戦国時代の終焉から江戸時代初期にかけて、歴史の表舞台から消えていった数多の武士たちがいる。その多くは、新たな時代の秩序の中で己の居場所を見つけられず、あるいは激動の時代の波に呑まれ、その名を歴史に深く刻むことなく生涯を終えた。南部無 右衛門 (なんぶ ぶえもん)、諱を光顕(みつあき)と伝えるこの武将もまた、そうした時代の転換点を生きた一人である 1 。
彼の名は、特定の領地や高名な家系によってではなく、その類稀なる武勇と傍若無人とも評される豪胆さを示す、いくつかの鮮烈な逸話によってのみ後世に伝えられている。彼に関する記録は、同時代の一次史料にはほとんど見られず、その人物像の多くは江戸時代中期に成立した武士の逸話集『常山紀談』や、加賀藩の軍記物『小松軍記』といった後世の編纂物に依存している 1 。これは、彼が歴史の主役としてではなく、特定の局面において強烈な光を放った「武辺者」として記憶されたことを示唆している。
本報告書は、これらの断片的な逸話と、その背景にある歴史的文脈を丹念に照らし合わせることで、一人の武将の実像に迫ることを目的とする。彼の謎に満ちた出自から、丹羽長重、加藤清正、小早川秀秋という三人の主君の下で見せた活躍、そして戦乱の世の終焉と共に見せた静かな晩年までを時系列に沿って再構成し、彼が生きた時代の特質と、その中で「槍一筋」に生きた武士の生き様を明らかにする。
まず、彼の流転の生涯を概観するため、その経歴を以下の表にまとめる。
表1:南部無右衛門の仕官歴と関連する出来事の概要
主君 |
確認される時期 / 関連合戦 |
主な逸話・出来事 |
人物像への示唆 |
主な典拠 |
加藤清正 |
天正17年(1589年) / 天正天草合戦 |
先陣の陣立てを巡り、主君・清正の警告を退けるも、敗勢に陥ると同僚に責任を転嫁する。 |
豪胆で自信家。同時に、窮地を切り抜けるための機知(あるいは狡猾さ)を併せ持つ。 |
『常山紀談』 1 |
丹羽長重 |
慶長5年(1600年) / 浅井畷の戦い |
窮地に陥った家老・江口正吉を、他の将が見捨てる中、単騎で敵中に突入し救出する。 |
計算よりも仲間を救う義理と、個人の武勇を絶対視する、典型的な戦国の武辺者。 |
『常山紀談』、『小松軍記』 1 |
小早川秀秋 |
慶長5年(1600年)~慶長7年(1602年)頃 |
関ヶ原の戦いの後、秀秋に仕えるも、秀秋の急死と小早川家の改易により再び主家を失う。 |
実力主義の世を渡り歩く、流浪の武士としての一面。主家の栄枯盛衰に翻弄される。 |
『常山紀談』 1 |
この表が示すように、彼の人生は安定とは無縁であった。仕える主君を変えながら、その都度、己の槍働き一つで存在価値を示してきた。彼の生き様は、個人の武力が絶対的な価値を持った戦国乱世の価値観そのものを体現している。しかし、徳川による泰平の世が訪れるにつれ、彼のような武士が活躍する場は次第に失われていく。彼の生涯を追うことは、すなわち、一つの時代が終わり、新しい時代が始まる瞬間に立ち会うことに他ならない。
南部無右衛門の諱は「光顕」、通称は「無右衛門」または「武右衛門」と伝えられている 1 。生没年が不詳であることからもわかるように、彼の前半生は深い謎に包まれている。「無右衛門(ぶえもん)」という名は、彼の武骨なイメージを反映し、後に「武右衛門」という字が当てられた可能性が考えられる。彼の存在は、しっかりとした家系の記録ではなく、個人の武勇を語る逸話の中にのみ見出されるのである。
彼の姓である「南部」は、陸奥国を本拠とした清和源氏流の名門・南部氏を強く想起させる 4 。南部氏は戦国時代を通じて奥州に広大な勢力圏を築いた大名であり、もし無右衛門がこの一族の連枝であったならば、その出自は彼の経歴において大きな意味を持つはずである。
しかし、現存する史料や逸話の中に、彼がこの名門南部氏の系譜に連なることを示す直接的な証拠は一切見当たらない。彼が仕えた主君は、丹羽長重、加藤清正、小早川秀秋といった、いずれも畿内や西国に拠点を置いた大名たちであり、奥州の南部氏との地理的・政治的な接点は極めて薄い 6 。もし彼が名門の出身であれば、その出自が逸話の中で強調されてしかるべきだが、そうした記述は皆無である。彼のアイデンティティは、あくまで「槍一筋の荒武者」という個人の能力に集約されているのである 1 。
