最終更新日 2025-05-17

吉川広家

吉川広家 – 戦国乱世を生きた毛利家の知将

序章:吉川広家 – 戦国乱世を駆け抜けた知将

本報告書の目的と概要

本報告書は、戦国時代末期から江戸時代初期にかけての激動の時代を生きた武将、吉川広家(きっかわ ひろいえ)に焦点を当てる。広家が、主家である毛利家の存続という至上命題に対し、いかなる役割を果たし、どのような決断を下したのかを、現存する史料に基づいて多角的に検証することを目的とする。

特に、天下分け目の戦いであった関ヶ原の戦いにおける広家の行動と思慮は、毛利家の運命を左右する極めて重要な要素であった。本報告書では、この関ヶ原での対応を中心に、彼の生涯、人物像、そして毛利家および彼自身に与えた影響、さらには後世における評価の変遷に至るまでを詳細に追う。提供された各種資料群を丹念に読み解き、吉川広家という複雑かつ魅力的な歴史上の人物の実像に迫ることを目指す。

第一部:吉川広家の生涯

第一章:誕生と家督相続

吉川元春の三男として

吉川広家は、永禄4年(1561年)11月1日、毛利元就の次男であり、「毛利の両川」と称され毛利家の軍事を支えた吉川元春の三男として生を受けた 1 。母は、安芸国の国人領主であった熊谷信直の娘、新庄局(しんじょうのつぼね)である 2 。幼名は才寿丸(さいじゅまる)、後に経言(つねのぶ)、あるいは経信(つねのぶ)と名乗り、通称を又次郎と称した 1

広家が誕生した永禄年間は、祖父・毛利元就が中国地方における覇権を確立しつつあった時期にあたる。父・元春は、元就の長男で毛利宗家を継いだ毛利隆元(永禄6年(1563年)に死去 3 )、そして元就の三男で小早川家を継いだ小早川隆景と共に、毛利宗家を支える屋台骨として重責を担っていた。当時の元春の居城は、安芸国北部の山県郡にあった日野山城(現在の広島県北広島町)であったとされ 4 、広家もこの城、あるいはその近辺で幼年期を過ごした可能性が高い。

毛利元就が遺したとされる「三子教訓状」の逸話 5 が象徴するように、毛利一族においては宗家を中心とした結束と、一族の安泰を最優先とする家風が強く意識されていた。元春が吉川家に、隆景が小早川家にそれぞれ養子として入ったのも、毛利家の勢力拡大と安定化を目的とした元就の深謀遠慮に基づくものであった 6 。このような名門武家に生まれ、一族の繁栄を使命とする環境は、広家の生涯にわたる行動原理や価値観の形成に、計り知れない影響を与えたと考えられる。彼は、毛利宗家を支える吉川家の一員としての自覚を、幼い頃から強く持っていたであろう。

初陣と初期の戦歴

広家の初陣は、元亀元年(1570年、永禄13年とも)、わずか10歳の時であったと記録されている 2 。この年、父・元春は宿敵であった尼子氏の残党、尼子勝久らを討伐するため出雲国へ出陣した。幼い広家も父に従っての出陣を熱望したが、当初元春はこれを許さなかった。しかし、母・新庄局の熱心な説得もあり、ついに同行が認められたという逸話が残っている 3 。この若さでの初陣は、当時の武家の慣習から見ても早い部類に入り、広家の武門の子としての気概の強さと、周囲からの期待の高さがうかがえる。

出雲での戦いでは、父・元春や兄・吉川元長(もとなが)と共に、尼子方の多久和城攻略や、布部山(ふべやま)の戦いなどに参加した 3 。これらの実戦経験を通じて、彼は戦場の厳しさと、武将としての心得を学んでいったものと思われる。

一方で、広家の幼少期に関しては、「うつけ者(愚か者、常識外れな者)」と呼ばれ、父・元春を嘆かせたという逸話も伝えられている 2 。また、杯を受ける際の礼儀作法がなっていないとして、元春から書状で注意を受けたこともあったという 2 。これらの逸話は、後の彼の型破りな行動様式や、複雑な性格の一端を垣間見せるものかもしれない。初陣で見せた勇猛さとは一見矛盾するようにも思えるが、既存の枠組みや常識に捉われない自由な精神の持ち主であった可能性を示唆している。このような性格が、後の関ヶ原の戦いにおける大胆かつ独創的な交渉術や、周囲の意表を突く行動へと繋がっていったとも考えられる。

父兄の死と吉川家当主へ

天正10年(1582年)に織田信長が本能寺の変で倒れると、毛利氏は羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)と和睦し、その勢力下に組み込まれていく。広家にとって大きな転機が訪れたのは、天正14年(1586年)から翌15年(1587年)にかけてのことである。

天正14年11月15日、父・吉川元春が九州豊前国の小倉城内で病死した 2 。元春は隠居の身であったが、秀吉による九州平定に従軍していた最中のことであった。そしてその翌年、天正15年6月5日には、同じく九州平定に従軍し、吉川家の家督を継いでいた広家の長兄・吉川元長が、日向国の陣中にて病死してしまう 1

父と兄という吉川家の二大支柱を相次いで失ったことにより、元長の遺言によって、三男であった広家が吉川家の家督を相続することとなった 1 。時に広家27歳。若くして毛利家の中核をなす吉川家の当主となった彼の双肩には、一族の命運が託されることになった。家督相続後、広家は主君である毛利輝元から、毛利氏の祖先とされる大江広元の諱(いみな)から「広」の一字を与えられ、それまでの経言(または経信)という名から「広家」へと改名した 2 。この改名は、彼が名実ともに吉川家の当主として、そして毛利家の中枢を担う武将として歩み始めることを象徴する出来事であった。父祖の名声と実績を背負い、豊臣政権という新たな政治体制の中で、吉川家、そして毛利家全体の舵取りを担うという重責が、彼のその後の人生を大きく方向づけることになる。

第二章:豊臣政権下での広家

吉川家当主となった広家は、急速に天下統一を進める豊臣秀吉の政権下で、武将としてのキャリアを積んでいく。既に天正11年(1583年)には、毛利氏が秀吉に恭順の意を示す一環として、人質として大坂の秀吉のもとへ送られた経験があった 1 。この人質生活は、中央の政治情勢や秀吉という人物の力量を間近で見聞する貴重な機会となったであろう。

