和久宗是は豊臣秀吉の祐筆。伊達政宗との間に恩義を結び、浪人後政宗の客将となる。大坂の陣では豊臣家への恩義を貫き、81歳で壮絶な討死。その「義」は後世に語り継がれた。
慶長20年(1615年)5月7日、大坂夏の陣は最終局面を迎えていた。世に言う天王寺・岡山の決戦である。徳川家康率いる大軍勢が、豊臣秀頼の籠る大坂城に最後の総攻撃を仕掛ける中、豊臣方の陣営に異様な出で立ちの一人の老武者がいた。その名は和久又兵衛宗是(わく またべえ そうぜ)。齢、実に81歳 1 。彼はこの日、武士の晴れ着である甲冑を身に着けず、死装束を思わせる白綾の衣を纏い、兜のみを被って戦場に現れた 2 。そして、従者に別れを告げると、手にした槍一本で、単騎徳川の大軍の中へと突入し、壮絶な討死を遂げたのである 3 。
この和久宗是の最期は、後世の軍記物において「斎藤実盛の遺風あり」と賞賛された 2 。源平の古強者、斎藤実盛が老いを隠すために白髪を染めて戦った逸話とは対照的に、宗是は老いを隠すどころか、それを誇示するかのようにして死に場所を求めた。彼のこの行動は、単なる老武者の武勇伝として片付けるにはあまりに深く、複雑な背景を持つ。なぜなら、彼はこの時、当代随一の実力者である伊達政宗の客将として、2000石という破格の厚遇を受けていた身であったからだ 4 。その安泰な地位をなげうち、明らかに滅びゆく豊臣家のために命を捧げたのである。
彼はなぜ、そのような選択をしたのか。その行動を理解するためには、彼の81年の生涯を丹念に紐解き、彼が仕えた数多の主君たち、とりわけ天下人・豊臣秀吉と奥州の独眼竜・伊達政宗という、戦国末期を象徴する二人の巨星との間に築かれた、特異で深遠な関係性を解き明かす必要がある。本報告書は、和久宗是という一人の武将の生涯を徹底的に追うことを通して、戦国という時代の終焉に武士が貫いた「義」とは何か、そしてその「義」が個人の運命と一族の歴史をいかに動かしたかを明らかにするものである。
和久宗是の生涯は、特定の土地に根差した国人領主ではなく、主君の盛衰と共に渡り歩き、自らの才覚一つで激動の時代を生き抜いた、典型的な「吏僚型武士」の軌跡であった。その流転の半生は、彼のしたたかな生存戦略と、中央政権の力学を肌で感じ取ってきた鋭い政治感覚を物語っている。
和久氏の祖先は、室町幕府に仕え、後に畿内で勢力を誇った三好氏に属して戦功を挙げた家系であったと伝わる 3 。しかし、宗是自身がこの和久氏の血を直接引いていたわけではない。彼は天文4年(1535年)、三好氏の家臣であった河合氏の子として生を受けた 3 。その後、同じく三好家臣で男子に恵まれなかった和久掃部頭(かもんのかみ)の養嗣子となり、和久又兵衛宗是を名乗ることになる 3 。
この出自は、彼のキャリアを方向づける重要な要素となった。特定の領地や譜代の家臣団に依存しない彼は、自らの能力、特に文筆の才を武器として主君に仕え、その価値を証明し続ける必要があった。このことが、彼を特定の勢力に固執せず、時勢に応じて主君を変える柔軟な思考へと導いたと考えられる。
宗是の青年期から壮年期は、まさに下剋上の嵐が吹き荒れる時代であった。彼はまず、養父の家系が仕えた三好氏に属し、その後、室町幕府15代将軍・足利義昭、そして天下布武を掲げる織田信長と、畿内における権力の中心が移り変わるのに合わせて、その主君を次々と変えていった 1 。
特に、元亀元年(1570年)には、主家であった三好三人衆と共に織田信長に降伏したことが、当時の日記『尋憲記』に記録されている 4 。これは、旧勢力の衰退と新興勢力の台頭という時代の大きなうねりを的確に読み取り、生き残りのために現実的な判断を下したことを示している。このような経験の積み重ねが、彼に鋭い政治的嗅覚と、新たな権力構造の中で巧みに立ち回るための高度な処世術を身につけさせたことは想像に難くない。
