石見の吉見頼興は、兄の陶弘護殺害事件後、大内義興に忠誠を尽くし、船岡山合戦で戦功。大内家との姻戚関係を築き、吉見家を再興。晩年は尼子氏の脅威と戦い、その遺産は毛利元就の厳島の戦い勝利に繋がった。
文明14年(1482年)5月27日、西国の雄、大内氏の当主・大内政弘がその本拠地である山口の築山館において、大規模な酒宴を催した。長きにわたった応仁・文明の乱を戦い抜き、領国へ帰還した主君を囲み、集った重臣や国人領主たちの間には安堵と祝賀の空気が満ちていたであろう。しかし、その華やかな宴席は、一瞬にして血の匂いと怒号に包まれることになる。
石見国(現在の島根県西部)の有力国人領主、吉見信頼がおもむろに席を立つと、かねてより対立していた大内家の重臣、陶弘護(すえ ひろもり)に斬りかかり、これを刺殺するという前代未聞の凶行に及んだのである 1 。主君の御前での刃傷沙汰、しかも標的は主家の屋台骨を支える重鎮であった。信頼自身も、その場で内藤弘矩らによって即座に討ち果たされたが、事件がもたらした衝撃は計り知れない 3 。
この「山口饗宴刃傷事件」により、石見の名門・吉見氏は一夜にしてその当主を失い、主家に対する最大級の反逆者という汚名を着せられた。陶氏からの報復、そして主君・大内政弘による改易・断絶という破滅的な未来は、もはや誰の目にも明らかであった 1 。
この絶望的な状況下で、一族の存亡という重すぎる責務を背負うことになったのが、事件の直前に兄・信頼から家督を譲られたばかりの若き当主、吉見頼興(よしみ よりおき)であった。時に23歳。彼の生涯は、兄が残した巨大な負の遺産を清算し、地に堕ちた家名を再興するための、長く険しい苦難の道のりとして幕を開けたのである 1 。
吉見頼興の人物像を理解する上で、まず彼が背負っていた「家」の歴史と権威に触れなければならない。石見吉見氏は、清和源氏の嫡流であり、鎌倉幕府初代将軍・源頼朝の異母弟にあたる蒲冠者(かばのかじゃ)・源範頼をその祖と仰ぐ、由緒正しい名門武家であった 3 。範頼の孫・為頼が武蔵国横見郡吉見庄(現在の埼玉県比企郡吉見町)に住んだことから吉見姓を称したのが始まりとされ、その一族は能登や三河、そして石見へと広がっていった 8 。
戦国乱世において、武力や経済力はもちろん重要であるが、「家格」や「血筋」といった無形の権威もまた、極めて重要な政治的資本であった。吉見氏が源氏の名門であることを誇りとしたのは、単なる自尊心の発露ではない。それは、在地領主たちが割拠する石見国において、自らの支配の正統性を担保し、周辺勢力に対して優位に立つための戦略的な拠り所であった。特に、後述する在地勢力の雄・益田氏との対抗上、中央の権威(室町幕府や源氏嫡流という血脈)に繋がる家格は、自らの存在を際立たせる上で不可欠な要素だったのである。
石見吉見氏の直接の祖とされる吉見頼行が、能登国から石見国へ下向したのは、鎌倉時代後期の弘安5年(1282年)のことである。元寇に際し、幕府の命により日本海沿岸の防備を固めるためであったと伝えられる 10 。頼行は津和野(つわの)の地に居館を構え、やがて霊亀山に一本松城(後の三本松城、津和野城)を築城し、ここを本拠として勢力を拡大していった 8 。
しかし、石見国には古くからこの地を支配してきた在地領主たちが存在した。その筆頭が、益田(ますだ)を本拠とする益田氏である。後から入部してきた新興勢力である吉見氏と、在地勢力の代表格である益田氏は、その勢力圏が隣接し、また複雑に入り組んでいたこともあり、領土の境界(境目)を巡って絶えず紛争を繰り返す宿敵同士であった 3 。
この両者の対立構造をさらに根深く、複雑なものにしていたのが、彼らがともに臣従していた周防の大内氏内部の力学であった。大内家の重臣筆頭であった陶氏が、代々益田氏と姻戚関係を重ね、極めて親密な間柄にあったのである 2 。これにより、石見国内における吉見氏と益田氏のローカルな対立は、大内家中の派閥争いと連動し、いわば「代理戦争」の様相を呈することが少なくなかった。吉見氏にとって、益田氏との対立は、同時に大内家中枢を握る陶氏との潜在的な対立をも意味していた。この根深い対立構造こそが、後に吉見信頼による陶弘護殺害という悲劇を生む遠因となるのである。
文明14年(1482年)の刃傷事件は、単なる衝動的な犯行ではなかった。そこには、吉見信頼を追い詰めた複数の、そして深刻な要因が絡み合っていた。
