吉松光久は長宗我部元親の娘婿。本山氏から降伏後、一門衆となる。万々城主。早逝説は否定され、元親側近として活躍した可能性が高い。
土佐の戦国史を語る上で、長宗我部元親の四国統一という偉業は中心的な主題となる。その輝かしい成功の影には、元親に仕え、その覇業を支えた数多の武将たちの存在があった。しかし、その中には、長宗我部元親の娘婿という破格の待遇を受けながら、その後の消息が歴史の霧の中に消えてしまった人物がいる。それが、本報告書で主題とする吉松光久(よしまつ みつひさ)である。
一般的に吉松光久について知られている情報は、「土佐の有力国人・本山氏の家臣であったが、長宗我部元親の攻撃を受けて降伏。後に元親の娘を妻とし、一門衆として重用された」というものに限られる 1 。この情報は、彼の生涯における重要な転換点を示していると同時に、数多くの謎への入り口でもある。なぜ元親は旧敵の家臣に娘を与えたのか。一門衆という最高の地位を得たはずの光久は、その後どのような活躍を見せたのか。そして、なぜ彼の名は歴史の表舞台から忽然と姿を消してしまったのか。
本報告書は、この謎多き武将、吉松光久の実像に可能な限り迫ることを目的とする。そのために、光久個人の生涯を追跡するに留まらず、彼が属した吉松氏、そしてその本家筋にあたる秦泉寺(じんぜんじ)氏という一族の源流にまで遡る。さらに、当初の主君であった本山氏の盛衰と、新たな主君となった長宗我部元親の巧みな統治戦略という、より大きな歴史的文脈の中に彼を位置づけることで、一人の武将の運命を通して、戦国時代の土佐で繰り広げられた権力闘争の力学を立体的に解き明かすことを目指す。
この調査を進めるにあたり、史料上の大きな課題が存在する。光久に関する記録は断片的であるばかりか、しばしば「吉松掃部頭茂景(よしまつ かもんのかみ しげかげ)」という近親者と思われる人物の事績と混同されて記されている 2 。この情報の錯綜は、彼の生涯を追う上での大きな障害となる。したがって、本報告書では、現存する各種系図、軍記物、城郭調査記録などを丹念に比較検討し、情報の信頼性を吟味しながら、最も蓋然性の高い人物像を再構築していく。吉松光久という一人の武将の謎を解き明かす旅は、戦国時代の地方史研究における史料批判の重要性と、歴史の記録からこぼれ落ちた人々の物語を再発見する意義を、我々に示してくれるであろう。
本報告書で扱う複雑な人物関係と出来事の時系列を視覚的に整理し、読者の理解を促進するため、以下に吉松光久とその周辺に関わる年表を提示する。この年表は、本報告全体の議論の土台となるものである。
年号(西暦) |
吉松光久および一族の動向 |
主君・関連勢力の動向 |
土佐における主要な出来事 |
鎌倉時代 |
吉松播磨守光義、秦泉寺城を築城したと伝わる 3 。 |
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天文8年(1539年) |
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長宗我部元親、岡豊城にて誕生 4 。 |
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弘治2年(1556年) |
秦泉寺城主・吉松掃部頭茂景、長宗我部国親の攻撃を受ける 2 。 |
長宗我部国親、本山氏配下の秦泉寺城を攻撃。 |
長宗我部氏と本山氏の抗争が激化。 |
永禄3年(1560年) |
吉松掃部頭茂景、長宗我部元親に再度攻撃され降伏 6 。秦泉寺城から万々城へ移される 2 。 |
長宗我部元親、初陣である長浜の戦いで本山氏に勝利 4 。 |
長宗我部氏の勢力が土佐中央部で拡大。 |
永禄3年(1560年)頃 |
吉松光久、万々城主として本山氏に仕えていたが、元親の攻撃を受け降伏 7 。 |
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永禄6年(1563年) |
