日本の戦国時代、中国地方に覇を唱えた毛利氏の家臣団には、数多の英傑が名を連ねる。その中にあって、国司元相(くにし もとすけ)という名は、ある種の鮮烈な武勇伝と共に記憶されている。「吉田郡山城の戦いにおいて、敵将34人の首級を挙げた勇将」―この逸話は、彼の武人としての一面を雄弁に物語るものとして、広く知られている 1 。また、主君・毛利元就が定めた五奉行の一員として政務を担い、さらには将軍・足利義輝から直々に「槍の鈴」を免許されるという栄誉に浴したことも、彼の事績として伝えられるところである 3 。
しかし、これらの断片的な情報は、国司元相という人物の全体像を捉えるには十分とは言えない。彼の勇将としての逸話は、果たして史実としてどこまで検証可能なのか。毛利家の統治機構を支えた行政官としての彼は、具体的にどのような役割を担っていたのか。そして、将軍から与えられた栄誉には、いかなる政治的背景が隠されていたのか。本報告書は、こうした問いに答えるべく、国司元相の生涯を多角的に、かつ徹底的に掘り下げることを目的とする。
その探求は、彼の出自、すなわち室町幕府の中枢で権勢を誇った名門・高氏の末裔として、いかにして安芸の地に根を下ろしたかという淵源から始まる。次に、毛利氏の存亡を賭けた合戦における彼の武功と、その逸話の史実性を検証する。さらに、毛利氏が領国支配体制を確立する上で極めて重要な役割を果たした五奉行制度に焦点を当て、その中枢における元相の行政官としての実務能力と政治的立場を明らかにする。そして、彼のキャリアの頂点とも言える「槍の鈴」の免許という出来事を、当時の毛利氏と中央政界との関係性の中に位置づけ、その深層的な意味を解き明かす。最後に、彼の晩年から死後、一族が長州藩士としていかに存続し、歴史の舞台に関わり続けたかまでを追跡し、国司元相という一人の武将の生涯を、その時代背景と共に立体的に再構築するものである。
国司元相の人物像を理解する上で、その出自である国司氏の来歴を辿ることは不可欠である。国司氏は、安芸の地に突如として現れた土豪ではなく、中央政界の激動の渦中で没落した名門一族の血脈を受け継ぐ、特異な背景を持っていた。
国司氏の遠祖は、平安時代に遡る高階氏に連なる 4 。高階惟長は源平合戦において源氏方として戦功を挙げ、後に鎌倉幕府の政所別当であった大江広元の娘を妻に迎えたとされる 4 。鎌倉時代に入ると、その子孫は足利氏に仕え、高師直・師直兄弟の曽祖父にあたる高重氏の代に、姓を「高(こう)」と改めた 4 。
この高氏は、室町幕府の成立期において歴史の表舞台に躍り出る。足利尊氏が幕府を開くにあたり、高師直とその兄・師泰は、執事として絶大な権勢を振るった 4 。師直は軍事・政務の両面で尊氏を支える右腕として活躍し、高一族は幕府の中枢を担う一大勢力としてその名を轟かせた。国司氏が、このような幕府草創期の最重要人物を輩出した一族の末裔であるという事実は、彼らの家格と誇りの源泉であったと想像に難くない。
しかし、高氏の栄華は長くは続かなかった。幕府内部で尊氏の弟・足利直義と高師直の対立が先鋭化し、やがて全国的な内乱へと発展する。「観応の擾乱」である。この争乱において高師直・師泰兄弟は敗北し、一族もろとも殺害された 4 。これにより、幕府の中枢を担った高氏は一挙に没落する。
このとき、高師泰の子であった高師武は、難を逃れて自らの所領であった安芸国高田郡国司荘(現在の広島県安芸高田市吉田町国司周辺)へと下向した 4 。中央での再起を断たれた師武は、この地に土着し、その地名から「国司」を名乗ることとなる。これが、安芸国人・国司氏の直接的な始まりであった 4 。中央政争の敗者が地方に下り、新たな一族を興すという、時代の転換期にしばしば見られる典型的な事例が、ここにも確認できる。
国司荘に土着した国司氏が、いかにして隣接する吉田荘の国人領主・毛利氏の家臣団に組み込まれていったか、その正確な経緯は必ずしも明確ではない。しかし、その背景には、観応の擾乱以前からの両家の関係性が存在した。南北朝期の毛利氏当主・毛利時親は、高師泰が幕府で権勢を誇っていた時代に、ひ孫の毛利師親(後の元春)を師泰のもとに仕えさせていた 4 。師親が名乗った「師」の字は、師泰からの偏諱(主君が家臣に自らの名の一字を与えること)であり、両者の間には主従関係が存在したことを示唆している。
