最終更新日 2025-07-28

吉良義昭

吉良義昭は三河の名門吉良氏の当主。今川氏の後援で家督を継ぐが、桶狭間後は徳川家康と対立。善明堤で勝利するも藤波畷で敗れ降伏。三河一向一揆で再起を図るも鎮圧され、三河を追放され摂津で戦死。

名門の落日 ― 戦国武将・吉良義昭の生涯と時代

はじめに

戦国時代の三河国にその名を刻む武将、吉良義昭。彼の生涯は、生没年すら定かではなく、その実像は断片的かつ錯綜した史料の向こう側に霞んでいる 1 。一般的には、徳川家康の三河統一に最後まで抵抗し、三河一向一揆に加担して敗れ去った「反逆者」として記憶されているかもしれない。しかし、彼の人生を深く掘り下げると、それは単なる一地方領主の反乱物語に留まらない、より大きな歴史のうねりが凝縮されていることに気づかされる。

吉良義昭の戦いは、室町時代から続く旧来の権威と秩序の象徴であった名門・吉良氏が、実力主義という戦国の新たな論理を体現する新興勢力・徳川氏の前にいかにして終焉を迎えたかを示す、象徴的な事例である。本報告書は、吉良義昭を単なる「時代の敗者」として片付けるのではなく、その出自、複雑な家督相続の経緯、徳川家康との死闘、そして没落後の流転の生涯を、現存する史料に基づき多角的に分析し、徹底的に解明することを目的とする。彼の行動原理と、彼が生きた時代の力学を解き明かすことで、戦国という時代の転換期における権威の変質と、ある名門一族の落日の実相に迫りたい。

吉良義昭 略年表

年代 (西暦)

出来事

関連人物

生年不詳

西条吉良氏当主・吉良義堯の三男として誕生 2

吉良義堯

天文18年 (1549) 頃

兄・義安が織田方に与して今川氏に捕縛される。義昭は今川方に協力し、今川義元の命により東西両吉良氏の当主となる 2

今川義元、吉良義安、織田信秀

弘治元年-3年 (1555-57)

【異説】兄・義安が今川氏に再度反乱(三河忩劇)を起こし追放され、結果として義昭が当主となる 2

今川義元、吉良義安

永禄3年 (1560)

桶狭間の戦いで今川義元が戦死。義昭は強力な後援者を失う 1

今川義元、織田信長、松平元康

永禄4年 (1561) 4月

善明堤の戦い 。松平元康(徳川家康)軍を奇計で破り、重臣・松平好景を討ち取る 1

松平元康、松平好景、富永忠元

永禄4年 (1561) 9月

藤波畷の戦い 。家臣・富永忠元が戦死し、東条城を開城。家康に降伏し、岡崎で監視下に置かれる 1

松平元康、富永忠元、本多広孝

永禄6年 (1563)

三河一向一揆 が勃発。これを機に再起を図り、一揆勢の主将として蜂起。一時、東条城を奪還する 1

松平家康

永禄7年 (1564)

一揆勢が鎮圧され、義昭も敗北。三河国からの逃亡を余儀なくされ、在地領主としての吉良氏は滅亡する 1

松平家康

永禄7年 (1564) 以後

近江国の六角承禎を頼り亡命 2

六角承禎

没年不詳 (伝承)

摂津国芥川城にて戦死したと伝えられる 1

(不詳)

第一章:足利一門の名家・吉良氏の権威と構造

吉良義昭の行動を理解するためには、まず彼が背負っていた「吉良」という名の重みを認識する必要がある。彼の誇りと悲劇は、この名門の歴史そのものに深く根差している。

第一節:清和源氏足利氏の嫡流 ― 「御所が絶えれば吉良が継ぐ」

吉良氏の出自は、鎌倉時代の清和源氏足利氏の当主・足利義氏の長子である長氏に遡る 10 。長氏は、所領であった三河国幡豆郡吉良荘を名字とし、ここに三河吉良氏の歴史が始まった。足利一門の中でもその家格は群を抜いて高く、室町幕府においては将軍家に次ぐ「御一家(御三家)」の筆頭に位置づけられた 9