第一に、積年の領土問題と陶弘護による不公平な裁定である。前述の通り、吉見氏と益田氏は宿敵関係にあったが、弘護は妻が益田氏の出身であったことから、ことあるごとに益田氏に肩入れし、吉見氏にとって不利な裁定を下していた 2 。主君・大内政弘が応仁の乱で京に在陣中、留守を預かる弘護のこの種の偏頗な態度は、信頼の心に強い怨恨を刻み込んだ。
第二に、過去の直接的な遺恨である。応仁の乱の最中、大内政弘の伯父・大内教幸が反乱を起こした際、信頼はこれに与した。この反乱は陶弘護らによって鎮圧され、信頼は敗北。その結果、所領の一部(吉賀長野の地)を奪われるという屈辱を味わっていた 2 。この敗北と失地は、信頼にとって忘れがたい個人的な恨みとなっていた。
そして第三に、政治的抹殺への恐怖である。弘護は政弘の側近として、その権勢を日増しに強めていた。信頼は、このまま弘護が主君の傍近くに在り続ければ、いずれ事実無根の讒言などによって吉見家そのものが取り潰されかねないという、強い危機感を抱いていた 2 。
これらの要因が複合的に絡み合い、信頼の中で「陶弘護が存在する限り、吉見家に未来はない」という絶望的な結論が形成されていったと考えられる。
信頼の行動が計画的であったことは、彼が凶行に及ぶ前の周到な準備から明らかである。最も象徴的なのは、彼が本拠地である津和野を発ち山口へ向かう直前に、弟である頼興に家督を正式に譲渡していたという事実である 1 。これは、自らの死を覚悟し、家の断絶だけは避けようとする強い意志の表れであった。
事件は、個人の激情による暴発ではなく、自らの命と引き換えに宿敵・弘護を確実に葬り去り、一族の未来を弟に託すという、冷徹な計算に基づいた「政治的自爆テロ」であったと解釈できる。伝承によれば、このとき信頼は吉見家伝来の宝刀である短刀「鵜噬(うぐい)」を用いたとされ、その決意の固さを物語っている 5 。正攻法では巨大な権力を持つ弘護を排除できないと悟った信頼が、自らを犠牲にして局面を打開しようとした、悲壮な決断だったのである。
事件後、吉見家では当主となった頼興が、陶氏一族による報復、そして主家からの厳しい処罰を覚悟し、籠城の準備を固めていた。一説には、合戦に備えて家中の重要書類を破棄したとさえ伝わっている 5 。しかし、主君・大内政弘が下した裁定は、予想を裏切るものであった。吉見氏に対する処分は、所領の一部(吉賀郷など)の没収に留まり、家の存続は許されたのである 1 。
この一見、寛大にも思える処置は、政弘の温情というよりも、極めて冷徹な政治判断の産物であった可能性が高い。第一に、10年以上にわたる応仁の乱からようやく帰国した政弘にとって、これ以上の領国の混乱は是が非でも避けたかった 1 。第二に、これはより穿った見方であるが、応仁の乱の不在中に国政を掌握し、強大化しすぎていた重臣・陶弘護の存在を、政弘自身が密かに疎ましく思っていた可能性も否定できない。信頼の凶行は、政弘にとって「手を汚さずに厄介な重臣を排除できた」という側面があったかもしれない。そして第三に、吉見氏を完全に滅ぼすよりも、弱体化させた上で存続させる方が、益田氏や他の国人衆への牽制となり、大内氏の支配にとって好都合な勢力均衡を保ちやすいと判断したのである。
理由が何であれ、この政弘の裁定は、断絶の淵に立たされた吉見頼興と吉見家にとって、再生への唯一の道筋となる、まさに絶望の中に差し込んだ一筋の光明であった。
兄の凶行により、吉見家は家名も勢力も地に堕ちた。この逆境の中で、若き当主・吉見頼興が選択した道は、武力や策略による失地回復ではなかった。それは、父・政弘の跡を継いだ新当主・大内義興(よしおき)に対し、ひたすらな忠誠を尽くすという、忍耐と時間を要する道であった 1 。兄・信頼が激情と武力に訴えて破滅したのとは対照的に、頼興は「奉公」という形で、一族の信頼回復と再興を目指したのである。それは、弱体化した吉見家が生き残るための、唯一かつ最善の生存戦略であった。
頼興の忠誠心が試され、そして証明される絶好の機会が訪れる。永正4年(1507年)、主君・大内義興は、先の政変で都を追われた前将軍・足利義稙(よしたね)を奉じて上洛するという、一世一代の大事業に乗り出した。頼興もまた、大内軍の一翼を担い、これに従軍する。