このため、師泰の子である師武が国司荘に下向した際、旧来の縁を頼って毛利氏に従属し、その家臣となるのは自然な成り行きであったと考えられる 4 。以後、国司氏は一貫して毛利氏の譜代家臣として活動することになる。
国司元相の父・国司有相(ありすけ)の代には、国司氏はすでに毛利家中の重臣としての地位を確立していた。有相は、毛利興元に従って大内義興の上洛軍に参加し、船岡山合戦で武功を挙げている 4 。さらに、大永3年(1523年)に幼き当主・毛利幸松丸が急逝した際には、毛利元就の家督相続を実現すべく、他の14人の宿老と共に連署状に名を連ね、元就を強力に後押しした 4 。この事実は、国司氏が単なる一被官ではなく、主家の将来を左右する重要な意思決定に関与する中枢的な存在であったことを物語っている。天文11年(1542年)、有相が死去すると、その家督と毛利家中における重臣としての地位は、嫡男である元相へと引き継がれた 4 。
父・有相から家督を継いだ国司元相は、毛利氏が安芸の一国人から中国地方の覇者へと飛躍する激動の時代に、武将としてその名を馳せることになる。彼の武名は、主家の存亡を賭けた大戦での華々しい活躍と、絶望的な敗走戦を生き抜いた強靭さという、二つの対照的な経験によって形作られていった。
家督相続に先立つ天文7年(1538年)頃、元相は毛利元就の嫡男・毛利隆元の傅役(守役)に任じられている 3 。傅役とは、次期当主の教育係であり、最も身近に仕える側近である。この重要な役目に任命されたことは、元相が父・有相の代からの忠勤と、彼自身の器量を見込まれ、元就から深く信頼されていたことを示している。
この傅役という立場を通じて、元相は若き隆元と極めて強い信頼関係を築き上げた 2 。後に隆元から自身の名の一字である「元」の字を与えられ、「元相」と名乗るようになったのも、その親密さの証左である 3 。この主家の後継者との固い結びつきは、彼の生涯にわたる政治的地位の盤石な基盤となった。
元相の名を不動のものとしたのが、天文9年(1540年)から翌年にかけて起こった「吉田郡山城の戦い」である。出雲の尼子詮久(後の晴久)が3万ともいわれる大軍を率いて毛利氏の本拠地・吉田郡山城に侵攻したこの戦いは、毛利氏にとってまさに存亡の危機であった 6 。
この籠城戦において、国司元相は渡辺通らと共に城兵を率いて奮戦し、尼子軍を撃退する上で多大な功績を挙げたと記録されている 3 。特に、後世に編纂された軍記物語『陰徳太平記』などでは、彼がこの戦いで敵の武将34人の首を討ち取ったという、鬼神の如き活躍が描かれている 1 。この「34人討ち」の逸話は、彼の勇猛さを象徴する物語として広く流布し、国司元相のパブリックイメージを形成する上で決定的な役割を果たした。
しかし、この武勇伝の史実性については、慎重な検討が求められる。『陰徳太平記』は享保2年(1717年)に刊行された軍記物であり、史実を基にしながらも、読者の興味を引くために物語的な脚色や誇張が多く含まれていることが指摘されている 8 。同時代の一次史料である『毛利元就郡山籠城日記』には、元相らが奮戦したことは記されているものの、「34人討ち」といった具体的な数字や詳細な武功譚は見られない 7 。したがって、この逸話は、元相が郡山合戦で大きな功績を挙げたという史実を、後世の軍記作者が英雄的に増幅させたものと解釈するのが妥当であろう。彼の武勇が並外れていたことは確かだとしても、その具体的な内容は伝説の域を出ない部分がある。
郡山合戦での勝利から間もなく、毛利氏は主家である大内義隆に従い、尼子氏の本拠地・月山富田城を攻略するための出雲遠征に参加する。国司元相も当然、この遠征軍に加わっていた 3 。
しかし、この戦いは毛利氏にとって苦い経験となった。長期にわたる包囲戦の中で、大内方についていた出雲や安芸の国人衆が次々と尼子方へ寝返り、連合軍は戦線の維持が困難となる。最終的に大内義隆は撤退を決断するが、統制を失った軍勢は総崩れとなり、尼子軍の追撃を受けて甚大な被害を出した 4 。
