最終更新日 2025-07-27

原田喜右衛門

原田喜右衛門は豊臣秀吉の命でフィリピンへ渡った長崎の商人。秀吉にフィリピン征服を提言し、ルソン壺独占交易で富を築いた。

乱世の海を渡った政商 ― 原田喜右衛門の実像と野望

序章:謎多き男、原田喜右衛門 ― 史料の海から浮かび上がる輪郭

安土桃山時代、日本の歴史が内から外へと大きく開かれようとした激動の時代に、その名を歴史に刻んだ人物は数多い。しかし、原田喜右衛門ほど、その実像が謎に包まれ、日本側の記録と海外の記録との間に著しい温度差をもって語られる人物も稀であろう。彼は一般に、豊臣秀吉の命を受けてフィリピン(呂宋)へ渡った長崎の商人と認識されている 1 。しかし、この公的な肩書の裏には、一介の商人の枠を遥かに超えた、外交と軍事を動かした策略家の顔が隠されている。

原田喜右衛門の活動を記した日本側の一次史料、例えば『甫庵太閤記』などにおける記述は、彼を秀吉の使者として断片的に触れるに留まる 3 。ところが、ひとたび視点を海の向こう、スペイン領フィリピンの史料に移すと、その姿は劇的に変貌する。当時のフィリピン総督府の行政記録、宣教師たちが本国へ送った書簡、そしてスペイン人商人ベルナルディーノ・デ・アビラ・ヒロンが著した『日本王国記』といったスペイン側史料には、彼の性格、財政状況、そして具体的な策略に至るまでが生々しく記録されている 2 。この史料の著しい偏在は、彼の活動の主戦場が日本国内の商業網ではなく、国家間の「隙間」にあったことを物語っている。彼の真の価値は「公式の使者」という肩書ではなく、スペイン側が強く警戒した「非公式な活動」と情報操作にあった。

本報告書は、これら日本側とスペイン側の多角的な史料を批判的に検証し、それらを突き合わせることで、原田喜右衛門という人物の複眼的な実像を再構築することを目的とする。単なる「秀吉の使者」という一面的な理解を超え、彼が如何にして権力の中枢に食い込み、国際関係を自らの野望の舞台へと変えようとしたのか、その能動的な役割と野心の軌跡を浮き彫りにする。彼の生涯を追うことは、天下統一後の日本の膨張エネルギーが、一個人の野心と結びつき、いかにして国際関係を揺るがしたかを探る旅でもある。

表1:原田喜右衛門 関連年表

年代(西暦)

原田喜右衛門の動向(推定含む)

日本の動向

フィリピン・スペインの動向

1587年

マニラ近郊の土豪による反スペイン蜂起計画に関与か 6

豊臣秀吉、伴天連追放令を発布。九州平定。

ゴメス・ペレス・ダスマリーニャスが総督に就任する前。

1591年

秀吉にフィリピン(呂宋)招撫を提言 6

秀吉、フィリピン総督に入貢を要求する国書を送ることを決定。

ゴメス・ペレス・ダスマリーニャス総督、秀吉の国書を受け取る。

1592年(天正20/文禄元年)

手代の原田孫七郎を正使としてマニラへ派遣 6

文禄の役(朝鮮出兵)開始。秀吉、名護屋に本陣を置く。

総督ダスマリーニャス、答礼使としてフアン・コボを日本へ派遣 7

1593年(文禄2年)

4月、自ら第二次使節としてマニラに到着 2 。マニラの防備が脆弱であると秀吉に報告 8 。台湾征服計画にも関与 6

秀吉、名護屋城にてコボらと面会。

コボ、帰途に台湾沖で遭難死 2 。ペドロ・バウティスタが第二次答礼使として日本へ。

1594年(文禄3年)

-

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バウティスタ、秀吉に朝貢拒否と友好関係の継続を伝える 5

1596年(慶長元年)

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サン=フェリペ号事件発生。

マニラを出航したサン=フェリペ号が土佐に漂着。

1597年(慶長2年)

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二十六聖人の殉教。慶長の役開始。

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1598年(慶長3年)

破産し、フィリピン貿易から撤退。この頃死去したと伝わる 2

豊臣秀吉、死去。

-

この年表は、喜右衛門の行動が、秀吉の天下統一後の対外膨張政策、文禄・慶長の役という国際情勢、そしてスペイン側の植民地経営という三つの巨大な歯車が噛み合う中で展開されたことを示している。彼の野心は、時代の大きなうねりの中で生まれ、そして翻弄されていったのである。

