最終更新日 2025-07-15

南長義

南長義は南部一門の重鎮。南部信直擁立に尽力し、浅水城主として強大な勢力を誇る。九戸政実の乱を乗り越え、南一族繁栄の礎を築いた知将。
南長義

戦国武将・南長義の生涯 ― 南部家統一の影の立役者、その実像と歴史的意義に関する徹底調査報告

序章:南部一門の重鎮、南長義 ― 奥州の動乱を生き抜いた知将の実像

戦国時代の北奥羽にその名を刻んだ南部一門。その激動の歴史において、一人の武将が果たした役割は、しばしば宗家の当主の陰に隠れ、正当に評価されてこなかった。その人物こそ、本報告書が主題とする南長義(みなみ ながよし)である。彼は南部家臣として、また浅水城主として知られるが、その実像は単なる一城主の枠を遥かに超える。南部宗家の家督を巡る深刻な内紛に際して決定的な役割を演じ、後の盛岡藩南部家の権力構造の礎を築いた、まさに歴史の転換点に立ったキーパーソンであった。

しかし、彼の生涯を追うとき、我々はまず根源的な謎に直面する。彼の出自、すなわち父親は誰か、そして本人の名前さえも、参照する史料によって異なるのである。この情報の錯綜は、単なる記録の誤りや混乱として片付けられるべきではない。むしろ、それぞれの史料が編纂された時代の政治的意図や、歴史を語る主体の立場を色濃く反映した結果と見るべきであろう。

本報告書は、この南長義という人物の生涯を、現存する史料を網羅的に比較検討することを通じて、徹底的に解明することを目的とする。具体的には、以下の核心的な問いを探求する。第一に、史料によってなぜ彼の出自(父と名前)は異なるのか。第二に、彼はなぜ、そして如何にして南部信直を次期当主として擁立するという、当時の常識を覆すほどの政治的決断を下したのか。第三に、その決断が南部家全体と、彼が創始した南一族のその後に何をもたらしたのか。

南長義の生涯を丹念に追跡することは、戦国時代の北奥羽における複雑な政治力学と、南部氏という巨大な武士団が中世的な同族連合体から近世大名家へと変貌を遂げる、その困難な移行プロセスを理解する上で、極めて重要かつ不可欠な視点を提供するものである。本報告書は、歴史の表舞台から一歩引いた場所にありながら、確かにその流れを動かした一人の知将の実像に迫る試みである。

第一章:出自を巡る錯綜 ―「長義」か「信義」か、父は「政康」か「安信」か

南長義の人物像を正確に理解する上で、避けては通れないのが、彼の出自に関する記録の混乱である。これは彼の生涯を語る上での単なる導入部ではなく、彼の歴史的役割そのものの重要性を物語る、極めて重大な論点である。なぜなら、彼の系譜上の位置付けは、後の南部家の家督相続の正当性を左右する問題と密接に結びついており、各史料の記述の相違は、それぞれの編纂者が持つ政治的立場や歴史観の表れに他ならないからである。

第一節:史料の海に浮かぶ二つの系譜

南長義の父親については、大きく分けて二つの説が存在し、それぞれが権威ある史料に依拠しているため、問題は一層複雑である。

一つは、南部家第22代当主・南部政康(なんぶ まさやす)の三男とする説である。この説の最も有力な根拠は、江戸時代後期、文久元年(1861年)に盛岡藩の公式記録として編纂された『参考諸家系図』である 1 。この系図に従えば、長義は第24代当主・南部晴政(はるまさ)の父である安信(やすのぶ)の弟、すなわち晴政から見れば叔父にあたる。この立場は、彼が一族の長老格として家中の争議に介入するに足る権威を持っていたことを示唆するものであり、盛岡藩内では伝統的に受容されてきた見解であった可能性が高い 5

もう一つは、第23代当主・南部安信の三男とする説である。この説は、江戸幕府が文化9年(1812年)に完成させた大名・旗本の公式系譜集『寛政重修諸家譜』に採録されている 1 。この場合、長義は晴政の弟となり、宗家との血縁的近さがより強調される。この記述の背景には、政治的な意図が存在した可能性が指摘できる。すなわち、幕府への公式報告として、南部家中興の祖である南部信直(のぶなお)の家督継承の正当性をより強固に主張する必要があった。そのために、信直擁立の最大の功労者である南長義を、先代当主・晴政と極めて近い兄弟という関係に位置づけることで、信直派の正統性を補強しようとしたのではないか。この問題は、信直自身の父・石川高信(たかのぶ)の出自が、政康の子(晴政の叔父)とも安信の子(晴政の弟)ともされ、錯綜している点と軌を一にするものであり、信直政権の成立を正当化するための系譜操作の一環であった可能性を否定できない 5

