最終更新日 2025-07-06

南部晴政

南部晴政は南部氏の最大版図を築いたが、後継者問題で内紛を招き、津軽を失陥。彼の死後、南部家は九戸政実の乱で危機に瀕した。
南部晴政

奥州の覇者、南部晴政の実像 — 栄光と内憂の生涯

はじめに:南部晴政の歴史的評価と本報告書の視座

戦国時代の陸奥国にその名を刻んだ南部晴政は、一族の勢力を史上最大にまで高めた傑物として記憶されている。その治世は、旅人が領内を通り抜けるのに三日月が満月になるほどの日数を要したとされ、「三日月の丸くなるまで南部領」と謳われるほどの広大な版図を築き上げた、輝かしい時代であった 1 。しかし、その栄光の裏側では、深刻な後継者問題と家中の内紛が渦巻き、結果として南部氏の将来に大きな禍根を残すことにもなった。

本報告書は、この「栄光の拡大者」と「内紛の当事者」という二面性、すなわち晴政の生涯における光と影の両側面を、現存する史料や研究成果に基づいて徹底的に掘り下げ、その実像を多角的に解明することを目的とする。単に功績を称え、あるいは失敗を断罪するに留まらず、彼の行動の背景にあった政治的、経済的、そして個人的な動機を深く分析し、一人の戦国大名としての立体的な人物像を提示するものである。

(参考資料) 南部晴政関連年表

本報告書で詳述される各事象の前後関係を把握し、全体の理解を深めるため、以下に晴政の生涯における主要な出来事を時系列で整理した年表を示す。

年代(西暦)

主な出来事

関連史料・備考

永正14年(1517)

南部安信の嫡男として誕生 3 。幼名は彦三郎 5

大永5年(1525)

父・安信の死去に伴い家督を相続。幼少のため叔父・石川高信が後見したとされる説がある 5

この時点での家督相続は、後の天文10年説 4 との整合性が課題となる。

天文8年(1539)

家臣・赤沼備中の謀反により本拠・三戸城が焼失 3 。将軍・足利義晴より偏諱を賜い、「安政」から「晴政」へ改名 7

偏諱拝領は、中央権威との結びつきを背景に、領国支配の正統性を強化する重要な政治的行動であった。

天文9年(1540)

叔父・石川高信と共に、戸沢氏・斯波氏の侵攻を撃退 3

若き日の武勇と軍事的指導力を示す。

天文10年(1541)

(別説)この年に正式に家督を相続し、謀反を起こした工藤氏を討伐 4

家督相続の時期については諸説あり、晴政の権力掌握過程の複雑さを示唆する。

永禄8年(1565)

実子に恵まれず、従兄弟にあたる石川信直を長女の婿とし、養嗣子として迎える 2

これが後の深刻な後継者問題の始まりとなる。

永禄9-11年(1566-68)

宿敵・安東愛季との間で鹿角郡を巡る激しい攻防戦を展開。最終的に鹿角郡を奪還し、支配を確立 4

南部氏の勢力拡大を象徴する重要な合戦。

元亀元年(1570)

待望の嫡男・南部晴継が誕生 4

この出来事が、晴政と養子・信直の関係を決定的に悪化させる転換点となる。

元亀2年(1571)

大浦為信が津軽で謀反。晴政の叔父であり信直の実父でもある石川高信が討たれる 4

晴政は信直との内紛に注力し、為信討伐に有効な手を打てなかった 4

天正4年(1576)

信直の正室(晴政の長女)が死去。晴政はこれを機に信直を正式に廃嫡する 4

両者の対立は修復不可能な段階へと突入する。

天正6年(1578)

中央の天下人・織田信長に使者を派遣し、駿馬と鷹を献上 1

ただし、これを信直の功績とする説も存在する 4

天正10年(1582)

晴政、死去(享年66) 3 。死因には病死説と信直派による暗殺説が併存。嫡男・晴継が家督を継ぐも、同年に夭折 9

晴政の死と後継者の相次ぐ死は、南部家の混乱を極限まで高め、九戸政実の乱の遠因となる。

第一章:晴政の出自と権力基盤の確立

第一節:甲斐源氏の名門、南部氏の血脈

南部氏の系譜は、清和源氏の一流である甲斐源氏に遡る。その祖・南部光行は、鎌倉幕府創設期に源頼朝に従い、奥州合戦で軍功を挙げたことにより、陸奥国糠部郡(現在の青森県東部から岩手県北部にわたる広大な地域)を拝領した 2 。この由緒ある出自は、戦国時代に至るまで、南部氏が奥州における名門としての地位を保つ上で重要な基盤となった。

