吉川経基は応仁の乱で「鬼吉川」と恐れられ、武勇と知略で吉川氏を中興。製鉄で経済基盤を固め、婚姻政策で外交網を築き、文武両道の家風を確立。毛利両川体制の礎を築いた戦略家。
室町幕府の権威が地に墜ち、日本全土が未曾有の戦乱に覆われた15世紀後半。将軍家の後継者争いと有力守護大名である細川氏・山名氏の対立が引き金となり、応仁元年(1467年)に勃発した応仁・文明の乱は、京都を焦土に変え、その後約1世紀にわたる戦国時代の幕開けを告げる画期となった 1 。この激動の時代、安芸国(現在の広島県西部)の一国人領主でありながら、中央の動乱に身を投じ、その武勇と知略をもって一族を飛躍的な発展へと導いた人物がいた。その名を吉川経基(きっかわ つねもと)という。
彼の名は、多くの場合「鬼吉川(おにきっかわ)」あるいは「俎板吉川(まないたきっかわ)」という、畏怖の念を込めた異名と共に語られる 3 。その異名が示す通り、経基は戦場において鬼神の如き強さを誇る猛将であった。しかし、彼の本質を単なる勇猛な武将としてのみ捉えることは、その実像を見誤ることに繋がる。経基は、十数名にのぼる子女を周辺の国人領主や中央の公家、そして後に中国地方の覇者となる尼子氏へと嫁がせるなど、巧みな婚姻政策を駆使した稀代の戦略家であった 6 。さらに、戦いに明け暮れる日々の中にあっても和歌や禅学に深く通じた教養人としての一面も併せ持っていた 3 。
本報告書は、この吉川経基という人物について、その93年にわたる長大な生涯を丹念に追い、彼の行動の背景にある戦略と思想を多角的に分析するものである。武勇、外交、経済、文化という各側面を個別にではなく、相互に関連付けながら解き明かすことで、彼が如何にして安芸の一国人に過ぎなかった吉川氏を「中興の祖」と称されるほどの隆盛へと導いたのか、その多面的な実像に徹底的に迫ることを目的とする。
吉川経基の人物像を深く理解するためには、まず彼が背負った「吉川氏」という家の歴史と、彼が生まれ育った安芸国大朝庄の地理的・政治的環境を把握する必要がある。彼の行動原理の根源は、この歴史と環境の中にこそ見出される。
吉川氏の祖は、藤原鎌足を始祖とする藤原南家武智麻呂の系統に連なるとされる 9 。平安時代、駿河国入江庄吉川(現在の静岡県静岡市清水区周辺)に住したことから「吉川」を称するようになった 9 。鎌倉時代には源頼朝に仕え、その功により播磨国(現在の兵庫県)に所領を得るなど、関東の御家人として確固たる地位を築いていた。
吉川氏と安芸国の繋がりは、承久3年(1221年)の承久の乱に遡る。この乱において、4代当主・吉川経光が幕府方として戦功を挙げ、その恩賞として安芸国山県郡大朝本庄(現在の広島県山県郡北広島町大朝)の地頭職を与えられた 9 。その後、5代当主・経高の代、正和2年(1313年)に一族を率いて駿河から大朝庄へと本格的に移住し、この地に土着した 9 。当初は故郷の名を冠した駿河丸城を拠点としたが 14 、南北朝時代の末期には近隣により堅固な小倉山城を築き、経基の時代にはここが吉川氏の本拠地となっていた 4 。
この歴史的背景は、吉川氏の自己認識を理解する上で極めて重要である。彼らは安芸国においては新参者であったが、その出自は鎌倉幕府の成立に貢献した名門御家人であり、幕府から直接所領を与えられたという強い自負を持っていた。一方で、安芸国には守護大名である武田氏が存在したが、吉川氏はその支配下には完全には組み込まれない「国衆(くにしゅう)」として、高い独立性を維持していた 9 。この国衆という立場こそ、常に中央の動向を注視し、時には守護を飛び越えて幕府などの上位権力と直接結びつくことで自家の浮沈を図るという、吉川氏、とりわけ経基の巧みな戦略の原点となったのである。