その権威は、「御所(足利将軍家)が絶えれば吉良が継ぎ、吉良が絶えれば今川が継ぐ」という言葉に象徴される 5 。これは、吉良氏が足利将軍家の血統が途絶えた際の継承権を持つと見なされていたことを示すものであり、幕府の儀礼や政治秩序において、三管領家(斯波・細川・畠山)をも上回る別格の存在であった。しかし、この極めて高い家格は、逆に幕政の中枢から距離を置かせる要因ともなり、守護大名として広大な領国を形成するには至らなかった。彼らの力の源泉は、軍事力や経済力といった実質的なものではなく、血統に由来する「権威」という無形の資産に大きく依存していたのである。

この事実は、戦国時代という実力が全てを決定する時代において、吉良氏が抱える構造的な脆弱性を示唆している。旧来の秩序が崩壊していく中で、過去の権威はもはや絶対的な力の保証とはなり得なかった。吉良義昭が、新興勢力に過ぎない松平氏(後の徳川氏)に対して一歩も引かず、徹底抗戦の道を選んだ背景には、この名門としての過剰なまでの自負心と、時代との深刻な乖離があったと考えられる。

第二節:西条と東条 ― 分裂した三河の拠点

吉良氏の本拠地である三河国吉良荘は、中央を流れる古矢作川を境として、西側の「西条」と東側の「東条」に地理的に区分されていた 14 。この地理的区分は、やがて一族の分裂へと繋がっていく。

南北朝時代、吉良満義の子である長男・満貞が西条を、弟の尊義が東条をそれぞれ本拠としたことにより、三河吉良氏は西条吉良氏(本家)と東条吉良氏(分家)の二つに分裂した 3 。両家は、室町時代を通じて足利一門の名家としての地位を保ちつつも、時には領地や家格を巡って互いに対立・抗争を繰り返した。応仁の乱では、西条吉良氏が東軍、東条吉良氏が西軍に与したとも伝えられるなど、その対立は根深いものであった 9

吉良義昭は、このうち本家筋にあたる西条吉良氏の当主・吉良義堯の子として生を受けている 2 。彼が家督を継承する頃には、この東西両家の関係性は、外部勢力である今川氏や織田氏の三河進出と複雑に絡み合い、一族の運命を左右する極めて重要な政治的要素となっていた。義昭の生涯は、この分裂した一族の内部事情に大きく翻弄されることになるのである。

第二章:乱世に翻弄された家督相続 ― 今川氏の影

吉良義昭が歴史の表舞台に登場する過程は、単純な家督相続とは程遠い、兄弟間の複雑な関係と、隣国の大勢力・今川氏の政治的思惑が交錯する、極めて不安定なものであった。彼の権力基盤は、その成立の時点から外部の力に依存するという、致命的な脆弱性を内包していた。

第一節:複雑な兄弟関係と相続問題

西条吉良氏当主・吉良義堯の三男として生まれた義昭にとって、本来であれば家督は縁遠いものであった 2 。当初、西条吉良氏の家督は長兄の義郷が継承した。しかし、義郷が織田信秀との戦いで若くして戦死すると 17 、次兄の吉良義安がその後を継ぐことになった 2

事態を複雑にしたのは、時をほぼ同じくして、分家である東条吉良氏の当主・吉良持広もまた後継者なく死去したことである。これにより、次兄・義安は東条吉良持広の婿養子という形で東条吉良氏の家督をも継承することになった 2 。これは、分裂していた東西両吉良氏が義安の下で再統一されることを意味したが、一方で、義安が両家の権力を一手に掌握しようとした動きは、西条吉良氏の家臣団などから反発を招き、一族内に新たな火種を生んだ可能性が指摘されている 4 。義昭は、この兄たちのめまぐるしい動きの中で、歴史の渦に巻き込まれていく。

第二節:今川氏の介入と「三河忩劇」

吉良氏の家督問題に決定的な影響を与えたのが、駿河・遠江を支配し、三河への勢力拡大を狙う今川義元であった。天文18年(1549年)、今川義元が織田方の安祥城を攻撃した際、運命の分岐点が生じる。この時、兄の義安は織田信秀に与したため、今川軍に捕縛され、人質として駿府へ送致された 2