晴政が家督を継承する直前の南部家は、父・安信の時代にその支配体制を大きく強化していた。安信は、石川高信、南長義、北信愛といった自身の弟たちを領内の要所に配置し、一族による強固な同族支配体制を築き上げていた 11 。晴政は、この安定した政治的・軍事的基盤を受け継ぐ形で、その治世を開始したのである。

第二節:家督相続と中央権威の利用

晴政の権力掌握の道程は、決して平坦なものではなかった。父・安信の死後、大永5年(1525)に幼くして家督を継いだとされる説 5 と、成人後の天文10年(1541)に継承したとする説 4 があり、その初期の動向には不明瞭な点が多い。確かなことは、天文8年(1539)に家臣・赤沼備中の謀反によって本拠地である三戸城が炎上し、南部家伝来の多くの古記録や文書が失われるという深刻な危機に直面したことである 3

この混乱の最中に、晴政は極めて戦略的な一手に出る。上洛して室町幕府第12代将軍・足利義晴に接近し、その名から「晴」の一字を賜り、名を「安政」から「晴政」へと改めたのである 3 。この事実は、当時の公家の日記である『大館常興日記』にも、「奥の南部と申す輩」である南部彦三郎(晴政)が将軍に馬などを献上し、偏諱を申請したことが記されており、歴史的信憑性は高い 6

この偏諱拝領は、単なる改名以上の高度な政治的意味合いを持っていた。当時の北奥羽は、伊達氏、葛西氏、安東氏といった数多の勢力が覇を競う群雄割拠の状態であり、南部氏一族の内部にも八戸氏や九戸氏といった強力な庶家が存在していた。晴政がこれらの内外の勢力をまとめ上げ、領国を拡大していくためには、単なる武力だけでなく、自らの支配の正統性を内外に示す「大義名分」が不可欠であった。将軍から名を賜るという行為は、他の地方領主にはない幕府との特別な結びつきを誇示するものであり、晴政を「幕府が公認する奥州の有力者」として権威づける絶大な効果があった。これは、後の領土拡大と一族統制を見据えた、晴政の優れた政治的嗅覚を示す重要な布石であったと言える。(なお、甲斐の武田信玄(晴信)から偏諱を受けたとする説も存在するが、年代的な整合性から足利義晴説が有力視されている 6 。)

中央の権威を背景に自らの地位を固めた晴政は、すぐさま領内の安定化に着手する。謀反を起こした工藤氏を討伐し、さらに斯波氏の侵攻や戸沢氏の反乱を叔父・石川高信と共に鎮圧 3 。これらの軍事行動を通じて、若くして卓越した軍才を示し、混乱していた領国に確固たる支配を確立していった。

第二章:「三日月」から「満月」へ — 北奥羽の軍事統一

第一節:宿敵・安東氏との死闘 — 鹿角郡争奪戦

晴政の治世における軍事的拡大を象徴するのが、宿敵・安東氏との間で繰り広げられた鹿角郡(現在の秋田県鹿角市周辺)を巡る死闘である。この対立は、単なる領土争いに留まらず、日本海を経由した蝦夷地(北海道)との交易利権という、経済的な権益を巡る争いであった側面が強い 13 。十三湊に代表される重要港湾の支配権は、両家の存亡に関わる問題であった。

この争いは、永禄9年(1566)から永禄11年(1568)にかけて、数次にわたる大規模な合戦へと発展した。

  • 永禄9年、安東愛季が約5000の兵を率いて鹿角郡に侵攻。南部方は長牛城主・一戸友義らの奮戦により、降雪期まで持ちこたえ、安東軍を一時撤退させた 4
  • 翌永禄10年、愛季はさらに兵力を増強し、約6000の軍勢で再侵攻。南部方の抵抗を打ち破り、ついに長牛城を陥落させた 4
  • しかし晴政は屈しなかった。永禄11年、自ら養子の信直と共に出陣し、さらに一族の勇将・九戸政実の軍勢を三田城に進出させることで、安東軍を南北から挟撃する態勢を構築。この巧みな用兵の前に安東軍は戦意を喪失し、降伏。南部氏は鹿角郡の支配権を完全に奪還した 4