吉川経基は、正長元年(1428年)、吉川氏10代当主・吉川之経(ゆきつね)の嫡男として、本拠地である小倉山城で生を受けた 3 。幼名は千若と伝わる 21 。彼は並外れて強健な体躯に恵まれ、幼少期より武勇に優れた若武者として成長した。その器量は早くから頭角を現し、父・之経が当主であった時代から、既にその名代として吉川家の軍勢を率い、各地の合戦で戦功を重ねていた 3 。これは、彼が家督を継承する以前から、事実上の指導者として一族内外から認められていたことを示唆している。彼が後に見せる卓越した軍事指揮能力は、この若き日の豊富な実戦経験によって培われたものであった。
吉川経基の名を安芸の一国人から全国区の猛将へと押し上げたのが、応仁・文明の乱における彼の目覚ましい活躍であった。この大乱は、経基にとって単に武功を立てる場であるに留まらず、自らの価値を中央政権に直接示し、吉川家の政治的地位を飛躍させるための絶好の機会となった。
応仁の乱が勃発する以前から、経基は既に中央の政争に関与していた。室町幕府管領・畠山政長とその一族・義就との間で家督争いが激化すると、長禄4年(1460年)、経基は8代将軍・足利義政の命を受け、政長を支援するために出陣。翌寛正元年(1461年)には山名是豊に従い、河内国(現在の大阪府東部)で畠山義就の軍勢を打ち破る戦功を挙げている 21 。
そして応仁元年(1467年)、遂に全国規模の内乱が始まると、経基はためらうことなく細川勝元率いる東軍に属し、西軍総帥・山名宗全の軍勢と京都の市中で壮絶な死闘を繰り広げることとなる 8 。彼のこの迅速な決断は、先の畠山氏内紛での経験から、幕府中枢との繋がりを強化することの重要性を深く認識していたが故の、戦略的な行動であったと考えられる。
上洛した経基は、京都を舞台にその武勇を遺憾なく発揮する。一条高倉の合戦、武者小路今出川合戦、北小路高倉合戦、鹿苑院口の合戦など、洛中における主要な戦闘に次々と参加し、その名を轟かせた 8 。
彼の武名を不朽のものとしたのが、応仁2年(1468年)8月に京都の相国寺付近で繰り広げられた畠山義就軍との激戦である。この戦いにおいて、細川方の軍勢は畠山軍の猛攻の前に劣勢に立たされ、戦線から離脱する者が続出する危機的な状況に陥った。しかし、経基はこの絶望的な状況下にあっても全く動じることなく、配下の兵たちを叱咤激励して陣地を死守。自ら先頭に立って反撃に転じ、獅子奮迅の働きでついに畠山軍を撃退するという大功を立てた 8 。
この時の凄まじい戦いぶりは、敵味方の双方に強烈な印象を与えた。全身に無数の刀傷を負いながらも、なお猛然と戦い続けるその姿は、あたかも鬼神のようであったと伝えられる。これ以降、人々は畏敬の念を込めて彼を「鬼吉川」と呼ぶようになった。また、その体に刻まれた夥しい傷跡が、魚を捌く俎板のようであったことから「俎板吉川」とも称されたという 3 。これらの異名は、彼の比類なき武勇を物語る何よりの証左である。
応仁の乱の影響は京都だけに留まらず、やがて全国へと波及していく。備後国(現在の広島県東部)では、和智氏、宮氏、山内氏といった国人たちが西軍に与し、東軍に属していた守護・山名是豊の領地を攻撃し始めた。これに対し、将軍・足利義政は再び経基に白羽の矢を立て、是豊の救援を命じた。経基は直ちに備後へ出陣し、幕府の権威を背にこれらの国人衆を打ち破り、見事に任務を遂行した 8 。