九州平定

家督を相続した天正15年(1587年)、広家は早速、秀吉の命により肥後国(現在の熊本県)で起こった国人一揆の鎮圧に出陣する 2 。この九州平定において、広家は豊前国(現在の福岡県東部から大分県北部)や肥前国(現在の佐賀県・長崎県)での一揆鎮圧にも功績を挙げた 1 。具体的には、豊前の岩石城(がんじゃくじょう)、城井谷城(きいだにじょう)、福島の諸城を攻略し、さらに肥後へ進軍すると、叔父である小早川隆景と協力して一揆を平定したと記録されている 8

家督相続直後から、豊臣政権下における重要な戦役に参加し、具体的な武功を挙げたことは、広家が単に名家の跡継ぎであるだけでなく、実戦を指揮する能力も備えた武将であることを、秀吉をはじめとする豊臣政権内外に強く印象づけた。これは、後の文禄・慶長の役における彼の活躍の基盤ともなった。兄・元長がこの九州平定の陣中で病没した 1 ことは、広家にとってこの戦役が個人的にも深い意味を持つものであったことを示唆しており、兄の死を乗り越えて戦功を立てることで、吉川家当主としての権威を高めようとした側面もあったかもしれない。

小田原征伐

天正18年(1590年)、豊臣秀吉は関東の雄、北条氏を討伐するため小田原征伐を敢行する。これは豊臣政権による天下統一事業の総仕上げともいえる大規模な軍事行動であった。毛利氏もこの征伐に参加しており、吉川広家も石田三成の指揮下で参陣したとの記述が見られる 9 。毛利軍は水軍としても動員されており 10 、広家も何らかの役割を担ったと考えられるが、具体的な戦功に関する詳細な記録は、提供された資料からは限定的である。

しかし、この小田原征伐への参加は、毛利氏および広家が豊臣体制の主要な構成員であることを改めて示すものであった。また、この戦役を通じて、広家は石田三成をはじめとする豊臣政権の中枢を担う人物たちとの連携を深めた可能性がある。特に石田三成とは、この頃から接点が生まれていたことがうかがえ 9 、後の関ヶ原の戦いでは敵対関係となるものの、それ以前の共闘経験は、互いの能力や性格をある程度把握する機会となったかもしれない。こうした経験と人脈が、後の関ヶ原の戦いにおける彼の複雑な立ち回りや情報網の構築に影響を与えたとも考えられる。

文禄・慶長の役

豊臣秀吉による朝鮮出兵、すなわち文禄・慶長の役(1592年~1598年)において、吉川広家は目覚ましい武功を挙げ、その武名を一層高めることになった 1

文禄の役では、文禄元年(1592年)、広家は5000の兵を率いて本拠地である出雲国富田城(現在の島根県安来市)を出発し、肥前名護屋(現在の佐賀県唐津市)を経由して朝鮮半島の釜山に上陸した 8 。翌文禄2年(1593年)正月、明の援軍と日本軍が激突した碧蹄館(へきていかん)の戦いに続く高陽(コヤン)の戦いにおいて、広家は自ら槍を取って敵陣に突撃し、明・朝鮮連合軍約6000を討ち取るという大功を立てた。この戦功に対し、軍奉行であった石田三成から感状(感謝状)が贈られている 8 。また、同年2月の幸州山城(ヘンジュサンソン)の戦いでは、負傷しながらも奮戦した 8 。さらに、同年6月の第二次晋州城(チンジュソン)攻防戦にも参加している 8 。これらの活躍により、広家は豊臣秀吉から「日本槍柱七本(ひのもとやりばしらしちほん)の一人」として賞賛されたと伝えられている 11

慶長の役においても、広家は引き続き朝鮮で戦った。慶長2年(1597年)末から翌年初頭にかけての蔚山城(ウルサンソン)の戦いでは、加藤清正らが籠城する蔚山倭城を包囲した明・朝鮮連合軍に対し、毛利秀元らと共に救援軍として駆けつけ、包囲軍を撃退するのに貢献し、武功を挙げた 11 。慶長3年(1598年)1月には、毛利高政(森高政)と共に西生浦(ソセンポ)に到着した記録も残っている 3

これらの華々しい戦功の一方で、広家は後方支援や兵站の確保といった、地味ながらも重要な任務にも注力していた可能性が示唆されている 12 。異国での長期にわたる困難な戦いを経験し、数々の大手柄を立てたことは、広家の武将としての自信を深め、戦略眼を養う上で大きな意味を持ったであろう。石田三成から感状を受けた事実は、この時点では両者の間に一定の信頼関係、あるいは少なくとも業務上の連携が存在したことを示している。

「日本槍柱七本の一人」という賞賛は、豊臣政権下における広家の武勇が公に認められていた証左である。しかしながら、これらの武功が必ずしも吉川家の家格向上や待遇改善に直結したわけではなく、「吉川家の地位は毛利家家臣のままだった」との指摘もある 11 。この点が、後に広家が抱えることになる毛利家中での立場や、自身の処遇に対する潜在的な不満に繋がった可能性も否定できない。

こうした豊臣政権下での軍功により、広家の評価は高まった。天正19年(1591年)には、秀吉から伯耆国(現在の鳥取県中西部)、出雲国(現在の島根県東部)、隠岐国(現在の島根県隠岐諸島)、そして石見国(現在の島根県西部)と安芸国(現在の広島県西部)の一部にまたがる14万石の所領を与えられ、出雲富田城を居城とした 1 。これにより、広家は山陰地方に広大な領地を持つ大名としての地位を確立し、毛利一門の中でも重きをなす存在となった。

第三章:関ヶ原の戦い – 毛利家存亡の岐路

慶長3年(1598年)8月、豊臣秀吉が死去すると、豊臣政権内部では急速に権力闘争が表面化する。五大老筆頭の徳川家康が影響力を強める一方、石田三成ら奉行衆はこれに反発し、両者の対立は深刻なものとなっていった。この政治的緊張は、やがて慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いへと発展する。この戦いは、吉川広家にとって、そして毛利家全体にとって、まさに存亡を賭けた岐路であった。