これに対し、弟の義昭は今川方に協力する道を選んだ。この功により、義昭は今川義元から、捕らえられた兄・義安に代わって、西条・東条両吉良氏の統一当主となるよう命じられたのである 2 。これにより、名門吉良氏はその独立性を失い、事実上、今川氏の三河支配体制下に組み込まれることとなった。義昭の権力は、自らの実力や家臣団の支持によってではなく、完全に今川義元という外部権力者の後援によって成立した。彼は吉良氏の当主でありながら、実態は今川氏の三河における「代理人」という立場に過ぎなかった。

ただし、この家督相続の経緯には有力な異説が存在する。それは、義安が一度は赦免されて三河に帰国したものの、弘治元年(1555年)に再び今川氏に対して大規模な反乱(三河忩劇)を起こしたというものである 5 。この反乱は最終的に鎮圧され、弘治3年(1557年)に義安は三河から追放された。その結果として、今川氏への忠誠を貫いた義昭が、改めて両吉良氏の当主として擁立された、とする説である 2 。この説によれば、反乱の懲罰として西条吉良氏の本拠地は今川氏に没収され、義昭は今川方の重要拠点である東条城を居城とすることを余儀なくされたという 9

いずれの説を採るにせよ、義昭の当主としての地位が、兄・義安という本来の正統な後継者を排除し、今川義元の意向によってもたらされたものであることは間違いない。この権力構造は、今川義元という絶対的な後援者が存在する限りにおいてのみ安定を保つ、極めて脆いものであった。永禄3年(1560年)の桶狭間の戦いにおける義元の死は、この脆弱な権力基盤を根底から覆す、義昭にとって致命的な一撃となるのである。

吉良氏家督相続に関する諸説比較

説の名称

根拠史料・研究

相続の時期

主要な出来事

吉良義安の動向

吉良義昭の立場

『今川記』説

『今川記』 2

天文18年 (1549)

安祥城攻め

織田方に与し、今川軍に捕縛され駿府へ送られる。

今川方に協力し、義元の命により東西両家の当主となる。

三河忩劇結果説

『松平記』、近年の研究 2

弘治3年 (1557)

三河忩劇(今川氏への反乱)

一度赦免された後、再び今川氏に反乱を起こし、敗れて三河から追放される。

兄の反乱後、今川氏への忠誠を評価され、改めて当主として擁立される。

第三章:三河の覇権を巡る徳川家康との死闘

今川義元という絶対的な後援者を失った吉良義昭の前に、新たな、そして最後の敵として立ちはだかったのが、岡崎で自立を果たした松平元康(後の徳川家康)であった。三河の覇権を巡る両者の戦いは、旧来の名門の意地と、新時代の創造者の野望が激突する、熾烈なものとなった。

第一節:後援者の喪失と新たな敵の出現

永禄3年(1560年)5月、桶狭間の戦いで今川義元が織田信長に討たれるという衝撃的な事件は、三河の政治情勢を一変させた 1 。今川氏の権威は失墜し、三河におけるその支配力は急速に減退する。これは、今川氏の後ろ盾によってその地位を保っていた義昭にとって、権力基盤の崩壊を意味した 2

この千載一遇の好機を逃さず、今川氏から離反して岡崎城で自立したのが、松平元康であった。元康は三河一国の統一を目標に掲げ、今川方の残存勢力の掃討を開始する。今川氏の代理人として東条城に拠る義昭は、元康にとって三河統一を成し遂げる上で排除すべき最大の障害の一つと見なされ、両者の衝突は避けられないものとなった 1

第二節:善明堤の戦い ― 智謀で掴んだ束の間の勝利

当初、松平元康の攻勢に対し、吉良義昭は決して無力ではなかった。永禄4年(1561年)4月15日、彼はその軍事的才覚を遺憾なく発揮し、元康に手痛い敗北を味わせる。これが善明堤の戦いである 6

この戦いで義昭は、巧みな陽動作戦を展開した。まず、腹心の将である富永忠元に別動隊を率いさせ、元康方の酒井忠尚が守る上野城を攻撃させた 6 。元康がこれに対応するため、深溝城主・松平好景に救援を命じ、その守る中島城の守備が手薄になった瞬間を見計らい、義昭自らが率いる本隊が中島城を急襲した。救援から引き返し、敗走する吉良軍を深追いした好景の部隊に対し、今度は上野城から反転してきた富永忠元の別動隊が退路を遮断。周到に準備された伏兵と連携し、好景の部隊を挟撃、壊滅させることに成功したのである 1