宗是のキャリアにおける最大の転機は、天正10年(1582年)の本能寺の変後に訪れる。信長亡き後の覇権争いを制した羽柴(豊臣)秀吉に出仕し、その祐筆(右筆)としての地位を得たのである 1 。
祐筆という職務は、単に主君の言葉を書き記す書記官ではない。彼らは主君の側近として、公式な書状や公文書の作成、諸大名への指令の起草、さらには政権の機密情報の管理までを担う、極めて重要な秘書官僚であった 5 。豊臣政権下では、石田三成が祐筆としての能力を秀吉に認められ、出世の糸口を掴んだことが知られている 7 。宗是がこの重要な職務に抜擢されたという事実は、彼が単に能書家として優れていただけではなく、秀吉の意図を正確に汲み取り、それを的確な文章として表現する高度な政治的センスと、機密を扱うに足る人物としての信頼を勝ち得ていたことの証左に他ならない。
この祐筆としての経験は、宗是の後半生に決定的な影響を与えた。彼は政権の中枢で、諸大名の動向や権力内部の力学といった、表には決して出ることのない情報を日々扱う立場にあった。この時に培われた情報収集・分析能力と、政権内部に張り巡らされた人脈こそが、後に彼が伊達政宗にとってかけがえのない存在となるための基盤を形成したのである。
年代 |
主君 |
主な役職・出来事 |
典拠史料 |
天文4年(1535) |
- |
三好家臣・河合氏の子として誕生 |
3 |
不詳 |
- |
三好家臣・和久掃部頭の養子となる |
3 |
16世紀中頃 |
三好氏 |
家臣として仕える |
1 |
16世紀中頃 |
足利将軍家 |
将軍家に仕える |
1 |
元亀元年(1570) |
織田信長 |
三好三人衆と共に信長に降伏 |
4 |
天正10年(1582) |
豊臣秀吉 |
秀吉の祐筆となる |
3 |
天正18年(1590) |
豊臣秀吉 |
小田原征伐に際し、伊達政宗への説得の使者を務める |
2 |
天正19年(1591) |
豊臣秀吉 |
葛西大崎一揆の際、政宗に機密情報を提供 |
4 |
慶長5年(1600) |
(西軍) |
関ヶ原の戦いで西軍に与し、浪人となる |
4 |
慶長17年(1612) |
伊達政宗 |
政宗に客将として招聘され、2000石を与えられる |
4 |
慶長19年(1614) |
豊臣秀頼 |
大坂冬の陣に豊臣方として参陣 |
2 |
慶長20年(1615) |
豊臣秀頼 |
大坂夏の陣、天王寺・岡山の決戦で討死(享年81) |
1 |
和久宗是の生涯を語る上で、伊達政宗との関係は切り離すことができない。二人の関係は、単なる主君と家臣という形式的な枠組みを遥かに超えた、個人的な恩義と信頼に基づく、極めて人間的な結びつきであった。宗是は豊臣政権の官僚として、そして政宗は天下人の前に恭順の意を示さざるを得ない地方の雄として出会い、やがて互いの存亡を左右するほどの深い関係を築いていく。
二人の運命が大きく交差したのは、天正18年(1590年)、豊臣秀吉による天下統一の総仕上げである小田原征伐の時であった。秀吉は全国の大名に参陣を命じたが、奥州の覇者・伊達政宗はなかなか態度を明らかにせず、秀吉を苛立たせていた。この時、政宗を説得し、参陣を促すための使者として派遣されたのが、秀吉の祐筆であった和久宗是である 2 。
