本報告書は、日本の戦国時代に活動した武将、及川頼家(おいかわ よりいえ)に関する調査結果をまとめたものである。調査の出発点として、利用者より提供された「葛西家臣。柏木城主。沖田及川党の頭領。1559年、千葉三郎信近と争い、これがきっかけで柏木城事件が発生。大原氏により及川党は討伐された」という情報がある。本報告書は、提供された史料群を基に、及川頼家の実像、彼が関与したとされる「及川騒動」(柏木城事件)、そしてその歴史的背景を明らかにすることを目的とする。
及川頼家が活動したとされる16世紀半ばの陸奥国、特に葛西氏の支配領域は、戦国時代の動乱期を象徴するような状況下にあった。葛西氏は、鎌倉時代に武蔵国・下総国の御家人であった豊島氏の一族が、源頼朝による奥州合戦(文治5年、1189年)の結果、陸奥国に所領を得て土着したことに始まる家系である 1 。その遠祖である葛西清重は、頼朝の挙兵に従い、奥州合戦で武功を立て、奥州総奉行に任じられたと伝えられる 1 。
戦国時代において、葛西氏は奥羽地方における有力な戦国大名の一つとして数えられていた 1 。その勢力基盤は、北上川流域を中心として拡大し、当初の拠点であった石巻から、より内陸の登米(とめ、現在の宮城県登米市)に拠点を移したとされる 1 。室町時代には、葛西家は奥州探題の支配下に入ったものの、その家格は高く評価されており、探題斯波家(大崎氏)に伺候する奥州の諸豪族の中でも、大崎氏に次ぎ、留守氏や伊達氏と同列の3位に位置づけられるなど、名門としての地位を保持していた 4 。
しかしながら、葛西氏の歴史は、中央政権の動向と深く結びついていた。鎌倉幕府の成立と共に奥州に勢力を築き、室町幕府の体制下でその地位を維持したが、戦国時代の終焉を告げる豊臣秀吉による奥州仕置(天正18年、1590年)の際には、小田原攻めに参陣しなかったことなどを理由に所領を没収され、大名としての葛西氏は滅亡した 1 。このように、葛西氏は鎌倉以来の名門でありながら、中央の政治動向にその運命を大きく左右されたのであり、これは地方の武士勢力が中央の権力構造と無縁ではいられなかった戦国時代の典型的な姿と言えるだろう。及川頼家の活動も、この葛西氏という大きな枠組みの中で理解する必要がある。葛西氏内部の統制や、その家臣団の動向、例えば及川頼家が引き起こしたとされる「騒動」も、こうした外部環境からの圧力や、それに対する葛西宗家の対応能力と深く関連していた可能性が考えられる。
本報告書は、まず及川氏の出自と、及川頼家が率いたとされる沖田及川党について概観する。次に、頼家の活動と当時の葛西氏の状況に触れ、中心的な出来事である永禄二年(1559年)の「及川騒動」(柏木城事件)について、その背景、経緯、鎮圧に至るまでを詳述する。その後、「及川騒動」が及川氏および関連勢力に与えた影響を考察し、最後に、提供された史料に基づく分析と、なお残された課題を提示する構成となっている。
及川氏の姓の起源については、史料 11 に一つの手がかりが見られる。これによると、及川氏は清和源氏の一流である多田源氏の祖、源満仲の孫にあたる源頼綱(多田蔵人頼綱)の次男・源仲政の子孫の系統に連なるとされている。この系譜が事実であれば、及川氏は武士としての格式ある家柄であったことを示唆している。
葛西氏の家臣団における及川氏の位置づけに関しては、複数の及川姓の武士が葛西氏に仕えていたことが史料から確認できる。例えば、史料 12 には葛西家臣の武将として、及川定嗣・及川重氏・及川重胤・及川綱重・及川光村・及川頼雄・及川頼兼・及川頼高・及川頼只といった名が列挙されている。また、史料 1 においても、葛西氏の庶家や関連人物として及川氏が挙げられている。これらの記述は、及川姓の者が単独ではなく、一族としてある程度の勢力を形成し、葛西領内の各地に配置され、軍事的な役割などを担っていた可能性を示している。及川頼家が「沖田及川党の頭領であった」という利用者情報とも整合性があり、一族内の連携や、あるいは逆に内部分裂が、葛西家中の政治状況に影響を与えた可能性も否定できない。
