認識し、多角的な外交を展開していたことを示している。彼の活動は、単に主家の命令を忠実にこなすだけでなく、北奥羽の地域勢力の代表として、中央との貴重なチャンネルを維持・開拓するという、より大きな文脈の中で捉えるべきである。

VIII. 結論

本報告では、戦国時代に安東家の外交官として活動した南部宮内少輔政直(季賢)について、現存する史料に基づき、その実像の解明を試みた。

調査の結果、この人物の諱は「季賢」であり、「政直」という呼称は別称、あるいは後世の史料や研究において用いられたものである可能性が高いことが明らかになった。史料的により確実性の高い呼称は「南部宮内少輔季賢」である。彼は、安東愛季の家臣として、永禄12年(1569年)には京都で公家の山科言継と接触し、播磨国揖保庄の代官職を求めるなど、主家の経済的権益拡大を目的とした交渉を行っていた。さらに、天正3年(1575年)以降、複数回にわたり織田信長のもとへ遣わされ、鷹の献上などを通じて友好関係の構築に努めた。特に『信長公記』には、天正6年(1578年)および天正7年(1579年)に「奥州津軽之南部宮内少輔」として信長の饗応を受けた記録があり、安東家の中央政権に対する外交窓口としての重要な役割を担っていたことが確認された。

近世こもんじょ館における工藤利悦氏や菊池克好氏らの議論 は、この人物の実在と活動を明らかにする上で多大な貢献をしており、本報告もこれらの研究成果に多くを依拠している。特に、諱を「季賢」と特定したこと、『信長公記』における万見仙千代の没年に関する疑義を解消し得る情報を提示したことは特筆に値する。

一方で、季賢の正確な出自(南部氏のどの系統に連なるのか)、安東家に仕えるに至った経緯、「津軽の」という呼称の具体的な背景、そして浪岡北畠氏との詳細な関係については、依然として不明な点が多く、今後の研究課題として残されている。特に、弘前市立弘前図書館デジタルアーカイブ(ADEAC)所引史料に見られる「波岡御所北畠顕村の使節か」 という注記は、季賢の活動が安東家単独のものではなく、津軽地方における安東氏・浪岡北畠氏連合の外交を担っていた可能性を示唆しており、この点のさらなる検証が望まれる。

南部宮内少輔季賢という一人の外交官の事績を丹念に追うことは、戦国時代の北奥羽と中央政権との関係史、および地域権力のダイナミズムを理解する上で、ミクロヒストリー的なアプローチの有効性を示すものである。大名間の大規模な合戦や制度史といったマクロな視点に加えて、季賢のような個々の活動家の具体的な軌跡を詳細に分析することによって、歴史のより細やかな襞(ひだ)が明らかになる。彼の存在と活動は、安東家という一地方勢力が、いかにして情報網を駆使し、中央の権力者と渡り合い、激動の時代の中で自家の存続と発展を図ったのか、その具体的な様相を我々に伝えてくれる。これは、戦国史研究において、中央集権的な視点のみならず、地域からの視点、さらには個人レベルの活動からの視点の重要性を再認識させるものであろう。

本報告の対象とした南部宮内少輔季賢は、同姓同名の南部利直次男・政直 とは明確に区別されるべき戦国時代の人物であり、その外交活動は、当時の北奥羽と中央との関係を考察する上で、貴重な事例を提供するものである。

IX. 参考文献

(本報告書作成にあたり参照した主要史料・研究サイト等を以下に列挙する。完全な書誌情報は各史料の刊行状況やデータベースの仕様に依存するため、ここでは主要なものを中心に示す。)

一次史料・史料集

  • 山科言継『言継卿記』
  • (参照箇所:S15, 1 等。国書刊行会版、岩波書店版(新訂増補 国史大系)など複数の版が存在する。)
  • 太田牛一『信長公記』
  • (参照箇所:S11, S12, S13, S18, S30, S55, S56, S59, S63, S64, S65, S85, S89, S90, S92, S93, S140, S160, S162, S166, S167, S186, S187, S188, S189, S204, S205, S206, S207, S220, S221, S222, S223, S241, S242, S243, S244, S245, S246, S263, S264, S265, S266 等。陽明文庫本、史籍集覧所収本、角川文庫版など諸本あり。)
  • 『秋田藩家蔵文書』
  • (参照箇所:S49, S71, S158, 2 等。秋田県公文書館所蔵。)
  • 『新羅之記録』
  • (参照箇所:S89, S90, S92, S115, S116, S140, S141, S168, S169, S190, S191, S208, S209, S224, S225, S226, S227, S247, S248, S249, S250, S267, S268, S269, S270 等。松前藩の記録。北海道史料叢書などに翻刻あり。)
  • 「秋田湊文書」(弘前市立弘前図書館デジタルアーカイブ(ADEAC)所引) 2
  • 「八戸湊文書」(弘前市立弘前図書館デジタルアーカイブ(ADEAC)所引)
  • 「秋田藩採集文書『湊矩季家蔵文書』」(弘前市立弘前図書館デジタルアーカイブ(ADEAC)所引)
  • 「秋田家文書」(弘前市立弘前図書館デジタルアーカイブ(ADEAC)所引)
  • 「歴名土代」(弘前市立弘前図書館デジタルアーカイブ(ADEAC)所引)
  • 『青森県史 資料編 中世』 2
  • 特に『青森県史 資料編 中世二』(参照箇所:S134, S180, S191, S200, S201, S216, S217, S218, S219, S237, S238, S239, S240, S259, S260, S261, S262, S279, S280, S281, S282, 2 内の「『青』二―一〇一九」は本書を指すか。)