第一章:出自と初期の活動 ― キリシタン商人から権力への接近

原田喜右衛門の生涯の初期段階は、多くの謎に包まれているが、断片的な史料からその輪郭をたどることができる。彼の出自は、スペイン側史料によれば「都」、すなわち畿内地方の出身者であったとされる 2 。これは、伝統的な海外貿易の拠点であった博多の商人とは異なる背景を持つことを示唆する。彼が主たる活動拠点としたのは、ポルトガル船の来航によって急速に発展した新興の国際貿易港、長崎であった 1 。この地で彼は、時代の波に乗り、海外へと乗り出していく。

彼のキャリアの初期において特筆すべきは、キリスト教との関わりである。喜右衛門はキリスト教に帰依し、「パウロ」という洗礼名を受けていた 1 。当時の長崎において、貿易商人、特にポルトガルとの交易に関わる者にとって、キリスト教徒であることは、宣教師や現地のキリシタン商人との間に広がるネットワークにアクセスし、商業活動を円滑に進める上で大きな利点となった。彼の入信も、純粋な信仰心に加え、こうした実利的な計算があった可能性は否定できない。

しかし、彼は後にその信仰を捨て「背教」している 1 。この行動は、単なる個人の心変わりとして片付けることはできない。彼の背教は、豊臣秀吉の宗教政策の劇的な転換と軌を一にしている。秀吉は1587年(天正15年)に「伴天連追放令」を発布し、それまでのキリスト教に対する融和的な態度を改め、厳しい弾圧へと舵を切った。喜右衛門が秀吉という新たな権力者に接近し、その庇護のもとで更なる飛躍を遂げようとする過程において、キリスト教信仰はもはや利点ではなく、むしろ障害となり得た。彼の「背教」は、パトロンである秀吉の意向に自らを同調させる、極めて政治的かつ計算高い行動であったと解釈するのが妥当であろう。これは、後にスペイン側が彼を「抜け目のない男」と評した 2 、その性格の一端を早くも示している。

彼のキャリアにおける決定的な転機は、1587年にフィリピンで起きた一つの事件への関与疑惑にある。この年、マニラ周辺の土豪たちが、日本の武士(松浦氏一族と目される)の支援を得て、スペインの植民地支配に対する蜂起を計画した 6 。この未遂に終わった反乱計画に、喜右衛門が何らかの形で関与し、スペイン当局の取り調べを受けた可能性が指摘されている 6 。この事件への関与の深さは定かではないが、彼にとってこれが単なる災難ではなく、千載一遇の好機となったことは間違いない。

この「マニラ土豪蜂起未遂事件」への関与を通じて、彼はフィリピン現地の根強い反スペイン感情、スペインの支配体制に潜む脆弱性、そして何よりもマニラの軍事的防備の実態を、内部から詳細に知る機会を得た。この生々しい「内部情報」こそが、彼のその後の人生を決定づける最大の資産となる。彼はこの経験を元に、後に秀吉に対して「フィリピンは防備が薄く、その征服は容易である」と具体的に進言することになる 2 。この事件を境に、原田喜右衛門は単なる商品を運ぶ貿易商から、地政学的なリスクとチャンスを分析し、それを国家権力に売り込む「情報ブローカー」へと、その本質を大きく変貌させたのである。

第二章:政商への道 ― 豊臣秀吉と「ルソン壺」独占交易

原田喜右衛門が、一介の海外貿易商人から豊臣政権の中枢に食い込む特権商人、すなわち「政商」へと成り上がる過程は、彼個人の才覚と、時代の要請が見事に合致した結果であった。彼が権力中枢への足がかりを掴んだのは、秀吉の寵臣であった長谷川宗仁を介してであった 6 。このパイプを通じて、彼は自らが持つ海外の情報を天下人の耳に入れることに成功する。

彼の政商としての地位を象徴するのが、当時、茶の湯の世界で至上の名物として珍重されていた「ルソン壺」の交易における独占的な特権である。スペイン側の史料、特にフランシスコ会士ペドロ・バウティスタの書簡によれば、秀吉はルソン壺の輸入を、原田喜右衛門と長谷川法眼(宗仁の一族か)の二名に限定し、特許状(スペイン語史料ではchapa)を与えていた 5 。さらに秀吉は、この二名にマニラへ向かう全ての日本船を監視させ、許可(licencia)なく渡航する者があれば死罪に処すという、極めて厳しい命令を下していた 5 。これは、他の商人たちの参入を完全に排除する強力な独占権であり、喜右衛門の経済的基盤の中核を成すものであった。