さらに、彼自身の名前についても「長義」と「信義(のぶよし)」という二つの表記が見られる。一般的には「長義」として広く知られているが 9 、極めて重要なことに、南家の末裔や、南家から分家した下田家が所有する系図においては、一様に「信義」と記されているという指摘がある 11 。これは単なる異体字や誤記とは考えにくい。「信義」という名は、彼が命を懸けて擁立した南部「信」直との強固な連帯と、その主君に尽くした「信」と「義」を象_徴する呼称として、子孫が意図的に用いた可能性が高い。一族のアイデンティティの根幹を成す、信直への忠誠の証として、この名が家内で大切に受け継がれてきたと解釈できる。

これらの矛盾は、史料が誰によって、どのような目的で編纂されたかという背景を抜きにしては理解できない。南長義という人物が、南部家の歴史における重大な転換点に深く関与したからこそ、彼の系譜は様々な立場から解釈され、記録されてきたのである。

【表1:南長義の出自に関する諸説比較】

史料名

編纂主体・成立時期

記述(名前)

記述(父親)

史料の性格と考察

『参考諸家系図』

南部藩(盛岡藩)・文久元年(1861年)

長義

南部政康(第22代)

盛岡藩の公式系図集。藩内で伝統的に受容されていた説を反映している可能性が高い。長義を長老格と位置づける。

『寛政重修諸家譜』

江戸幕府・文化9年(1812年)

長義(信義)

南部安信(第23代)

幕府への公式報告書。信直政権の正当性を補強するため、長義を晴政の弟とし、宗家との近さを強調した可能性がある。

南家・下田家伝来系図

南家子孫・時期不明

信義

(不明)

南家および分家の下田家に伝わる私家系図。擁立した南部「信」直への忠「義」を象徴する名を意図的に使用したと考えられる。

第二節:南殿の誕生と南氏の創設

出自に関する記録は錯綜するものの、彼の生没年については比較的明確な記録が残されている。明応6年(1497年)に生まれ、天正11年(1583年)に没したとされ、実に87年という長寿を全うした 9 。戦国時代にあってこの長寿は稀有であり、彼が南部家の数代にわたる権力闘争と時代の変転を見届け、その時々の重要な局面で的確な判断を下すことを可能にした、最大の基盤であったと言えよう。

彼の通称である「南殿」は、南部氏の本拠地であった三戸城(現在の青森県三戸町)の南方に広大な屋敷を構えていたことに由来する 1 。これは単なる地理的な呼称に留まらず、やがて彼とその一族を表す「南氏」という新たな苗字へと発展した。当時、南部一門の中では、本拠地の地名や方角を姓とする有力な庶家が複数存在した。剣吉城を拠点とした北氏、名久井城の東氏などがその代表であり、南氏もこれらと並び立つ一門の重鎮として、宗家を取り巻く権力構造の中で重要な一角を占める存在であったことを示している 1 。南長義は、まさにこの南一族の創始者だったのである。

第二章:浅水城主としての台頭と勢力基盤の確立

南長義が南部家中で絶大な影響力を持つに至った背景には、単に宗家との血縁関係だけでなく、彼自身の実力によって築き上げられた強固な軍事・経済基盤の存在があった。その中核を成したのが、彼の居城である浅水城(あさみずじょう)と、そこから得られる莫大な知行高であった。彼の台頭は、当時の南部氏が宗主の絶対権力下に置かれた中央集権体制ではなく、有力な一門がそれぞれ自立した勢力を保持し、連合して領国を統治する「同族連合体」としての性格を色濃く残していたことの証左でもある。

