最終更新日 2025-07-09

原種良

福岡藩重臣 原種良 ― 激動の時代を生きた武将の実像

序章:黒田二十四騎、寡黙なる智勇の将

黒田家の草創期を支えた精鋭家臣団は、後世「黒田二十四騎」として語り継がれている 1 。その一人に、原種良(はら たねよし)という武将がいた。彼は、母里友信や後藤基次のような豪勇で知られた武将たちと並び称されるが、その人物像は「寡黙で実直」と伝えられ、一際異彩を放っている 3

本報告書は、利用者より提示された「豊前の豪族・宝珠山氏の出」「九州征伐での案内役」「関ヶ原合戦での活躍」といった情報を基点としつつ、それに留まらない原種良の生涯の全体像を、現存する資料を基に多角的に再構築するものである。彼の出自の背景から、黒田家に仕官し武功を重ねた戦国期の半生、そして福岡藩の礎を築いた江戸時代初期の活動、さらには連歌を嗜んだ文化人としての一面に至るまで、その83年の生涯を詳細に追跡する。

特筆すべきは、彼の人物像が、武勇を誇る「武」の側面と、連歌を嗜む「文」の側面を兼ね備えていた点である 3 。彼の生涯は、戦国乱世の終焉から徳川幕藩体制の確立という、日本史の大きな転換期と完全に重なっている。それゆえ、一人の武将の人生を深く掘り下げることは、そのまま時代の変遷と、その中で武士に求められた役割の変化を理解する一助となるであろう。彼のキャリアは、戦国時代の「実力主義」から江戸時代の「忠誠と奉公」へと価値観が移行する過渡期において、地方豪族出身者がいかにして新時代に適応し、立身出世を遂げたかを示す、一つの理想的なモデルと言える。

本論に入る前に、原種良の生涯を概観するため、以下の年表を提示する。

表1:原種良 年表

年代(西暦)

年齢

主な出来事

天文23年(1554年)頃

0歳

豊前国にて、大友家臣・宝珠山隆信の子として生まれる(没年から逆算)。

天正14年(1586年)

33歳

豊臣秀吉の九州平定が開始。黒田孝高(官兵衛)に人質として出され、案内役を務める 3

天正15年(1587年)

34歳

黒田家の正式な家臣となる。この際、「宝珠山」から「原」へ改姓。城井谷攻めに従軍し、武功を立てる 3

文禄・慶長の役(1592-1598年)

39-45歳

黒田軍の一員として朝鮮へ出兵する 3

慶長5年(1600年)

47歳

関ヶ原の戦いにおいて、黒田如水(官兵衛)に従い九州で戦う。安岐城攻めで功を上げ、200石の加増を約束される 3

慶長7年(1602年)

49歳

黒田家の筑前入国に伴い、鞍手郡にて2,000石を拝領する 3

慶長14年(1609年)

56歳

福岡城の城代に就任する 3

慶長20年(1615年)

62歳

大坂城外堀の埋め立て普請に参加する 3

元和6年(1620年)

67歳

遠賀郡堀川の開削工事の奉行を命じられる(翌年、黒田長政死去により中止) 3

寛永10年(1633年)

80歳

黒田騒動後、栗山利章に代わり左右良城(麻底良城)の押さえを任され、「伊予守」を称する 3

寛永16年(1639年)

86歳

隠居し、孫の種常に家督を譲る。「樹中庵」と号す。同年10月26日、死去 3

第一章:出自と黒田家仕官の背景 ― 豊前の豪族、宝珠山氏

原種良のアイデンティティと彼の生涯の方向性を決定づけたのは、その出自と、彼が生きた時代の九州北部の複雑な政治情勢であった。彼が黒田官兵衛にとってなぜ重要な存在となり得たのかを理解するためには、まず彼が生まれた「宝珠山氏」とその背景を深く知る必要がある。

1-1. 宝珠山氏の出自と勢力圏

原種良の父は、宝珠山隆信といい、九州北部に広大な勢力圏を誇った豊後の戦国大名・大友宗麟の家臣であった 1 。宝珠山氏は、豊前国と筑前国の国境地帯、現在の福岡県東峰村宝珠山一帯を本拠とした国人衆、いわゆる地方豪族である 1 。この地域は、西の筑前国を支配する秋月氏と、東の豊後国を支配する大友氏という二大勢力が絶えず衝突する、地政学的に極めて重要な係争地であった 6 。宝珠山氏は、このような大国の狭間で、ある時は大友氏に属し、またある時は秋月氏との関係を保ちながら、巧みに勢力を維持していたと考えられる 6