宗是の役割は、単に秀吉の最後通牒を伝えることではなかった。彼は、秀吉の側近として得た情報と、長年の経験で培った政治感覚を駆使し、政宗に対して天下の趨勢を説き、参陣こそが伊達家存続の唯一の道であることを粘り強く諭した。ある史料によれば、宗是は「親身なアドバイザー」として政宗に接し、片倉小十郎景綱ら家中の主戦論者を抑えて参陣を決意させる上で、決定的な役割を果たしたとされる 4 。この時の宗是から政宗に宛てた書状は、現在も仙台市博物館に「伊達家文書」の一部として所蔵されており 11 、二人の関係の原点を示す第一級の史料となっている。この一件を通じて、政宗は宗是の人物と見識に深い信頼を寄せるようになった。
二人の絆を決定的にしたのが、翌天正19年(1591年)に発生した葛西大崎一揆における宗是の行動である。この一揆鎮圧後、政宗は一揆を裏で扇動していたのではないかという重大な嫌疑をかけられた。これは、秀吉の信頼を失い、伊達家が改易されることにも繋がりかねない絶体絶命の危機であった。
この時、宗是は驚くべき行動に出る。彼は秀吉の祐筆という、豊臣政権の中枢にいる立場でありながら、政宗に対して、これから行われる審問の内容を事前に知らせ、さらには政宗への嫌疑を記した蒲生氏郷の書状の写しまで同封して、弁明の準備を助けたのである 4 。これは、豊臣家の官僚としての忠誠(公儀)よりも、政宗個人との信頼関係(私儀)を優先した、極めて危険な行為であった。この宗是による情報提供がなければ、弁舌の才に長けた政宗といえども、この窮地を乗り切ることは困難であったかもしれない。この一件は、二人の間に単なる主従関係を超えた、利害を度外視した強固な信頼関係が生まれていたことを雄弁に物語っている。
慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いは、宗是の運命を再び暗転させる。彼は西軍に与したため、戦後に浪人の身となった 4 。その後、12年間にわたり関西や関東で隠れ住む生活を送っていたが、慶長17年(1612年)、77歳となった宗是に救いの手を差し伸べたのが伊達政宗であった 4 。
政宗は、かつて宗是から受けた大恩に報いるため、彼を仙台藩へと招聘した。徳川幕府の重鎮となっていた政宗にとって、西軍に与した人物を召し抱えることは、幕府から無用の嫌疑をかけられかねないリスクのある行動であった。そのため、政宗は幕府の目を憚り、宗是を仙台城下ではなく、黒川郡大谷邑(現在の宮城県大郷町)に住まわせた 9 。そして、彼に2000石という、一介の客将としては破格の知行を与えて厚遇したのである 4 。これは、政宗がいかに宗是への恩義を重く受け止め、最大限の形でそれに報いようとしていたかを示すものである。この「恩義の連鎖」こそが、宗是と政宗の関係性の本質であり、後の大坂の陣における宗是の驚くべき決断と、その後の和久一族の運命を理解する上で、最も重要な鍵となるのである。
伊達政宗の下で安穏な晩年を送るかに見えた和久宗是であったが、彼の武士としての魂は、戦国の世の終焉と共に燃え尽きることを望んでいた。慶長19年(1614年)に勃発した大坂の陣は、彼にとって、自らの生涯を完結させるための最後の舞台となった。彼の最期は、豊臣家への恩義、武士としての美学、そして自らの死を後世に語り継がせるための壮大な演出に彩られていた。
徳川と豊臣の対立が決定的となり、大坂冬の陣が始まると、宗是は主君である伊達政宗の前に進み出て、驚くべき願いを口にする。「大恩ある豊臣家のために死にたいので、大坂城へ入ることをお許しいただきたい」 2 。この時、政宗は徳川方として出陣の準備を進めており、その家臣が敵方である豊臣家に味方するなど、常識では考えられないことであった。