西軍総大将・毛利輝元と広家の苦悩

関ヶ原の戦いに際し、毛利家の当主である毛利輝元は、石田三成方の安国寺恵瓊(あんこくじ えけい)らの策謀により、西軍の総大将として擁立されることになった 6 。輝元自身は大坂城に入り、直接戦場には赴かなかったものの、名目上とはいえ西軍の最高指導者となったことは、毛利家を徳川家康と敵対する立場に置くものであった。

この事態は、吉川広家にとって大きな誤算であり、強い危機感を抱かせた 13 。広家は、豊臣政権下での経験や独自の情報網を通じて、徳川家康の強大な実力と、石田三成方の結束の脆さを見抜いていたとされる。岐阜城の陥落や、懇意にしていた黒田長政・如水親子からもたらされた「家康西上」の情報などにより、広家は西軍の敗北と、それに伴う毛利家の危機を早期に察知していた 6

広家は、輝元が大坂城に入ったことに対し、安国寺恵瓊と激論を交わし、輝元に対しては徳川家康方につくべきであると強く説得を試みたが、結局その意見は容れられなかった 13 。毛利家が西軍の総大将という立場に祭り上げられたことは、敗北した場合、改易(領地没収)や取り潰しといった最悪の事態を招きかねず、広家の苦悩は察するに余りある。この情報分析能力と危機意識こそが、彼を大胆な内通工作へと駆り立てた主要因であったと言える。彼の説得の背景には、秀吉死後の政情不安や五大老・五奉行間の対立に対する彼なりの分析があり、単なる日和見主義ではなく、毛利家存続のための最善策としての判断があったと考えられる。

徳川家康との内密交渉と不戦の決断(黒田長政との連携)

毛利輝元の翻意が期待できないと悟った広家は、主家である毛利家の存続を最優先に考え、徳川家康との内密交渉に踏み切る。同じく毛利家の重臣であった福原広俊(ふくばら ひろとし)らと協議の上、かねてより親交のあった東軍の武将、黒田長政(くろだ ながまさ)を仲介役として、家康方との接触を開始した 1

交渉は極秘裏に進められ、関ヶ原の合戦前日である慶長5年(1600年)9月14日、広家と福原広俊は、毛利家が戦闘に参加しないことの証として人質を徳川方に送り、その見返りとして、徳川家康、本多忠勝、井伊直政の連署による起請文(誓約書)を得るに至った 2 。その起請文には、概ね以下のような内容が記されていた。

  • 毛利輝元に対して、徳川家康は疎かにする気持ちがないこと。
  • 吉川広家・福原広俊も家康に忠節を尽くしているので、同様に疎かにする気持ちがないこと。
  • 輝元が家康に忠節を誓うのであれば、家康の判物(公的な証明書)を送り、輝元の分国(領国)は相違なく安堵(保証)すること 2

この合意形成において、黒田長政との個人的な信頼関係が極めて重要な役割を果たしたことは想像に難くない 6

この時期の広家の苦心と外交努力を物語る貴重な史料として、いくつかの書状や覚書案が残されている。

  • 吉川広家直筆覚書案(慶長6年) : 合戦後、毛利家内部からの批判や疑念に対し、広家自身が「本家存続のために動いた結果である」と、その真意と経緯を詳細に書き記したもの。彼の苦しい立場と、家名存続への強い意志がうかがえる一級史料である 13
  • 徳川家康書状(慶長5年8月8日付) : 広家が黒田長政を通じて、「輝元の大坂城入りは、家康に預けていた人質(輝元の母や妻子)を守るためであり、家康に敵対する意志はない」と弁明したことに対し、家康が広家のその意向を了解した旨を記した返書。これは、東西両軍の対立が激化する中で、広家がいち早く家康とのパイプを築こうとしていたことを示している 13
  • 黒田如水書状(慶長5年8月1日付) : 黒田長政の父である黒田如水(官兵衛孝高)が広家に宛てた書状で、大坂城内にいた東軍側武将の奥方たちの安全確保を依頼するもの。如水と広家の間に一定の信頼関係があったこと、そして広家が東西両陣営からある程度の信用を得ていた可能性を示唆している 13
  • 黒田長政直筆書状 : 合戦が近づくにつれ、黒田長政が広家の真意を再三確認するために送ったとされる書状群。これらの書状と、それに対する広家の返書(現存するものは少ない)のやり取りからは、当時の緊迫した状況と、両者の間で交わされたギリギリの交渉の様子がうかがえる 13

これらの史料は、関ヶ原の戦いという国家的な動乱の渦中で、吉川広家がいかに冷静に状況を分析し、危険を冒しながらも主家存続の道を探ったかを示すものである。一方で、広家は西軍に身を置きながらも、石田三成ら西軍首脳に内通を悟られないよう、細心の注意を払っていた。その一環として、合戦前に家康方の城であった安濃津城(あのつじょう、伊勢国)などを攻撃したという行動も見られる 13 。これは、内通の事実を隠蔽するための偽装工作であった可能性が高いが、その攻撃があまりにも激しかったため、かえって黒田長政が広家の真意を疑い、確認の書状を送るという一幕もあったと伝えられている 13 。このことは、広家の策略が常に危険と隣り合わせであったことを物語っている。

以下に、関ヶ原の戦いにおける吉川広家の交渉の要点をまとめる。

時期

交渉相手(広家側)

交渉相手(家康側)

主な伝達・合意内容

典拠資料例

慶長5年8月頃

吉川広家

徳川家康(黒田長政経由)

広家より輝元の大坂城入りの弁明、家康は広家の意向を了承。

13

慶長5年9月14日

吉川広家、福原広俊

徳川家康、本多忠勝、井伊直政

毛利不参戦の証として人質送付。家康方より輝元の身分と領国安堵の起請文受領。

2

合戦後

吉川広家

黒田長政、福島正則

輝元は名目上の総大将であり、本領安堵を約束する旨の書状が輝元に送付される(ただし後に反故にされる)。

2

慶長6年

吉川広家

(毛利家中に向けて)

