戦国時代の歴史は、織田信長、武田信玄、上杉謙信といった傑出した大名たちの物語として語られることが多い。しかし、その華々しい歴史の陰には、彼らの覇権争いの狭間で、自らの家と領地の存続をかけて必死に戦い抜いた無数の地方領主、「国衆(くにしゅう)」の存在があった。本稿で詳述する和田業繁(わだ なりしげ)は、まさしくそのような国衆の一人である。彼の生涯は、越後の上杉、相模の北条、甲斐の武田という三大勢力が激しく衝突する最前線、上野国(こうずけのくに、現在の群馬県)の動乱を映し出す鏡であり、戦国乱世における中小領主の生き様を克明に物語っている 1 。
上州和田氏の歴史は古く、その源流は鎌倉幕府の創設に功のあった有力御家人、三浦一族に遡る。初代侍所別当という要職を務めた和田義盛を祖とすることから、和田氏は単なる在地土豪ではなく、名門としての誇りと自負を代々受け継いできたと考えられる 4 。彼らが上野国群馬郡和田郷(現在の高崎市)に本拠を定めたのは室町時代であり、正長元年(1428年)に和田義信が和田城を築いたと伝えられる 7 。この和田城が、業繁の時代に至るまで、一族の支配の拠点となったのである。
戦国期の上野国は、北に越後の上杉謙信、南に相模の北条氏康、西に甲斐の武田信玄という、当代屈指の戦国大名たちが国境を接する、まさに「草刈り場」であった 3 。特に和田氏が本拠を置いた西上野は、箕輪の長野氏、安中の安中氏、国峯の小幡氏といった国衆が割拠し、常にいずれかの大勢力への従属を強いられるか、あるいは複数の勢力と巧みに通じることで生き残りを図らねばならない、極めて不安定な地政学的環境に置かれていた 13 。和田業繁の生涯は、このような緊迫した状況下で下された、一連の苦渋に満ちた戦略的選択の連続であった。
和田業繁の武将としてのキャリアは、関東管領を世襲する名門、山内上杉家に仕えることから始まった 1 。彼の立場をより強固なものにしていたのが、西上野最大の国衆であった箕輪城主・長野業正との深い姻戚関係である。業繁の母は業正の妹であり、さらに業繁自身も業正の娘を正室に迎えていた 1 。この二重の縁により、業繁は長野氏の「同心(与力)」、すなわち軍事的に一体となって行動する有力な一門衆と見なされており、彼の初期の政治的・軍事的立場はこの関係性によって規定されていた。
しかし、業繁が仕えた関東管領・上杉憲政の力は、新興勢力である相模の北条氏康の前に急速に衰えていく。天文21年(1552年)、ついに憲政は北条軍に上野国を追われ、越後の長尾景虎(後の上杉謙信)を頼って落ち延びていった 18 。主君を失った業繁は、義理の父であり、西上野国衆の盟主的存在であった長野業正と歩調を合わせ、この地域を席巻した北条氏康に一時的に従属する道を選ぶ 1 。これは、巨大勢力の奔流に抗うことのできない国衆が、家名を保つために取らざるを得なかった現実的な選択であった。
事態が再び動くのは永禄3年(1560年)のことである。亡命していた上杉憲政を奉じた長尾景虎が、関東の旧秩序を回復すべく大軍を率いて南下を開始すると、業繁は長野氏と共に再び上杉方へと帰参した 1 。この時の上杉軍の編成を記録した貴重な史料『関東幕注文』には、「箕輪衆」の一員として「和田八郎」(業繁の通称)の名が明確に記されており、彼が謙信の麾下にあったことが確認できる 2 。この際、業繁は忠誠の証として、弟の一人(後の和田喜兵衛)を人質として謙信のもとへ差し出している 1 。
永禄4年(1561年)、謙信は鎌倉の鶴岡八幡宮において、上杉憲政から関東管領職を譲り受け、その就任式を盛大に執り行った。しかし、この晴れの舞台で起きた一つの事件が、業繁を含む多くの関東国衆の心に、謙信に対する拭いがたい不信の念を植え付けることになる。忍城主の成田長康が、儀礼上の些細な不手際を理由に謙信から衆目の前で屈辱的な扱いを受けたのである 2 。