研究サイト・データベース

その他参照ウェブサイト・文献

(報告書中で言及した個別のウェブサイトや、背景知識として参照した可能性のある文献。上記以外にも多数存在するが、主要なものに絞る。)

  • 秋田県公式サイト(美の国あきたネット)内 秋田県公文書館関連ページ 2
  • 安東氏関連情報サイト ( https://www4.hp-ez.com/hp/andousi/ )
  • Wikipedia 各関連記事(南部氏、安東氏、南部政直、山科言継、織田信長、信長公記、言継卿記など)
  • その他、個別の歴史研究ブログや論文データベース等(S4, S5, S6, S7, S8, S9, S10, S17, S19, S20, S21, S22, S23, S24, S25, S26, S27, S28, S29, S36, S37, S50, S51, S52, S57, S58, S59, S60, S61, S62, S72, S73, S74, S75, S77, S80, S81, S82, S84, S86, S87, S88, S91, S94, S95, S96, S97, S98, S100, S101, S102, S103, S104, S105, S106, S107, S108, S109, S110, S111, S112, S113, S114, S116, S117, S118, S119, S120, S121, S122, S124, S126, S127, S128, S129, S130, S131, S132, S133, S135, S136, S137, S139, S142, S143, S145, S146, S147, S149, S151, S152, S153, S154, S155, S156, S157, S159, S161, S164, S165, S166, S167, S168, S169, S170, S171, S174, S175, S177, S178, S179, S181, S183, S186, S187, S188, S189, S190, S192, S193, S194, S195, S197, S198, S199, S202, S203, S204, S205, S206, S207, S208, S209, S210, S211, S212, S213, S214, S216, S217, S218, S219, S220, S221, S222, S223, S224, S225, S226, S227, S228, S229, S230, S232, S233, S234, S237, S238, S239, S240, S241, S242, S243, S244, S245, S246, S247, S248, S249, S250, S251, S252, S255, S256, S257, S258, S259, S260, S261, S262, S263, S264, S265, S266, S267, S268, S269, S270, S271, S272, S273, S274, S275, S276, S277, S278, S279, S280, S281, S282, S283, S284, S285, S286, S287, S288, S289, S290, S291, S292, S293, S294, S295, 10 ]

引用文献

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  5. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/
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  25. 【秋田県の歴史】戦国時代、"秋田"では何が起きていた? 安東氏や仙北の小野寺氏 - YouTube https://m.youtube.com/watch?v=2xJekU9pD2Y&pp=ygUNI-aIuOayouebm-WuiQ%3D%3D
  26. 三春藩主 安東秋田氏 http://otarimanjyu.com/blog/index.php?c=26-
  27. 安東氏関連 武将列伝 室町時代~江戸時代 - 簡単無料ホームページ作成 https://www4.hp-ez.com/hp/andousi/page6
  28. 安東氏関連 武将列伝 鎌倉時代~南北朝時代 - 簡単無料ホームページ作成 https://www4.hp-ez.com/hp/andousi/page4
  29. 僕のルーツ・中世への旅No13 - 無明舎出版 http://www.mumyosha.co.jp/ndanda/06/medieval09.html
  30. 僕のルーツ・中世への旅No15 - 無明舎出版 http://mumyosha.co.jp/ndanda/06/medieval11.html
  31. 徳川将軍家と親藩大名総覧 http://www.yhigasi6.com/edo/syogun1/syogun.html
  32. 肥前と豊前の守護についたようである。しかし、貞経の子満貞以降は、本国とする筑前への大内氏の進攻が激し くなり - 佐賀市 https://www.city.saga.lg.jp/site_files/file/usefiles/downloads/s34633_20130124012838.pdf
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