第一節:要衝・浅水城の統治

南長義の勢力基盤となった浅水城は、現在の青森県三戸郡五戸町に位置する 12 。この城は、馬淵川の支流である浅水川の左岸に広がる丘陵上に築かれた山城であり、本曲輪、二の曲輪、三の曲輪から構成されていた 12 。その立地は戦略的に極めて重要であった。城の麓には、北奥の幹線道路である奥州街道が通り、浅水は宿場町としても機能していた 15 。さらに、この地は南部氏の本拠地である三戸と、八戸、五戸といった領内の主要都市を結ぶ結節点にもあたっていた 14 。この交通の要衝を抑えることは、糠部郡内における物資の流通と軍事的な人の動きを完全に掌握することを意味し、城主である長義に大きなアドバンテージをもたらした。

長義がこの浅水城の主となった時期は、永正年間(1504年-1521年)と伝えられている 13 。一説によれば、大永4年(1524年)、津軽地方で発生した三代主水(みつしろもんど)なる人物の反乱を鎮圧した軍功により、20代後半にして浅水城を与えられたという 9 。この伝承が事実であれば、彼は青年時代から武将としての才覚を遺憾なく発揮し、宗家から高く評価されていたことがうかがえる。当初は城のある地名から「浅水氏」を名乗ったともされるが、やがて三戸城の南に屋敷を構えたことから「南殿」と呼ばれ、それが「南氏」という姓として定着した 12

第二節:南部家中の重臣へ

南長義の家中に与える影響力を決定づけたのは、彼が拝領した知行高であった。諸記録によれば、彼は度重なる軍功によって3500石もの所領を与えられたとされている 9 。石高制における「1石」が、成人1人が1年間に消費する米の量にほぼ相当する 19 ことを踏まえれば、3500石という知行は、理論上3500人の兵士を年間を通じて養うことが可能な規模を示す。これは戦国時代の南部家臣団の中では群を抜くものであり、彼が宗家からも独立した強力な私的軍事力を保持していたことを物語っている。

この強大な経済力と軍事力を背景として、南長義は南部一門における地位を不動のものとした。彼は、剣吉の北氏や名久井の東氏と並び称される「一族の重鎮」として、南部家の運営に大きな発言権を持つに至ったのである 1 。その影響力は、天正10年(1582年)に当主・南部晴継が急死した際、後継者を決定する最重要会議に参加を許されたことからも明らかである 9 。南長義は、もはや単なる一武将ではなく、南部家の運命を左右する有力な政治勢力となっていた。彼のこの自立性の高さこそが、次章で詳述する、宗家当主・南部晴政との対立、そして南部信直の擁立という大胆な政治行動を可能にする土壌となったのである。

第三章:南部家最大の分水嶺 ―「屋裏の変」と信直擁立への道

南長義の生涯において、その評価を決定づける最も重要な局面が、南部家の歴史を二分した家督争い、通称「屋裏の変」における彼の動向である。この一連の内紛は、単なるお家騒動に留まらず、戦国大名としての南部氏のあり方を根本から問い直し、近世大名への道を切り拓く大きな転換点となった。南長義は、この動乱の渦中で傍観者であることを選ばず、明確な意思をもって一方の派閥の旗頭となり、歴史の流れを自らの手で動かしたのである。

第一節:晴政と信直、骨肉の対立 ―「屋裏の変」の勃発

南部家の全盛期を現出し、「三日月の丸くなるまで南部領」と謳われるほどの広大な版図を築いた第24代当主・南部晴政であったが、その治世の後半は後継者問題に深く悩まされていた 20 。長らく男子に恵まれなかった晴政は、永禄8年(1565年)、一門の中でも特に武勇に優れた石川高信の子・信直(晴政の従兄弟にあたる)を、自らの長女の婿養子として迎え、後継者と定めた 20

しかし、この決定が後の混乱の火種となる。元亀元年(1570年)、晴政に待望の実子・鶴千代(後の南部晴継)が誕生したのである 20 。我が子可愛さからか、晴政は次第に養子である信直を疎んじ、冷遇するようになった。対立は日に日に深刻化し、晴政は信直の勢力を削ぐため、彼の父である石川高信の居城・石川城を、南部家臣であった大浦為信(後の津軽為信)に唆して攻撃させ、高信を自害に追い込んだという説もある 20