この一件は、単なる成田氏個人の問題ではなかった。関東の国衆たちは、それぞれが独立性の高い領主としての誇りを持っており、彼らの間には独自の慣習や秩序が存在した。越後から来た謙信の、時に厳格すぎる統治スタイルや価値観は、こうした関東国衆のプライドとしばしば衝突した。成田氏への仕打ちは、他の国衆にとって「明日は我が身」と映り、謙信という新たな主君に自らの家の未来を託せるのかという、根本的な疑念を抱かせるのに十分であった。この不信感の広がりこそが、業繁が後に上杉氏から離反し、新たな庇護者を求めるに至る大きな伏線となった。彼の行動は単なる裏切りではなく、自らの家と領地を守るための、熟慮の末の政治的決断だったのである。
表1:和田業繁の主君変遷と関東の情勢
時期(西暦/和暦) |
和田業繁の所属勢力 |
主君 |
関連する主要な出来事 |
〜1552年(天文21年) |
山内上杉家 |
上杉憲政 |
河越夜戦(1546年)で上杉方大敗。北条氏の勢力拡大。 |
1552年(天文21年) |
(独立・北条氏に従属) |
(北条氏康) |
上杉憲政が北条氏に敗れ、越後へ逃亡。 |
1560年(永禄3年) |
越後長尾氏(上杉氏) |
長尾景虎(上杉謙信) |
謙信が関東へ侵攻。業繁は長野氏と共に上杉方に帰参。 |
1561年(永禄4年) |
越後長尾氏(上杉氏) |
上杉謙信 |
謙信が関東管領に就任。第四次川中島の戦い。 |
1562年(永禄5年) |
甲斐武田氏 |
武田信玄 |
業繁、武田氏に臣従。 武田氏による西上野侵攻が本格化。 |
1566年(永禄9年) |
甲斐武田氏 |
武田信玄 |
箕輪城落城、長野氏滅亡。武田氏が西上野を平定。 |
1573年(元亀4年) |
甲斐武田氏 |
武田勝頼 |
武田信玄が死去。勝頼が家督を継承。 |
1575年(天正3年) |
甲斐武田氏 |
武田勝頼 |
長篠の戦いで戦死。 |
上杉謙信への不信感が関東国衆の間に広がる中、西からは甲斐の武田信玄が着実に信濃を平定し、その勢力を上野国へと伸ばしていた。永禄4年(1561年)11月、第四次川中島の戦いを終えた信玄は、その矛先を本格的に西上野へと向け、侵攻を開始する 1 。目前に迫る武田軍の圧倒的な軍事力と、先の鶴岡八幡宮での一件以来、信頼の揺らいでいた上杉謙信。この二つの要因を天秤にかけた業繁は、生き残りのための新たな道を模索する。そして永禄5年(1562年)5月までには、他の国衆に先駆けて武田信玄への従属を決断した 1 。これは、彼の生涯における最も重要な戦略的転換であった。
軍記物である『甲陽軍鑑』によれば、和田氏が武田氏から課せられた軍役は騎馬30騎であったとされ、これは武田軍に組み込まれた上野先方衆の中では小幡氏(500騎)や安中氏(118騎)などに比べて小規模な部類に入る 6 。にもかかわらず、信玄は業繁を破格の待遇で迎え入れた。その理由は、業繁が動員できる兵力ではなく、彼が本拠とする和田城の持つ圧倒的な「地理的価値」にあった。
和田城は、上杉方の最重要拠点である箕輪城(長野氏)と厩橋城(当時は上杉方の北条高広らが拠点)を直接睨むことができる、まさに最前線に位置していた 18 。信玄にとって、この城を力攻めにすれば多大な犠牲は免れない。しかし、城主である業繁を味方に引き入れることができれば、無血で対上杉戦略の最重要拠点を手中に収めることができる。これは、信玄の有名な理念である「人は城、人は石垣、人は堀。情けは味方、仇は敵なり」 24 にも通じる、極めて合理的かつ効率的な戦略であった。信玄は業繁を単なる家臣としてではなく、西上野支配を盤石にするための重要な戦略的パートナーと見なしたのである。