利用者情報に見られる「沖田及川党」という集団については、史料 13 と 13 が重要な手がかりを提供している。これらの史料によれば、及川氏(本名を高屋周防守忠明と伝える)は、「東山沖田(ひがしやまおきた)」(現在の一関市大東町沖田)の地にあって葛西氏に仕えたとされている。この「沖田」という地名が、及川頼家が率いた党の名称の由来である可能性は非常に高いと考えられる。「党」という呼称は、中世の武士団における血縁的または地縁的な結合に基づく武力集団を指すのが一般的であり、沖田及川党も及川頼家を中心とした一定規模の武士団であったことが推測される。
「東山沖田」という具体的な地名は、沖田及川党の活動拠点が現在の岩手県一関市大東町周辺であったことを強く示唆している。興味深いことに、後述する及川頼家の反乱を鎮圧した大原氏の拠点である大原城も、同じく一関市大東町大原に位置していたと伝えられている 6 。この地理的な近接性は、沖田及川党と大原氏との間に何らかの関係性があった可能性を示唆し、後の「及川騒動」の展開に影響を与えた要因の一つであったかもしれない。例えば、両者は近隣のライバル関係にあったのか、あるいは当初は協力関係にあったものが何らかの理由で決裂したのか、といったシナリオが考えられる。党の結束力や動員力は、その地域の経済的基盤や、他の在地勢力との関係性によって大きく左右されたであろう。
及川頼家が「騒動」を起こしたとされる永禄二年(1559年)当時の葛西氏当主は、葛西晴信(かさい はるのぶ)であったと考えられる。葛西氏の系図 4 や、永禄三年(1560年)の活動記録 8 から、この時期の当主が晴信(左京大夫)であったことが確認できる。
史料 8 によれば、葛西晴信は永禄三年(1560年)に遠田郡全域を取り戻し、さらに領内に残る他の氏族を征伐して家臣団に組み入れるなど、積極的な勢力拡大と領内統制の強化を進めていた。しかしその一方で、史料 14 は、及川騒動が起きたまさに永禄二年(1559年)の時点で、葛西家中に合戦が発生し、多数の死傷者が出るなど不穏な動きがあったことを示唆している。これは、晴信による領内統制が必ずしも盤石ではなく、家中に潜在的な不安定要因を抱えていた可能性を窺わせる。葛西晴信が勢力拡大を図る一方で、家中に不穏な動きがあったという事実は、領内統制が過渡期であったか、あるいは有力な家臣間の対立が存在した可能性を示している。このような状況が、及川頼家のような家臣が「騒動」を起こす背景の一つとなった可能性も考えられる。晴信の統制強化の動きが、既存の在地勢力との間に摩擦を生んだのかもしれない。
利用者情報では、及川頼家は「柏木城主」とされている。関連する地名として、史料 15 ( 15 も同様の記述あり)には、岩手県一関市川崎町薄衣に「字柏木(あざかしわぎ)」という地名が存在し、この地にはかつて葛西氏の重臣であった千葉氏の居城とされる薄衣城(うすぎぬじょう)があったと記されている。この「字柏木」が、利用者情報の「柏木城」と何らかの関連を持つ可能性は否定できないが、提供された史料の中には、及川頼家がこの柏木城の城主であったことを直接的に示すものは見当たらない。
一方、史料 7 には、「大原信光の御一門以下面々衆」の一人として「及川美濃守頼家(鳥海城主)」という名が挙げられており、彼が永禄二年(1559年)に謀叛を起こして滅亡したと明確に記されている。「美濃守(みののかみ)」は武士が名乗る官途名であり、頼家の正式な呼称の一部であったと考えられる。この記述は具体的であり、及川頼家の居城が鳥海城(とりうみじょう)であった可能性を強く示唆している。