この鹿角郡争奪戦での最終的な勝利は、南部氏の軍事力を北奥羽全域に誇示すると同時に、西進を図る安東氏の勢いを完全に挫き、南部領の西側国境を安定させる上で決定的な戦略的意義を持った。

第二節:周辺勢力の制圧と一族の統制

鹿角郡での勝利は、南部家の内部構造にも大きな影響を与えた。晴政はこの戦いを通じて、それまで半独立的な地位を保っていた八戸氏や九戸氏といった有力な一門を、自身の直属家臣団として効果的に再編・掌握することに成功した 4 。特に九戸政実は、この時期の晴政の片腕として数々の戦功を挙げ、その武名を轟かせている 2

これらの軍事的・政治的成功により、南部氏の支配領域は未曾有の広がりを見せる。北は下北半島から南は岩手県中央部の北上川流域にまで及び、その広大さは「三日月の頃に南部領に入ると、領内を通り抜ける頃には満月になっている」と詠われるまでになった 1 。一方で、伊達氏や葛西氏といった他の奥州の有力大名とは、時に緊張し、時に和睦を探るという複雑な外交関係を維持しており、特に伊達氏とは奥州の覇権を巡る潜在的なライバルとして常に対峙していた 13

第三章:広大なる領国の経営

南部晴政が成し遂げた「三日月の丸くなるまで」と謳われた偉業は、単なる武勇や軍事的才能のみによって支えられていたわけではない。その輝かしい栄華の背後には、彼の卓越した経営手腕によって支えられた強力な経済基盤が存在した。晴政の真の力量は、領国特有の資源を的確に掌握し、それを国力へと転換させた点に見出すことができる。

そもそも、なぜ南部氏は、寒冷な気候で米作が不安定な北奥羽において、安東氏との長期にわたる戦争を継続し、広大な領土を維持できたのか。その莫大な軍事費を支えた資金源を解き明かす鍵は、「馬産」「鉱山」「交易」という三つの経済的支柱にある。晴政の軍事行動は、これらの経済活動と密接に連携しており、例えば安東氏との鹿角郡争奪戦も、その背後にある尾去沢鉱山の支配権や日本海への交易路確保といった経済的動機が強く影響していたと考えられる。晴政を評価する上で、この経済的側面は軍事的側面と同等、あるいはそれ以上に重要である。

第一節:南部領の経済的支柱

  • 馬産 : 南部領は古くから「糠部の駿馬」と称される良馬の産地として知られていた 18 。馬は当時の最重要軍需物資であると同時に、他国へ売却すれば莫大な利益を生む戦略的商品でもあった。晴政はこの伝統的な馬産を奨励し、強力な騎馬軍団の編成と、財政基盤の強化に繋げた。
  • 鉱山経営 : 晴政の治世からその死後まもなくにかけて、領内ではゴールドラッシュが起こる。特に鹿角郡の尾去沢金山 19 をはじめとする諸鉱山は、「西も東も金の山」と民謡に歌われるほど莫大な金を産出し、後の盛岡藩の財政を大いに潤した 20 。晴政の時代に開発が進められたこれらの金山から産出される金は、軍備の拡張、家臣への恩賞、そして中央政権との外交における重要な原資となった 22
  • 港湾支配と交易 : 日本海側の十三湊 14 や太平洋側の八戸湊といった港湾を支配下に置くことで、北国や蝦夷地との交易を掌握した。蝦夷地からもたらされる毛皮や海産物などの貴重な産物は、大きな利益を生み出し、米作に頼れない南部領の経済にとって生命線ともいえる重要性を持っていた 14

第二節:統治者としての晴政

晴政は、本拠地である三戸城とその城下町の整備を進め、広大な領国を統治するための中枢機能を固めた 13 。また、戦国大名として領国内の生産力を正確に把握するための検地なども実施していたと考えられる 24