この「ルソン壺」独占権は、単なる経済的利益の供与に留まるものではなかった。フィリピンでは安価な雑器であった壺が、日本では宝石同様の高値で取引された 5 。秀吉にとって、この希少な名物を誰に下賜するかは、茶の湯文化を通じて大名たちを統制するための重要な政治的道具であった。喜右衛門は、その供給源を独占的に担うことで、秀吉の権力構造の末端に、しかし不可欠な部品として組み込まれたのである。彼の地位は、秀吉の文化政策と対外政策が交差する、極めて戦略的な一点に確立されていた。

この特権を背景に、喜右衛門はその影響力をさらに拡大させる。彼は、肥後の加藤清正や薩摩の島津義弘といった、海外交易に強い関心を持つ西南の大名たちに接近し、彼らのフィリピン貿易を「斡旋」する役割も担った 6 。これは、彼が秀吉の代理人として振る舞い、大大名に対しても優位な立場で交渉を進めることを可能にした。彼の力は、単に商品を右から左へ動かす能力ではなく、秀吉の政治的・文化的権威を背景に、希少品の流通を支配する能力にこそ由来していた。

こうした活動を通じて、彼は莫大な富を築き上げた。その財力は、一時期、後に長崎代官として権勢を振るうキリシタン豪商の村山等安や、朱印船貿易で巨利を得た末次平蔵に匹敵するほどであったと評価されている 6 。原田喜右衛門は、秀吉の個人的な欲望と政治的野心、そして大名たちの経済的欲求が渦巻く中で、それらを巧みに結びつけ、自らの利益を最大化する稀代の政商として、その地位を磐石なものにしたかに見えた。

第三章:フィリピン招撫交渉の黒幕 ― 外交舞台での暗躍

原田喜右衛門の名を歴史に深く刻み込んだのは、豊臣秀吉によるフィリピン(呂宋)への入貢要求、いわゆる「フィリピン招撫事件」における彼の暗躍であった。彼はこの一連の外交交渉において、単なる使者ではなく、計画そのものを秀吉にそそのかした「黒幕」的な存在として立ち回った 6

全ての始まりは、喜右衛門が秀吉に対し、フィリピン征服を提言したことにあった。彼は自らがマニラで見聞した情報に基づき、スペインの支配が脆弱であり、容易にこれを征服できると進言したのである 2 。天下統一を成し遂げ、その有り余るエネルギーの矛先を海外に向けていた秀吉にとって、この提案は渡りに船であった。

1592年(天正20年)、秀吉の入貢要求国書を携えた最初の使節団がマニラへ派遣される。しかし、この使節の正使は喜右衛門自身ではなく、彼の手代(一族ともされる)である原田孫七郎であった 6 。孫七郎はスペイン語に堪能な人物で 9 、交渉の実務を担うには適任だったが、喜右衛門が当初、自ら矢面に立たなかった点には注意が必要である。これは、交渉の初期段階で自らの手を汚さず、状況を外部から冷静に観察し、操作しようとする彼の計算高い戦略であった可能性が考えられる。

突然の、そして高圧的な日本の要求に対し、フィリピン総督ゴメス・ペレス・ダスマリーニャスは驚きつつも、慎重に対応した。彼は事態の真意を探るため、ドミニコ会士のフアン・コボを答礼使として日本へ派遣することを決定する 2 。コボは名護屋城で秀吉に謁見し、両国間の緊張は一時的に緩和されるかに見えた。

そして、このコボがフィリピンへ帰国する際に、原田喜右衛門はついに自らが表舞台に登場する。彼はコボに同行する形で、秀吉からの第二次使節として、1593年(文禄2年)4月、マニラに到着した 2 。しかし、ここで予期せぬ事態が発生する。交渉のキーパーソンであったコボが、帰途、台湾沖で嵐に遭い、遭難死してしまったのである 2 。この悲劇は、両国間の対話の継続性を著しく困難にした。

喜右衛門にとって、コボの死は交渉をリセットし、より強硬な路線を秀吉に進言する好機となったかもしれない。彼はマニラにおいて、フィリピン側の防備の脆弱さを改めて秀吉に報告し、軍事侵攻の選択肢をちらつかせながら、スペイン側を揺さぶった。