「吉川広家覚書案」にて、一連の行動は毛利家存続のためであったと弁明。

13

この表は、広家の交渉が多岐にわたり、かつ段階的に進められたことを示している。彼の外交手腕とリスク管理能力は、この国家存亡の危機において遺憾なく発揮されたと言えよう。

南宮山における毛利勢の動向とその影響

関ヶ原の合戦当日、慶長5年9月15日、毛利輝元の名代として軍勢を率いた毛利秀元(輝元の従弟で養子)、安国寺恵瓊、長束正家(なつか まさいえ)らの毛利本隊約1万5千(兵数には諸説あり)は、主戦場からやや離れた南宮山(なんぐうさん、現在の岐阜県垂井町)に布陣していた。吉川広家は、この毛利本隊の前面に自身の軍勢を配置し、物理的に彼らが戦闘に参加することを阻止した 1

毛利本隊の諸将は、眼下で繰り広げられる激戦を前にしながらも、広家軍に行く手を阻まれ、動くことができなかった。安国寺恵瓊らが再三にわたり広家に出陣を促したが、広家は「今、兵に食事をさせている(今、兵に弁当を使わせている)」などと返答して時間稼ぎに終始したとされる。これが後世に伝わる「宰相殿(毛利輝元)の空弁当」という逸話の由来である。

広家のこの徹底した不戦行動は、事前に徳川家康方と結んだ密約を忠実に履行するためのものであった。その結果、西軍の主力の一つと目されていた毛利の大軍は、終日戦闘に参加することなく、いわば遊軍と化してしまった。これは西軍にとって大きな痛手であり、戦いの趨勢に少なカらぬ影響を与え、東軍勝利の一因となったことは間違いない。

広家のこの決断は、毛利家存続という大局的な判断に基づいていたとはいえ、西軍の友軍を実質的に裏切る形となる、極めて重いものであった。この行動は、戦後の毛利家内における広家への評価を大きく二分し、長く彼を苦しめることになる。「毛利家を救った功労者」という称賛と、「主家を裏切った卑怯者」という非難が、その後何代にもわたって広家とその子孫に向けられることになったのである。一方で、徳川家康にとっては、毛利の大軍を無力化できたことは大きな戦略的勝利であり、これが戦後の毛利家に対する処遇や、広家個人への一定の配慮に繋がった可能性も否定できない。

第四章:戦後の毛利家安堵と岩国領の成立

関ヶ原の戦いは東軍の圧倒的な勝利に終わり、豊臣政権は事実上崩壊、徳川家康が天下の実権を掌握した。西軍に与した大名たちは、戦後処理において厳しい処分を受けることになった。西軍の総大将であった毛利輝元を擁する毛利家もまた、その例外ではなかった。

毛利氏減封と広家の交渉努力

戦後、徳川家康は、毛利輝元が西軍の総大将として大坂城に入り、西軍諸将に指令を発していたことなどを理由に、当初、毛利家の所領を全て没収し、改易するという厳しい方針を示した 6 。これは毛利家にとってまさに断絶の危機であった。

この絶体絶命の状況の中で、吉川広家は再び毛利家存続のために奔走する。家康は、広家に対しては関ヶ原での内通の功績を認め、別途、周防・長門の二カ国、あるいはそれ以上を与えるという破格の提案をしたとされる 1 。しかし、広家はこの申し出を固辞し、あくまで毛利宗家の存続を第一に考え、家康やその側近たちに粘り強く働きかけを続けた。

広家の必死の交渉と、黒田長政らの尽力もあって、最終的に毛利家は改易という最悪の事態は免れた。しかし、その代償は大きく、安芸国(現在の広島県西部)をはじめとする中国地方8カ国120万石余り 2 の広大な所領は大幅に削減され、周防国(現在の山口県南東部)と長門国(現在の山口県北西部)の二カ国、石高にして約30万石(慶長5年当初。慶長15年(1610年)の検地により36万9千石に高直しが認められる 2 )へと大減封されることになった 1

広家の交渉がなければ、毛利家は取り潰されていた可能性が極めて高く、その意味で彼の功績は非常に大きいと言える。しかし、結果として大幅な減封という厳しい現実を招いたことから、毛利家臣団の中には広家を非難する声も根強く存在した 6 。広家が自身への加増を固辞し、毛利本家の存続を最優先した行動は、彼の「忠義」のあり方が、主君個人への盲従ではなく、毛利「家」そのものの永続を最優先とするものであったことを示している。この姿勢が、結果的に彼自身の新たな立場である岩国領の成立へと繋がっていく。

初代岩国領主としての広家

毛利家の減封問題が決着した後、慶長6年(1601年)、吉川広家は徳川家康から、周防国玖珂郡(くがぐん)に3万石の所領を与えられた 1 。この所領は、後の検地によって実質6万石余りとなった 1 。広家はこの地に岩国城を築き、初代岩国領主として新たな一歩を踏み出すことになった 1

しかし、この岩国領の立場は、江戸時代を通じて極めて複雑なものであった。毛利宗家(長州藩)は、表向き吉川広家を毛利家の家臣(家老)であるとし、岩国領を独立した「藩」とは認めず、あくまで長州藩の支藩、あるいは分家的な扱いを主張し続けた 2 。一方で、江戸幕府は、吉川氏を毛利宗家とは別個の、ある程度独立した領主(大名に準ずる存在)として扱っていた側面もある。このため、岩国領は「藩」なのか、それとも長州藩の「領地」なのかという帰属問題は、長らく曖昧なまま継続し、毛利宗家と岩国吉川家との間には、常に微妙な緊張関係が存在した。

毛利家存続に多大な貢献をした広家であったが、その結果として与えられた岩国領は、宗家との間に新たな火種を抱えることになった。これは広家にとって新たな苦悩の始まりであり、彼の政治的手腕が再び試される場となったと言える。関ヶ原での功績に対する家康からの評価と、毛利本家に対する牽制の意味合いが、この岩国領の成立の背景にあった可能性も指摘されている。広家自身は毛利家の存続を第一に考えていたが、その結果として生まれた岩国吉川家は、本藩との間で家格や自立性を巡る問題を抱え続けることになった。後世に伝わる「槍倒し松」の逸話 16 は、大名行列が他藩の城下を通る際に槍を倒すのが礼儀であったにもかかわらず、岩国藩(領)が正式な藩として扱われなかったために侮られ、槍を立てたまま通過しようとする行列があったのに対し、岩国の人々が街道に松の枝をわざと張り出させ、槍を倒さなければ通れないようにしたというもので、こうした岩国吉川家の立場と気概を象徴していると言えよう。