子・吉松光勝が土佐郡大河内城主となる 7 。この記録が光久の「早逝説」の根拠となる。 |
長宗我部元親、美濃斎藤氏より正室を迎える 4 。本山茂辰、朝倉城を放棄 9 。 |
長宗我部氏、仁淀川以東をほぼ掌握。 |
永禄11年(1568年) |
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本山氏当主・本山親茂(貞茂)が元親に降伏。戦国大名としての本山氏は滅亡 9 。 |
長宗我部氏による土佐中部の平定が完了。 |
永禄12年(1569年) |
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長宗我部元親、安芸国虎を滅ぼし土佐東部を平定 4 。 |
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時期不明 |
吉松光久、元親の四女を娶り一門衆となる(ただし年代に矛盾あり) 8 。 |
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天正3年(1575年) |
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長宗我部元親、四万十川の戦いで一条氏を破り、土佐を統一 4 。 |
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天正16年(1588年) |
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長宗我部元親の命により、中島親吉が秦泉寺掃部・豊後父子を誅殺 10 。 |
長宗我部政権下で、旧勢力の粛清が行われる。 |
元和元年(1615年) |
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大坂夏の陣で長宗我部盛親が敗死。大名としての長宗我部氏は滅亡 11 。 |
一国一城令により、土佐国内の多くの城が廃城となる 12 。 |
吉松光久という人物を理解するためには、まず彼が属した「吉松氏」という一族の出自と、土佐国におけるその立ち位置を把握する必要がある。諸史料を紐解くと、吉松氏は単独で存在したわけではなく、土佐郡の有力国人であった秦泉寺氏と極めて密接な、いわば不可分な関係にあったことが浮かび上がってくる。
吉松氏の出自について、『群書系図部集』などの系図資料は、彼らを清和源氏、特に源為義の後裔であると記している 8 。これは戦国時代の武将が自らの家格と権威を高めるために、高貴な血筋を称する典型的な例であり、その信憑性については慎重な検討を要する。しかし、重要なのは、彼らが他国から来た新興勢力ではなく、古くから土佐の地に根を張っていた在地領主、すなわち「国人」であったという点である 7 。
その歴史は古く、南北朝時代の史料には、土佐国内の地名として「吉松名」が登場しており、この頃にはすでに一族がその地を拠点としていた可能性が示唆されている 13 。戦国期に入ると、吉松光久の父は吉松播磨守光義であったとされ 8 、この光義こそが、後に一族の拠点となる秦泉寺城を築いた人物であるとも伝えられている 3 。このように、吉松氏は土佐の歴史の中に深く根を下ろした一族であった。
吉松氏の動向を追う上で、決して切り離すことのできない存在が秦泉寺氏である。複数の史料は、吉松氏を「泰泉寺(秦泉寺)氏の一族」あるいは「枝連衆(えだれんじゅう)」と明確に記している 5 。これは、吉松氏が秦泉寺氏の分家、もしくは極めて近しい血縁関係にある同族集団であったことを意味する。