彼の統治者としての人柄や度量の大きさを示す逸話もいくつか伝えられている。一つは、鷹狩りの際に田植えをしていた若い娘から、祝いの意を込めて服に泥を塗りつけられた際、怒るどころか「めでたいことである」と笑って許し、後にその娘を召し出して嫡男・晴継を産ませたという話である 1 。また、ある時、城内で自身の刀が盗まれる事件が起きたが、犯人が若い侍であろうと察した晴政は、「その刀で武功に励めばそれでよい」と述べ、一切不問に付したという 1 。これらの逸話は、身分にとらわれず、また武士の面目を重んじて人材を大切にする、器の大きな人物像を我々に伝えている。

第四章:治世の暗転 — 後継者問題と内憂外患

第一節:養嗣子・信直と実子・晴継 — 分裂する家中

南部氏の最大版図を築き、栄華を極めた晴政の治世であったが、その晩年は深刻な内紛によって暗転する。長らく実子に恵まれなかった晴政は、永禄8年(1565)、一族の中でも特に器量の誉れ高かった従兄弟の石川信直を、自らの長女の婿として迎え、養嗣子とした 2 。この時点では、有能な信直への家督継承は、南部家の将来を安泰にするものと見られていた。

しかし、元亀元年(1570)、晴政が50歳を過ぎてから待望の嫡男・晴継が誕生すると、状況は一変する 4 。老いて得た我が子を溺愛するあまり、晴政の心は次第に養子である信直から離れ、彼を自らの血統を脅かす存在として危険視し、疎むようになった 4

この亀裂は年を追うごとに深まり、天正4年(1576)に信直の妻であった晴政の長女が早世すると、両者を繋ぎとめていた最後の絆も断ち切れる。晴政は信直を正式に廃嫡し、幼い晴継を世子と定めた 4 。両者の対立はもはや感情的な不和の域を超え、武力衝突寸前の緊張状態にまで発展した。『八戸家伝記』によれば、晴政が自ら兵を率いて川守田村の毘沙門堂に参詣中の信直を襲撃し、窮地に陥った信直が鉄砲で応戦、晴政を落馬させたという衝撃的な事件まで記録されている 4

この骨肉の争いは、南部家中を二つに引き裂いた。晴政は九戸氏と連携して信直の排除を図り、一方の信直は北信愛や南長義、八戸政栄といった重臣たちの庇護を受けてこれに対抗した 4 。南部家は、対外的には「満月」と謳われる栄光の絶頂にありながら、その内実は一触即発の内乱の危機を孕んでいたのである。

第二節:「奥羽の梟雄」の独立 — 津軽喪失

この深刻な内紛が、南部家にとって回復不可能な戦略的損失をもたらす。津軽為信の独立である。為信の独立成功は、彼個人の類稀なる才覚と謀略による部分も大きいが、その最大の要因は、好機を的確に突かれた南部家側の「内紛」という致命的な弱点にあった。晴政と信直の争いが、南部家の軍事・政治リソースを内部対立に消耗させ、外部からの侵食に対して事実上無力化させてしまったのである。

元亀2年(1571)、南部氏の一家臣に過ぎなかった大浦(後の津軽)為信が突如として津軽で謀反を起こし、晴政の叔父であり、信直の実父でもある石川城主・石川高信を攻め滅ぼした 4 。北奥羽の覇者であった晴政が、なぜ辺境の一家臣による反乱を迅速に鎮圧できなかったのか。その理由は、史料に明確に記されている。「この時、晴政は依然として石川信直に対処しようとしていたため、討伐軍は為信を討伐することに成功しなかった」 4 。晴政の意識と戦力は、津軽の為信ではなく、自らの足元にいる政敵・信直に向けられていた。晴政にとって、為信は「辺境の反乱分子」に過ぎなかったが、信直は自らの血統による家督継承を阻む「家の中の最大の敵」であった。この認識の歪みが、脅威度の優先順位を完全に見誤らせた。

晴政が内紛に明け暮れる間に、為信は津軽の諸城を次々と攻略し、着々と支配の既成事実を積み重ねていった 10 。そして最終的には、中央の豊臣政権と直接結びつくという外交手腕を発揮し、津軽領有を公認させることに成功する 28 。これにより、南部家は肥沃な津軽平野という経済的・戦略的な要地を永久に失うことになった。津軽の喪失は、晴政の治世における最大の汚点であり、その根本原因は、彼自身が引き起こした後継者問題と、それに伴う深刻な内紛にあった。一個人の感情が、国家の運命を大きく左右した悲劇的な事例と言える。