信玄は、業繁の忠誠に応える形で、手厚い支援を惜しまなかった。まず、和田城の普請(改修工事)に際して、金銭や労働力を提供し、城を武田流の堅固な要塞へと変貌させた 18 。発掘調査では、この時期に信濃方面から持ち込まれた土器が出土しており、武田氏の影響が物資の面でも及んでいたことが裏付けられている 25 。さらに、武田氏の譜代家臣を城に常駐させ、武器や兵糧を充実させるなど、有事の際の防衛体制を徹底的に強化した 18 。
信玄の巧みさは、人質政策にも表れている。業繁は武田氏への臣従に際し、当初、領内の情勢不安を理由に老母を人質として甲府へ送った 6 。これに対し信玄は、かつて業繁が上杉方に差し出していた弟・喜兵衛の身柄を、外交交渉によって取り戻すという離れ業をやってのける 18 。これは、業繁に対する信玄の信頼を示すと共に、彼の忠誠をより確固たるものにするための、高度な政治的配慮であった。
そして、この関係を決定的なものにしたのが、婿養子の受け入れである。業繁は、武田家の重臣で信玄の側近でもあった跡部勝資(あとべ かつすけ)の子・昌業(まさなり、後の和田信業)を娘婿として迎え、自らの養子とした 1 。これにより、和田氏は武田家と血縁的にも深く結びつき、その支配体制の中に完全に組み込まれていったのである。
自らの麾下から武田方へと寝返った和田業繁に対し、上杉謙信の怒りは凄まじかった。謙信にとって、業繁の離反は単なる一国衆の裏切りではなく、自らの関東管領としての権威への挑戦であり、武田の勢力が上野に深く食い込むことを許す戦略的な失態でもあった。そのため、謙信は失地回復と雪辱を期し、幾度となく和田城に大軍を差し向けた。記録によれば、永禄6年(1563年)末から翌年にかけて、そして永禄8年(1565年)にも、断続的に激しい攻撃が行われたことが確認できる 2 。和田城は、上杉・武田両軍の雌雄を決する最前線となったのである。
攻防戦のクライマックスは、永禄9年(1566年)に訪れた。謙信は1万3000と号する大軍を率いて和田城に殺到した 20 。対する和田城の守兵は、業繁麾下の兵わずか600。まさに衆寡敵せず、落城は時間の問題かと思われた。しかし、この絶体絶命の危機に、武田信玄からの援軍が駆けつける。派遣されたのは、信玄配下の猛将・横田高松の子である横田康景が率いる鉄砲足軽を中心とした300の兵であった 2 。
城兵と援軍を合わせても総勢わずか900。しかし、彼らは武田の支援によって堅固に改修された城郭を最大限に活用し、決死の防衛戦を展開した。特に、横田康景率いる鉄砲隊の活躍は目覚ましく、城に殺到する上杉軍に対して効果的な迎撃を行い、その勢いを削いだ 2 。寡兵ながらも城兵の士気は高く、業繁の巧みな指揮のもと、ついに上杉軍の大攻勢を撃退することに成功したのである 2 。この目覚ましい戦功に対し、信玄は自ら箕輪城から和田城へと赴き、業繁の働きを直々に賞賛したと伝えられている 2 。
和田城が上杉軍の猛攻を凌ぎきったことの戦略的意義は極めて大きい。この防衛成功により、武田軍は西上野における重要な橋頭堡を維持することができた。そして同年、武田軍は西上野における上杉方の最大拠点であった箕輪城を攻略し、長年にわたり武田の侵攻を阻んできた名将・長野業正の子、業盛を自刃に追い込み、長野氏を滅亡させた 3 。これにより、西上野一帯は完全に武田の勢力圏となり、和田城をめぐる攻防もようやく終息。業繁は、武田氏による西上野平定に多大な貢献を果たした功臣として、その地位を不動のものとした 18 。
天正3年(1575年)、甲斐の虎・武田信玄の死から二年、その後を継いだ武田勝頼は、父をも凌ぐ大遠征を計画する。徳川家康の領国である三河国へ深く侵攻し、その要衝・長篠城を攻略すべく、1万5000の大軍を動員したのである 27 。この時、和田業繁も武田軍に編成された「西上野衆」の有力武将の一人として、この遠征軍に従軍していた 17 。長年、武田家のために上杉勢と対峙し続けた彼にとって、これが最後の出陣となるとは知る由もなかった。