第五章:晩年と死

岩国領主となった広家は、領内の経営に力を注ぎつつも、毛利宗家との関係には常に心を砕いていたと考えられる。

元和4年(1618年)頃からは、仏門に帰依し、法名の「如兼(にょけん)」、あるいは「如券」を称するようになった 2 。これは、戦国の世を生き抜き、数々の修羅場を経験してきた広家が、精神的な安寧を求めた結果であったのかもしれない。

慶長19年(1614年)の大坂冬の陣の後、同年12月25日、広家は徳川家康・秀忠父子に謁見し、家督を嫡男の広正(ひろまさ)に譲り隠居したい旨を願い出て、許された 3 。時に広家54歳。これにより、彼は政治の表舞台から退くことになった。

隠居後の広家は、元和9年(1623年)10月、周防国玖珂郡通津(つづ、現在の山口県岩国市通津)に設けられた隠居所に移り住んだ 2 。そして、寛永2年(1625年)9月21日、この通津の隠居所において、波乱に満ちた生涯を閉じた。享年65であった 1

墓所と菩提寺(洞泉寺)

吉川広家の墓所は、山口県岩国市横山にある曹洞宗の寺院、洞泉寺(とうせんじ)の境内にある吉川家墓所内に存在する 17 。洞泉寺の起源は古く、元は吉川氏の祖先である吉川経信(つねのぶ)が文明2年(1470年)頃に安芸国新庄大朝(現在の広島県北広島町大朝)に創建した盤目山洞仙寺(ばんもくさん どうせんじ)であるとされる 17 。関ヶ原の戦いの後、毛利氏が防長二カ国に移封されたのに伴い、吉川家も安芸国から岩国に移り住むこととなり、慶長8年(1603年)、この洞仙寺も現在の岩国の地に移され、その際に寺号の漢字を「洞泉寺」と改めたと伝えられている 17

吉川家墓所には、初代領主である広家をはじめとして、6代当主の吉川経永(つねなが)を除く12代当主吉川経幹(つねまさ)までの歴代当主とその妻、一族の墓石、合計51基が整然と並んでいる 17 。この墓所は、広家の死後、徐々に整備されていったものであり、吉川氏の歴史を今に伝える貴重な史跡として、山口県の指定史跡となっている 17 。菩提寺の移転は、吉川家の本拠地が安芸から岩国へと完全に移ったことを象徴する出来事であった。

広家の死後も、岩国吉川家は幕末まで岩国領主として存続し、その家名は受け継がれていった。広家の墓所が代々手厚く守られていることは、彼が築いた岩国吉川家の基盤が確固たるものであったことを示している。また、広家の次男であった吉見政春(よしみ まさはる)は、後に毛利姓を名乗ることを許され、毛利就頼(なりより)と改名して長州藩の一門家老である大野毛利家を創設している 2 。これは、広家の血筋が毛利本家内においても重要な位置を占めるようになったことを示すものであり、関ヶ原の戦いにおける広家の功績が、間接的な形で評価された結果と解釈することもできるだろう。

補遺:表1:吉川広家 略年表

和暦(西暦)

年齢

出来事

典拠資料例

永禄4年(1561年)

1歳

11月1日、吉川元春の三男として誕生。幼名・才寿丸。

1

元亀元年(1570年)

10歳

父・元春に従い、尼子勝久攻めで初陣(布部山の戦い等に参加)。

2

天正7年(1579年)頃

19歳

石見小笠原氏への養子縁組問題が起こる(後に破談)。

2

天正11年(1583年)

23歳

羽柴秀吉への人質として上洛。

1

天正14年(1586年)

26歳

11月15日、父・吉川元春死去。

2

天正15年(1587年)

27歳

6月5日、兄・吉川元長死去。家督を相続。九州平定に従軍、肥後国人一揆鎮圧等で戦功。9月2日、「広家」と改名。

1

天正16年(1588年)

28歳

7月、豊臣姓と羽柴の名字を下賜され、従五位下・侍従に叙任。後、従四位下に昇叙。

2

天正18年(1590年)

30歳

小田原征伐に従軍。

9

天正19年(1591年)

31歳

秀吉より伯耆・出雲・隠岐等14万石を与えられ、出雲富田城主となる。

1

文禄元年~2年(1592~93年)

32~33歳

文禄の役に従軍。高陽の戦い等で武功を挙げ、石田三成より感状。秀吉より「日本槍柱七本の一人」と賞賛される。

8

慶長2~3年(1597~98年)

37~38歳

慶長の役に従軍。蔚山城の戦い等で武功。

3

慶長5年(1600年)

40歳

関ヶ原の戦い。西軍に属するも徳川家康と内通し、毛利軍の不戦を工作。戦後、毛利家は大幅減封。

1

慶長6年(1601年)

41歳

周防国玖珂郡に3万石(後に6万石)を与えられ、初代岩国領主となる。岩国城築城。

1

慶長19年(1614年)

54歳

12月25日、家督を嫡男・広正に譲り隠居。

3

元和4年(1618年)頃

58歳

法名「如兼」を称する。

2

元和9年(1623年)

63歳

周防国玖珂郡通津の隠居所に移る。

2

寛永2年(1625年)

65歳

9月21日、通津の隠居所にて死去。

1

第二部:吉川広家の人物像と評価

吉川広家は、戦国乱世という激動の時代にあって、武将として、また一族の指導者として、複雑かつ多面的な顔を持っていた。彼の行動や判断は、その個性的な性格と、彼が置かれた状況によって大きく左右されたと考えられる。