そして永正8年(1511年)8月、京都・船岡山において、義興・義稙軍は、対立する細川澄元・政賢軍と激突する(船岡山合戦)。この合戦において、吉見頼興は目覚ましい戦功を挙げたと記録されている 1 。
この戦功は、単なる武勇伝以上の、極めて重要な意味を持っていた。それは、頼興の「忠義」が、言葉や誓文といった抽象的なものではなく、主君の目前で命を懸けて戦うという具体的な「行動」として可視化された瞬間であったからだ。西国の辺境たる石見の国人領主が、主君の悲願達成のために、遠く都の戦場で奮戦する。その姿は、兄・信頼が主家にもたらした汚名を雪ぎ、義興の個人的な信頼を勝ち取る上で、何物にも代えがたい価値を持っていた。それは、金銭や領地では得られない「信頼」という無形の資産を、頼興がその身をもって獲得した瞬間であった。
船岡山での戦功と、それに続く長年の献身的な奉公は、ついに実を結ぶ。大内義興は頼興の忠勤を高く評価し、兄の事件で没収されていた旧領・吉賀郷などを再び吉見氏に与えた 1 。これは失われた領土と経済基盤の回復を意味した。
そして、それを遥かに上回る、吉見家にとって最高の栄誉がもたらされる。義興が、自らの娘である大宮姫を、頼興の嫡男・吉見隆頼(たかより)の正室として嫁がせることを許したのである 1 。
この婚姻の成立は、頼興の半生をかけた努力が到達した頂点であり、単なる名誉回復に留まらない、多重的な戦略的価値を持つ大成果であった。第一に、これにより吉見家は大内一門に準ずる特別な地位を得て、他の被官国人衆とは一線を画す家格を手に入れた 6 。第二に、宿敵である益田氏や、兄の事件以来の仇敵である陶氏一派に対する、これ以上ない強力な政治的防壁を築くことになった。そして第三に、将来、大内家で何らかの政変や代替わりが起きた際にも、「当主の縁戚」という立場が、吉見家の発言力と安全を保障する強力な生命線となることが期待された。
兄の死から約30年。吉見頼興は、忍耐と忠誠という、最も地道な手段によって、一族を滅亡の危機から救い出し、かつてないほどの安定と栄誉の地位へと導いたのである。
吉見頼興の73年間の生涯を、同時代の主要な出来事と並行して見ることで、彼の行動の背景と歴史的文脈をより深く理解することができる。
西暦 |
和暦 |
頼興の年齢 |
吉見家の動向 |
大内氏・周辺勢力の動向 |
国内の主要な出来事 |
1460年 |
寛正元年 |
1歳 |
吉見成頼の子として誕生 1 。 |
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1477年 |
文明9年 |
18歳 |
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大内政弘、応仁の乱を終え山口に帰国。大内義興が誕生 15 。 |
応仁の乱が終結。 |
1482年 |
文明14年 |
23歳 |
兄・信頼が山口で陶弘護を殺害し死去。家督を正式に継承する 1 。 |
大内政弘、吉見氏の存続を許可するも、所領の一部を没収 1 。 |
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1494年 |
明応3年 |
35歳 |
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大内政弘が隠居し、義興が家督を相続 15 。 |
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1508年 |
永正5年 |
49歳 |
大内義興に従い、将軍・足利義稙を奉じて上洛軍に参加 14 。 |
大内義興、前将軍を奉じて上洛を開始。 |
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1511年 |
永正8年 |
52歳 |
京都・船岡山合戦で戦功を挙げる 1 。 |
大内義興、細川高国らと連合し船岡山合戦で勝利 13 。 |
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1524年 |
大永4年 |
65歳 |
大内軍の一員として、安芸・佐東銀山城の戦いなどで尼子軍と対峙 16 。 |
大内義興・義隆父子、安芸へ出兵し尼子氏と交戦 16 。 |
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1528年 |