「柏木城」と「鳥海城」という二つの城名が浮上することは、情報源の違いによるものか、あるいは頼家が複数の拠点を有していた可能性、もしくは一方が別名や支城であった可能性など、いくつかの解釈を生む。史料 7 における「鳥海城主」としての謀叛および滅亡の記述は具体的であるため、現時点では鳥海城を頼家の主要な拠点と考える方が妥当性が高いかもしれない。「柏木」地名との関連については、鳥海城の別名であった可能性、近隣の支城であった可能性、あるいは何らかの誤伝である可能性などを慎重に検討する必要がある。頼家の勢力基盤を正確に特定する上で、居城の位置は極めて重要である。鳥海城が、先に触れた沖田及川党の拠点とされる「東山沖田」に近いのか、あるいは全く別の場所なのかによって、彼の行動範囲や連携した可能性のある他の勢力についての推測も変わってくる。
いずれにせよ、及川頼家が「沖田及川党の頭領」であったという情報は、彼が一定規模の兵力を動員し得る立場にあったことを示しており、葛西家中の有力な武将の一人であったことは間違いないだろう。
この事件は、史料 6 および 6 において「及川騒動(おいかわそうどう)」として記録されており、その発生年は永禄二年(1559年)で一致している。利用者情報にある「柏木城事件」も、この「及川騒動」を指すものと解釈してほぼ間違いないであろう。
利用者情報では、この騒動のきっかけが「千葉三郎信近(ちばさぶろうのぶちか)との争い」であったとされている。しかしながら、提供された史料群( 2 など)を詳細に調査した結果、戦国時代の永禄年間(1558年~1570年)に活動した「千葉三郎信近」という名の人物を特定できる直接的な情報は、残念ながら見当たらなかった。史料 9 で言及されている千葉三郎は明治期から昭和期にかけての政治家であり 9 、史料 10 で詳述されている千葉常胤は平安時代末期から鎌倉時代初期の人物である 10 。これらは時代が大きく異なるため、及川頼家と争ったとされる人物とは考え難い。
利用者情報にある「千葉三郎信近」が史料によって裏付けられないという事実は、この情報が別の伝承や記録に基づいている可能性、あるいは人物名や事件の経緯について何らかの混同や誤伝が生じている可能性を示唆する。事件の直接的な原因や対立構造を明らかにする上で、この人物に関する情報が不可欠であるが、現状の提供史料からは不明と言わざるを得ない。したがって、本報告書においては、史料的な裏付けが得られないことを明記する必要がある。
史料 7 に記された「及川美濃守頼家(鳥海城主)→永禄2(1559)年、謀叛して滅亡」という簡潔な記述が、この事件の核心を示している。これは、及川頼家が主家である葛西氏に対して反旗を翻した、すなわち謀叛を起こしたことを意味する。
「謀叛」の具体的な原因については、提供された史料からは残念ながら明らかにされていない。しかし、前述したように、当時の葛西氏当主・葛西晴信が進めていた領内統制強化の動きが、及川頼家のような在地勢力との間に摩擦を生んだ可能性や、あるいは葛西家中の他の有力な家臣との勢力争いが背景にあった可能性などが推測される。
史料 6 および 6 は、この「及川騒動」を鎮圧したのが、大原氏の当主であった大原飛騨守信茂(おいはら ひだのかみ のぶしげ)、または胤重(たねしげ)とも呼ばれる人物であったと明確に記している。
大原信茂は、葛西氏の第15代当主・葛西晴胤(かさい はるたね。葛西晴信の父か、あるいは兄弟かについては史料により記述に揺れが見られるが、ここでは 6 の記述を優先する)の二男であり、大原氏に入嗣してその家督を継いだ人物であった 6 。この養子縁組により、大原氏は葛西氏の宗家と血縁関係を持つことになり、家臣団の中でも屈指の勢力を有するようになったとされている。
及川頼家による謀叛の鎮圧を、葛西宗家の一員であり、かつ有力家臣でもある大原信茂が担ったという事実は、当時の葛西家中の複雑な力学を物語っている。信茂の行動は、葛西宗家の権威を代行する形で行われたのか、それとも大原氏自身の勢力拡大の一環としての側面も持っていたのか、あるいはその両方の要素が絡み合っていたのか、様々な解釈が可能である。いずれにせよ、この鎮圧行動は、大原信茂および大原氏の葛西家中における発言力を一層高める結果に繋がったと考えられる。また、葛西宗家にとっては、一族の有力者を起用することで内紛を収拾できたことは、一時的にでも家中統制を回復する効果があったかもしれない。