晴政の信直に対する憎悪は、ついに直接的な暗殺計画にまで発展する。元亀3年(1572年)、信直が川守田村(現在の岩手県内)にある毘沙門堂へ参拝した機会を狙い、晴政自らが手勢を率いて襲撃するという事件が起きた。『八戸家伝記』によれば、信直は辛くも川守田常陸入道の館に逃げ延び、鉄砲で応戦したと記録されている 20 。この養父と養子による骨肉の争い、そしてそれに伴う南部家中の分裂と混乱は、総称して「屋裏の変」と呼ばれ、数年間にわたって続いた 2 。この結果、南部家中は晴政・晴継を支持する主流派と、不遇の信直に同情し、晴政の強権政治に反発する反主流派とに完全に二分され、一触即発の内乱状態へと突入したのである 22

第二節:信直派の旗頭として ― 南長義の決断

この南部家を揺るがす内紛において、南長義は明確に反主流派、すなわち信直を支持する側に立った。彼は、剣吉城主の北信愛(きた のぶちか)と共に、晴政から命を狙われる信直を庇護し、反晴政派閥の中核を担う存在となった 2

長義のこの動きは、当然ながら当主・晴政の逆鱗に触れた。永禄年間(時期については諸説あり)、晴政は自ら軍を率いて南氏の居城である浅水城を攻撃したという記録が残っている 12 。これは、晴政が南長義を単なる同調者ではなく、信直を担ぐ反乱勢力の首魁の一人と見なしていたことの動かぬ証拠である。

長義が、宗家当主である晴政に反旗を翻すという、極めて危険な賭けに出た動機は何だったのか。それは、晴政が進めていた強権的な領国統治と、有力一門の力を削いで当主への権力集中を図る政策への強い反発にあったと考えられる。当時の南部氏は、北氏、南氏、東氏、そして九戸氏といった有力な庶家が、それぞれ半ば独立した領主として自らの所領と軍事力を保持し、その連合体として成り立っていた。晴政の政策は、この伝統的なパワーバランスを崩し、長義ら一門の長の既得権益を脅かすものであった。長義は、同じく晴政に反感を抱いていた北信愛や、根城を拠点とする八戸氏の当主・八戸政栄(はちのへ まさよし)らと連携し 25 、自らの勢力と一門の自立性を守るため、不遇の立場にあり、恩を売ることで将来的に操縦しやすいと考えられた信直を、次なる当主として擁立する道を選んだのである。

第三節:新当主誕生への貢献 ― 南部信直の家督継承

緊張状態が続く中、天正10年(1582年)、南部家の歴史は再び大きく動く。当主・南部晴政が病没し、その跡を継いだ実子・晴継も、同年、疱瘡(天然痘)によりわずか13歳で急死してしまったのである 23 。この若すぎる当主の死は、家中に権力の空白を生み出し、家督争いを再燃させた。

晴継の死後、三戸城で開かれた重臣会議では、後継者として、晴政の次女を妻としていた九戸実親(くのへ さねちか)を推す声が多数を占めた。実親の背後には、南部一族最強の武将と謳われた兄の九戸政実(まさざね)がおり、血筋と実力の両面から有力な候補と見なされていた 25

この流れに敢然と「待った」をかけたのが、南長義と北信愛であった。特に北信愛は、「田子九郎信直(当時の信直の呼び名)こそ晴政の従兄弟であり、晴継の姉婿である。その器量もまた他に勝る。まさに家督を継ぐべき者である」と大音声で主張し、会議の空気を一変させたと伝えられる 35 。そして、彼はただ議論するだけでなく、自ら武装した兵士を田子城に派遣し、信直を擁して三戸城に入城。既成事実を以て、信直を第26代当主の座に就かせたのである 27

この一連の動きは、穏当な話し合いによる家督相続というよりは、むしろクーデターに近いものであった。この大胆な行動を成功させる上で、浅水城に拠点を置き、3500石の兵力を動員できる南長義の軍事的な後ろ盾と、八戸政栄ら他の有力者への根回しといった政治的支援が、決定的に重要な役割を果たしたことは疑いようがない。南長義の決断と行動がなければ、南部家の家督は九戸氏の手に渡り、その後の北奥羽の歴史は全く異なる様相を呈していたであろう。彼の行動は、まさに歴史の大きな分岐点であった。

第四章:南一族の繁栄と後世への遺産

南長義による南部信直の擁立は、単に一個人の政治的成功に終わらなかった。それは、彼が創始した南一族が、戦国の動乱期を乗り越え、近世の盛岡藩体制下で確固たる地位を築き、数世紀にわたって繁栄するための強固な礎となったのである。彼の先見性は、子孫の代にわたる一族の安泰という形で結実した。