この地獄のような撤退戦の最中、元相もまた負傷したと伝えられている 3 。多くの同僚や兵士たちが命を落とす中、彼は深手を負いながらも辛うじて安芸の吉田へと生還を果たした。郡山合戦の華々しい武勇伝が彼の「勇」を示すものとすれば、この月山富田城からの困難な撤退行は、彼の指揮官としての粘り強さと、絶望的な状況を生き抜く強靭な精神力、すなわち「武運の強さ」を証明する出来事であったと言える。派手な武功譚だけでなく、敗戦の泥濘の中から生還したという事実は、彼が単なる猪武者ではない、現実の戦場を生き抜く能力に長けた、経験豊かな武将であったことを物語っている。
国司元相の真価は、戦場での武功のみに留まらない。彼は毛利氏が巨大な領国を統治する行政機構を整備していく過程で、その中枢を担う「文」の官僚としても卓越した能力を発揮した。その象徴が、五奉行制度への参画である。
天文19年(1550年)、毛利元就は、家中での専横が目立った譜代重臣・井上元兼とその一族を粛清するという荒療治を断行する。この事件を契機に、元就は家臣団の再編と統制強化を図り、当主・毛利隆元の直属の行政機関として五奉行制度を創設した 3 。この制度は、毛利氏が単なる国人領主の連合体から、当主の権力を頂点とする集権的な戦国大名へと脱皮していく上で、画期的な意味を持つものであった。
この初代五奉行に選ばれたのが、国司元相、赤川元保、粟屋元親、桂元忠、そして児玉就忠の五名である 3 。彼らは毛利氏の領国経営における最高実務責任者として、軍事、財政、民政、司法、外交といったあらゆる政務を統括する重責を担うことになった。
一見、隆元を支える合議体として設立された五奉行制度であるが、その内実はより複雑な様相を呈していた。当時の毛利氏は、家督を隆元に譲った後も、隠居した元就が絶大な影響力を保持するという二元的な権力構造にあった。この構造は、奉行人の構成にも反映されていた。
研究によれば、五奉行は大きく二つのグループに分かれていた可能性が指摘されている。一つは、児玉就忠や桂元忠に代表される、元就の側近としてその意を体現する「元就派」の奉行。もう一つが、国司元相、赤川元保、粟屋元親ら、当主である隆元を直接補佐する「隆元派」の奉行である 12 。
隆元の傅役を務め、深い信頼関係にあった元相が「隆元派」の中核を担ったことは想像に難くない 3 。彼の役割は、若き当主・隆元の権力基盤を固め、その治世が円滑に進むよう、行政実務全般を差配することにあった。偉大な父・元就の影で、ともすればそのリーダーシップが揺らぎかねない隆元にとって、元相は政治的にも精神的にも不可欠な「支柱」であった。彼の吏才は、毛利氏の円滑な権力継承と、それに続く領国拡大を支える上で、吉川元春・小早川隆景の「両川」が担った軍事力と同等の重要性を持っていたと言えよう。
【表:毛利氏五奉行の比較分析】
氏名 |
主な立場・派閥 |
主な役割(推測含む) |
主君との関係・出自 |
国司元相 |
隆元派(傅役) |
民政、外交(対幕府・朝廷)、軍事 15 |
譜代家臣。隆元と極めて親密な関係 3 。 |
赤川元保 |
隆元派 |
不明(後に元就と対立し粛清) |
譜代家臣。 |
粟屋元親 |
隆元派 |
不明 |
譜代家臣 16 。 |
児玉就忠 |
元就派(側近) |
行政実務、元就の意思伝達 15 |
元就に才能を見出された実務官僚 17 。 |
桂元忠 |
元就派(側近) |
行政実務、元就の政務の中心 17 |
譜代家臣。元就の政務を支える 18 。 |
この表が示すように、五奉行制度は、元就の強力な影響力を維持しつつ、隆元への権力移譲を進めるという、過渡期の複雑な政治状況を反映したものであった。国司元相は、この繊細なバランスの上に成り立つ統治機構の中で、次代の当主を支えるという極めて重要な役割を担っていたのである。
永禄10年(1567年)頃、元相は嫡男の国司元武に奉行職を譲り、第一線から退いた 4 。しかし、彼の政治的影響力は隠居後も衰えることはなかった。彼は引き続き「奉行人」としての扱いを受け、毛利家の長老として重きをなした 19 。
その証左として、元亀3年(1572年)に制定された毛利氏の基本法とも言うべき「毛利氏掟(条々)」において、元相はその内容を確認し署名する奉行人の一人として名を連ねている 19 。これは、彼が単なる隠居の身ではなく、毛利氏の法制度の確立という国家の根幹に関わる事業にまで関与し続けていたことを示している。彼の存在は、輝元の代に至るまで、毛利家中に大きな権威を持ち続けていたのである。