秦泉寺という地名は、現在の高知市北部に位置し、古代には寺院が建立されていた歴史を持つ 15 。この地を名字の地とする秦泉寺氏は、土佐郡において古くからの影響力を持つ有力な豪族であった 10 。吉松氏は、この秦泉寺氏の勢力圏を基盤とし、その一翼を担う存在だったのである。したがって、吉松光久の行動原理や立場を理解するためには、常にこの本家筋ともいえる秦泉寺氏の動向を視野に入れておく必要がある。
吉松光久の生涯を追う上で、最初に直面する大きな問題が、史料に登場する人物の混同である。長宗我部氏に降伏し、万々城(ままじょう)に関わった吉松氏の人物として、史料には「吉松光久」 1 と「吉松掃部頭茂景(よしまつ かもんのかみ しげかげ)」 2 という二つの名が見られる。
両者の経歴は驚くほど酷似している。茂景は「秦泉寺城主」であり、長宗我部元親に降伏した後、「万々城へ移された」と記録されている 2 。一方で、光久は「万々城主」として登場し、同じく元親に降伏している 7 。これは、同一の出来事を異なる人物の事績として記録している可能性が極めて高いことを示唆している。
この混乱をどう解釈すべきか。両者を全くの同一人物と見なすことも可能だが、官途名と通称という名称の違いを考慮すると、より蓋然性の高い仮説が浮かび上がる。それは、両者が父子や兄弟といった極めて近しい関係にあったとする「近親者説」である。「掃部頭」という正式な官途名を持つ茂景が一族の当主格であり、通称「十右衛門」で呼ばれる光久はその子か弟であったと考えるのが最も自然な解釈であろう。
この仮説に立てば、一連の出来事は次のように再構成できる。すなわち、一族の当主である吉松茂景が、長宗我部氏との降伏交渉の主体として行動した。そして、降伏後、一族が長宗我部体制下で生き残るための証として、茂景の子弟である光久が元親の娘を娶り、新たな主君との間に強固な関係を築く役割を担った。このように、一族の存亡をかけた重要な局面で、二人がそれぞれ異なる役割を果たしたと考えることで、史料間の矛盾を合理的に説明することができる。
後世の記録者が、この一族全体の動向を、より象徴的な人物(元親の娘婿となった光久、あるいは当主の茂景)の功績として集約して記述した結果、現在の史料に見られるような混同が生じたのではないだろうか。この人物特定の混乱こそが、吉松光久の生涯を追う上での最初の関門であり、本報告書が解き明かすべき中心課題の一つである。
吉松光久が歴史の表舞台に登場する際、彼の身分は「本山氏の家臣」であった 7 。長宗我部元親が台頭する以前の土佐中央部において、本山氏は圧倒的な権勢を誇る大名であり、吉松氏のような国人はその支配体制に組み込まれていた。彼が城主であったとされる万々城の戦略的な位置づけを解明することは、本山氏における吉松氏の重要性を理解する上で不可欠である。
本山氏は、現在の高知県長岡郡本山町を本拠とし、「土佐七雄」の一角に数えられる有力な戦国大名であった 17 。その勢力は長岡郡から土佐郡、吾川郡にまで及び、土佐中央部を支配下に置いていた 9 。特に、長宗我部氏とは長年にわたる宿敵関係にあり、永正5年(1508年)には、他の豪族と連合して長宗我部元親の祖父にあたる兼序を岡豊城(おこうじょう)で自害に追い込み、長宗我部氏を一時滅亡寸前にまで追い詰めた歴史を持つ 9 。
このような強大な本山氏の家臣団の一員として、吉松光久(および彼の一族)は、宿敵・長宗我部氏との勢力圏が接する最前線に配置されていたのである 19 。
吉松光久が城主であったと伝えられる万々城は、現在の高知市中万々地区にその跡地が残る 20 。この城は、高知平野の西部に位置し、平野全体を見渡すことのできる比高20メートルから25メートルほどの丘陵上に築かれていた 2 。
城郭の構造を見ると、主郭の背後(北側)を深く巨大な堀切で断ち切り、尾根続きからの敵の侵入を遮断している 2 。さらに、主郭の南側斜面には大規模な竪堀が複数設けられており、麓からの攻撃に対する防御も固められていたことがわかる 21 。これらの遺構は、万々城が単なる見張り台ではなく、相応の兵力を収容し、本格的な籠城戦にも耐えうる堅固な山城であったことを物語っている。