この一連の功績に対し、足利義政は経基に多大な恩賞を与えた。石見国佐磨(現在の島根県)、そして安芸国の寺原・有馬・北方・河合といった新たな所領が加増され、吉川氏の領地は本拠地の山県郡北東部から可愛川流域の大半を包括するまでに拡大した 8 。これは、安芸守護である武田氏を介さず、将軍から直接恩賞を得たという点で画期的な出来事であった。経基は、中央の動乱を好機として捉え、自らの武功を政治的地位の向上と実利(所領拡大)に直結させたのである。これにより、彼はもはや単なる安芸の一国人ではなく、「幕府に功績を認められた有力武将」という新たな地位を確立した。
経基の戦いは乱の終結後も続いた。文明14年(1482年)には幕府の命により河内へ、文明19年(1487年)には播磨守護・赤松政則からの救援要請に応じ、播磨へと遠征している 8 。その生涯は、まさに幕府の「剣」として、戦乱の世を駆け抜けたものであった。
吉川経基の「鬼」と恐れられた武勇や、長期にわたる軍事活動を支えたものは、個人の資質や精神力だけではなかった。その背後には、本拠地である中国山地の地理的特性を活かした、巧みな領国経営と強固な経済基盤が存在した。特に、この地域で盛んであった「たたら製鉄」は、吉川氏の権力の源泉として極めて重要な役割を果たしていたと考えられる。
応仁の乱における軍功により、経基は石見国と安芸国に広大な新たな所領を獲得した 21 。これにより、吉川氏の支配領域は、本拠地である大朝庄を中心とした山県郡北東部から、可愛川流域の広範囲に及ぶこととなり、その勢力は飛躍的に増大した 21 。
これらの新たな領地を実効支配下に置くため、経基は国人領主として着実な経営を行ったと推測される。戦国時代の領主と同様に、領内の田畑の面積や収穫量を調査する検地を実施し、それに基づいて年貢を徴収したであろう 26 。そして、獲得した土地を、戦功のあった家臣たちに給分として分け与えることで、主従関係を強化し、家臣団の忠誠心を維持した。経基の時代に吉川氏に仕えた家臣には、石氏、江田氏、国衙氏など、経基の子弟が分家して創始した一族も含まれており 21 、一門衆を領内の要所に配置することで、支配体制の強化を図っていたことがうかがえる。
経基の強大な軍事力を財政的に支えた中核こそ、鉄の生産であった。吉川氏が本拠とした広島県北広島町一帯は、古来より良質な砂鉄が豊富に産出され、たたら製鉄が盛んに行われていた地域である 25 。町内からは、小見谷製鉄遺跡をはじめとする数多くの中世の製鉄遺跡が発見されており、この地が一大鉄生産地帯であったことを物語っている 25 。
中世から戦国時代にかけて、鉄は刀や槍、甲冑といった武具の原料として、軍事力を左右する最も重要な戦略物資であった。同時に、鍬や鋤などの農具の材料でもあり、農業生産力を高める上でも不可欠であった 30 。この鉄の生産と流通を掌握することは、そのまま軍事力と経済力の両方を手中に収めることを意味した。事実、後に出雲国から山陰・山陽に覇を唱えた戦国大名・尼子氏は、奥出雲の鉄生産地帯を支配下に置くことで強大な勢力を築き上げたことが知られている 32 。
吉川氏も同様に、この鉄生産を重要な経済基盤としていたことは間違いない 25 。生産された鉄は、自らの軍勢の武装を固めるだけでなく、高価な商品として他国へ輸出することで、莫大な富をもたらした。応仁の乱において、経基が10年以上にわたり京都で軍事活動を継続し、多くの家臣団を維持できたのは、この鉄がもたらす潤沢な財力があったからこそ可能だったのである。彼の「鬼」のような強さは、中国山地の豊かな資源に裏打ちされた、経済力に立脚したものであった。経基は、軍事と経済を不可分一体のものとして捉え、鉄という戦略資源を支配することで、持続可能な権力構造を構築した、優れた経営者でもあったのだ。