この戦いの結果、元康は譜代の重臣である松平好景をはじめ、板倉好重(板倉勝重の父)など多くの有能な将兵を一度に失うという大打撃を被った 6 。善明堤の戦いは、吉良義昭が決して侮れない戦術眼を持っていたことを示す、彼の生涯における輝かしい勝利であった。

なお、この戦いの発生年については、通説である永禄4年(1561年)説の他に、『松平記』などの記述から弘治2年(1556年)とする異説も存在する 6 。弘治2年説を採用した場合、対立の構図は「(独立後の)家康 対 今川方・吉良」ではなく、「今川方・松平 対 織田方・吉良」となり、義昭(あるいは兄・義安)の政治的立場が大きく異なるものとなるため、今後の研究が待たれる点である。

第三節:藤波畷の戦い ― 勇将の死と東条城の陥落

善明堤での手痛い敗戦を受け、松平元康は戦術を転換する。力攻めによる短期決戦を避け、東条城の周囲に複数の砦を築いて包囲網を形成し、兵糧の補給路を断ってじわじわと敵を追い詰める持久戦へと移行したのである 8

この困難な状況下で、吉良軍の士気を支え続けたのが、家老の富永忠元(通称・伴五郎)であった。彼は「勇将」として敵味方双方からその武勇を称えられており、しばしば城から打って出ては松平軍に損害を与え、元康を大いに手こずらせていた 8 。『三河物語』には、彼の戦死の報に接した敵味方が「伴五郎が死んだら落城は近い」と言い合ったと記されており、その存在がいかに大きかったかが窺える 25

決着の時は、永禄4年(1561年)9月13日に訪れた。松平方の本多広孝らが砦から出撃すると、これに応戦すべく富永忠元も藤波畷(ふじなみなわて)へと出撃した。しかし、忠元は勇猛のあまり単騎で突出しすぎて孤立してしまう。好機と見た松平軍は一斉に殺到し、奮戦する忠元を追い詰め、最後は本多広孝の槍によって討ち取られた 7

最も信頼し、軍事の要であった富永忠元を失ったことで、吉良義昭の戦意は完全に打ち砕かれた。彼はついに東条城を開城し、元康に降伏した 1 。その後、義昭は岡崎城下に移され、元康の厳しい監視下に置かれることとなった 2 。この一連の戦いは、個人の武勇に依存する旧来の在地領主的な戦い方が、組織力と戦略を重視する近代的な戦国大名の戦い方の前に敗れ去る過程を象徴している。義昭の敗北は、単なる兵力差だけでなく、戦術思想の差でもあったと言えよう。

第四章:再起を賭けた最後の戦い ― 三河一向一揆

岡崎で屈辱的な監視下の日々を送っていた吉良義昭にとって、再起を賭ける最後の機会が訪れる。永禄6年(1563年)、西三河一帯を揺るがした三河一向一揆の勃発である。これは、家康の生涯における最大の危機の一つであり、義昭はこの混乱に乗じて反撃の狼煙を上げた。

第一節:一揆の勃発と義昭の再挙

三河一向一揆は、本願寺門徒の寺内町が持つ不入の特権を家康が侵害しようとしたことなどをきっかけに、家康の支配に対する国人や民衆の不満が爆発した大規模な反乱であった 28 。この一揆の深刻さは、本多正信・正重兄弟や渡辺守綱といった家康自身の家臣団から多数の離反者を出したことにも表れている 28 。三河国は、家康方と一揆方に二分され、泥沼の内乱状態に陥った。

この状況を、雌伏していた義昭は千載一遇の好機と捉えた。彼は一向一揆勢力と連携し、反家康の旗頭として再び蜂起する 1 。三河における最高の名門である吉良氏の血統は、一揆勢にとって自らの戦いを正当化する上で極めて価値のあるものであった。結果、義昭は一揆勢の「主将」として推戴され、混乱に乗じて一時的に居城であった東条城を奪還することに成功したとされる 9

第二節:「一揆無関係説」の検討

一方で、近年の研究においては、吉良義昭のこの時の挙兵を、三河一向一揆とは直接関係のない、独立した武家同士の争いと見なす説も提唱されている 2 。提供された資料からはこの説の具体的な論拠を直接読み取ることはできないが 31 、専門的な見地からその背景を考察することは可能である。