享禄元年 |
69歳 |
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主君・大内義興が死去。義隆が家督を相続 17 。 |
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不詳 |
不詳 |
不詳 |
嫡男・隆頼が大内義興の娘・大宮姫を娶る。没収所領を返還される 1 。 |
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1530年 |
享禄3年 |
71歳 |
宿敵・益田氏と高津川支流・匹見川の水利に関する協定を締結 14 。 |
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1532年 |
享禄5年 |
73歳 |
4月12日、死去。次男・隆頼が家督を継ぐ 1 。 |
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吉見頼興の生涯は、大内家への奉公という側面だけで語ることはできない。彼は同時に、本拠地・津和野を中心とする領地を治める、一人の独立した領主でもあった。
頼興が当主であった時代、その本拠地である津和野は城下町として発展を続けていた。後の記録からは、中世後期には「今市」と呼ばれる市場町が形成され、多くの商工業者が集住していたことが窺える。遺跡からは中国産の磁器なども出土しており、津和野が地域の経済的中心地として繁栄していたことがわかる 11 。
また、吉見氏は「三島守」を称して朝鮮に使者を派遣し、通交を証明する図書を受け取っていた記録がある 11 。これは、吉見氏が萩などの日本海沿岸に有していた港を通じて、大内氏の管理下で日本海水運や対外貿易に何らかの形で関与し、経済的利益を得ていた可能性を示唆している。さらに、領内の特産品であった紙は、津和野から山間ルートを越えて安芸国の廿日市(はつかいち)など、瀬戸内海沿岸の市場へも供給されていたとみられ、多角的な経済活動を展開していた 11 。頼興の治世は、こうした経済基盤の維持・発展によって支えられていたのである。
大内家臣として忠勤に励む一方で、頼興は石見の領主として、宿敵・益田氏との間で領土を巡る緊張関係を維持し、小規模な武力衝突を繰り返していた 14 。これは戦国時代の国人領主の常であり、巨大勢力への従属と、在地における自領の維持・拡大という二つの顔を使い分ける必要があった。
しかし、頼興が単なる武断主義者でなかったことを示す興味深い事実がある。享禄3年(1530年)、彼は益田氏との間で、両家の領地の境界を流れる高津川の支流、匹見川の水利権に関する協定を結んでいるのである 14 。水利は、農業を基盤とする領国経営において死活問題である。この協定は、頼興が、大局的な対立関係とは別に、領民の生活安定という実利のためには、長年の宿敵とさえも交渉のテーブルに着くことができる、現実的で柔軟な統治手腕を持ったリアリストであったことを示している。
頼興の晩年は、新たな脅威の台頭とともにあった。出雲国(現在の島根県東部)から急速に勢力を伸張させてきた尼子氏である。尼子氏は石見国への侵攻を本格化させ、特に石見銀山を巡る大内氏との攻防は激しさを増していった 14 。
頼興は、大内方の西の守りとして、この尼子氏の侵攻に対する防波堤という重要な役割を担うことになった。大永4年(1524年)に大内義興・義隆父子が安芸国へ出兵した佐東銀山城の戦いなど、頼興は大内軍の一翼として尼子軍と対峙し、その勢力拡大を食い止めるために奮戦した 16 。彼の忠誠は、対尼子戦線という具体的な軍事行動においても発揮されていたのである。
享禄5年(1532年)4月12日、吉見頼興は73歳でその波乱に満ちた生涯を閉じた 1 。しかし、彼が再興した吉見家には、再び試練が訪れる。後継者問題である。
頼興の死後、家督は次男の隆頼が継いだ。彼は頼興が結んだ婚姻政策の当事者であり、大内義興の娘・大宮姫を妻としていた。しかし、頼興の長男・興成が早世していたのに続き、この隆頼もまた若くして亡くなってしまう 1 。一説には、山口滞在中に何者かによって殺害されたとも伝えられている 11 。