吉川経基の真価は、戦場での武勇や領国経営だけに留まらない。彼が「中興の祖」と称される最大の所以の一つは、自らの子女を巧みに配置することで築き上げた、広範かつ緻密な外交ネットワークにある。彼の婚姻政策は、単なる友好関係の構築を超えた、極めて高度な戦略的思考に貫かれていた。それは、①大国との戦略的提携、②周辺国衆との地域安全保障、③中央権威との結合による地位向上、という三層構造の外交戦略として分析することができる。
経基は正室・佐波秀連の娘との間に、嫡男・国経をはじめとする4男以上の男子と、記録に残るだけでも10名以上の娘をもうけた 21 。彼は、この多くの子女をいわば「外交の駒」として、安芸国という「盤上」で、自家の安泰と発展のための完璧な布陣を敷いていったのである。その全貌は、以下の表に集約される。
子女 |
続柄 |
婚姻相手 |
相手の所属勢力・背景 |
婚姻の戦略的意義 |
吉川夫人(玉保慶受) |
長女 |
尼子経久 |
出雲国守護代、後の戦国大名 35 |
将来有望な大勢力との中核的同盟の構築。 |
(氏名不詳) |
女 |
笠間刑部少輔 |
安芸・石見の国衆 7 |
領国周辺の安定化、同盟ネットワークの形成。 |
(氏名不詳) |
女 |
小河内清信 |
安芸・石見の国衆 7 |
領国周辺の安定化、同盟ネットワークの形成。 |
(氏名不詳) |
女 |
綿貫忠澄 |
安芸・石見の国衆 7 |
領国周辺の安定化、同盟ネットワークの形成。 |
(氏名不詳) |
女 |
多賀某 |
安芸・石見の国衆 7 |
領国周辺の安定化、同盟ネットワークの形成。 |
(氏名不詳) |
女 |
三須清成 |
安芸・石見の国衆 7 |
領国周辺の安定化、同盟ネットワークの形成。 |
(氏名不詳) |
女 |
波根泰次 |
石見の国衆 7 |
石見国への影響力確保、対山名氏の牽制。 |
(氏名不詳) |
女 |
気比大宮司某 |
石見の宗教的権威 7 |
地域の精神的支柱との関係強化。 |
(氏名不詳) |
女 |
万里小路賢房 |
公家(羽林家) 7 |
中央政界・朝廷とのパイプ構築、権威の向上。 |
国経 |
嫡男 |
高橋直信の娘 |
安芸の有力国衆 36 |
地域の有力国衆との連携強化。 |
経基の婚姻政策における最大の成果は、長女を尼子経久の正室として嫁がせたことであった 6 。応仁の乱で共に東軍として戦った経基は、若き経久の非凡な才覚をいち早く見抜いていた。この婚姻は、単なる友好の証ではなく、将来必ずや大勢力となるであろう経久への戦略的投資であった。事実、経久は後に山陰・山陽十一州を支配する「謀聖」と称される大名へと成長する。この強固な姻戚関係は、吉川氏の政治的地位を飛躍的に高め、西の大国・大内氏と新興勢力・尼子氏という二大勢力の間で、吉川氏が巧みに立ち回る上での重要な外交的資産となった 7 。
経基は、他の多くの娘たちを、自領の周辺に勢力を持つ安芸・石見の国人領主たち(笠間氏、小河内氏、綿貫氏、三須氏、波根氏など)へ次々と嫁がせた 7 。これは、自領の周囲を友好的な姻戚関係で固めることで、背後を脅かされる危険性を減らし、後顧の憂いを断つという、極めて現実的な安全保障戦略であった。また、石見国の気比大宮司といった宗教的権威とも縁戚関係を結ぶことで、物理的な同盟だけでなく、地域の精神的な支柱をも味方につけ、支配の正当性を強化しようとした。
経基の外交戦略の巧みさを最も象徴するのが、娘の一人を中央の公家である万里小路賢房に嫁がせている点である 7 。万里小路家は羽林家という高い家格を誇る公卿であり、地方の一国人が姻戚関係を結ぶことは異例中の異例であった。これは、応仁の乱で得た武名と地位を背景に、中央政界、ひいては朝廷との直接的なパイプを構築しようとする野心的な試みであった。この婚姻により、経基は自らの家格を高め、他の国人領主にはない「権威」をその身に纏うことに成功した。
