陸奥盛岡藩の二代藩主、南部重直(なんぶ しげなお)。彼の名は、多くの場合、祖父・信直、父・利直の偉業を引き継ぎ、三代にわたる大事業であった盛岡城を完成させた人物として記憶されている 1 。しかし、その功績の陰には、徳川幕府による支配体制が確立していく激動の時代において、巨大な外様大名である南部家を率いることの重圧と、彼自身の苛烈と評される性格が引き起こした数々の苦難、そして御家存続を揺るがす後継者問題という深刻な危機が存在した。
本報告書は、南部重直を単なる「盛岡城の完成者」という一面的な評価から解き放ち、彼が生きた時代の政治的・社会的文脈の中にその生涯を位置づけることを目的とする。彼の出自、予期せぬ家督相続、藩主としての治績、幕府との相克、そして彼の死がもたらした南部家の分割という結末までを多角的に検証する。これにより、彼の治世が後の盛岡藩、そして新たに誕生する八戸藩の運命を決定づけた歴史的転換点であったことを明らかにし、その多面的な人物像に迫るものである。重直の栄光と苦悩に満ちた生涯は、幕藩体制初期における外様大名の置かれた厳しい現実を、我々に雄弁に物語っている。
南部重直は、慶長11年(1606年)3月9日、江戸桜田の南部藩邸にて生を受けた 1 。父は、南部家中興の祖と称される南部信直の跡を継ぎ、盛岡藩の初代藩主としてその礎を築いた南部利直である 4 。そして母は、戦国時代屈指の名将として知られる会津の蒲生氏郷の娘、源秀院(げんしゅういん、通称は武姫)であった 1 。
この婚姻は、単なる縁組以上の深い政治的意味合いを持っていた。蒲生氏郷は豊臣秀吉の信頼厚い武将であったが、その娘である源秀院は徳川家康の養女として利直に嫁いでいる 5 。これは、豊臣政権から徳川政権へと天下の趨勢が移行する中で、奥州の雄である南部家が中央政権、特に徳川家との関係を強化し、その地位を安泰なものにするための極めて重要な政略であった。重直は、奥州の名門・南部家の血脈と、中央の有力武将・蒲生家の血脈を併せ持つ、まさに貴公子としてこの世に生を受けたのである。彼の幼名は権平(ごんぺい)と伝えられている 1 。
輝かしい血統にもかかわらず、重直は当初、藩主の座を継ぐ立場にはなかった。彼は利直の三男であり、彼の上には家直(いえなお)と政直(まさなお)という二人の兄がいたからである 1 。
しかし、運命は彼に藩主としての道を歩ませることになる。長兄であった家直(母はお三世の方)は、慶長18年(1613年)、わずか16歳の若さでこの世を去った 7 。さらに次兄の政直(母は楽女)も、元和10年(1624年)に26歳で死去してしまう 7 。兄たちの相次ぐ早世により、本来であれば藩主となるはずのなかった三男・重直が、否応なく南部家の世子、次期当主としての重責を担うこととなったのである 8 。
そして寛永9年(1632年)、父・利直が江戸屋敷でその生涯を閉じると、重直は27歳で家督を相続し、陸奥盛岡藩10万石の二代藩主となった 1 。彼の意思とは関わりなく、運命によって巨大な藩の舵取りを任された瞬間であった。
この予期せぬ家督相続という経緯は、その後の彼の人生と統治スタイルに深い影響を与えたと考えられる。本来継ぐはずのなかった者が当主となる場合、自らの正統性や権威を内外に示すため、より強力な指導力を発揮しようとする心理が働くことがある。兄たちの死という不可抗力によって得た地位であるからこそ、譜代の家臣団や、常に外様大名を監視する幕府に対して、自らの能力と統率力を証明する必要性を人一倍強く感じていたとしても不思議ではない。この精神的な重圧が、後に「苛烈」とも「独裁的」とも評される彼の政治手法 1 の遠因となった可能性は十分に考えられる。
表1:南部重直 関係人物略系図
関係 |
人物名 |
生没年・備考 |
|
祖父 |
南部信直 |
1546年 - 1599年。南部家26代当主。盛岡藩の藩祖。 |