第一節:分家の創設と一族の拡大

信直が南部家の家督を継承すると、その最大の功労者である南長義の影響力は絶大なものとなった。彼はこの政治的優位性を活かし、息子たちを領内の要地に配置することで、南一族の勢力を巧みに拡大・強化していった。

特筆すべきは、次男・直勝(なおかつ)と三男・直政(なおまさ)の配置である。天正19年(1591年)の「九戸政実の乱」において、九戸方に与したことで滅亡した陸奥の名門・七戸氏。信直は、この七戸氏が治めていた七戸城(現在の青森県七戸町)と、その由緒ある家名を、南長義の次男・直勝に継がせるという破格の処遇を行った 2 。これは、反乱で荒廃した地域の支配を、最も信頼できる一族に委ねて安定化を図ると同時に、南一族の勢力圏を北へ大きく広げるという、極めて戦略的な一手であった。ただし、この直勝の動向については、後に津軽為信の調略によって津軽方に寝返ったとする異説も存在し、その生涯は謎に包まれた部分も多い 38

一方、三男の直政には、六戸通(ろくのへどおり)の下田村(現在のおいらせ町周辺)を知行として与え、ここを拠点とする分家・下田氏を創設させた 2 。これにより、浅水城の南氏本家、七戸城の七戸氏(南氏分家)、そして下田氏という三つの拠点が連携し、南部領の北半を広く押さえる強力な一族ネットワークが形成されたのである。

【表2:南長義の子と分家】

子の名前

継承・創設した家

主な拠点・知行地

主な事績

備考

南康義(やすよし)

南氏本家

浅水城

嫡男として南氏の家督を継承。

盛義の父。

南直勝(なおかつ)

七戸氏

七戸城

九戸の乱で滅亡した七戸氏の名跡を継承。

津軽為信のもとへ出奔したという異説が存在する 38

南直政(なおまさ)

下田氏

下田村

下田氏の祖となる。九戸の乱で負傷し、それが元で死去したとされる 40

第二節:九戸政実の乱と南家の試練

信直政権の成立は、しかし、新たな火種を生んだ。家督争いに敗れた九戸政実は、信直への不満を募らせていた。その対立は、天正18年(1590年)に豊臣秀吉が断行した「奥州仕置」によって決定的となる。秀吉が信直を南部氏の宗家として正式に認めたことで、これまで同格に近い立場であった九戸氏は、信直の家臣と位置づけられてしまったのである 42

この屈辱に耐えかねた九戸政実は、天正19年(1591年)、ついに挙兵する 43 。この「九戸政実の乱」において、南一族は信直方の主力として、反乱軍と直接対峙する最前線に立たされた。九戸方に与した櫛引氏の軍勢が南氏の居城・浅水城に攻め寄せたが、これを撃退する武功を挙げた。しかし、その後の追撃戦において、悲劇が起こる。長義の孫で、当時の南家当主であった三代目・南盛義(もりよし)が、敵の伏兵に掛かり、法師岡館(現在の青森県内)付近で壮絶な討ち死を遂げたのである 2 。これは、信直政権を支えるという一族の選択が、大きな犠牲を伴うものであったことを物語っている。

第三節:盛岡藩における南家

九戸の乱という大きな試練を乗り越えた後、南一族は江戸時代を通じて盛岡藩の中で重きをなした。盛義の跡を継いだ弟の直義(なおよし)は3000石を知行し、一族は藩の家老職を歴任する家柄として、その地位を確固たるものとした 2

その道のりは平坦ではなかった。直義の死後、嫡男が幼少であったため、藩主・南部利直(としなお)の四男である利康(としやす)が5000石に加増された上で養子として南家を継いだ。しかし、利康は寛永8年(1631年)に嗣子なく24歳の若さで没し、南家は一時的に断絶の危機に瀕した 1 。しかし、藩は南長義以来の多大な功績を鑑み、わずか2年後の寛永10年(1633年)、直義の実子であった晴政(はるまさ)に300石を与えて家名の再興を許した 1 。これは、南家が盛岡藩にとって、家格や知行高だけでは測れない、特別な存在と認識されていたことの証左である。