このように、経基の婚姻政策は、大国、地域、中央という三つの異なるレベルで、それぞれ明確な目的を持って展開された、重層的かつ高度な外交戦略であった。彼は自らの子女を通じて、乱世を生き抜くための堅固な同盟ネットワークを築き上げたのである。
「鬼吉川」という武勇の誉れ高い異名は、吉川経基の一面に過ぎない。戦場での勇猛さとは対照的に、彼は和歌や文学、禅学に深く通じた当代随一の教養人でもあった。経基にとっての「文事」は、単なる個人的な趣味や慰めではなく、武家の棟梁として乱世を統治するために不可欠な資質であり、一族の権威を高めるための重要な戦略であった。
経基は、戦いに明け暮れる武人でありながら、若い頃から文学や和歌に深く親しんでいた 3 。その教養は単なる嗜みのレベルを超え、深い造詣に達していたことが記録からうかがえる。彼は自らの手で『古今和歌集』や『拾遺和歌集』、『伊勢物語』といった古典を丹念に書写しており、その一部は帝に献上されるほど見事な筆致であったと伝えられている 8 。特に、勅題(天皇から出された和歌の題)に応じて百首の和歌を詠んで献上したという逸話は、彼の歌人としての高い能力を示している 3 。現在も吉川家には、経基が自筆で記した『年中日発句』などの書物が伝えられており、彼の文化活動が単なる伝説ではなく、具体的な実態を伴うものであったことを証明している 21 。
このような文化的な素養は、当時の支配階級にとって必須の教養であった。和歌や古典の知識は、他の有力武将や守護大名、さらには公家との社交の場において、円滑なコミュニケーションと相互理解を促す共通言語として機能した。経基が中央の公家である万里小路家と姻戚関係を結ぶことができたのも、こうした高い教養があったからこそ可能であったと言えよう。
経基はまた、禅学にも深く通じていた 21 。彼は特に、鎌倉時代の高僧で東福寺の開山・聖一国師の法嗣である虎関師錬が編纂した、日本初の仏教通史『元亨釈書(げんこうしゃくしょ)』を愛読していたという 21 。単に読むだけでなく、その内容について僧侶たちと活発に議論を交わすこともあったとされ、彼の知的好奇心の旺盛さと、物事の本質を探求しようとする姿勢がうかがえる 21 。
常に死と隣り合わせの戦国武将にとって、禅の修行は精神的な支柱となり、強靭な精神力と動じない心を養う上で大きな意味を持った。経基が数々の激戦を生き抜き、不利な状況でも冷静な判断を下すことができた背景には、禅を通じて培われた死生観や精神的な安定があったと推測される。
経基が示した文武両道の姿勢は、彼一代で終わることなく、吉川家の家風として後世に色濃く受け継がれていった。その最も象徴的な継承者が、経基の曾孫にあたる吉川元春である。毛利元就の次男として吉川家に養子に入った元春は、父・元就をして「戦の巧みさでは元春に及ばぬ」と言わしめたほどの猛将であったが 25 、同時に文化を深く愛する人物でもあった。彼が陣中において軍記物語の傑作『太平記』を自ら書写したという逸話はあまりにも有名である 21 。この元春の姿は、まさしく曾祖父・経基の生き様そのものであり、経基が築いた文武両道の精神が、血の繋がりを超えて吉川家の伝統として確固として根付いていたことを示している。
経基の文化活動は、彼の武勇を補完し、彼を単なる「力の支配者」から、仁徳と教養を備えた「徳の統治者」へと昇華させる効果があった。この「文武両道」というブランド価値こそ、彼が吉川家に残した最も重要な無形の遺産の一つであった。