武田軍は、長篠城を完全に包囲するため、城の南東に位置し、城内を俯瞰できる戦略的要地・鳶ヶ巣山(とびがすやま)を中心に、複数の砦(付城)を構築した 31 。この砦群は、長篠城への圧力をかけるだけでなく、武田軍の兵站基地としての機能も兼ねた、作戦の生命線ともいえる重要な拠点であった 31 。
和田業繁は、この鳶ヶ巣山砦群を構成する砦の一つ、「君が臥床砦(きみがふすまとりで)」の守将に任じられた 1 。砦群全体の総大将は勝頼の叔父にあたる河窪信実(かわくぼのぶざね)が務め、業繁のほか、三枝昌貞(さえぐさ まささだ)といった歴戦の武将たちが守りを固めていた 35 。
長篠城の窮状を知った織田信長と徳川家康は、3万8000の連合軍を率いて設楽原に着陣する。そして、天正3年5月20日の夜、軍議の席で徳川の重臣・酒井忠次が献策した鳶ヶ巣山砦への奇襲作戦が、信長の決断により採用される。忠次率いる約4,000の精鋭からなる別働隊は、深夜、密かに武田本隊の側面を迂回し、夜陰に乗じて鳶ヶ巣山の背後へと迫った 28 。
そして運命の5月21日、夜明けと共に酒井の別働隊は一斉に奇襲を敢行した。完全に油断を突かれた鳶ヶ巣山の砦群は、瞬く間に大混乱に陥る。君が臥床砦に布陣していた和田業繁も、この予期せぬ背後からの攻撃に遭遇し、必死の防戦を試みるも、猛然と襲い来る徳川勢の前に、ついに力尽き、その生涯を閉じた 1 。享年48であったと伝えられる 17 。
業繁の最期の瞬間については、史料によって記述に若干の差異が見られる。彼が奇襲の混乱の中で即座に討ち取られたとする「戦死」説 1 がある一方で、より具体的な状況を伝える「戦傷死」説も存在する。後者によれば、業繁は鳶ヶ巣山の本砦が攻撃されているのを知り救援に向かおうとした際、あるいは潰走する中で鉄砲玉を受け負傷し、一度は辛うじて戦場を離脱したものの、その時の傷が元で絶命したという 20 。
どちらの説が真実であるか断定することは困難であるが、この記録の差異は、奇襲がいかに凄まじい混乱の中で行われたかを物語っている。いずれにせよ、彼が酒井忠次の奇襲によって命を落としたという歴史的事実は揺るぎない。彼の死は、武田軍の防衛線に開いた致命的な亀裂の一つであった。
和田業繁をはじめとする守将たちの死と、鳶ヶ巣山砦群の陥落は、長篠の戦い全体の帰趨を決する決定的な一撃となった。これにより、設楽原に布陣していた武田本隊は、背後の退路と補給基地を完全に失った 32 。挟撃の危機に瀕し、後顧の憂いを断たれた勝頼は、もはや前進以外の道を選べなくなる。そして、織田・徳川連合軍が周到に準備した馬防柵と3,000丁ともいわれる鉄砲隊に対し、無謀な正面突撃を繰り返さざるを得なくなり、結果として武田軍は壊滅的な大敗を喫した。業繁の死は、武田家が衰亡へと向かう、その序曲を奏でる戦いの、重要な一場面を構成していたのである。
和田業繁の生涯を俯瞰すると、そこに浮かび上がるのは、超人的な英雄ではなく、激動の時代を生き抜くために最善の選択を模索し続けた、思慮深い現実主義者の姿である。彼は、長野氏との姻戚関係を足がかりに自らの地位を固め 1 、関東の覇権が上杉から北条、そして武田へと移り変わる時勢を冷静に見極め、主君を変えるという重大な決断を下した 1 。そして一度忠誠を誓った後は、任された城を寡兵で死守し、主君の期待に応える武人としての強い責任感も示した 2 。その軍事力は小規模であったにもかかわらず、武田信玄にその戦略的価値を認めさせ、手厚い支援を引き出した点は、彼が単なる一地方領主ではない、非凡な交渉力と政治的嗅覚を兼ね備えていたことを示唆している。