そして、南一族にとって最大の栄誉が訪れる。文政元年(1818年)、当時の当主・南晴陽(はるあき)は、藩主の特命により、八戸氏、北氏といった他の最高位の一門と共に、宗家と同じ「南部」の姓を名乗ることを許されたのである 1 。これは、彼らが単なる家臣ではなく、藩主と運命を共にする特別な一族(御家門)として、藩内で最高の格式を与えられたことを意味する。南長義が一代で築き上げた南家は、数世紀の時を経て、その忠義と功績が最高の形で報いられたのであった。

終章:南長義の歴史的評価 ― 南部家中興の影の立役者

南長義の87年におよぶ生涯を総括するとき、我々は彼が一つの類型には収まらない、多面的で複雑な魅力を持つ戦国武将であったことに気付かされる。史料の錯綜の中にその実像は埋もれがちであるが、断片的な記録を繋ぎ合わせ、その行動の背景を深く考察することで、北奥羽の歴史を動かした重要人物としての一面が鮮やかに浮かび上がってくる。

第一に、南長義は「南部家中興の祖」と称される南部信直を世に送り出した、最大の功労者である。晴政との対立で生命の危機に瀕していた信直を庇護し、晴継の急死という権力の空白期に、九戸氏という強大な対立候補を排して信直の家督継承を断行した。彼の政治力、軍事力、そして決断力がなければ、信直が南部家の当主となることはあり得なかった。信直が後に豊臣政権、そして徳川幕藩体制へと巧みに適応し、盛岡藩の礎を築くことができたのは、まさしく南長義がその出発点を用意したからに他ならない。その意味で、彼は「南部家中興の影の立役者」と評価されるべきである。

第二に、彼は宗家の意向にただ盲従するだけの家臣ではなかった。自らの勢力基盤である浅水城と3500石の知行を背景に、時には当主・晴政と公然と対立し、自らの政治的信念と一門の利益のために行動する、戦国武将らしい気概と自立心を持った人物であった。晴政への反旗は、中世的な同族連合体の力学の中で、自らの生き残りと発展を懸けて戦った、彼の真骨頂を示すものであった。

第三に、彼は自らが創始した「南家」という一族を、百年にわたって繁栄させる礎を築いた、優れた家祖であった。息子たちを要地に配置して一族の勢力を拡大し、九戸の乱での犠牲という試練を乗り越え、ついには子孫が藩主と同じ南部姓を名乗るという最高の栄誉を勝ち取るに至った。彼の的確な政治判断と、時代の大きな流れを見極める先見性がなければ、南一族は他の多くの戦国武士団と同様に、歴史の波間に消えていたかもしれない。

結論として、南長義は、史料の記述の揺れからその存在が曖昧に捉えられがちであるが、実際には南部家の歴史における最大の分水嶺に立ち、その流れを決定づけた極めて重要な人物であった。彼の生涯は、戦国という実力主義の時代にあって、個人の才覚と政治的決断がいかに一族の、そして一国の運命を左右しうるかを雄弁に物語っている。彼の再評価は、戦国北奥羽の歴史をより深く、より立体的に理解するために不可欠な作業であると言えよう。

引用文献

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  3. 参考諸家系図 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8F%82%E8%80%83%E8%AB%B8%E5%AE%B6%E7%B3%BB%E5%9B%B3
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  6. 寛政重修諸家譜(かんせいちょうしゅうしょかふ)とは? 意味や使い方 - コトバンク https://kotobank.jp/word/%E5%AF%9B%E6%94%BF%E9%87%8D%E4%BF%AE%E8%AB%B8%E5%AE%B6%E8%AD%9C-49026
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  8. 近世こもんじょ館 https://komonjokan.net/cgi-bin/komon/index.cgi?cat=QandA&mode=details&code_no=168&start=
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  13. 浅水城 - - お城散歩 - FC2 https://kahoo0516.blog.fc2.com/blog-entry-927.html?sp
  14. 浅水城跡(あさみずじようあと)とは? 意味や使い方 - コトバンク https://kotobank.jp/word/%E6%B5%85%E6%B0%B4%E5%9F%8E%E8%B7%A1-3021156
  15. 青森県三戸郡 浅水宿跡 | 試撃行 https://access21-co.xsrv.jp/shigekikou/archives/19544
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