国司元相の生涯におけるハイライトの一つが、将軍・足利義輝から「槍の鈴」の免許を与えられた出来事である。この逸話は、単に元相個人の武功を称える物語に留まらず、当時の毛利氏の台頭と、失墜した権威の回復を図る室町幕府との間の、高度な政治的力学を象
徴するものであった。
永禄3年(1560年)、国司元相は、主君・毛利隆元の名代として京へ上るという大役を命じられた 3 。その目的は、新たに即位した正親町天皇の即位料を朝廷に献上することであった 3 。当時、朝廷は財政的に困窮しており、即位の儀式を行う費用さえ事欠く状態であった。そこへ毛利氏が二千貫を超える巨額の献金を行ったことは 22 、その強大な経済力を天下に示す絶好の機会であった。
この上洛は、単なる献金に留まらず、厳島の戦いを経て中国地方の覇者としての地位を確立した毛利氏が、その実力を中央の権威である朝廷と幕府に公認させ、西国における支配の正当性を獲得するという、極めて重要な外交的意味合いを帯びていた 15 。その重大な使節に、隆元の傅役であり腹心であった元相が選ばれたのは、当然の人選であったと言える。
上洛した元相は、朝廷への任務を果たすと共に、室町幕府第13代将軍・足利義輝に拝謁した 2 。当時の義輝は、長年にわたり実権を握る三好長慶との抗争の末、ようやく和睦を結んで5年ぶりに京へ帰還したばかりであった 23 。地に落ちた将軍の権威を回復させることに心血を注いでいた義輝にとって、毛利氏のような地方の有力大名との連携を強化することは、自らの政治基盤を安定させるための喫緊の課題であった 25 。義輝は、毛利氏だけでなく、越後の上杉謙信など、各地の実力者を積極的に自陣営に取り込もうと図っていたのである。
この拝謁の場で、義輝は元相に対し、戦場で槍に付ける「鈴」の使用を免許した 2 。この「槍の鈴」は、単なる装飾品ではない。将軍が特に武勇に優れた武将に対して、その武功を称えて与える特別な栄誉であった。戦場で鳴り響く鈴の音は、持ち主が将軍に武勇を認められた者であることを示し、敵を畏怖させ、味方を鼓舞する効果があった。この免許は、吉田郡山城の戦いなどで知られた元相個人の武勇が、武家の棟梁たる将軍によって公式に認められたことを意味した 4 。
しかし、この出来事の意味はそれだけではない。より大きな視点で見れば、これは将軍義輝と毛利氏との間の政治的駆け引きの産物であった。義輝は、毛利氏の家臣である元相に直接栄誉を与えることで、毛利氏を幕府の体制を支える重要な大名として公式に認め、その関係を強化しようとする明確な政治的メッセージを送った。一方、毛利氏にとって、将軍から家臣が直接栄誉を授かることは、主家全体の権威を高め、他の国人領主に対する優位性を示す絶好の機会であった 3 。
このように、「槍の鈴」の免許は、実力はあるが中央の権威による箔付けを求める毛利氏と、権威はあるがそれを支える実力を求める将軍義輝、両者の利害が完全に一致した瞬間に生まれた、象徴的な出来事であった。国司元相という一個人の栄誉は、戦国後期の室町幕府と地方大名との間の「権威の相互依存関係」を如実に示す、歴史的な一幕だったのである。
数々の武功を立て、毛利氏の中枢で行政を担った国司元相の晩年は、自らが築き上げた家門の行く末を見届ける穏やかなものであった。そして彼が遺した主家との強い絆は、一族が戦国の世を乗り越え、近世大名家臣として存続するための礎となった。
元相は永禄10年(1567年)頃、嫡男の国司元武に奉行職を譲り、第一線を退いた 4 。しかし、国司家の家督は、天正15年(1587年)に元武が隠居した際、元相の次男である国司元蔵が継承している 27 。兄を差し置いて次男が家督を継ぐというこの変則的な相続の背景には、元武が病弱であった可能性や、あるいは実務能力において元蔵がより優れていたため、主君・毛利輝元の判断が働いたことなどが考えられる。
国司元相の没年については、史料によって若干の差異が見られる。天正19年(1591年)12月28日に死去したとする記録 19 と、文禄元年(1592年)に没したとする記録が存在する 3 。生年については永正12年(1515年)とする説が有力であり 3 、これに基づけば享年は77歳となる。