しかし、政宗は宗是のこの願いを許した。それは、政宗自身がかつて宗是から受けた恩義を片時も忘れていなかったからに他ならない。小田原での説得、葛西大崎一揆での密告という、伊達家の存亡を救った宗是の恩義。政宗は、宗是が豊臣秀吉から受けた恩義に、命をもって報いようとするその武士としての生き様を深く理解し、尊重したのである。主従の立場を超えた二人の深い信頼関係を示す、感動的な逸話として語り継がれている。こうして宗是は政宗に許され、大坂城に入城した 2 。
冬の陣が一旦和議によって終結した後も、宗是は和議が一時的なものであることを見抜き、再度の開戦を予期して大坂城に留まった 3 。そして翌慶長20年(1615年)4月、彼の読み通りに大坂夏の陣が勃発する。
5月7日の天王寺・岡山の最終決戦において、宗是は自らの死に様を演出する。彼は武士の正装である甲冑を脱ぎ捨て、代わりに白綾の衣を身に纏った 2 。その理由を問われると、「甲冑を着ていては、年寄りだと侮られて敵が近寄ってこないだろう」と語ったと伝えられている 2 。これは、老いを嘆くのではなく、むしろそれを誇りとし、敵に侮られることなく華々しい最期を遂げたいという、彼の強烈な自負心と武士としての美意識の表れであった。白綾を纏うという行為は、死を覚悟した者の死装束であり、戦場で視覚的に極めて強い印象を与える。彼は槍を手に、単騎で徳川勢へと突入し、その望み通りに壮絶な討死を遂げた。享年81 3 。
宗是のこの壮絶な最期は、やがて近世の軍記物などで語り継がれることになる。特に、源平合戦の時代の老武者・斎藤実盛の故事になぞらえて、「斎藤実盛の遺風あり」と賞賛された 2 。実盛は、加賀国・篠原の戦いにおいて、老武者と侮られることを嫌い、白髪を黒く染めて最後の戦に臨んだことで知られる 13 。
宗是の行動は、実盛とは逆の発想であった。彼は老いを隠すのではなく、むしろ老いを晒すことで敵を誘い、見事な死に場所を得ようとした。この行動は、彼が自らの死を、後世に語り継がれるべき一つの「物語」として意識的に作り上げたことを示唆している。それは、戦国という激動の時代を生き抜き、その終焉を見届けた一人の武士による、最後の、そして最大の自己表現であったと言えよう。彼の死は、豊臣家の滅亡という時代の大きな転換点を象徴する「死に花」として、人々の記憶に深く刻まれたのである 14 。
和久宗是が大坂の地でその生涯を閉じた一方で、彼が伊達政宗との間に築いた「恩義」の絆は、その死後もなお、彼の一族の運命を劇的に動かし続けた。宗是の物語は、彼の息子・是安の救済と、仙台藩における和久家の確立という形で、次世代へと受け継がれていく。これは、個人の人間関係が藩という公式な組織の制度を動かし、歴史を形成した顕著な事例である。
宗是の次男・和久是安(わく ぜあん、通称:半左衛門宗友)もまた、父と同じく能書家であり、豊臣秀頼の祐筆を務めていた 4 。大坂冬の陣の直前、慶長19年(1614年)10月、是安は秀頼の使者として、下野国小山に布陣していた伊達政宗のもとを訪れる。その目的は、政宗を豊臣方に取り込むことであったが、既に徳川方としての出陣を決めていた政宗はこれを拒否する 10 。
敵方の使者である是安は、そのまま徳川方に捕縛され、伊豆三島に監禁されるという危機的状況に陥った 10 。本来であれば、敵の密使として処刑されてもおかしくない立場であった。しかし、ここで政宗が動く。彼は父・宗是から受けた恩義に報いるため、是安の助命に奔走したのである。政宗は、幕府の重鎮である本多正純や土井利勝らに何度も働きかけ、是安の赦免を嘆願した 4 。さらに、大坂城が落城し、父・宗是の討死が伝わると、獄中の是安に父の死を悼む書状を送るなど、並々ならぬ配慮を見せている 4 。これは、政宗が藩主として幕府の意向に背くリスクを冒してまでも、宗是個人との約束を果たそうとした行動であり、彼の義理堅い人柄を物語っている。