第一章:広家の性格と逸話

「うつけ者」から「かぶき者」へ – 個性の形成

広家の幼少期については、父・元春を嘆かせるほどの「うつけ者」であったという逸話が残されている 2 。具体的には、杯を受ける際の礼儀作法がなっていないとして、父から書状で厳しく注意されたことなどが伝えられている 2 。また、成長してからは「かぶき者」として振る舞ったとも言われている 16 。ただし、その行動は、前田慶次のように主家を出奔するほどの過激なものではなかったようである 16

さらに、少年期には自身の養子縁組の話を独断で進めようとするなど、「こましゃくれた性格(ませていて、抜け目がない性質)」であったとの評価も見られる 2 。天正7年(1579年)から天正10年(1582年)にかけて、石見国(現在の島根県西部)の国人領主であった小笠原氏の当主・小笠原長旌(なが旌)の養子になろうと画策し、主君である毛利輝元から猛反対を受けて破談になった事件 2 は、まさにこの性格を物語るエピソードと言えよう。この養子縁組問題の背景には、広家が自己の待遇、特に吉川家庶子としての立場や所領の少なさに不満を抱いていたこと、そしてより大きな活躍の場を求めていた野心があった可能性も指摘されている 2

これらの「うつけ者」「かぶき者」「こましゃくれた性格」といった評価は、広家が型にはまらない自由な精神の持ち主であり、既存の権威や慣習に単純に従うのではなく、自身の才覚を信じ、独自の判断基準で行動しようとする強い個性を持っていたことを示唆している。父・吉川元春や兄・吉川元長が文武両道に優れた名将として評価が高かったことへの反発心が、こうした行動様式に影響した可能性も考えられる 16 。この反骨精神ともいえる気質が、関ヶ原の戦いにおいて、毛利家中の主流意見(安国寺恵瓊らの主戦論)に与することなく、独自の交渉ルートを切り開いていく大胆な行動力へと繋がったとも解釈できる。

戦略家としての大胆さと慎重さ

関ヶ原の戦いにおける広家の内通工作は、まさに彼の戦略家としての大胆さと慎重さの両面を如実に示している。毛利家存亡の危機という極限状況において、彼は徳川家康という強大な相手との直接交渉という極めてリスクの高い道を選んだ。この決断には、状況を冷静に分析する能力と、大胆に行動に移す勇気が不可欠であった。

一方で、その交渉過程においては、黒田長政という信頼できる仲介者を立て、書状や起請文といった形で確実な証拠を残そうとするなど、周到な準備と慎重な手続きを怠らなかった。また、西軍首脳に内通を悟られないよう、安濃津城攻撃などの偽装工作を行う 13 など、細心の注意を払っていた点も見逃せない。

広家は、毛利家存続という絶対的な目的のためには、自身の評判が悪化することや、一時的に困難な立場に置かれることも厭わない、ある種の冷徹な判断力も持ち合わせていた。ある評伝では、広家を「結果的には失敗することはあっても、破滅的な決定的な逸脱は犯さない範囲で個性的な行動や才覚を振舞った人」と評価している 16 。彼の行動は、単なる衝動や感情に流されたものではなく、常に計算された戦略と、現実的な目標設定に基づいていたことを示唆している。

広家は理想論よりも現実的な結果を重視するリアリストであった可能性が高い。関ヶ原での行動は、毛利家にとって最も現実的かつ確実な存続の道を選択した結果であり、その過程で生じる「裏切り」や「不名誉」といった評価は、目的達成のためのやむを得ない手段として許容したと考えられる。このようなリアリズムは、豊臣政権下での数々の戦役、特に朝鮮出兵という過酷な国際戦の経験を通じて培われたのかもしれない。戦場の不条理や国力の限界を目の当たりにすることで、理想だけでは家も国も守れないという厳しい現実認識を深めた可能性が考えられる。

第二章:文化的側面

吉川広家は、勇猛な武将としての側面だけでなく、当代の文化にも通じた教養人としての一面も持ち合わせていたことが、残された遺品や逸話からうかがえる。

茶の湯への造詣と関連遺品

戦国時代から安土桃山時代にかけて、茶の湯は武士階級の間で広く流行し、単なる趣味や嗜好を超えて、政治的な交渉や情報交換の場、さらには武将のステータスや教養を示す重要な文化的要素となっていた。吉川広家もまた、この茶の湯に深く親しみ、関連する文化人との交流があったことが示唆されている。

山口県岩国市にある吉川史料館には、広家ゆかりの茶道具が数多く所蔵されている。中でも特筆すべきは、豊臣秀吉の軍師として名高い黒田如水(官兵衛孝高)との深い親交を物語る「如水釜(じょすいがま)」や、茶聖と称される千利休から贈られたとされる「茶杓(ちゃしゃく)」、そして天正16年(1588年)に豊臣秀吉から拝領したと伝えられる「茶入れ(ちゃいれ)」などである 13 。これらの遺品は、広家が当代一流の文化人や権力者とも茶の湯を通じて交流があったことを具体的に示している。

また、広家の墓所がある岩国市の洞泉寺には、広家の墓の傍らに「みみずくの手水鉢(ちょうずばち)」と呼ばれる特徴的な手水鉢が置かれている。これは、広島藩浅野家の家臣であり、茶人としても高名であった上田宗箇(うえだ そうこ)が、広家の死を悼んで寄進したものであると伝えられている 17 。上田宗箇は武家茶道の一派である上田宗箇流の祖であり、彼のような著名な茶人から手水鉢が贈られたという事実は、広家が生前から茶の湯の世界で一定の評価を得ていたことを示唆している。

これらの文化的遺物は、吉川広家が単に武勇に優れた武将であっただけでなく、茶の湯をはじめとする文化的な素養も豊かに持ち合わせていたことを物語っている。戦国時代の武将にとって、茶の湯への関心は、彼の教養の高さを示すと同時に、黒田如水のような戦略的に重要な人物との個人的な信頼関係を構築する上でも、少なからず寄与した可能性がある。黒田如水との親交は、その息子である黒田長政との関ヶ原における内密交渉を円滑に進める上で、間接的に有利に働いたかもしれない。共通の文化的素養や価値観が、政治的な信頼関係の構築を助けた可能性は十分に考えられる。また、後に岩国吉川家の家風として「教養を高め、誇れる岩国を築き、引き継ぐ」という精神が重視された 20 のも、初代領主である広家のこうした文化的側面が影響しているのかもしれない。