表1:及川騒動の主要関連人物
氏名 |
役職・立場 |
事件における役割 |
典拠(主なもの) |
及川頼家 |
葛西家臣、美濃守、鳥海城主、沖田及川党頭領(推定) |
謀叛を起こし、討伐される |
7 |
葛西晴信 |
葛西氏当主(推定)、左京大夫 |
騒動発生時の葛西氏惣領 |
4 |
大原信茂(胤重) |
葛西家臣、大原氏当主、飛騨守、葛西晴胤の二男 |
及川頼家を討伐 |
6 |
千葉三郎信近 |
利用者情報による及川頼家の対立相手(戦国時代の永禄年間における史料的裏付けなし) |
騒動のきっかけを作ったとされる(利用者情報) |
― |
史料 7 に「永禄2(1559)年、謀叛して滅亡」と記されている通り、及川頼家はこの「及川騒動」によって滅びたと考えられる。彼が率いていたとされる沖田及川党も、頭領である頼家の敗死により、その組織は解体されるか、あるいは勢力を著しく削がれたと推測されるのが自然であろう。
時代は下るが、史料 13 および 13 には、及川氏(高屋忠明の子・近江守常利とされる系統)が天正十八年(1590年)の豊臣秀吉による奥州仕置の際に、主家である葛西氏と運命を共にし、結果として浪人となったという記述が見られる。この常利の系統が、永禄二年に滅んだ頼家の直接の子孫や近親者であったかは定かではないが、葛西氏に仕えていた及川一族が、最終的には葛西氏の滅亡とともにその多くが没落していったことを示唆している。
及川頼家という、一定の勢力を持った武将が葛西家中から排除されたことは、必然的に家中の勢力バランスに変化をもたらしたと考えられる。特に、この騒動の鎮圧に功績のあった大原信茂とその一族の発言力が、事件後に増したことは想像に難くない。
一方、葛西氏の当主であった葛西晴信にとっては、家中の反抗勢力を抑え込むことに成功したものの、その過程で大原氏という、同じく有力な家臣(しかも宗家の一族でもある)の力を借りる必要があったという事実は、見方を変えれば、宗家の権力基盤が必ずしも盤石ではなかったことの証左とも言えるかもしれない。
及川騒動を鎮圧した大原信茂は、その後も葛西氏の重臣として活動を続けたと考えられる。史料 6 には、彼が天正十五年(1587年)に藤沢城主である岩渕氏と合戦に及んだという記録が残されている。
しかしながら、葛西氏が最終的に滅亡する天正十八年(1590年)の奥州仕置に際しては、大原氏もまたその運命を共にすることになる。史料 7 (大原氏の項)や 19 には、大原信茂の子らが葛西大崎一揆に関連して討死したり、あるいは伊達氏によって謀殺されたりしたことが記されている。及川騒動を鎮圧し、一時的に葛西家中で重きをなした大原信茂とその一族も、最終的には主家葛西氏の滅亡と運命を共にし、その多くが非業の死を遂げたのである。この事実は、戦国時代末期の奥州における勢力再編の厳しさ、そして一度没落した勢力とその家臣団が辿る過酷な運命を象徴していると言えるだろう。一つの地方勢力の内紛における勝者であったとしても、より大きな中央政権の動向、すなわち豊臣秀吉による天下統一事業の奔流には抗うことができず、最終的には飲み込まれてしまうという、戦国時代の無常観をも示唆している。
表2:及川頼家関連年表
年代 |
主な出来事 |
関連人物・勢力 |
典拠(主なもの) |
永禄年間初期 |
葛西晴信、領内統制・勢力拡大を進める |
葛西晴信 |
8 |
永禄二年(1559) |
及川騒動(柏木城事件)発生 |
及川頼家、大原信茂(胤重)、葛西晴信 |
6 |
|
及川美濃守頼家(鳥海城主)、葛西氏に対し謀叛 |
及川頼家 |
7 |
|
大原信茂(胤重)により討伐され、滅亡 |
大原信茂(胤重)、及川頼家 |
6 |
天正十五年(1587) |
大原信茂、藤沢城主・岩渕氏と合戦 |
大原信茂 |
6 |
天正十八年(1590) |
豊臣秀吉による奥州仕置。葛西氏、改易され滅亡 |
葛西氏、豊臣秀吉 |
1 |
|
葛西氏家臣であった及川氏(高屋常利の系統)、主家と運命を共にし浪人 |