|
父 |
南部利直 |
1576年 - 1632年。盛岡藩初代藩主。信直の長男 4 。 |
|
母 |
源秀院(武姫) |
蒲生氏郷の娘。徳川家康の養女として利直の正室となる 7 。 |
|
本人 |
南部重直 |
1606年 - 1664年。利直の三男。盛岡藩二代藩主 1 。 |
|
長兄 |
南部家直 |
1598年 - 1613年。利直の長男。16歳で早世 7 。 |
|
次兄 |
南部政直 |
1599年 - 1624年。利直の次男。26歳で死去 7 。 |
|
弟 |
南部重信 |
1616年 - 1702年。利直の五男。初め七戸家を継ぐ。後に盛岡藩三代藩主となる 6 。 |
|
弟 |
南部直房 |
1628年 - 1668年。利直の七男。初め中里家を継ぐ。八戸藩初代藩主となる 1 。 |
藩主となった重直が最初に取り組んだ大事業は、祖父・信直の代から続く盛岡城の築城工事であった。この城は、天正18年(1590年)の奥州仕置を経て、南部氏が近世大名として生き残るための新たな拠点として計画され、父・利直の時代に本格的な工事が進められていた 5 。そして寛永10年(1633年)、重直の治世下でついに城は完成の時を迎える 2 。
この盛岡城の完成は、単に一つの建築事業が終わったことを意味するのではない。それは、戦国時代以来の南部氏の本拠地であった三戸から、北上川と中津川が合流するこの要衝の地へ、名実ともに拠点を移したことを天下に示す象徴であった。壮麗な石垣を巡らせた近世城郭の威容は、藩主の権威を視覚的に確立し、城下町の発展を促すことで、盛岡藩の一体感を醸成する上で決定的な役割を果たした。
しかし、その前途は多難であった。完成の翌年である寛永11年(1634年)には、不慮の失火によって本丸が焼失するという災難に見舞われる。これにより、重直は一時的に旧本拠地の福岡城(九戸城)へ居を移すことを余儀なくされたが、翌寛永12年(1635年)には迅速に修復を完了させ、再び盛岡城へと戻っている 14 。この素早い対応は、彼の統率力と、盛岡を藩の中心とする揺るぎない意志の強さを物語っている。
父・利直の時代、領内の白根金山や西道金山などの開発によって、盛岡藩は大きな財政的恩恵を受けていた 4 。民謡に「田舎なれども 南部の国は 西も東も金の山」と謳われるほどのゴールドラッシュは、重直の治世初期においても藩の経済的基盤を支える重要な柱であった 15 。この潤沢な資金が、盛岡城の完成や藩政の初期整備を可能にしたことは間違いない。
しかし、資源には限りがある。慶長年間から続いたこの黄金時代も、重直の治世後半にあたる寛文年間(1661年~)には次第に陰りが見え始め、金の産出量は減少していく。それに伴い、鉱業の中心は金から銅へと移行せざるを得なくなる過渡期であった 15 。藩財政の安定は、常に新たな課題に直面しており、盤石とは言い難い状況にあったことが窺える。
重直の人物像を語る上で欠かせないのが、寛永20年(1643年)に発生した「ブレスケンス号事件」である。オランダ東インド会社の船、ブレスケンス号が盛岡藩領の山田浦(現在の岩手県山田町)に寄港した際、船長ヘンドリック・スハープら乗組員10名が藩によって捕縛された 3 。
当時、幕府は厳格な鎖国政策を敷いており、特にキリスト教の布教には極めて神経質になっていた。捕縛された乗組員は江戸へ護送される前に、まず盛岡城へと連行され、藩主である重直自らが尋問にあたった。この時の逸話は、重直の意外な一面を伝えている。役人がキリスト教徒でないことを証明させるために踏み絵を試みたところ、乗組員たちはためらうことなく銅板に唾を吐きかけ、「これを砕いてもよいか」と尋ねたという。これを聞いた重直は大笑いし、彼らが宣教師などではないことを即座に見抜いた 3 。さらに、乗組員の一人が、カトリック国であるポルトガルの兵士から受けたという傷を見せ、彼らが共通の敵であることをアピールすると、重直はそれに大いに得心した 3 。