当主を相次いで失った吉見家は、異例の措置を取る。頼興の五男で、仏門に入り周鷹(しゅうよう)と名乗っていた人物を還俗させ、家督を継がせたのである。この人物こそ、後に吉見家の歴史において重要な役割を果たすことになる、吉見正頼(まさより)である 1 。さらに正頼は、兄・隆頼の未亡人となっていた大宮姫を自らの妻として迎えた。これにより、頼興が築いた大内家との血縁関係は、辛うじて次代へと引き継がれることになった。
この複雑な家督相続を乗り越え、吉見家がその地位を保ち得たのは、ひとえに頼興が遺した政治的遺産のおかげであった。その遺産とは、単なる領地や財産ではない。「大内家との強固な姻戚関係」そのものであった。
頼興自身は、一族の安泰と家名の回復のみを願って、嫡男と大内家の姫との婚姻を成立させたに違いない。しかし、その結果として彼の息子・正頼が得た地位は、頼興の想像を遥かに超える、絶大な政治的価値を持つものとなった。吉見正頼は、時の大内家当主・大内義隆にとって、単なる家臣ではなく「義理の兄(姉婿)」という、他の誰にもない極めて特殊で強固な立場を手にしたのである 7 。これは、頼興が意図せずして次代に残した、最大の遺産であった。
頼興の死から19年後の天文20年(1551年)、その遺産の真価が問われる大事件が発生する。大内家の重臣・陶隆房(後の晴賢)が謀反を起こし、主君であり、正頼の義弟でもある大内義隆を長門国の大寧寺に追い込み、自害させたのである(大寧寺の変) 21 。
この主君殺しという暴挙に対し、大内領内の多くの国人領主たちは、陶晴賢の強大な軍事力を恐れて沈黙、あるいは追従した。しかし、吉見正頼は違った。彼は、晴賢の傀儡である大内義長(義隆の養子)に従うことを拒否し、亡き義弟・義隆の仇を討つべく、いち早く反陶の旗印を鮮明にしたのである 20 。
正頼のこの果敢な行動の背景には、複数の動機が考えられる。第一に、父・頼興がその生涯をかけて貫いた「大内家への忠義」という家風。第二に、吉見家と陶・益田連合との積年の対立関係。そして何よりも、「義理の弟を無残に殺された」という、極めて個人的で強い義憤であった。吉見頼興が半世紀近くかけて築き上げ、息子に託した大内家との絆は、主家の滅亡という最大の悲劇に際して、反逆者への抵抗という最も劇的な形で発露したのである。頼興の生涯は、あたかもこの瞬間のために用意された、長い長い序章であったかのようにも見える。
吉見頼興は、織田信長や武田信玄のように、領土を切り拓き、天下にその名を轟かせた「英雄」タイプの武将ではない。彼の生涯を貫く本質は、兄の不祥事という未曾有の危機から一族を護り抜き、ひたすらな忍耐と忠誠によって家名を再興した「守成の将」、あるいは優れた「危機の管理者(クライシス・マネージャー)」という評価にこそ求められるべきであろう。彼は、失われたものを取り戻し、家という組織を次代へ存続させることに、その生涯の全てを捧げたのである。
しかし、頼興の歴史的意義は、単に吉見家を再興したという一点に留まらない。彼の生涯は、意図せずして、彼の死後に中国地方の勢力図を根底から覆す巨大な地殻変動の、遠い伏線となっていた。
大寧寺の変の後、反旗を翻した吉見正頼に対し、陶晴賢は大軍を率いてその本拠・津和野三本松城へと侵攻した(三本松城の戦い) 24 。正頼は、父祖伝来の堅城に籠もり、数に遥かに劣る兵力で5ヶ月にもわたって陶の大軍を釘付けにした 20 。この粘り強い籠城戦こそが、当時、陶晴賢と対決すべきか否かで揺れていた安芸の毛利元就に、反陶の準備を整えるための貴重な時間的猶予を与えた。そして、この時間稼ぎが、天文24年(1555年)の厳島の戦いにおける毛利元就の奇跡的な勝利に、間接的ながらも決定的な貢献を果たしたのである 28 。
ここに、壮大な歴史の因果連鎖を見ることができる。
この連鎖の起点に、吉見頼興の地道で、しかし確固たる意志に貫かれた生涯があった。彼は派手な武功や華々しい活躍とは無縁であったかもしれない。だが、誠実と忍耐をもって家を護り、次代に確固たる礎を遺したその生き様は、戦国乱世における多様な武将像の一つとして、また、歴史の深層で静かに、しかし確実に大きな流れを創り出した人物として、改めて評価されるべき存在である。彼の人生は、一個人の地道な努力が、本人さえも意図しなかった形で、より大きな歴史の潮流を生み出していくという、歴史のダイナミズムを我々に教えてくれるのである。