第三章:歴史的評価の変遷と現代的視点

吉川広家の歴史的評価は、彼が関ヶ原の戦いで取った行動の複雑さと、その結果の重大さゆえに、一様ではない。時代や立場によって、彼に対する見方は大きく揺れ動いてきた。

毛利家存続の功労者か、裏切り者か

関ヶ原の戦いにおける広家の内通工作と、毛利本隊の戦闘不参加という結果は、後世において彼に二つの相反する評価をもたらした。

一つは、毛利家を滅亡の危機から救った「英雄」「功労者」という評価である 1 。広家の冷静な状況判断と、徳川家康との巧みな交渉がなければ、西軍の総大将であった毛利輝元を擁する毛利家は、戦後に改易・取り潰しという最悪の運命を辿っていた可能性が高い。その意味で、広家の行動は毛利家の存続に決定的な役割を果たしたと言える。

しかし、もう一方では、毛利家の大幅な減封(120万石から約30万石へ)を招いた「戦犯」であり、西軍の友軍を裏切った「裏切り者」という厳しい非難も長く存在した 6 。特に毛利家内部においては、広家が全ての交渉を極秘裏に進めたため、その真意が理解されず、不審の目で見られたり、非難されたりすることが少なくなかった 13 。広家自身は、戦後に執筆した「吉川広家覚書案」の中で、一連の行動は全て「本家存続のために動いた結果」であると弁明し、その苦しい胸の内を吐露している 13

この二元的な評価は、広家の行動が単純な善悪では割り切れない複雑なものであったこと、そしてその結果が毛利家にとって極めて重大な意味を持っていたことを反映している。彼の行動をどの立場から見るか(毛利本家、吉川家、徳川方、西軍方など)、そして何を最も重視するか(家名の存続、領土の維持、主君への忠義のあり方など)によって、評価は大きく異なってくる。この評価の多層性こそが、吉川広家という歴史上の人物の重みと複雑さを示していると言えるだろう。

現代においては、当時の厳しい状況や広家の置かれた立場、そして彼の真意などを総合的に考慮し、毛利家を守るための苦渋の決断であったとして、その行動を理解しようとする傾向が強まっている 13 。吉川史料館の学芸員が「(広家の行動について)依然、なぜ広家が動かなかったのか、なぜ西軍を裏切ったのかなどの問い合わせが全国から寄せられる。所蔵している書状などを通じて広家の心情を理解してほしい」と述べている 13 のも、こうした複雑な背景を踏まえた上での発言であろう。

近年の研究動向と再評価

近年の歴史学研究においては、吉川広家に対する評価はさらに多角的かつ深掘りされたものになりつつある。単に「忠臣」か「裏切り者」かといった単純な二分論で捉えるのではなく、彼の行動原理や動機、そして彼が置かれた政治的・社会的な文脈をより詳細に分析しようとする試みがなされている。

例えば、歴史家の森岡健司氏は、広家の行動の根底には、吉川家にとっての利益を最優先する「打算」があったと指摘している 11 。森岡氏によれば、広家は毛利家からの出奔や独立大名化を企てた可能性もあり、従来の「忠義の武将」という一面的なイメージに疑問を呈している。広家が自身の所領の少なさや、毛利家中における吉川家の家格に不満を抱いていたこと 2 が、彼の行動原理の一つであったとする見方である。これは、前述した石見小笠原氏への養子縁組問題とも関連する指摘であり、広家の野心家としての一面を浮き彫りにする。

また、戎光祥出版から刊行されている『シリーズ・織豊大名の研究4 吉川広家』(光成準治編著) 21 のような専門的な研究書も出版されており、広家の実像と吉川家の特質について、より詳細な分析が進められている。この書籍には、吉川家の権力構造、毛利本宗家や豊臣・徳川といった統一政権との関係、さらには広家が行った城郭普請や城下町経営など、多岐にわたるテーマの論文が収録されており 21 、吉川広家という人物を、毛利家の一員としてだけでなく、独立した政治主体としての側面や、吉川家の家格向上を目指す野心家としての一面も持つ、より複雑で人間味のある存在として捉え直そうとする動きが見て取れる。

これらの研究は、吉川広家をめぐる歴史像を再構築し、彼の行動の背景にある複雑な要因を解明しようとするものである。彼の「打算」という側面は、必ずしも否定的な意味合いで語られるべきものではなく、自己(および自己の属する家)の存続と利益を最大化しようとする、戦国武将としてはむしろ合理的な行動原理であった可能性を示唆している。叔父である小早川隆景が、本能寺の変の際に羽柴秀吉の中国大返しを追撃しなかったという有名な判断 24 と、広家の関ヶ原での不戦工作という判断を比較検討することも、毛利一門における危機管理の伝統や、個々の武将の思考様式の違い、そして時代の変化を明らかにする上で有益であろう 24

終章:吉川広家が後世に遺したもの

総括と展望

吉川広家の生涯と事績を振り返ると、彼が戦国時代末期から江戸時代初期にかけての日本の歴史、とりわけ主家である毛利家の運命に、極めて大きな影響を与えた人物であったことが明らかになる。

関ヶ原の戦いにおける彼の内通と不戦工作という決断は、短期的には毛利家の大幅な減封という痛みを伴うものであった。しかし、長期的な視点で見れば、この決断こそが毛利家の改易・取り潰しという最悪の事態を回避し、その後の長州藩としての存続を可能にしたと言える。そして、この長州藩の存続が、二百数十年後の幕末維新において、日本を大きく変革する原動力の一つとなったことを考えれば、広家の行動は、意図せざる形で遠い未来の歴史の伏線となっていたと評価することも可能であろう。

広家が見せた知略、交渉力、そして何よりも家名存続という重圧の下での苦渋の決断は、現代に生きる我々に対しても、困難な状況下におけるリーダーシップのあり方や、組織が生き残るための戦略について、多くの示唆を与えてくれる。彼の行動は、単純な忠誠や裏切りといった言葉では片付けられない、複雑な人間性と時代背景の中で理解されるべきものである。