その後、重直は彼らを罪人としてではなく、むしろ賓客に近い形で丁重にもてなし、2週間ほど盛岡に滞在させた後、江戸へと送り出した 3 。鎖国体制下での異国人に対する画一的な恐怖や敵意ではなく、冷静な観察眼と理性的で柔軟な判断力。この事件は、後に「苛烈」「独裁的」と評される重直が、状況に応じては極めて知性的で好奇心旺盛な側面を持つ、複雑な人物であったことを示す貴重な証拠と言える。彼の「苛烈さ」は、藩の内部統制や対幕府政策といった、自らの権威が試される政治的な場面で強く発揮され、一方で純粋な知的好奇心が刺激される場面では、異なる顔が現れたのかもしれない。
重直の治世における最大の汚点であり、彼の性格を象徴する事件が、寛永12年(1636年)に起きた参勤交代の遅延である。この前年に改定された武家諸法度により、大名の参勤交代が制度化されたばかりであり、重直の参勤は、その新たな制度下での最初の参勤の一つであった 3 。にもかかわらず、彼は江戸への到着が予定より10日も遅れるという、前代未聞の失態を犯したのである 3 。
この行為は、三代将軍・徳川家光が確立しようとしていた幕府の絶対的権威に対する挑戦と見なされ、家光の激しい怒りを買った。結果として重直は、江戸の藩邸における逼塞(ひっそく、蟄居)を命じられるという厳しい処分を受けることになった 6 。
遅参の表向きの理由は病気と届け出られたが 10 、その裏には、重直が寵愛していた妾・最上奥(もがみのおく)との道中でのいさかいが原因であったという逸話も伝わっている 16 。しかし、幕府が問題視したのは、単なる遅刻という事実だけではなかった。他藩の記録によれば、この処分には「(1)参勤の遅延」「(2)領内にキリシタンが多いこと」「(3)幕府に無断で城の出丸や高い石垣を築いたこと」「(4)譜代の家臣を軽んじ、他国出身の者を重用していること」といった、重直の藩政に対する数々の不満が含まれていた 17 。つまり、参勤交代の遅延は、かねてから重直の独裁的な統治姿勢を危険視していた幕府が、彼に圧力を加え、その力を削ぐための絶好の口実として利用されたのである。
逼塞処分を受け、さらに5年間の遠慮(謹慎)を命じられるという絶体絶命の状況に追い込まれた重直であったが、思わぬ形で名誉挽回の機会が訪れる。寛永18年(1641年)に江戸で発生した大火(桶町火事)の際、謹慎中の身でありながら、重直は自ら家臣団を率いて果敢に消火活動にあたり、大いに活躍したのである 18 。
この行動は、単なる人助けや武士の意地といった次元のものではない。それは、幕府から睨まれた外様大名が、自らの「有用性」と「忠誠心」を、将軍家光の目の前で証明するための、計算された政治的パフォーマンスであった。武勇や統率力を、反抗ではなく「奉公」という形で示すことで、失墜した自らの評価を覆そうとしたのである。この狙いは見事に当たり、彼の働きは家光から高く評価され、残りの処分を解かれるという劇的な結末を迎えた 18 。
さらに、明暦3年(1657年)に江戸の大部分を焼き尽くした「振袖火事」の際にも、重直と南部藩士は率先して鎮火に努め、その勇猛果敢な働きぶりは「南部藩火消し」の名声を江戸中に轟かせたという 18 。参勤交代の失敗で失った信頼を、江戸という中央の舞台で、最もわかりやすい形で取り戻したこの一連の出来事は、重直の非凡な政治的嗅覚の鋭さを示すエピソードと言えよう。
重直の治世は、日本近世史上でも最大級の飢饉として知られる「寛永の大飢饉」の時期と重なっている。寛永17年(1640年)から19年(1642年)にかけて、蝦夷駒ケ岳(北海道)の噴火による降灰や、全国的な異常気象による冷害が発生し、未曾有の食糧危機が日本全土を襲った 19 。