これに対し、スペイン側は新たにフランシスコ会士のペドロ・バウティスタを第二次答礼使として日本に派遣した。バウティスタは秀吉に対し、フィリピン総督は神とスペイン国王にのみ臣従するとして「朝貢」は断固として拒否する一方、「友好関係」の継続は望むという、毅然としつつも柔軟な姿勢を示した。驚くべきことに、スペイン側の史料によれば、秀吉はこの提案に対し、激高することなく非常に冷静に応じたとされる 5

この一連の交渉過程における喜右衛門の行動は、秀吉の意を忠実に実行する使者のそれとは明らかに一線を画す。彼は自ら外交案件を創出し、交渉を意図的にきわどい方向へと導き、最終的には軍事侵攻の口実を作り出すことで、征服が実現した暁の権益を最大化しようとしていた。彼の目的は平和的な国交樹立ではなく、外交を手段として戦争を誘発することにあった。その意味で、彼は「外交官」ではなく、むしろ「戦争商人(ウォー・モンガー)」に近い役割を演じていたと言えるだろう。

第四章:征服の野望 ― マニラ偵察と台湾遠征計画

原田喜右衛門の活動は、外交交渉という表の舞台に留まらなかった。その水面下では、具体的な軍事行動を視野に入れた、より壮大な野望が渦巻いていた。彼の暗躍は、マニラの軍事偵察と、台湾を巻き込んだ広域的な征服計画という二つの側面から明らかになる。

喜右衛門は、秀吉の使者としてマニラに滞在した際、その機会を最大限に活用して諜報活動に従事した。彼は、マニラ市の城塞が未完成であることなど、防衛体制に重大な欠陥があることを見抜き、その脆弱性を詳細にわたって秀吉に報告した 2 。この事実は、当時のフィリピンの司法長官(アウディトール)であったアントニオ・デ・モルガが著した『フィリピン諸島誌』にも、「策略家で大胆な」喜右衛門がマニラの防備の弱さを探索して知った、と明記されており 8 、彼の行動がスペイン側にとっても重大な脅威と認識されていたことを示している。

彼がフィリピン侵攻を煽った背景には、経済的な動機付けもあった。当時、フィリピンは「黄金豊富な国」であるという言説が流布しており、喜右衛門はこれを巧みに利用した 3 。文禄・慶長の役で疲弊し、士気の低下が見られた日本の兵士たちに対し、「貧しい国である朝鮮」ではなく、遥かに大きな富が眠るフィリピンへと関心を向けさせることで、秀吉の対外膨張政策に新たな推進力を与えようとしたのである 11 。これは、新たな「儲け話」を提示することで戦争を継続させようとする、彼の戦争商人としての一面を如実に示している。

さらに、喜右衛門の地政学的な構想は、フィリピン単体の征服に留まるものではなかった。彼はフィリピン招撫と並行して、台湾(当時の呼称では高山国)を征服する計画を秀吉に進言し、自らも深く関与していた 6 。彼は台湾を、フィリピン侵攻における重要な「中継地」と位置づけていた 6 。これは、兵站線確保や貿易のハブ拠点としての台湾の戦略的価値を、彼が正確に認識していたことを意味する。実際に、彼の配下である原田孫七郎は、秀吉の国書を携えて台湾へも派遣されたが、当時の台湾には統一された政権が存在せず、交渉相手を見つけることができずに計画は失敗に終わった 9

フィリピンと台湾への関与は、それぞれが独立した案件ではなく、一つの壮大な戦略の下で連動していた。喜右衛門が秀吉に提示したのは、朝鮮半島とは全く別の、南シナ海への覇権拡大という新たな征服ルートであった。彼は、東アジアから東南アジアに至る広大な海域を一つの舞台と捉え、そこで日本の覇権を確立し、自らがその中心的な担い手として巨万の富と権力を手にするという、壮大な野望を抱いていた。彼は単なる一地域の専門家ではなく、秀吉の帝国構想に南方からの視点を提供した、戦略アドバイザーとしての役割を果たしていたのである。

第五章:人物評と末路 ― スペイン史料が描く「腹黒い男」の肖像

原田喜右衛門という人物の複雑な性格と、その劇的なキャリアの結末を理解するためには、彼と直接対峙したスペイン側の史料に残る人物評が不可欠である。特に、同時代に日本に滞在したスペイン人商人アビラ・ヒロンの記述は、喜右衛門の人物像を鮮烈に描き出している。