万々城の地理的・軍事的価値は、当時の土佐の勢力図の中に置くことで一層明確になる。この城は、北に広がる本山氏の支配領域と、南に本拠を構える長宗我部氏の支配領域とが衝突する、まさに境界線上に位置していた。
本山氏の視点から見れば、万々城は二重の戦略的意味を持っていた。第一に、長宗我部氏の本拠である岡豊城を南東に望む位置にあり、敵の動向を監視し、機を見て攻撃を仕掛けるための「攻撃拠点」としての役割である。第二に、長宗我部氏が北進してくる際の最初の障壁となる「防衛拠点」としての役割である。この城を失うことは、本山氏にとって自領の中枢部への門戸を開かれることを意味した。
この城を任されていたという事実は、吉松氏が本山家臣団の中で、単なる一兵卒ではなく、武勇と忠誠を高く評価され、国境線の防衛という極めて重要な任務を託された有力武将であったことを強く示唆している。
一部の伝承には、「秦泉寺城にいた吉松氏が、長宗我部元親によってここ(万々城)に移された」というものがある 22 。これは、一般的に知られる「降伏後に移された」という説 2 とは逆の順序であるが、もしこの移転が本山氏の命令によるものであったと仮定するならば、それは対長宗我部戦線の防備を強化するための戦略的な配置転換であったと解釈することも可能である。いずれの説を取るにせよ、吉松氏と万々城が、本山・長宗我部両氏の存亡をかけた争いの最前線に立たされていたことは疑いようがない。吉松光久は、この緊迫した状況下で、一城の主としてその武威を示していたのである。
永禄年間に入ると、土佐の勢力図は劇的に変化する。長宗我部元親の台頭により、長年土佐中央部に君臨してきた本山氏は急速に衰退し、それに伴い、本山氏の家臣であった吉松光久もまた、その生涯を大きく左右する決断を迫られることになった。降伏という屈辱を経て、彼は新たな主君・元親の下で「一門衆」という特別な地位へと転身を遂げる。この過程は、元親の巧みな統治戦略と、そこに潜む史料上の重大な矛盾を浮き彫りにする。
長宗我部氏の反攻の狼煙は、永禄3年(1560年)5月の長浜の戦いであった。この戦いで元親は、父・国親の代からの宿敵であった本山氏の軍勢を破り、鮮烈な初陣を飾る 4 。この勝利を契機に、長宗我部氏の勢いは増し、逆に本山氏は防戦一方へと追い込まれていった 9 。
この長宗我部氏の怒涛の進撃の過程で、その最前線にいた吉松氏も標的となった。史料によれば、秦泉寺城主であった吉松掃部頭茂景は、まず弘治2年(1556年)に元親の父・国親による攻撃を受け、さらに永禄3年(1560年)には元親自身による攻撃に晒される 2 。度重なる攻撃の末、ついに吉松氏は長宗我部氏に降伏した 6 。この降伏に伴い、一族は本拠であった秦泉寺城を明け渡し、万々城へと移されたと伝えられている 2 。吉松光久の降伏も、この一連の流れの中で行われたものと考えられる 7 。
降伏した吉松光久に対し、長宗我部元親は意外な処遇を示す。自らの娘を光久に嫁がせ、正室として迎えさせたのである 7 。これは、元親が土佐統一の過程で多用した、旧敵対勢力を体制内に取り込むための巧みな「姻戚政策」の一環であった。
元親はこの手法を効果的に用いている。例えば、土佐国司であった名門・一条氏を追放した後、その子である一条内政に長女を嫁がせ、傀儡として大津御所に置いた 4 。また、実弟・吉良親貞の子で甥にあたる吉良親実や、有力家臣である佐竹親直にも娘を嫁がせ、一門としての結束を固めている 24 。
これらの事例から、元親の政治的計算が見て取れる。婚姻という血縁関係を結ぶことで、降伏したばかりで潜在的な不満分子となりかねない旧敵対勢力を「一門衆」という特別な地位に引き上げ、破格の待遇を与える。これにより、彼らの忠誠心を確保すると同時に、他の国人領主たちに対して自らの度量の広さと威信を示し、支配体制を盤石なものにしようとしたのである 4 。吉松光久を娘婿に迎えたのも、吉松氏が秦泉寺一族として土佐郡に有していた影響力を無視できず、彼らを味方に取り込むことが、土佐中央部の安定支配に不可欠であると判断したためであろう。