和田一族が置かれた状況は、戦国時代の複雑な人間関係と、家を存続させるための過酷な現実を象徴している。業繁が武田信玄に仕える一方で、彼が人質として差し出した弟の和田喜兵衛は、敵方である上杉謙信の近習として仕え続け、深い信頼を得ていた 2 。第四次川中島の合戦では、謙信が武田本陣に斬り込んだ後の危険な退却行に、わずか二騎で付き従ったのがこの喜兵衛であったという逸話も残るほどである 2 。
兄弟が敵味方に分かれて仕えるという構図は、一見すると悲劇に他ならない。しかし、これは国衆が家を存続させるための「両属(りょうぞく)」と呼ばれる、一種の保険戦略であった可能性も指摘されている 13 。どちらの勢力が最終的に勝利を収めても、一族の誰かが生き残り、家名を繋いでいくための、苦渋に満ちた選択であったとも解釈できるのである。和田一族の姿は、忠誠や裏切りといった単純な二元論では到底割り切ることのできない、戦国武士のリアルな家族像を我々に示している。
業繁の死後、和田家の家督は、婿養子であった和田信業(武田家臣・跡部勝資の子)が継いだ 1 。信業は、武田家が天正10年(1582年)に滅亡すると、織田信長の家臣・滝川一益、本能寺の変後は後北条氏に仕えるなど、父・業繁と同様に時勢を読みながら主君を変え、家の存続を図った 2 。
しかし、天正18年(1590年)、豊臣秀吉による小田原征伐が始まると、信業は北条方として小田原城に籠城した。北条氏が降伏すると、信業も領地を没収されて没落し、上州和田氏の国衆としての歴史はここに幕を閉じた 40 。その後、信業は各地を放浪した末、元和3年(1617年)に近江国武佐にて68歳でその生涯を終えたとされる 6 。しかし、和田氏の血脈が完全に途絶えたわけではなかった。信業の子・業勝は、後に会津藩主となる保科正之に仕官し、その子孫は会津松平家の家臣として幕末まで家名を伝えた 2 。
現在の高崎市下横町に位置する曹洞宗の興禅寺は、和田氏が再興し、菩提寺とした寺院である 43 。この寺には、高崎市指定重要文化財である「和田城並びに興禅寺境内古絵図」が伝来しており、戦国時代の和田城と城下、そして寺院の様子を知るための極めて貴重な史料となっている 25 。また、かつて高崎で歌われた唱歌には「和田の七騎の墓所」と詠まれており 46 、和田氏が地域の人々にとって記憶されるべき存在であったことがうかがえる。ただし、墓所自体は後年に移転されており、現在、興禅寺に業繁個人の墓は確認されていない 46 。それでもなお、こうした伝承や文化財は、和田氏がこの地に遺した確かな足跡を今に伝えている。
和田業繁の生涯は、戦国史の表舞台を飾る華々しい英雄譚ではない。しかし、そこには、自らの家と領民を守るという、領主としての根源的な責務を果たすため、激動の時代を必死に泳ぎ切ろうとした一人の人間の、等身大の姿が映し出されている。彼の選択は、常に上杉・北条・武田という大国の動向に翻弄されながらも、その中で最善の道を模索する、冷徹なまでの現実主義に貫かれていた。彼の人生は、戦国時代というものが、一握りの天才たちの物語であると同時に、無数の国衆たちの無数の決断の積み重ねによって織りなされた、複雑で多層的な歴史であったことを我々に教えてくれる。
和田業繁のような国衆の動向は、時に大名たちの勢力図を塗り替える上で、決定的な触媒として機能した。彼が武田方へ帰属したことにより、信玄の西上野支配は大きく前進し、結果として上杉謙信の関東戦略に深刻な打撃を与えた。彼の存在は、戦国史が一部の著名な大名だけで動いていたのではなく、彼らと在地社会とを繋ぐ「媒介者」であった国衆たちの選択と行動によって、そのダイナミズムが生まれていたことを証明する、極めて貴重な歴史的事例と言えるだろう。和田業繁という一人の武将の生涯を丹念に追うことは、戦国という時代の深層を理解するための、重要な鍵となるのである。