この事実から導き出される一つの可能性は、彼の「南部」姓が、実際の血縁関係を示すものではなく、自らの権威付けや出自の不明瞭さを補うための「自称」であったというものである。戦国時代、特に下克上の風潮が強かった時期には、実力のある武士が有名な氏族の名を借りることや、自称することは決して珍しいことではなかった。出自が低い、あるいは不明な者が、自らの武勇を売り込む際に、箔付けとして高名な姓を名乗ることは、自身の市場価値を高めるための有効な戦略であったと考えられる。無右衛門の「南部」姓は、彼の出自が比較的低いか、あるいは故郷を離れた流浪の身であったことの裏返しと見るのが、最も合理的な推察であろう。
なお、調査の過程で岩手県の日本酒銘柄である「南部関」や「酉与右衛門(よえもん)」が散見されたが、これらは大正時代に創業した酒蔵の創業者名などに由来するものであり、戦国時代の南部無右衛門とは全くの無関係であることは明白である 9 。これらの情報は、歴史的考察からは明確に排除する必要がある。
南部無右衛門の名を後世に最も強く印象付けたのが、丹羽長重の家臣として戦った「浅井畷の戦い」における獅子奮迅の活躍である。この逸話は、彼の人物像の核をなすだけでなく、戦国末期における武士の価値観の相克を象徴する物語として読み解くことができる。
慶長5年(1600年)8月、天下分け目の関ヶ原の戦いを目前に控え、日本各地で前哨戦が繰り広げられていた。北陸道においても、徳川家康率いる東軍に与した加賀の前田利長と、石田三成方の西軍に属した小松城主・丹羽長重との間で激しい軍事衝突が発生した 13 。
前田利長は2万5千と称される大軍を率いて南下し、西軍方の山口宗永が守る大聖寺城を攻略した。しかし、背後の金沢城が大谷吉継の軍勢に海路から襲われる危険性を察知した利長は、軍を返して金沢へ撤退することを決断する 14 。この撤退行が、浅井畷の戦いの舞台となる。
丹羽長重は、この前田軍の撤退を好機と捉え、居城である小松城から出撃。城の東方に広がる泥沼や深田の中を貫く「浅井畷」と呼ばれる縄のように細い道で、前田軍を待ち伏せた 14 。畷の上では大軍の利は活かせない。丹羽軍は地の利を活かし、前田軍に奇襲攻撃を仕掛けたのである。
この激戦の最中、丹羽軍の先鋒を務めていた家老・江口三郎右衛門正吉(江口正吉)が、武功を焦るあまりか突出して敵陣深くに陥り、前田勢に包囲され絶体絶命の危機に瀕した 1 。
この危機的状況を目の当たりにした同僚の永原松雲は、「もはや江口は助からん。見捨てるしかない」と、冷静かつ合理的な判断を下したとされる 1 。永原は兵法や和歌に通じた文化人であり、知将タイプの武士であったと伝えられる 16 。彼の判断は、一部隊の損害を最小限に抑え、全軍の崩壊を防ぐための指揮官としては、ある意味で当然の選択であったかもしれない。『小松軍記』には、松雲が江口の行動を「无手なる働(むてなるはたらき)」、すなわち無駄で無益な働きであると批判したと記されている 3 。
永原が江口を見捨てた、まさにその時であった。南部無右衛門は、その判断に異を唱えるかのように、ただ一騎で敵中に駆け入り、瞬く間に江口を救出して帰還したという 1 。この無右衛門の常軌を逸した行動により、丹羽軍は崩壊を免れ、士気を取り戻した。逸話は、「平素己の軍略を誇り、無右衛門を木端武者と馬鹿にしていた永原は面目を失くした」と結ばれている 1 。
この逸話は、単なる武勇伝としてだけでなく、戦国末期における二つの異なる武士の価値観の対立を描いた物語として極めて興味深い。一方は、兵法に基づき、損得を計算して合理的な判断を下す永原松雲の「知」。もう一方は、計算を度外視し、仲間を見捨てないという「義」と、己の武勇のみを頼りに窮地を打開する南部無右衛門の「武」。物語は、後者の「武」と「義」に軍配を上げ、それを称賛することで終わる。これは、江戸時代に入り、官僚化していく武士たちに対し、かつての荒々しくも純粋な武士の精神性を理想として提示する、教訓的な意図が込められていたと考えられる。南部無右衛門は、この物語構造の中で、理想化された「戦国武者」の象徴として描かれているのである。
南部無右衛門は、丹羽家のみならず、豊臣秀吉子飼いの猛将として知られる肥後熊本城主・加藤清正にも仕えている 1 。清正の下で語られる逸話は、浅井畷で見せた武勇一辺倒の姿とは少し異なる、彼の豪放さと機知に富んだ(あるいは狡猾な)一面を我々に伝えている。