しかし、この婚姻に関する記述には、通説を根底から揺るがす重大な矛盾が存在する。複数の二次資料が、光久の妻を「元親の四女」と具体的に記しているのである 8 。この記述が事実だとすれば、光久は元親から極めて高い評価を受けていたことになる。
ところが、年代を追って検証すると、この話が成り立たないことが明らかになる。一次史料に近い軍記物『土佐物語』や各種記録によれば、長宗我部元親が正室(美濃斎藤氏の娘・元親夫人)を迎えたのは、永禄6年(1563年)のことである 4 。したがって、彼らの間に四人目の娘が生まれるのは、どんなに早く見積もっても1570年代以降となる。
一方で、吉松氏が降伏したのは永禄3年(1560年) 2 。そして、光久の「早逝説」の根拠とされる、その子・光勝が城主になったという記録は永禄6年(1563年)である 7 。つまり、光久が元親に降伏し、結婚して子をもうけたとされる時期に、妻となるべき「元親の四女」はまだ生まれてさえいなかったのである。
この決定的な年代の矛盾は、吉松光久に関する伝承の信憑性を根本から問い直すものである。考えられる可能性は複数ある。
いずれにせよ、この婚姻に関する情報の再検討なくして、吉松光久の実像に迫ることはできない。通説がいかに不確かな土台の上に成り立っているかを明らかにしたこの矛盾点こそ、彼の謎多き生涯を解くための最も重要な鍵となるのである。
長宗我部元親の娘婿となり、一門衆という輝かしい地位を得たはずの吉松光久。しかし、その後の彼の活躍を具体的に伝える史料は乏しく、多くの記録は彼が早くに亡くなったとする「早逝説」を採用している 7 。だが、この説の根拠を詳細に検討し、関連する地名の特定を精密に行うと、通説とは全く異なる光久の後半生の姿が浮かび上がってくる。
光久が早くに亡くなったとする説の根拠は、ただ一つ、「永禄6年(1563年)に子・光勝が土佐郡大河内城主となっている」という記録である 7 。この記録から、「父である光久がこの時すでに亡くなっていたため、子の光勝が家督を継いで城主となった」と解釈され、光久の「早逝説」が形成された。
しかし、この解釈はあまりにも短絡的であり、戦国時代の慣習を考慮すると極めて脆弱であると言わざるを得ない。戦国期において、父が存命中に子が別の城を与えられて分家を立てる例や、父が主君の側近として中央の居城に詰めることになったため、旧来の領地を子に任せる例は決して珍しくない。例えば、長宗我部元親自身も、弟の親貞を吉良氏へ、親泰を香宗我部氏へ養子に出し、それぞれに領地と城を与えている 4 。これは兄弟の死を意味するものではなく、一族による支配領域の拡大と安定化を目的とした戦略であった。
したがって、「子の光勝が城主になった」という事実だけをもって、父・光久の死を直接結びつけることはできない。この唯一の根拠が揺らぐ以上、「早逝説」そのものを見直す必要がある。
「早逝説」を再検討する上で、決定的に重要なのが、子・光勝が城主となった「大河内城」の場所を正確に特定することである。
「大河内城」という名は、伊勢国司・北畠氏の拠点として織田信長との激しい籠城戦が繰り広げられた、三重県の著名な城を想起させる 30 。もし光勝がこの伊勢の大河内城主になったとすれば、それは長宗我部氏が織田政権下で伊勢に何らかの権益を得たことを意味するが、そのような事実を示す史料は存在しない。
この謎を解く鍵は、高知県内の地名と城郭を丹念に調査することにある。その結果、土佐国に「高知県高知市鏡大河内(かがみ おおがち)」という地名と、同名の城跡が実在することが確認された 33 。この土佐・大河内城は、高知平野を流れる鏡川の上流、山間に位置する平山城であり、遺構の規模から城館であったと推定されている 34 。