また、種良の出自は「筑前国原田氏の一族」とも伝えられており 3 、これは戦国期の地方豪族が、婚姻や養子縁組を通じて複雑な縁戚関係を構築し、生き残りを図っていたことを示唆している。

1-2. 時代の転換点 ― 九州平定

天正14年(1586年)、天下統一を目前にした豊臣秀吉は、島津氏の勢力拡大を抑えるべく、九州平定の大軍を派遣した。この中央からの巨大な権力の介入は、九州の勢力図を根底から覆す、まさに時代の転換点であった。この大事業において、羽柴(豊臣)秀吉の参謀として軍の先導役を任されたのが、黒田官兵衛(孝高)であった 10 。官兵衛の任務は、単に軍事的に敵を制圧するだけでなく、現地の諸勢力を巧みに調略し、秀吉方に組み込むことにあった 10 。そのためには、敵味方が入り乱れる複雑な地形と、各豪族間の力関係や人間関係を熟知した案内役が不可欠であった。

1-3. 人質から腹心へ

この歴史的な局面において、原種良は父・隆信の方針により、黒田孝高のもとへ人質として差し出された 1 。しかし、彼の価値は単なる人質としての身柄に留まらなかった。大友・秋月の緩衝地帯に生まれ育ち、その地域の地理や人脈に精通していた彼は、官兵衛にとってまさに「生きた情報源」であった。官兵衛は彼の持つ情報的価値を即座に見抜き、彼を「案内役」として抜擢したのである 3 。これは、官兵衛の戦略的思考と、種良が持つ固有の価値が見事に合致した瞬間であった。九州平定が完了した翌年の天正15年(1587年)、種良はこれまでの働きを評価され、正式に黒田家の家臣として召し抱えられることとなった 3

1-4. 改姓の逸話

黒田家への仕官に際し、種良は姓を「宝珠山(ほうしゅやま)」から「原(はら)」へと改めた。その理由として「姓の読みが長い」ためであったという逸話が伝えられている 3 。この改姓は、表向きは実用的な理由によるものかもしれないが、その背後にはより深い意味合いを読み取ることができる。これは、彼が「豊前の豪族・宝珠山」という旧来の地域的アイデンティティを清算し、「黒田家臣・原」として、黒田家への完全な帰属を誓う象徴的な行為であった。主君の官兵衛もまた、この改姓を認めることで、彼を新参者としてではなく、譜代の家臣同様に扱うという意思表示をしたと解釈できよう。こうして、原種良は新たな主君のもとで、武将としてのキャリアを本格的に歩み始めるのである。

第二章:黒田家臣としての武功 ― 乱世を駆け抜けた半生

黒田家の家臣となった原種良は、戦国時代の終焉から関ヶ原の戦いに至る激動の時代の中で、数々の戦功を立て、家臣団における地位を不動のものとしていった。彼の武功は、黒田家の歴史における重要な節目と密接に連動しており、その働きは高く評価された。

2-1. 初陣 ― 城井谷攻め(天正15年/1587年)

九州平定後、黒田官兵衛・長政親子は豊臣秀吉から豊前国のうち六郡を与えられ、中津城を本拠とした 10 。しかし、その統治は当初から困難を極めた。豊前の有力国人であった城井鎮房(宇都宮鎮房)が、秀吉の国替え命令に反発し、黒田氏に抵抗したのである。これが「城井谷攻め」である。

原種良は、黒田家臣となって早々、この重要な戦いに従軍した。記録によれば、彼はこの戦いにおいて、神楽山城の防衛や、城井氏の重要拠点である雁股ヶ岳城への攻撃で目覚ましい活躍を見せたという 3 。新参者であった彼にとって、この戦いは自らの武勇と黒田家への忠誠を主君に示す絶好の機会となった。この初陣での功績により、彼は家臣団の中で確かな一歩を記したのである。

2-2. 大陸への出兵 ― 文禄・慶長の役

その後、原種良は豊臣秀吉による朝鮮出兵(文禄・慶長の役)にも、黒田軍の一員として従軍している 3 。この大規模な外征における彼の具体的な戦功を記した詳細な資料は現存しないものの、黒田長政率いる主力が数々の激戦を繰り広げた中で、彼もまた異国の地で奮戦したことは想像に難くない。この過酷な戦役への参加経験は、彼の武将としての視野を広げ、その後のキャリアを形成する上で重要な意味を持ったであろう。