特に被害が甚大であったのが東北地方であり、南部藩もその例外ではなかったことは想像に難くない 20 。幕府は諸藩に対し、飢民の救済、田畑の永代売買の禁止、備蓄の放出などを厳しく命じた 19 。盛岡藩においても、領内からの米穀の持ち出し禁止、貯穀の奨励、酒造の厳禁といった基本的な対策や、城下での払米(蔵米の廉価販売)などが実施されたと考えられる 21 。
しかしながら、収集された史料の中には、この国難ともいえる大飢饉に対して、藩主である重直が具体的にどのような指導力を発揮し、いかに領民を救済したかという詳細な記録は見出すことができなかった。これは、彼の治績を総合的に評価する上で、一つの限界点として指摘せざるを得ない。藩主としての彼の真価が最も問われるべき局面での具体的な動向が不明であることは、彼の人物像を完全に解明する上での課題として残る。
藩主として数々の難局を乗り越えてきた重直であったが、彼が生涯を通じて解決できなかった最大の問題が、後継者の不在であった。彼には長松、吉松、直清といった実子が二、三名いたとされるが、いずれも幼くして亡くなるという悲運に見舞われた 22 。
世継ぎがいないことは、大名家にとって御家断絶に直結する最大の危機である。この状況に強い焦りを覚えた重直は、一つの大きな賭けに出た。それは、外様大名という立場から脱却し、幕政に参与できる譜代大名の列に加わることで、家の安泰を図ろうという壮大な計画であったとも言われている 1 。その具体的な手段として、当時幕府の要職にあった大老・堀田正盛の子である勝直を養子として迎えたのである 23 。
しかし、天は重直に味方しなかった。この最後の望みであった養子の勝直もまた、縁組後まもなく18歳の若さで病死してしまう 1 。血脈による継承も、政略による家の格上げも、その道は完全に断たれた。重直の絶望は察するに余りある。
寛文4年(1664年)、重直は江戸で病の床に就いた。後継者を定めないまま、死期が刻一刻と迫る。当時の武家社会では、藩主が跡継ぎを定めずに死ぬことは「無嗣(むし)」とされ、原則として領地は没収、すなわち御家断絶となるのが常であった 22 。
万策尽きた重直は、死を目前にして、自ら後継者を指名することを断念。南部家の家督と領地の行く末、その全てを将軍の裁定に委ねるという、異例の願い出を幕府に行った 1 。これは、南部家の運命を完全に幕府の掌中に委ねる、苦渋の決断であった。
同年9月12日、南部重直は江戸の藩邸にてその波乱の生涯を閉じた。享年59 1 。彼の死後、南部家の処遇を巡って幕府内では2ヶ月以上にわたる審議が行われた。そして同年12月6日、四代将軍・徳川家綱の名によって最終的な裁定が下された 25 。
その内容は、盛岡藩10万石を一旦幕府が召し上げた上で、重直の弟である七戸重信(しちのへ しげのぶ、元の名は花輪重政)に8万石を与えて盛岡藩を相続させ、同じく弟の中里直房(なかざと なおふさ)に新たに2万石を分与して八戸藩(はちのへはん)を立藩させる、というものであった 1 。事実上の「分割相続」である。
この裁定は、当時の「末期養子の禁」が厳格に適用されていた時代背景を考えれば、無嗣による完全な断絶を免れたという点で、南部家にとってはまさに奇跡的な措置であった 25 。しかし、その内実を深く見れば、それは幕府による高度な政治的判断の結果であったことがわかる。
幕府の公式な見解は、これは「相続」ではなく、一度断絶した南部宗家を、将軍の特別な温情によって「新規に取り立てた」というものであった 25 。この論理によって、幕府は南部家の石高を10万石から8万石へと実質的に減らし、さらに2万石の支藩(八戸藩)を創設させることで、奥州に広大な領地を持つ強大な外様大名・南部家の力を削ぎ、幕府の統制下に置きやすくするという目的を達成した。