政宗の粘り強い尽力と、大坂の陣の翌年に徳川家康が死去したという政治状況の変化も手伝い、是安の運命は好転する。元和2年(1616年)5月、是安はついに赦免され、身柄を政宗に預けられることとなった 4 。
仙台藩に迎えられた是安は、破格の待遇を受ける。家臣の序列の中でも上位である「着座」の家格を与えられ、1000石の知行地を賜った 4 。彼はその能書家としての才能を活かし、政宗や二代藩主・忠宗の祐筆、さらには書道の教授役を務め、藩政に貢献した 4 。
さらに、政宗の配慮は是安だけに留まらなかった。宗是には是安の他に宗昨(そうさく)という長男がいたが、病弱であったために廃嫡されていた 3 。政宗は、この宗昨の子、すなわち宗是の孫にあたる是信(これのぶ)をも伊達家に召し抱え、200石の平士として別家を興させたのである 4 。これにより、本来ならば断絶していたはずの和久家は、宗是が築いた伊達家との絆によって、仙台藩という新たな組織の中で二つの家系として存続することになった。
和久一族が伊達家の下で安泰を得た証は、現代にも残されている。和久是安は寛永15年(1638年)に61歳で没し、その墓は栗原郡宮野村(現在の栗原市)の妙圓寺に葬られたと記録されている 4 。
一方で、仙台市若林区荒町にある日蓮宗の寺院・仏眼寺の境内には、和久一族の墓碑群が現存する 2 。この寺は伊達家と縁が深く 17 、ここには是安の兄・宗昨の子である是信の墓や 4 、是安(和久半左衛門)の墓とされるものも存在する 16 。史料によって是安の墓所に関する記述に若干の混乱が見られるものの、これらの墓碑は、和久宗是という一人の武将が命を懸けて貫いた「義」が、その死後もなお一族の安泰をもたらしたことを示す、揺るぎない物理的な証拠と言えるだろう。
和久宗是の81年の生涯を俯瞰する時、彼が単なる「忠臣」や「武将」といった紋切り型の言葉では到底捉えきれない、極めて多層的で魅力的な人物であったことが浮かび上がってくる。彼の人生は、流転と激動の連続でありながら、その行動の根底には一貫した哲学と美学が流れていた。
宗是の人物像は、少なくとも三つの異なる顔によって構成されている。第一に、時代の流れを冷静に読み、権力の中枢で自らの才覚を武器に渡り歩いた、有能な「文官」としての顔。第二に、組織への忠誠(公儀)よりも、個人間で交わされた恩義(私儀)を重んじ、そのために危険を冒すことも厭わない「義人」としての顔。そして第三に、自らの死に様を歴史に刻むため、壮絶な最期を意識的に演出しきった「表現者」としての顔である。
彼の行動原理の中心にあったのは、主家への盲目的な忠誠ではなかった。それは、個人と個人の間で交わされた「恩義」という、より人間的な価値観であった。彼が大坂の陣で豊臣家に殉じたのは、かつて自らを見出し、重用してくれた豊臣秀吉個人への恩義に報いるためであった。そして、その息子・是安が敵方であったにもかかわらず伊達政宗に救われ、一族が仙台藩で繁栄したのは、宗是がかつて政宗に施した恩義に、政宗が報いた結果であった。そこには、恩が恩を呼ぶ、美しい因果の連鎖が存在する。
和久宗是の生涯は、戦国乱世の終焉期において、武士たちがどのような価値観を胸に生き、そして死んでいったのかを、我々に鮮やかに教えてくれる。歴史の表舞台で脚光を浴びる天下人や大名だけでなく、宗是のような、権力者の傍らで時代を動かした人物の生き様を深く掘り下げることこそが、その時代の深層を、そして人間の営みの本質を理解する鍵となる。彼の壮絶な死は、滅びの美学などという感傷的な言葉で語られるべきではない。それは、自らの信じる「義」に殉じ、見事に生涯を完結させた、一人の人間の誇り高き生き様の到達点なのである。