この城の特定は、光久の後半生を考察する上で全く新しい視点を提供する。子の光勝が城主となったのは、遠く離れた伊勢ではなく、土佐国内に実在した大河内城だったのである。この城の立地から推測されるのは、長宗我部氏の支配領域における内陸部の防衛拠点、あるいは一門や有力家臣に与えられる知行地としての役割である。
つまり、「光勝が大河内城主になった」という出来事は、父・光久の「早逝」を示すものではなく、むしろ吉松一族が長宗我部家臣団として正式に組み込まれ、土佐国内に新たな所領を安堵されたことを示す具体的な証拠と解釈できるのである。これは一族の「没落」ではなく、「安泰」を意味する出来事であった可能性が高い。
土佐・大河内城の特定により、「早逝説」の根拠は完全に覆された。さらに、この説は他の伝承とも矛盾する。ゲームの列伝などに見られる「以後は一門衆として各地の合戦で活躍した」という記述 1 は、創作の要素を含む可能性はあるものの、光久が降伏後も活動を続けたというイメージが一定程度流布していたことを示しており、「早逝説」とは相容れない。
では、永禄6年以降の光久はどこで何をしていたのか。記録から名が消えた理由について、いくつかの新たな仮説を構築することができる。
以上の検討から、「早逝説」は証拠不十分であり、むしろ多くの矛盾を内包していると結論付けられる。吉松光久は永禄6年以降も生存し、長宗我部家の一門衆として活動を続けたと考える方がはるかに合理的である。彼の後半生が記録から消えたのは、彼の死を意味するのではなく、戦国期における記録の不完全性と、武将の役割の変化という、より複雑な歴史的背景によるものと考察される。
吉松光久の後半生が謎に包まれている一方で、彼の一族、特に本家筋にあたる秦泉寺氏の末路は、悲劇的な事件として記録されている。この事件は、長宗我部政権下における「降将」の危うい立場を浮き彫りにし、吉松一族のその後の運命を暗示するものであった。
父・光久に代わり、土佐郡大河内城主となったとされる吉松光勝だが、その後の具体的な活動を伝える史料は皆無である 36 。彼は長宗我部家臣団の一人として、父から受け継いだ所領を治め、主家の命に応じて軍役などを果たしていたものと推測されるが、歴史の表舞台で名を馳せることはなく、多くの戦国武将と同様に、記録の海の中へと埋もれていったものと考えられる。
吉松一族の運命を考える上で、無視できないのが天正16年(1588年)に発生した「秦泉寺父子誅殺事件」である。
この事件の概要は、以下の通りである。秦泉寺郷の農民と、隣接する土佐郡一宮の郷民との間で水利などを巡る争いが起こり、一宮側の郷民が殺害されるという事態に発展した。一宮の神職側は犯人である農民の引き渡しを要求したが、当時の秦泉寺氏当主であった秦泉寺掃部(かもん)はこれを拒否した。この対応に長宗我部元親は激怒し、家臣の中島大和守親吉に誅殺を命令。親吉は主命に従い、秦泉寺掃部とその子である豊後守泰惟(ぶんごのかみ やすこれ)の父子をともに討ち果たした 10 。一説には、父子が元親への謀反を企てたためとも言われるが、その真相は定かではない 5 。
この事件は、長宗我部政権の内部力学の変化と、旧勢力の淘汰という側面から分析する必要がある。事件が起きた天正16年は、元親にとって苦難の時期であった。2年前の戸次川の戦いで最愛の嫡男・信親を失い、後継者問題を巡って家中は動揺していた。また、豊臣秀吉による九州平定を経て、長宗我部氏は豊臣政権下の一大名という立場に組み込まれ、国内の支配体制をより強固なものにする必要に迫られていた。
このような状況下で、かつては本山氏に属し、潜在的な不満分子と見なされかねない旧勢力(秦泉寺氏)が、領民同士の争いという些細なきっかけで体制に不服従の態度を示した。これを元親は、自らの権威に対する重大な挑戦と受け取ったのではないか。そして、家中の引き締めと支配の徹底を示す見せしめとして、容赦なく粛清に踏み切ったと考えられる。かつては敵対しながらも降伏を受け入れ、体制に組み込んだ勢力であっても、ひとたび障害となれば切り捨てるという、元親の統治スタイルの変質、あるいは天下人への道を絶たれた後の非情な現実主義を、この事件は象徴している。