この一連の出来事は、単なる一個人の、一藩の悲劇ではない。それは、徳川幕府の支配体制が完成していく過程を象徴する事件であった。奇しくも、重直が没し八戸藩が誕生した寛文4年(1664年)は、幕府が全国の大名に対して領地の支配権を再確認する朱印状を一斉に交付した「寛文印知(かんぶんいんち)」が行われた年でもある 28 。幕府は、この南部家の相続問題を、全国の大名に対し「大名の存亡は、完全に将軍の裁量一つにかかっている」という絶対的な権威を見せつけるための、格好の事例として利用したのである。重直の死は、期せずして、幕府の支配体制を盤石なものとするための一つの駒として、歴史の中に組み込まれることとなった。そして、この分割統治は、後の世に盛岡藩と八戸藩の間に複雑な感情的・政治的軋轢を生む源流ともなったのである 25 。
表2:南部重直 関連略年表
西暦 (和暦) |
南部重直・盛岡藩の出来事 |
幕府・国内外の主要な出来事 |
||
1606年 (慶長11年) |
江戸桜田屋敷にて誕生 1 。 |
|
||
1632年 (寛永9年) |
父・利直の死去に伴い、家督を相続。盛岡藩二代藩主となる 1 。 |
|
||
1633年 (寛永10年) |
祖父・父の代からの盛岡城築城工事を完成させる 2 。 |
|
||
1635年 (寛永12年) |
武家諸法度が改定され、参勤交代が制度化される。 |
|
||
1636年 (寛永13年) |
参勤交代に10日遅参し、将軍家光の怒りを買い逼塞処分となる 3 。 |
|
||
1637年 (寛永14年) |
島原の乱が勃発(~1638年)。 |
|
||
1641年 (寛永18年) |
江戸大火(桶町火事)で消火活動に活躍し、処分を解かれる 18 。 |
|
||
1642年 (寛永19年) |
寛永の大飢饉が最大規模となる 19 。 |
|
||
1643年 (寛永20年) |
オランダ船ブレスケンス号が領内に漂着。乗組員を保護 3 。 |
田畑永代売買禁止令が発布される 19 。 |
||
(年月日不詳) |
幕閣・堀田正盛の子・勝直を養子に迎えるが、18歳で早世 23 。 |
|
||
1657年 (明暦3年) |
明暦の大火(振袖火事)で藩士を率いて消火活動にあたる 18 。 |
|
||
1664年 (寛文4年) |
9月12日、江戸にて死去。享年59 1 。 |
12月6日、幕府の裁定により、弟・重信が盛岡藩8万石、弟・直房が八戸藩2万石を継承 26。 |
|
幕府が全国の大名に領知朱印状を一斉に交付(寛文印知) 28 。 |
南部重直の生涯を総括すると、彼は二つの相反する側面を持つ人物として浮かび上がる。一つは、祖父・信直が構想し、父・利直が着手した盛岡藩という新たな共同体の物理的・制度的な基盤を完成させた「礎の完成者」としての姿である。三代にわたる大事業であった盛岡城の竣工は、その最大の功績であり、近世大名・南部家の威信を内外に示した。
しかし同時に、彼は「危機の当事者」でもあった。その苛烈と評される性格と独裁的な統治手法は、幕府との間に深刻な緊張関係を生み、参勤交代遅延事件に代表されるように、藩そのものを危うくする事態を招いた。そして何よりも、藩主としての最大の責務である後継者の育成に失敗したことは、彼の治世における最大の失策であった。その結果、南部家は10万石の所領を分割されるという大きな代償を払い、かろうじて存続を許されるという結末を迎えた。
最終的に、南部重直は、徳川幕府という巨大な権力構造が確立されていく時代の中で、北奥の広大な領地を背負い、藩の存続と発展のために奮闘し、輝かしい成功と手痛い失敗を繰り返した、極めて人間的な藩主であったと評価できる。彼の栄光と苦悩に満ちた生涯は、もはや武力だけでは生き残れない江戸時代初期という新たな秩序の中で、外様大名が置かれた厳しい現実と、その中で必死に活路を見出そうとした一人の人間の葛藤を、今日に伝えている。