アビラ・ヒロンは、喜右衛門を「極めて聡明で抜け目のない、腹黒い、目はしのきく男」と、その知略と油断のならなさを高く評価しつつも、強い警戒感を込めて評している 2 。また、フィリピンの司法長官であったモルガも、彼を「策略家で大胆」と記しており 8 、彼が交渉相手に与えた印象は、一貫して「知的で危険な人物」というものであったことがうかがえる。彼の行動は、常に計算され、自らの利益を最大化するという明確な目的意識に貫かれていた。

しかし、アビラ・ヒロンは同時に、彼の意外な一面も伝えている。それによれば、喜右衛門は「裕福な商人であったが、浪費好きで、身分不相応に見栄を張り、破産していた」というのである 2 。一見すると、「聡明で抜け目のない」策略家という評価と、「浪費家で破産した」という評価は矛盾しているように思える。しかし、この二つの評価は、彼のビジネスモデルそのものの特質を考えるとき、矛盾なく結びつく。

彼の「見栄」や「浪費」は、単なる個人的な欠点や性格的な弱さではなかった可能性が高い。それは、自らを天下人の対外政策を動かす大物政商として周囲に認識させ、その政治的影響力を維持するための、計算された「投資」であり「必要経費」であった。彼のビジネスは、通常の交易のように商品の差益で利益を積み上げるものではなく、国家プロジェクトである「フィリピン征服」を成功させ、その利権を独占するという、極めてハイリスク・ハイリターンな賭けであった。もし彼の計画が成功していれば、その先行投資は何倍、何十倍にもなって回収できたはずである。

しかし、彼の賭けは失敗に終わる。日比間の外交交渉は膠着し、彼が煽った征服計画は実現しないまま、彼の唯一無二のパトロンであった豊臣秀吉が1598年(慶長3年)にこの世を去った 6 。これにより、喜右衛門の収入源と政治的な後ろ盾は、一夜にして完全に断たれた。その結果、自らを大きく見せるための先行投資であった「浪費」は、回収不能の莫大な負債となって彼にのしかかった。彼は全財産を失い、あれほど執着したフィリピン貿易からも撤退せざるを得なくなった 2

彼の最期は、そのパトロンであった秀吉とほぼ時を同じくして、1598年頃に亡くなったと伝えられている 6 。彼の劇的な成功と没落の物語は、彼の類稀なる野心と知略、そしてそのキャリアがいかに秀吉という一個人の権力に脆弱に依存していたか、その両方を雄弁に物語っている。

第六章:歴史的文脈の中での位置づけと比較

原田喜右衛門という人物の特異性をより深く理解するためには、彼を同時代の類似の人物と比較し、また、調査過程で散見される無関係な情報を明確に峻別することが有効である。

呂宋助左衛門との比較

安土桃山時代、フィリピン(呂宋)との貿易で巨万の富を築いた商人として、原田喜右衛門としばしば比較、あるいは混同されるのが、堺の商人・呂宋助左衛門(本名:納屋助左衛門)である 12 。しかし、両者の活動内容と権力へのアプローチは、似て非なるものであった。

呂宋助左衛門は、和泉国堺を拠点とする商人であった 12 。彼はルソンから持ち帰った珍しい壺(ルソン壺)や麝香などを秀吉に献上することで、その寵愛を受け、日本屈指の豪商へと成り上がった 14 。しかし、彼のあまりに豪奢な生活が秀吉の不興を買い、財産没収の危機に瀕する。助左衛門は機先を制し、全財産を堺の大安寺に寄進して、自らは再びルソンへと姿を消したと伝えられる 14 。彼の物語は、権力者との適切な距離感を見誤った豪商の栄枯盛衰として語られることが多い。

これに対し、原田喜右衛門は長崎を拠点とし、その活動は単なる貿易に留まらなかった。彼は「モノ」の献上を通じて権力者に奉仕した助左衛門とは異なり、「情報」(マニラの防備体制)と「計画」(フィリピン・台湾征服)を提供することで、秀吉の対外政策そのものを動かそうとした 6 。彼の関心は、個人的な富の蓄積以上に、国家の軍事・外交政策に深く関与し、それを主導することにあった。助左衛門の没落が「個人的な奢侈」を理由とするのに対し、喜右衛門の没落は、自らが推進した「政治的プロジェクト」の頓挫と、パトロンの死という、より構造的な要因に起因する。