2-3. 天下分け目の戦い ― 関ヶ原と九州

慶長5年(1600年)、豊臣秀吉の死後、天下の覇権を巡って徳川家康率いる東軍と石田三成率いる西軍が激突する関ヶ原の戦いが勃発した。藩主の黒田長政は、早くから家康に与することを決め、主力部隊を率いて東軍本隊に参加。関ヶ原の本戦では、小早川秀秋の寝返り工作を成功させるなど、東軍勝利に多大な貢献をした 13

一方、豊前中津城では、家督を長政に譲って隠居していた父・黒田如水(官兵衛)が、この機を「天の与えた好機」と捉え、独自の行動を開始した。彼は蓄えていた金銀を放出して浪人たちを雇い入れ、瞬く間に大軍を組織。九州に割拠する西軍方の諸大名を次々と攻略し、天下を窺うという壮大な戦いを繰り広げたのである 12

この「九州の関ヶ原」とも呼ばれる戦いにおいて、原種良は長政の軍には加わらず、如水の軍に属して戦った。これは、彼が官兵衛(如水)に直接見出され、その信頼が特に厚かったことを物語っている。彼は如水軍の中核的な武将として、豊後国(現在の大分県)へ進軍。西軍に与してお家再興を目指す大友義統の軍勢と対峙した 11 。特に、大友方の重臣・熊谷直盛が籠城する安岐城(大分県国東市)を攻め落とす戦いでは、目覚ましい功績を上げた。この働きが如水に高く評価され、戦後200石の加増が約束されたのである 3

彼のキャリアの始点が、官兵衛(如水)による「案内役」としての抜擢であったことを考えれば、この天下分け目の大戦において、如水が最も信頼する家臣の一人として傍らで戦ったことは、両者の間に結ばれた個人的な信頼関係の深さを如実に示している。

第三章:福岡藩における活躍と役割 ― 筑前の国づくり

関ヶ原の戦いが徳川方の勝利に終わると、戦乱の時代は終焉を迎え、日本は新たな統治体制へと移行した。黒田長政は関ヶ原での大功により、筑前一国52万石を与えられ、福岡藩が誕生した 11 。これ以降、原種良の役割も、戦場での武功から、藩の統治を支える行政官、技術官僚へとその重心を移していく。

3-1. 福岡藩士としての地位と知行

筑前に入国後、原種良はこれまでの功績を高く評価された。慶長7年(1602年)、彼は筑前国鞍手郡において2,000石の知行を与えられた 3 。これは、安岐城攻めの際に約束された200石の加増をはるかに上回るものであり、黒田家がいかに彼の働きに報いたかを示している。その後、慶長16年(1611年)には、領地が夜須郡・下座郡に移されている 3

3-2. 藩政の中枢へ ― 福岡城代

慶長14年(1609年)、原種良は福岡藩の政治・軍事の中心である福岡城の城代に任命された 3 。城代とは、藩主が江戸参勤などで不在の際に、城の防衛と藩政の全権を預かる極めて重要な役職である。この大役を任されたことは、彼が武勇のみならず、統率力、判断力、そして何よりも絶対的な忠誠心を持つ人物として、藩主・長政から絶大な信頼を得ていたことの証左に他ならない。

3-3. 国家事業と藩の土木開発

江戸時代に入り、武士の役割は戦から治世へと変化した。原種良もまた、この時代の要請に応え、多方面でその能力を発揮した。慶長20年(1615年)、大坂冬の陣の後、徳川幕府は豊臣家の力を削ぐため、大坂城の外堀を埋め立てる大規模な「公儀普請」を全国の諸大名に命じた。原種良もこの工事に参加しており 3 、藩を代表して国家事業に貢献した。

さらに、元和6年(1620年)には、藩主・黒田長政から、野村祐直、野口一吉といった重臣たちと共に、遠賀郡における「堀川」の開削工事の奉行を命じられている 3 。これは、領内の舟運を改善し、物資輸送を円滑化することを目的とした大規模な土木事業であった。この事業は、翌年に長政が死去したため中止となってしまったが、原種良が軍事だけでなく、民政や土木技術の分野においてもその手腕を期待されていたことを示している。