及川常利 |
13 |
天正十九年(1591) |
葛西大崎一揆。大原信茂の子らが討死、または伊達氏により謀殺される |
大原氏(信茂の子ら)、伊達政宗 |
7 (大原氏の項), 19 |
提供された史料群を総合的に分析した結果、及川頼家については以下の点が確認できる。
まず、彼は「美濃守」という官途名を名乗っていたこと。そして、史料7によれば「鳥海城主」であり、一定の勢力基盤を有していたこと。また、利用者情報および関連史料から「沖田及川党」という武士団を率いていた可能性が高いこと。そして最も重要な点として、永禄二年(1559年)に主家である葛西氏に対して「謀叛」を起こし(これが「及川騒動」または「柏木城事件」と称される出来事)、同じく葛西家臣である大原信茂によって討伐され、結果として滅亡したという事実である。これらが、現時点での史料から比較的確度高く言える及川頼家の姿である。
しかしながら、いくつかの情報については整合性に欠ける点や、解釈の余地が残されている。
及川頼家および及川騒動の実像をより詳細に明らかにするためには、以下の点について今後の調査が期待される。
及川頼家のような、中央の歴史記録には大きく名を残さなかった一地方武将の生涯を詳細に復元するには、中央で編纂された史書だけでなく、当該地域に伝わる郷土史料、古文書、系図、さらには地元の伝承などを丹念に調査し、突き合わせていく地道な作業が不可欠である。提供された史料群は貴重な情報を含んでいるものの、それだけでは全容解明には至らない部分も多く、現存する史料の限界も認識する必要がある。本報告書は、現時点で利用可能な史料に基づく最善のまとめを試みるものであるが、今後の新たな史料の発見や研究の進展によって、及川頼家像がより明確になる可能性は十分にあり得る。
本報告書は、戦国時代の武将・及川頼家について、提供された史料群を基に調査を行った結果をまとめたものである。明らかになった点を要約すると、及川頼家は葛西氏の家臣であり、「美濃守」を名乗り、「鳥海城」を拠点としていた可能性が高い。また、「沖田及川党」と呼ばれる武士団の頭領であったと推測される。そして、永禄二年(1559年)に主家である葛西氏に対して「及川騒動」と呼ばれる謀叛を起こしたが、同じく葛西家臣である大原信茂によって討伐され、滅亡した。
一方で、利用者情報にあった「柏木城主」という点や、騒動のきっかけとされる「千葉三郎信近との争い」については、提供された史料からは直接的な裏付けを得ることができなかった。また、頼家が謀叛に至った具体的な動機についても、史料の制約から明らかにすることは困難であった。これらの点は、今後の研究課題として残されている。
及川頼家が引き起こした「及川騒動」は、戦国時代の葛西氏領内における数々の一揆や内紛の一つとして位置づけることができる。この事件は、当時の葛西氏が直面していた領国経営の困難さや、家臣団統制のあり方を考察する上での具体的な一事例となり得る。特に、葛西宗家の一族であり有力家臣でもあった大原信茂によって鎮圧されたという事実は、戦国大名家における一族と有力家臣との関係性、そしてそのパワーバランスを考える上で興味深い事例と言えるだろう。
及川頼家個人の歴史的評価については、現存する史料が極めて限定的であるため、詳細な評価を下すことは難しい。しかし、彼は戦国乱世という激動の時代に翻弄され、自らの勢力維持と拡大を図ろうとして、結果的に敗れ去った一武将としての側面を指摘することができる。
及川頼家という一個人の行動とその結末は、一見すると広大な戦国史の中では些細な地方の出来事と映るかもしれない。しかし、その背景には、葛西氏という地域権力の盛衰、その家臣団内部の動向、さらには豊臣政権による全国統一という、より大きな歴史のうねりが複雑に関わっている。このようなミクロな視点からの研究を積み重ねていくことが、戦国時代の地域社会の具体的な実像をより深く理解することに繋がり、ひいては日本史全体の多角的かつ重層的な把握に貢献すると考えられる。本報告書が、その一助となれば幸いである。