この二人の比較は、安土桃山時代の「政商」が持った二つの異なる類型を浮き彫りにする。一方は「文化・経済」の領域で権力者に奉仕し、その機嫌一つで浮沈するタイプ(呂宋助左衛門)。もう一方は、「外交・軍事」という国家の根幹に関わる領域にまで踏み込み、国策そのものを動かすことで自らの野心を実現しようとし、その壮大な計画の失敗と共に破滅するタイプ(原田喜右衛門)。この対比を通じて、喜右衛門の野心の特異性と、その活動の危険性が一層際立つのである。

無関係な「原田」姓の人物の峻別

歴史上の人物を調査する際には、同姓の別人との混同を避けることが不可欠である。本報告書の調査過程においても、原田喜右衛門とは時代や活動内容が全く異なる複数の「原田」姓の人物が確認された。これらは本報告書の主題とは一切関係がないことを、ここに明確にしておく。

  • 原田甲斐(宗輔) : 江戸時代前期の仙台藩伊達家の奉行。伊達騒動(寛文事件)の中心人物として知られる 17
  • 原田左之助 : 幕末の新選組十番隊組長。槍の名手として知られる 17
  • 原田敬(はらたかし) : 明治・大正期の政治家。平民宰相として知られる 6
  • その他 : 会津藩家老の原田種龍、一関藩士の原田貞(忠)臣など、多くの同姓の人物が存在する 17

これらの人物と原田喜右衛門を混同することなく、安土桃山時代にフィリピンとの間で暗躍した貿易商人に焦点を絞ることが、彼の正確な実像を理解する上で極めて重要である。

結論:原田喜右衛門が歴史に残した功罪

原田喜右衛門の生涯を多角的な史料から再構築する作業は、彼が単に豊臣秀吉の膨張主義的な野心に便乗した手駒ではなかったことを明らかにした。彼は、自らが持つ海外情報と策略を武器に、天下人である秀吉を焚きつけ、日本とスペイン領フィリピンとの関係を意図的に緊張状態へと導いた、能動的な扇動者であった。彼の進言がなければ、秀吉の関心がフィリピンにまで及んだか、あるいは、あれほど高圧的な形での交渉が開始されたかは定かではない。

彼の暗躍がもたらした影響は、決して小さくはない。彼が主導した一連の威圧的な外交は、スペイン側に日本に対する強い警戒感と不信感を植え付けた。この不信の土壌が、結果的にスペイン系の修道会であるフランシスコ会の日本進出を促し、ポルトガル系のイエズス会との対立を激化させる一因となった。そして、この対立と不信の連鎖は、1596年(慶長元年)のサン=フェリペ号事件へと繋がっていく。漂着した船の乗組員が「スペインは宣教師を尖兵として領土拡大を行う」と発言したとされるこの事件は、秀吉を激怒させ、翌年の二十六聖人の殉教という悲劇を引き起こした。原田喜右衛門が作り出した緊張関係が、この悲劇の遠因の一つとなったことは否定できない 6

原田喜右衛門は、その野望を実現することなく、歴史の舞台から姿を消した。しかし、彼の生涯は、日本の歴史が大きな転換点を迎えた時代の、一つの重要な側面を象徴している。天下統一によって国内に向けられていたエネルギーが、制御不能な形で海外へと溢れ出した時代。その中で、一個人の野心が国家の政策と結びつき、国際関係を大きく揺るがした典型例が、彼の物語であった。

彼は、近世初期における「国際的政商」の先駆者であり、同時にその計り知れない可能性と、権力に依存することの危うさを一身に体現した人物であった。彼の名は、呂宋助左衛門のような華々しさをもって語られることは少ない。しかし、日本が「世界」とどのように向き合おうとしたのか、その対外関係史の黎明期における野心と挫折の物語を考える上で、原田喜右衛門という「腹黒い」策略家の存在は、決して忘却されてはならないのである。

引用文献

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  7. 1592年 – 96年 文禄の役 | 戦国時代勢力図と各大名の動向 https://sengokumap.net/history/1592/
  8. スペインの世界戦略に挑戦する日本国王・豊臣秀吉 - 別府大学 http://repo.beppu-u.ac.jp/modules/xoonips/download.php?file_id=10399
  9. 原田孫七郎- 維基百科,自由的百科全書 https://zh.wikipedia.org/zh-tw/%E5%8E%9F%E7%94%B0%E5%AD%AB%E4%B8%83%E9%83%8E
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