3-4. 藩の危機管理 ― 黒田騒動後の重責

原種良のキャリアの頂点であり、その人物評価を最も象徴する出来事が、寛永10年(1633年)に起こった「黒田騒動」後の重責である。この事件は、二代藩主・黒田忠之の素行を巡り、筆頭家老の栗山大膳(利章)が藩主を幕府に訴え出るという、藩がお取り潰しの危機に瀕した前代未聞の内紛であった 1

幕府の裁定により騒動は収束したが、栗山大膳は改易処分となった。問題は、大膳が城主を務めていた朝倉郡の左右良城(麻底良城)の処遇であった 1 。ここは藩の要衝であり、失脚した大膳の旧領であるため、人心も動揺していた。ここに野心的な人物や特定の派閥に属する者を配置すれば、新たな火種となりかねない。藩の上層部が求めたのは、絶対的な忠誠心を持ち、私心なく任務を遂行できる、誰からも信頼される人物であった。

この未曾有の危機において白羽の矢が立ったのが、当時80歳になろうとしていた老臣・原種良であった 3 。彼は栗山利章に代わって左右良城の「押さえ」を任され、この時、名誉ある「伊予守」の官途名を称することを許された 3 。この任命は、単なる軍事的な城の管理ではない。旧栗山領の動揺を鎮め、人心を安定させるという、極めて高度な政治的任務であった。彼の「寡黙で実直」という評価は、この非常時において最大の強みとなったのである。特定の派閥に与することなく、ただ黒田家への奉公一筋に生きてきた彼の「人格」そのものが、藩の危機を救うために最も必要とされたのであった。

第四章:人物像と文化的側面 ― 武人にして文化人

原種良の生涯を追うと、武功や政務における実直な働きぶりと共に、彼の深い内面性を示す文化的な側面が浮かび上がってくる。武辺一辺倒ではない、深みのある人物像は、戦国から江戸初期を生きた武士の理想像の一つを体現している。

4-1. 「寡黙で実直」な人柄

複数の資料において、原種良の人柄は「寡黙で実直」であったと共通して伝えられている 3 。この人物評は、彼の生涯の行動原理を解き明かす鍵となる。彼は言葉を飾ることなく、与えられた任務を黙々と、そして確実に遂行するタイプの人間であったのだろう。城井谷攻めでの武功、福岡城代としての勤め、そして黒田騒動後の難局処理といった彼の経歴は、派手さはないものの、着実な働きぶりによって長期的な信頼を勝ち取っていったことを物語っている。この実直さこそが、主君や同僚から絶対的な信頼を寄せられる礎となったのである。

4-2. 戦国武将の教養 ― 連歌の世界

この寡黙な武人が、実は風雅な文芸の世界にも通じていたという事実は、彼の人物像にさらなる奥行きを与える。原種良は、当代随一の連歌師であった里村昌琢(さとむら しょうたく)に師事し、連歌を嗜んだと記録されている 3 。里村昌琢は、戦国連歌の第一人者・里村紹巴の孫にあたり、祖父の没後は連歌界の指導者として広く知られた人物であった 19

当時の武家社会において、和歌や連歌は単なる趣味や娯楽ではなかった。それは武士にとって必須の教養であり、社交の場における重要なコミュニケーションツールであった 21 。連歌会は、主君や同僚、他家の大名との交流の場であり、情報交換や外交交渉、時には戦勝祈願や追善供養といった宗教的な意味合いをも持つ、多機能な文化的装置だったのである 23

原種良の主君である黒田如水自身も、連歌を深く愛好した文化人であり、里村紹巴の娘婿である里村昌叱や、その孫である昌琢に自作の連歌の添削を依頼するなど、深い交流があったことが知られている 19 。主君が持つ高い文化的素養は、原種良を含む家臣たちにも大きな影響を与えたと考えられる。彼が連歌を学んだ背景には、この主君との精神的な結びつきを深めたいという動機があったのかもしれない。

彼の「寡黙さ」と連歌への傾倒は、一見矛盾しているように見えるかもしれない。しかし、むしろ逆の解釈が可能である。連歌は、参加者が五七五の長句と七七の短句を交互に詠み継いでいく共同作業であり、場の空気を読み、前の句の世界観を受け止め、そして自らの教養と感性を示す一句を返すという、極めて高度なコミュニケーションが求められる。多弁に頼らずとも、洗練された一句をもって自らの存在感や内なる思いを示すことができる連歌は、「寡黙」な彼にとって、自己を表現し、他者と深く交わるための最適な手段であったのかもしれない。それは、彼の文化活動が単なる趣味ではなく、武士としてのキャリアを補完し、より強固なものにするための、実直な彼らしい自己研鑽の一環であったと見ることができるだろう。