無右衛門が清正に仕えたのは、天正17年(1589年)に肥後で発生した天草国人一揆(天正天草合戦)の時期と特定される 1 。この戦いは、肥後南半国を領した小西行長と現地の国人衆との対立に端を発し、隣国の領主であった加藤清正が援軍として参戦したものである 18 。
『常山紀談』によれば、この合戦で無右衛門は山岡道阿弥という武将と共に先陣を任された。主君である清正は、彼らの陣立てが地形的に不利であることを見抜き、「そんなところに構えては高所から攻め掛って来る敵に崩されてしまうぞ」と警告した 1 。しかし、無右衛門はこれを意に介さず、「この無右衛門に任せれば崩されることなどありませぬ」と豪語して退けたという。
果たして戦が始まると、清正の予測は的中し、先陣は敵の攻撃を受けて崩壊した。激怒した清正が「やはり崩されたではないか!」と詰問すると、無右衛門は悪びれる様子もなくこううそぶいたと伝えられる。「私は崩されてなどおりません。一旦陣を下げて立て直そうとしたら山岡が逃げてしまったため崩れたのです。責めるなら山岡だけを責めてください」 1 。
この逸話は、彼の並外れた自信と豪胆さを示すと同時に、主君の的確な指摘を無視した自らの失敗を、同僚の責任に転嫁して切り抜ける狡猾さをも描き出している。浅井畷での自己犠牲的な武勇とは対照的に、ここでは自己保身のための機知が働いている。これは、彼が単なる猪武者ではなく、乱世を生き抜くためのしたたかさを兼ね備えた、より複雑な人物であったことを示唆している。
加藤清正にまつわる逸話の中には、南部無右衛門としばしば混同される可能性のある、もう一人の興味深い人物が登場する。それは、幕末の館林藩士・岡谷繁実が編纂した『名将言行録』に収録されている「国右衛門(くにえもん)」という男の物語である 7 。
この逸話によれば、国右衛門は「一門が加藤清正のために滅ぼされた」という恨みを抱き、鷹狩り中の清正を襲撃する 7 。襲撃は失敗に終わるが、捕らえられた国右衛門は死を恐れず堂々とした態度を崩さなかった。その気骨に感服した清正は、彼を処刑するどころか「我が家来になれ」と誘う。一度は固辞する国右衛門に対し、清正は「命を惜しむは卑怯千万の臆病者」と叱咤激励し、その器量の大きさでついに国右衛門を心服させた。以後、国右衛門は清正の忠実な家臣となり、文禄・慶長の役(朝鮮出兵)に従軍し、蔚山城の戦いで壮絶な戦死を遂げたと伝えられている 7 。
この国右衛門と南部無右衛門は、主君である清正に対しても物怖じしない大胆不敵な性格という点で共通項が見られる。しかし、両者を同一人物と見なすことはできない。その理由は、彼らの経歴と物語における結末が明確に異なるからである。無右衛門は天草合戦の後も生き延び、小早川秀秋、そして再び丹羽長重に仕えるという流転の人生を送る 1 。一方の国右衛門は、清正に生涯を捧げ、朝鮮の地でその命を終える 7 。このキャリアパスの決定的な違いは、両者が別人であることを明確に示している。
むしろ、この二つの逸話は、加藤清正という武将の人物像を多角的に描き出すために、それぞれ異なる機能を果たしていると考えるべきである。無右衛門の逸話は、清正が扱いにくい豪傑すらも使いこなす度量の広さを示す。対して国右衛門の物語は、清正が自分を殺そうとした敵すらも魅了し、絶対的な忠誠を誓う臣下へと変えてしまうという、より劇的で非凡なカリスマ性を強調するために語られている 7 。両者は別人ではあるが、戦国末期から江戸初期にかけて、このような「規格外の豪傑」と「彼らを認め、使いこなす名君」という組み合わせの物語が、理想の主君像として好まれた文化的背景を物語っている。
丹羽長重、加藤清正という二人の主君に仕えた南部無右衛門は、その流転のキャリアの中で、関ヶ原の戦いの行方を決定づけたキーマン、小早川秀秋の家臣団にも名を連ねている 1 。彼の後半生は、関ヶ原後の大名家の激しい栄枯盛衰に翻弄される、一人の武士のリアルな姿を映し出している。
小早川秀秋は、豊臣秀吉の正室・高台院の甥として生まれ、一時は秀吉の養子として豊臣家の後継者候補と目された人物である 8 。しかし、秀頼の誕生や、朝鮮出兵における処遇への不満などから秀吉に疎まれ、その心中には豊臣政権への複雑な感情が渦巻いていた 23 。その心の隙を徳川家康に巧みに突かれ、慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは、当初属していた西軍を土壇場で裏切り、東軍に寝返った。松尾山に陣取った秀秋軍が西軍の大谷吉継隊に襲いかかったことで戦局は一変し、東軍の勝利が確定したのである 8 。