吉松光久がこの時点で存命だったとすれば、本家筋にあたる秦泉寺一族の悲劇は、長宗我部家における自らの危うい立場を再認識させるに十分な衝撃であったに違いない。元親の娘婿という立場であっても、決して安泰ではない。主君の意向一つで、一族の運命が反転しうるという戦国時代の厳しさを痛感したことであろう。
慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いを経て長宗我部氏が改易されると、吉松一族のその後の動向は、他の多くの家臣たちと同様に、歴史の記録から途絶える。しかし、時代は下って幕末の土佐藩において、再び「吉松」の名が歴史に現れる。戊辰戦争の鳥羽・伏見の戦いや会津戦争で官軍として活躍した土佐藩士・吉松速之助(よしまつ はやのすけ)である 38 。彼と戦国期の吉松光久との直接の系譜関係は不明であるが、吉松姓の一族が武士としての家系を保ち、土佐の地で存続していたことを示す興味深い事例と言える。
本報告書は、戦国時代の土佐を生きた武将・吉松光久について、断片的な史料を統合・分析し、その実像に迫ることを試みた。調査の結果、彼の生涯は、通説で語られる以上に複雑で、多くの謎と歴史的背景を内包していることが明らかになった。
吉松光久は、土佐中央部の有力国人・秦泉寺氏の一族として生まれ、当初は地域の大勢力であった本山氏に仕えた。彼は、長宗我部氏との勢力争いの最前線である万々城を任されるなど、主家から信頼される有力な武将であった。しかし、時代の趨勢は長宗我部元親に傾き、光久の一族は降伏という決断を迫られる。降伏後、彼は元親の娘婿に迎えられるという破格の待遇を受け、長宗我部家の「一門衆」という特別な地位を与えられた。彼の生涯は、強大な勢力の狭間で生き残りをかけて戦い、そして新たな支配体制に巧みに適応していった、戦国地方武士の典型的な姿を映し出している。
一方で、彼の後半生が歴史の記録からほとんど消え去ってしまった「謎」については、その本質が「早逝」や「無能」といった単純な理由によるものではないことが判明した。その要因は複合的である。
第一に、史料の錯綜である。一族の当主格であった「吉松掃部頭茂景」の事績と光久のそれが混同され、人物像が不鮮明になっている。
第二に、年代記述の矛盾である。「元親の四女」を娶ったとする伝承は、元親の婚姻年と照らし合わせると年代的に成立せず、この婚姻に関する情報の信憑性そのものが揺らいでいる。
第三に、記録の散逸と役割の変化である。「早逝説」の唯一の根拠であった「子の光勝が大河内城主になった」という記録は、土佐国内の城郭を特定することで、むしろ一族の安泰を示す証拠へと反転した。光久は早逝したのではなく、元親の側近としてより中枢的な役割を担ったため、あるいは単に彼の活躍を記した一次史料が失われたために、記録から名が消えたと考える方が合理的である。
元親の娘婿という最高の地位を得ながら、その後の具体的な活躍が伝わらないという「記録の空白」は、彼の存在を軽んじる根拠にはならない。むしろそれは、歴史の記録というものが、いかに勝者や中心人物の視点で編まれ、多くの人々の生涯がその隙間からこぼれ落ちていくかを我々に教えてくれる。吉松光久の物語は、本家筋である秦泉寺氏の誅殺事件に見られるように、一度は厚遇された降将が常に抱えていたであろう緊張感と危うさをも内包している。
最終的に、吉松光久の生涯を追うことは、歴史の表舞台に立つ英雄たちの物語の裏で、無数の武将たちが経験したであろうリアルな葛藤と運命に光を当てる作業であったと言える。彼の物語は、断片的な史料の点と点をつなぎ合わせ、その行間に潜む矛盾を読み解き、論理的な推論を重ねることで初めてその輪郭を現す。これこそが、歴史を探求する学問の醍醐味であり、本報告書が目指したものである。吉松光久は、記録の狭間に消えた、しかし確かに戦国を生きた一人の武将として、我々の前にその姿を現したのである。