第五章:晩年と後世への継承

80歳を超えてなお藩の重責を担った原種良は、その役目を果たした後、穏やかな晩年を迎え、長い生涯を閉じた。彼の名は、その死後も福岡藩の歴史の中で語り継がれていくことになる。

5-1. 穏やかな晩年

寛永16年(1639年)、左右良城の押さえという大役を終えた原種良は、86歳(数え年か)で隠居した。家督は、息子の種盛や与六ではなく、孫の種常に譲っている 3 。その詳しい経緯は資料に残されていないが、息子が早世していたか、あるいは孫の器量を見込んでのことだったのかもしれない。隠居後は「樹中庵」と号し、静かな余生を送った 3 。そして同年10月26日、戦国から江戸初期という激動の時代を駆け抜けた武将は、その長い生涯に幕を下ろした 3

5-2. 墓所と盟友

原種良の墓は、福岡市博多区にある臨済宗の寺院、順心寺に現存する 2 。この順心寺は、福岡藩初代藩主・黒田長政によって庇護された聖福寺の塔頭(付属寺院)の一つであった 2 。興味深いことに、彼の墓の隣には、同じく黒田二十四騎の一人である菅正利(かん まさとし)の墓が並んで建てられている 2 。菅正利もまた、幼少期から官兵衛の小姓として仕え、数々の戦で活躍した歴戦の勇士であった。二人が生前、どのような関係にあったかを直接示す記録はないが、同じ寺に隣り合って眠るその姿は、共に黒田家を支えた盟友としての深い絆を後世に伝えている。

5-3. 後世の評価 ― 「黒田二十四騎」として

原種良の名は、彼の死後、福岡藩の歴史が語られる中で、不滅のものとなった。江戸時代中期、福岡藩の儒学者であった貝原益軒が藩命により『黒田家譜』や『筑前国続風土記』といった藩の公式な歴史書を編纂した 1 。これらの書物や、藩の創業期を記念して描かれた「黒田二十四騎図」などを通じて、原種良は黒田家を支えた忠臣・功臣の一人として、その名が広く顕彰されていったのである 1

彼の生涯は、福岡藩がその草創期の記憶を「物語」として後世に伝える上で、理想的な家臣像として格好の題材であった。九州の在地豪族出身者が、藩祖・如水に見出されて忠誠を誓い、数々の武功を立て、新藩主・長政の下でも重用され、藩の危機に際しては老齢の身を挺して奉公し、長寿を全うしたという物語は、まさに忠臣伝の王道である。特に、元は大友家臣であった彼が黒田家への忠臣へと転身した経歴は、黒田家の徳の高さを象徴するエピソードとして、藩の歴史叙述の中で積極的に語り継がれたと考えられる。我々が今日知る原種良の姿は、史実を基にしつつも、福岡藩という共同体が理想とする「家臣像」が投影され、形成されてきたものと理解することができよう。

終章:原種良という武将が現代に伝えるもの

原種良の生涯を総括すると、彼は戦国から江戸初期という日本史の大きな転換点を、見事に生き抜いた武将であったと言える。豊前の地方豪族の一員から、筑前52万石の大大名の重臣へと駆け上がった彼の人生は、時代の変化を的確に読み、自らの持つ価値、すなわち地理的知識、武勇、そして何よりも揺るぎない忠誠心と実務能力を、時々の主君に対して示し続けた、卓越した適応能力の賜物であった。

彼の活躍の場は、戦場だけに留まらなかった。福岡城代としての藩政運営、堀川開削のような土木事業、そして連歌を通じた文化活動に至るまで、その活動は多岐にわたる。その姿は、戦乱が終息した後に武士に求められた、武勇と教養を兼ね備えた「文武両道」の理想像を体現している。

彼の「寡黙で実直」な生涯は、後藤基次や母里友信のような派手な英雄物語とは一線を画す。しかし、組織を根底から支える人材の重要性と、誠実な奉公が最終的にいかに大きく、そして永続的な信頼を勝ち得るかという、時代を超えた普遍的な教訓を我々に伝えている。原種良という一人の武将の生き様は、華々しい成功の陰で、黙々と自らの職責を全うし続けた人々の尊さを、静かに、しかし力強く物語っているのである。

引用文献

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