この「無関係説」の核心は、義昭の挙兵動機が一向宗の宗教的信条に基づくものではなく、あくまで失われた領地と権威を回復しようとする「武家の論理」に基づいていた点を重視するものであろう。つまり、義昭と一揆勢は、信仰や思想を共有していたわけではなく、「打倒家康」という一点において利害が一致したための、極めて政治的な同盟関係にあったと解釈するのである。一揆勢は、自らの運動に「大義名分」と「軍事的権威」を与えるために名門・吉良の血統を必要とし、義昭は、自らの野望を達成するための「兵力」として一揆勢を必要とした。これは、互いの弱点を補い合うための、戦国時代には頻繁に見られた冷徹な戦略的提携であり、両者が本質的に一体であったわけではない、という見方である。

第三節:敗北と没落の決定

義昭と一揆勢の共闘は、当初こそ家康を窮地に追い込んだが、長続きはしなかった。家康は巧みな和戦両様の策を駆使し、一揆勢の切り崩しと分断工作を進めた。永禄7年(1564年)に入ると戦局は家康方に有利に傾き、一揆の中核であった寺院も次々と降伏。一揆は鎮圧へと向かった 26

強力な同盟相手を失った義昭は再び孤立し、東条城に籠城して最後の抵抗を試みるも、もはや時代の趨勢を覆す力は残されていなかった。最終的に彼は敗北し、今度こそ三河国から完全に追放されることとなった 1 。この敗北により、鎌倉時代から続いた在地領主としての三河吉良氏は、その歴史に事実上の終止符を打った。義昭が守ろうとした誇り高き名門は、彼の敗走と共に三河の地から消え去ったのである。

第五章:流転の果て ― 中世吉良氏の終焉

三河国を追われた吉良義昭の後半生は、その詳細の多くが歴史の闇に包まれている。故郷を失った名門の当主は、再起の夢も潰え、流浪の末にその生涯を閉じたと伝えられる。彼の最期は、戦国という時代が旧来の権威に対していかに無慈悲であったかを物語っている。

第一節:亡命と流浪の道

三河での全ての拠点を失った義昭が、次なる活路を求めて向かった先は、近江国(現在の滋賀県)であった。彼は、当時勢力を誇っていた六角氏の当主・六角承禎(義賢)を頼って亡命したとされる 2 。六角氏は、家康の同盟者である織田信長と敵対関係にあったため、反信長・反家康の旗幟を鮮明にする義昭にとって、亡命先として自然な選択であったと考えられる。しかし、六角氏もまた、永禄11年(1568年)に信長の上洛軍によって本拠地を追われる運命にあり、義昭が安住の地を得ることはできなかった。

第二節:摂津芥川城での最期

その後の義昭の足取りは、さらに不詳となる。しかし、吉良氏の菩提寺である養寿寺に残された系図には、彼の最期を伝える記述が残されている。それによれば、義昭は永禄9年(1566年)に近江で「佐々木祥貞」(六角氏の一族か家臣と思われる)を頼った後、最終的には摂津国芥川城(現在の大阪府高槻市)において戦死したという 1

当時の芥川城周辺は、三好三人衆や松永久秀といった畿内の有力者たちが覇権を巡って激しい抗争を繰り広げていた、まさに戦乱の中心地であった。三河から遠く離れたこの地で、義昭がいかなる経緯で戦いに身を投じたのかは定かではない。いずれかの勢力に客将として雇われ、その戦いの中で一人の武将として命を落とした可能性が高いと推測される。

三河国で最も高貴な血筋に生まれ、足利将軍家の後継候補とまで謳われた名門の当主が、故郷から遠く離れた他国の、自らの家とは何ら関係のない戦場で、一人の名もなき浪人武者のように死んでいった。この結末は、義昭の生涯の悲劇性を凝縮している。彼の死は、血統や家格といった中世的な価値観が、実力のみが支配する戦国の世においていかに無力であったかを、残酷なまでに突きつけている。吉良義昭の死とともに、在地に根差した武士としての「中世吉良氏」の歴史は、完全に幕を閉じたのである。