一方で、一部の二次資料や口伝には、元相が「100歳まで生きた」という長寿説も伝えられている 1 。戦国武将としては驚異的な長寿であり、彼の強靭な生命力を物語る逸話として興味深いが、これを裏付ける信頼性の高い一次史料は確認されていない。複数の史料が示す77歳という没年齢が、より史実に近いものと結論付けて良いだろう。
慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いで西軍の総大将となった毛利輝元は敗北し、広大な領国を失い、周防・長門の二カ国(長州藩)に減封されるという最大の危機に直面した。これに伴い、国司家もまた、高師武以来、約260年にわたって本拠としてきた父祖伝来の地・安芸国国司荘を離れ、藩主に従って周防国徳地伊賀地(現在の山口県山口市徳地伊賀地)へと移住することを余儀なくされた 4 。
しかし、国司家はここで没落することはなかった。家督を継いでいた次男の元蔵は、藩主・毛利輝元とその子・秀就から変わらず重用され、新たな領国における藩政の確立に尽力した。特に、減封後の江戸幕府との折衝という困難な役務を担い、長州藩の基盤固めに大きく貢献した 27 。
元蔵の子・国司就正の代であった寛永2年(1625年)、国司家は長門国厚狭郡万倉(現在の山口県宇部市万倉)へと知行替えとなり、この地を新たな拠点とした 28 。以後、国司家は長州藩において家老に次ぐ家格である「寄組」の筆頭として重きをなし、代々藩の要職を務めた。元相が築いた主家との信頼関係という「無形の資産」は、次代の元蔵が示した実務能力によって確固たるものとなり、一族は「戦国武将の家」から「近世大名の家老格の家」へと、時代の変化に対応してその役割を変え、見事に存続を遂げたのである。幕末には、禁門の変の責任を負って自刃した三家老の一人、国司信濃(親相)を輩出しており 30 、国司家の血脈は明治維新の動乱に至るまで、毛利氏の歴史と深く関わり続けた。
国司元相自身の墓は、彼が生涯を過ごした旧領、広島県安芸高田市吉田町の国司氏墓所にあると伝えられている 5 。可愛川(江の川)の南岸に位置するこの墓所は、国司氏の菩提寺であった休照庵の跡地とされ、一族の歴史を今に伝えている。
一方、長州藩に移った子孫たちの墓は、山口県内に点在する。隠居した元武と家督を継いだ元蔵の墓は、最初の移住地である山口市徳地伊賀地にあり 27 、その後の拠点となった宇部市万倉には、菩提寺として建立された宗吽寺に一族の墓所が残されている 29 。
国司元相の生涯を俯瞰するとき、我々は一人の武将の中に、戦国乱世を生き抜くために求められた理想的な資質、すなわち「武」と「文」の両面性を見出すことができる。吉田郡山城の戦いにおける勇猛果敢な武勇伝は、彼の「武」の側面を象徴する。それは敵を圧倒する個人の武力であり、主家を守るために命を賭す忠義の精神であった。一方で、毛利氏の統治機構の中枢を担った五奉行として、あるいは将軍や朝廷との外交を担う使節としての彼の姿は、卓越した「文」の才覚、すなわち領国を治め、複雑な政治情勢を乗り切るための行政能力と交渉力を示している。
彼の生涯は、毛利氏が安芸の一国人から中国地方の覇者へと飛躍し、その巨大な領国を統治する大名へと成長していく過程と、軌を一にしている。彼は、智将・毛利元就の覇業を最前線で支え、温厚篤実な当主・毛利隆元の治世を中枢で補佐し、そして毛利輝元の代に至るまで、長老として家中に重きをなし続けた。彼の武勇と吏才なくして、毛利氏の発展はより困難な道のりであったことは想像に難くない。彼は、吉川元春・小早川隆景の「両川」が軍事の柱として毛利氏を支えたとすれば、その足元を固める行政と政治の柱として、不可欠な存在であった。
国司元相の歴史的評価は、単なる「勇将」という一面的なイメージに留まるべきではない。彼は、激動の時代にあって、武人としての本分を全うしつつ、有能な政治家・行政官として主家の発展に生涯を捧げ、さらには自らの一族を近世を通じて存続させる礎を築いた。彼の名は、戦国時代における理想の家臣像の一典型として、そして毛利氏の歴史を語る上で欠くことのできない重要人物として、再評価されるべきであろう。