今後の研究課題としては、未発見・未公開の史料の発掘と分析を通じて、広家のより詳細な人物像や、彼の人間関係、特に黒田長政や徳川家康といったキーパーソンとの具体的なやり取りや、その背後にある相互の認識などをさらに深く解明していくことが期待される。また、岩国領主としての彼の統治政策や、それが後の岩国吉川家の発展に与えた影響についても、さらなる研究の進展が望まれる。

吉川広家の行動は、単に一個人の物語として完結するのではなく、その後の毛利家、岩国吉川家、そして日本の歴史全体へと繋がる大きな連続性の中で捉える必要がある。彼の決断がなければ、その後の歴史は大きく異なっていた可能性があり、その意味で彼は、日本の歴史における一つの重要な転換点に、深く、そして決定的に関与した人物と言えるだろう。岩国領が長州藩の支藩として独自の文化や経済を発展させ 20 、幕末に至るまで存続したことは、広家が築いた基盤の重要性を示している。彼の遺したものは、単なる領地や家名だけでなく、困難な時代を生き抜くための知恵と、未来への可能性であったのかもしれない。

引用文献

  1. 吉川広家(キッカワヒロイエ)とは? 意味や使い方 - コトバンク https://kotobank.jp/word/%E5%90%89%E5%B7%9D%E5%BA%83%E5%AE%B6-16187
  2. 吉川広家 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%90%89%E5%B7%9D%E5%BA%83%E5%AE%B6
  3. 歴史の目的をめぐって 吉川広家 https://rekimoku.xsrv.jp/2-zinbutu-07-kikkawa-hiroie.html
  4. 毛利元就ゆかりの地おすすめ19選 - 攻城団ブログ https://kojodan.jp/blog/entry/2020/03/02/161048
  5. 錦帯橋-上巻-吉川家年表 - 株式会社中野グラニット https://www.nakanog.co.jp/kintainakano26.html
  6. 吉川広家、朽木元綱、赤座直保~関ヶ原「裏切り者」たちの思惑(2) | WEB歴史街道 https://rekishikaido.php.co.jp/detail/7309?p=1
  7. 吉川広家(吉川広家と城一覧)/ホームメイト https://www.homemate-research-castle.com/useful/10495_castle/busyo/84/
  8. 岩国市史 - 錦帯橋を世界遺産に推す会 http://www.kintaikyo-sekaiisan.jp/work3/left/featherlight/images11/5.html
  9. 関ヶ原の戦いで西軍についた武将/ホームメイト - 刀剣ワールド大阪 https://www.osaka-touken-world.jp/osaka-history/sekigahara-west/
  10. 小田原征伐 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E7%94%B0%E5%8E%9F%E5%BE%81%E4%BC%90
  11. 家康に利用された吉川広家の「打算」 | 歴史人 https://www.rekishijin.com/27888
  12. 吉川広家(きっかわ ひろいえ) 拙者の履歴書 Vol.269~二つの時代を生き抜いた智将 - note https://note.com/digitaljokers/n/n0c8c1c776a71
  13. 関ケ原不戦の真意は? - 岩国吉川会 - Jimdo https://iwakunikikkawa.jimdofree.com/%E5%B2%A9%E5%9B%BD%E5%90%89%E5%B7%9D%E4%BC%9A%EF%BD%88%EF%BD%90/%E5%90%89%E5%B7%9D%E6%B0%8F%E3%81%A8%E9%96%A2%E3%82%B1%E5%8E%9F/
  14. www.city.mihara.hiroshima.jp https://www.city.mihara.hiroshima.jp/soshiki/50/168821.html#:~:text=%E5%90%89%E5%B7%9D%E5%BA%83%E5%AE%B6%EF%BC%88%E6%B0%B8%E7%A6%84,%E9%9A%86%E6%99%AF%E3%81%AE%E5%85%84%EF%BC%89%E3%81%A7%E3%81%97%E3%81%9F%E3%80%82
  15. 吉川広家書状 - 三原市ホームページ https://www.city.mihara.hiroshima.jp/soshiki/50/168821.html
  16. 吉川さんが米子に造りたかった町がそこにある?~岩国紀行 http://www.ydpro.net/diary/t/d8.html
  17. 洞泉寺 (岩国市) - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B4%9E%E6%B3%89%E5%AF%BA_(%E5%B2%A9%E5%9B%BD%E5%B8%82)
  18. 岩国藩主吉川家墓所 | いわくに文化財探訪 https://iwakuni-bunkazai.jp/bunkazai/%E5%B2%A9%E5%9B%BD%E8%97%A9%E4%B8%BB%E5%90%89%E5%B7%9D%E5%AE%B6%E5%A2%93%E6%89%80/
  19. 吉川氏史跡散策マップ https://aki-kikkawa.kitahiroshima.net/original_data/kikkawa-pamphlet.pdf
  20. 岩国吉川会 - Jimdo https://iwakunikikkawa.jimdofree.com/
  21. シリーズ・織豊大名の研究4 吉川広家 戎光祥出版|東京都千代田区 ... https://www.ebisukosyo.co.jp/sp/item/289/
  22. 江戸時代における吉川氏の扱いについて。江戸幕府は吉川氏を大名として待遇していたが、毛利本家は吉川氏の... | レファレンス協同データベース https://crd.ndl.go.jp/reference/entry/index.php?id=1000327615&page=ref_view
  23. 吉川広家 (シリーズ・織豊大名の研究4) | 光成準治 |本 | 通販 | Amazon https://www.amazon.co.jp/%E5%90%89%E5%B7%9D%E5%BA%83%E5%AE%B6-%E3%82%B7%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%82%BA%E3%83%BB%E7%B9%94%E8%B1%8A%E5%A4%A7%E5%90%8D%E3%81%AE%E7%A0%94%E7%A9%B64-%E5%85%89%E6%88%90%E6%BA%96%E6%B2%BB/dp/4864032157
  24. 関ヶ原編【吉川広家の選択】過去の成功体験の呪縛で失敗 - 戦国SWOT https://sengoku-swot.jp/swot-kikawa/