おわりに

吉良義昭の生涯は、旧時代の権威が新時代の奔流に飲み込まれていく、戦国という時代の転換期を象徴するものであった。彼は、足利一門としての名門の誇りと、今川氏への政治的義理、そして失われた領地と権威の回復への執念との間で、最後まで抗い続けた人物であった。彼の敗北は、単に徳川家康との資質の優劣に起因するものではなく、時代の大きな変化に適応できなかった旧勢力の、ある意味で必然的な没落であったと評価できる。

しかし、歴史は皮肉な結末を用意していた。義昭が家康に徹底抗戦し、没落への道を突き進んだ一方で、かつて今川氏の人質となり、織田方に与して捕らえられた兄・吉良義安は、全く異なる運命を辿った。義安は、駿府での人質時代に家康と面識があったことから、義昭の没落後、家康に赦免されたのである 4 。そして、家康の命によって、義昭が失った東西両吉良氏の家督を改めて継承することを認められた 10

義昭が守ろうとした、在地に根差し、武力によって自らの所領を支配する「武士としての吉良氏」は滅びた。その一方で、兄・義安の系統は、最大の敵であった家康に仕えることで存続の道を見出した。彼らは江戸時代において、幕府の儀式典礼を司る「高家」という、武力ではなく家格と儀礼によってその価値を保証される存在となったのである 10

この高家吉良氏の血筋から、後に元禄赤穂事件、すなわち「忠臣蔵」で有名な吉良上野介義央が生まれることになる 11 。義昭の抵抗と敗北は、その後の吉良家の歴史が、武門の誇りを捨て、儀礼貴族として生き永らえるという皮肉な道へと向かう、決定的な分水嶺であった。彼の戦いは、戦国から江戸へと移行する時代の中で、武家の価値観がいかに大きく変質していったかを物語る、重要な証言と言えるだろう。

引用文献

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  3. 吉良上野介の先祖・吉良義昭の辿った生涯|家康に反旗を翻した名家の武将【日本史人物伝】 https://serai.jp/hobby/1110673
  4. 吉良義安とは? わかりやすく解説 - Weblio辞書 https://www.weblio.jp/content/%E5%90%89%E8%89%AF%E7%BE%A9%E5%AE%89
  5. 東条吉良氏の菩提寺・花岳寺 | 大河ドラマに恋して http://shizuka0329.blog98.fc2.com/blog-entry-4293.html
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  9. 吉良義昭 | 歴史 - みかわこまち https://mikawa-komachi.jp/history/kirayoshiaki.html
  10. 吉良氏 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%90%89%E8%89%AF%E6%B0%8F
  11. 吉良 義安 | 歴史 - みかわこまち https://mikawa-komachi.jp/history/kirayoshiyasu.html
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  13. 郷土士の歴史探究記事 その9 http://kyoudosi.cocolog-nifty.com/blog/2015/06/post-04d7.html
  14. 足利一門の武家の名門「吉良氏」とは?|Spicy-Jack - note https://note.com/spicy_jack/n/n4ed5467c2e32
  15. 武家家伝_吉良氏 - harimaya.com http://www2.harimaya.com/sengoku/html/kira_k.html
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  17. 【大河ドラマ連動企画 第9話】どうする義広(荒川義広)|さちうす - note https://note.com/satius1073/n/n34850bab8dce
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  21. 吉良義昭を攻撃し今川家から離反(「どうする家康」14) - 気ままに江戸 散歩・味・読書の記録 https://wheatbaku.exblog.jp/32879459/
  22. 【どうする家康】実はまだ死んでない!元康に裏切られた吉良義昭(演:矢島健一)はその後どうなった? - Japaaan https://mag.japaaan.com/archives/193983
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  28. 三河一向一揆 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E6%B2%B3%E4%B8%80%E5%90%91%E4%B8%80%E6%8F%86
  29. 「どうする家康」の吉良義昭は、吉良上野介の先祖 - 日本実業出版社 https://www.njg.co.jp/column/column-38562/
  30. 吉良義昭(きら よしあきら)とは? 意味や使い方 - コトバンク https://kotobank.jp/word/%E5%90%89%E8%89%AF%E7%BE%A9%E6%98%AD-1071092
  31. 松平家康に敵対した吉良義昭~三河一向一揆~ - 中世歴史めぐり https://www.yoritomo-japan.com/sengoku/ikusa/mikawa-ikki-kira.html