無右衛門が、この秀秋に仕えた具体的な時期や経緯は史料からは明らかではない。しかし、関ヶ原の戦功により備前・美作55万石の大大名となった秀秋が、新たな家臣団を編成するにあたり、無右衛門のような武勇に優れた浪人を召し抱えたことは想像に難くない 25 。彼の槍働きは、新しい領国を治める上で即戦力として期待されたのであろう。
しかし、無右衛門が安住の地を得ることはなかった。栄華を極めたはずの小早川秀秋は、関ヶ原の戦いからわずか2年後の慶長7年(1602年)、21歳という若さで急死してしまう 8 。死因はアルコール中毒とも、西軍諸将の怨霊による祟りとも噂されたが、いずれにせよ、彼には跡を継ぐべき嗣子がいなかった。これにより、源頼朝の時代から続いた名門・小早川家は、徳川幕府によって無嗣を理由に改易、すなわち断絶させられたのである 26 。
主家を失った家臣たちは、路頭に迷うこととなった。秀吉から付け家老として派遣されていた稲葉正成のように、後に徳川家に取り立てられ大名となった者もいたが、多くは他の大名家に再仕官するか、あるいは浪人となるしかなかった 26 。南部無右衛門もまた、この主家の突然の崩壊により、再び浪々の身となったと推察される。
その後の無右衛門の足取りを伝える記録は乏しいが、『常山紀談』は彼の最期を「丹羽家改易後は剃髪して京で隠棲した」と記している 1 。これは、彼の武士としてのキャリアの終焉を意味する。ここでいう「丹羽家改易」が、関ヶ原の戦いで西軍に与した丹羽長重が一時的に領地を没収されたことを指すのか、あるいはその後の藩政における混乱を指すのかは定かではないが、いずれにせよ、無右衛門が最終的に武士としての生き方を捨てたことを示している。
彼の流転の生涯は、まさに時代の荒波そのものであった。仕えた主君、丹羽長重と小早川秀秋は、共に関ヶ原の渦中の人物であり、一方は敗者として、もう一方は勝者として対照的な結果を迎えた。しかし、その両家ともに、その後の道のりは決して安泰ではなかった 6 。これは、無右衛門が自身の武勇を唯一の頼りとして、最も武功を立てる機会がありそうな大名を選んで渡り歩く、実力主義の傭兵に近い生き方をしていた可能性を示唆している 29 。
しかし、小早川家の突然の断絶や丹羽家の不安定な状況は、一個人の武勇という「商品価値」だけでは、もはや安定した地位を築けないという厳しい現実を彼に突きつけたはずである。彼の「剃髪隠棲」という選択は、単なる老後の引退ではない。それは、自らの生き方であった「槍一筋の武辺者」がもはや通用しない、徳川による新しい治世の到来を悟った上での、現実的かつ象徴的な決断であったと解釈できる。それは、戦国という時代が終わりを迎えたことを、一人の武士が自らの身をもって体現した瞬間であった。
南部無右衛門光顕。彼の生涯を追う旅は、確固たる史実の連なりではなく、鮮烈な個性を伝える逸話の断片を繋ぎ合わせる作業であった。彼は歴史上の人物でありながら、その実像は多分に文学的な色彩を帯びており、後世の人々が理想とした「武士の姿」が投影されている。
彼の行動原理は一貫していた。それは、組織の論理や緻密な計算よりも、個人の武勇、仲間への義理、そして己の意地を何よりも重んじるという、前近代的な「いくさ人」の精神性である。浅井畷で見せた自己犠牲的な救出劇は、彼の「義」と「武」を。天草合戦で主君・清正にすら臆さなかった態度は、彼の「豪胆さ」と己の能力への絶対的な自信を物語っている。彼は、自らの槍の腕一本で乱世を渡り歩き、その価値を証明し続けた。
しかし、時代は彼のような個人の武勇に特化した武士を必要としなくなっていく。関ヶ原の戦いを経て徳川幕藩体制という新たな秩序が確立される過程で、求められる人材は、武勇に優れた個人から、組織の中で忠実に務めを果たす官僚的な武士へと変化していった。戦国の「個」の時代が終わり、泰平の「組織」の時代が始まったのである。
南部無右衛門の最後の選択である「隠棲」は、この時代の大きな転換点を象徴している。彼は、新しい時代に適応して生き方を変えるのではなく、自らの信じる古い時代の価値観と共に、静かに歴史の表舞台から去ることを選んだ。彼は、自らの意志で刀を置き、戦国の終焉をその身で体現した「最後の戦国武者」の一人として、我々の記憶に深く刻まれるべき存在なのである。彼の物語は、単なる過去の武勇伝に留まらず、時代の変化の中で一つの生き方が終わりを告げる際の、人間の矜持と哀愁を現代に伝えている。