正長元年(1428年)に生を受け、永正17年(1520年)に没するまで、吉川経基は93年という驚異的な長寿を全うした 20 。しかも、家督を嫡男・国経に譲ったのは永正6年(1509年)、実に82歳の時であり、その生涯のほとんどを現役の当主として駆け抜けたのである 8 。この類稀なる長い統治期間は、激動の時代にあって吉川家に比類なき安定と継続的な発展をもたらした。彼の生涯は、安芸の一国人であった吉川氏を、中国地方でも屈指の有力勢力へと押し上げた「中興」の歴史そのものであった。
経基の功績を振り返ると、彼が武勇、外交、経済、文化のあらゆる面で非凡な才能を発揮し、それらを巧みに連動させていたことがわかる。
第一に、応仁の乱における「鬼吉川」としての武功は、吉川氏の名を全国に轟かせると同時に、幕府からの直接的な恩賞という形で、所領の大幅な拡大を実現した。
第二に、本拠地周辺のたたら製鉄を掌握し、それを強力な経済基盤とすることで、長期にわたる軍事活動を可能にし、一族の富を蓄積した。
第三に、十数名の子女を駆使した多層的な婚姻政策は、大国・尼子氏との強固な同盟を築き、周辺国衆との間に安全保障網を張り巡らせ、さらには中央の公家との結びつきによって家の権威を高めるという、完璧な外交戦略であった。
そして第四に、和歌や禅学に通じた深い教養は、彼を単なる武人から徳を備えた領主へと昇華させ、後世にまで続く「文武両道」の家風を確立した。
これらの功績が相互に作用し合った結果、吉川氏は経基一代のうちに、その勢力と家格を劇的に向上させた。彼が「吉川氏中興の英君」と称されるのは、まさに当然の評価と言えよう 3 。
しかし、吉川経基の歴史的意義は、自らの代で家を栄えさせたことだけに留まらない。彼の最大の功績は、その後の吉川氏が、毛利氏という巨大な勢力圏の中で吸収・再編される際に、最高の条件で迎え入れられ、繁栄を続けるための「価値」と「基盤」を創出した点にある。
戦国時代、多くの国衆は、より大きな戦国大名に滅ぼされるか、あるいは名ばかりの家臣として吸収されていった。吉川氏もまた、経基の曾孫・興経の代に、毛利元就の次男・元春を養子に迎える形で、事実上毛利氏の傘下に入ることになる 13 。しかし、それは単なる吸収ではなかった。吉川家は、元就の三男・隆景が継いだ小早川家と共に、毛利宗家を支える両翼「毛利の両川(りょうせん)」として、破格の待遇と独立性を与えられたのである 13 。
なぜ、このような特別な地位を得ることができたのか。その答えは、経基が築き上げた遺産にある。毛利元就にとって、当時の吉川家は喉から手が出るほど欲しい魅力的な資産の塊であった。経基が育て上げた強力な家臣団と軍事力、鉄生産に支えられた豊かな経済力、周辺国衆との広範な同盟ネットワーク、そして「鬼吉川」以来の高い武名と文武両道の家格。これら全てが、山陰地方への進出を狙う元就にとって、計り知れない価値を持っていた。元就は、この吉川家という完成された組織をそっくり手に入れるために、自らの次男を送り込んだのである。
もし経基の「中興」がなければ、吉川家は毛利氏にとってこれほど魅力的な存在とはなり得なかったであろう。毛利の両川体制という、中国地方の歴史を大きく動かした政治体制が成立した背景には、その礎を一代で築き上げた吉川経基の存在があった。彼は、自らの手で家を再興し、その価値を最大限に高めることで、形は変われども一族が後世まで繁栄する道筋をつけた、究極の戦略家であったと言える。
吉川経基が没してから500年以上の歳月が流れた。しかし、彼が活躍した広島県北広島町では、今なおその記憶が息づいている。彼の武勇にちなんで名付けられたどぶろく「鬼吉川」が、地元の酒造会社によって製造・販売され、地域の名産品として親しまれている 18 。一人の武将の生き様が、時代を超えて地域の文化となり、人々に語り継がれている。それは、吉川経基が残した遺産の大きさを、静かに物語っているのかもしれない。