第五章:晴政の死と南部家の激震

第一節:謎に包まれた最期

天正10年(1582)、南部晴政は66年の波乱に満ちた生涯を閉じた 3 。しかし、その最期は謎に包まれている。長年の心労がたたっての病死であったとする説と、対立していた信直派によって謀殺されたとする暗殺説の両方が伝えられており、真相は歴史の闇の中である 3 。信直との激しい対立の経緯を考えれば、暗殺説が根強く囁かれるのも無理からぬことであった。

第二節:束の間の後継者・晴継の夭折

晴政の死後、家督は溺愛した嫡男・晴継がわずか13歳で継承した 2 。しかし、南部家の悲劇はこれで終わらなかった。晴継もまた、父の葬儀を終えて間もなく急死してしまうのである 9 。公式な死因は疱瘡(天然痘)とされているが 9 、父の死と同様に、その不自然なタイミングから、家督を狙う信直や、あるいは九戸政実による暗殺の可能性が有力視されている 2

この父子の相次ぐ不可解な死によって、南部家の後継者問題は一気に再燃し、より深刻で血腥い権力闘争の段階へと突入していくことになった。

第三節:晴政が残した「正」と「負」の遺産

南部晴政が後世に残した遺産は、輝かしい「正の遺産」と、深刻な「負の遺産」という、二つの側面を持っていた。

正の遺産 は、彼が一代で築き上げた広大な版図と、北奥羽における南部氏の圧倒的な威勢である。この強固な基盤があったからこそ、後を継いだ南部信直は、豊臣政権下で10万石の大名としての地位を公認され、近世大名として生き残ることができた。

しかし、 負の遺産 はそれ以上に深刻であった。第一に、晩年の内紛が招いた津軽という戦略的要地の永久失陥 4 。第二に、そしてより決定的なのが、「九戸政実の乱」の遠因を自ら作り出したことである。晴政と晴継の不審な死を経て信直が家督を継いだため、その継承の正統性には常に疑いの目が向けられた。特に、晴政の下で重用され、晴政の娘を娶っていた九戸政実 2 は、この家督継承に強く反発した。この不満が、後に南部家を二分し、豊臣政権による6万を超える大軍の介入を招くことになる「九戸政実の乱」の直接的な引き金となったのである 2

晴政の功績と失敗は、決して別々の事象ではない。それは表裏一体の関係にあった。彼の強烈なリーダーシップと支配欲は、若き日には領土拡大の原動力として「正」の力で機能した。しかし、嫡男・晴継が生まれたことで、その関心が「一族全体の繁栄」から「自らの血統の維持」へと狭まった時、かつて一族をまとめた強烈な意志は、養子・信直への猜疑心と敵意へと反転した。外部に向けられていたエネルギーが内部に向けられ、組織を破壊する「負」の力として作用し始めたのである。晴政の生涯は、一人の強力な個性が、状況の変化によって国家に栄光と破滅の両方をもたらしうるという、戦国時代の権力者の普遍的な悲劇を体現している。彼が築いた栄光の頂点にこそ、その後の崩壊の種は内包されていたのだ。

結論:南部晴政とは何者であったか

南部晴政は、疑いなく南部氏の数百年におよぶ歴史の中で、最も傑出した軍事指導者であり、政治家であった。彼の時代、南部氏は史上最大の版図を誇り、北奥羽に君臨する屈指の戦国大名としての地位を確立した。その武威と経済的基盤は、後世の盛岡藩の礎となった。

しかし同時に、彼は老いて得た我が子への愛情と、かつて後継者と定めた有能な養子への猜疑心という、極めて人間的な感情の罠から逃れることができなかった。この個人的な葛藤が、彼自身が築き上げた強固な家臣団を分裂させ、肥沃な領土を失い、そして自らの死後、南部家を存亡の危機にまで晒す最大の要因となった。

最終的に、南部晴政は、自らの手で「満月」へと近づけた南部家の領土に、同じく自らの手で深い「影」を落とした人物として評価されるべきである。その生涯は、戦国という時代の非情さと、権力者が抱える栄光と悲劇を、後世に鮮烈に映し出す類稀な歴史事例として記憶されている。

引用文献

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