土居清宗(どい きよむね)は、戦国時代の伊予国(現在の愛媛県)にその名を刻んだ武将である。伊予南部の宇和郡を支配した西園寺氏に仕え、大森城主として、また後には西園寺家の命運を賭けた防衛線の将として活躍した 1 。彼の名は、織田信長や豊臣秀吉といった天下人の歴史の表舞台に華々しく登場することはない。しかし、彼の生涯は、中央の動乱とは異なる次元で、大国の狭間にあって主家と領民、そして一族の存続のために戦い抜いた地方の国人領主の矜持と悲哀を、実によく体現している。
本報告書は、土居清宗という一人の武将の生涯を、断片的な伝承の再話に留めることなく、彼が生きた時代の政治的・軍事的文脈の中に正確に位置づけることを目的とする。彼の出自から、西園寺家臣としての活躍、そしてその壮絶な最期に至るまでを追い、その死が土居家、ひいては南伊予の歴史に与えた影響を多角的に分析・考察する。
この調査において、我々が向き合わなければならない重要な課題がある。それは、土居清宗に関する詳細な情報の多くが、彼の孫である土居清良の一代記『清良記』に由来するという事実である 3 。『清良記』は、江戸時代初期に清良を英雄として顕彰する目的で、その子孫によって編纂された軍記物語であり、史実と文学的創作が混在している可能性が極めて高い 5 。したがって、本報告書では『清良記』の記述を、当時の伝承を伝える貴重な史料として尊重しつつも、常に批判的な視点を保持し、他の史料や考古学的知見と照らし合わせながら、その情報の確度を慎重に検討するという基本姿勢を貫く。土居清宗の実像に迫る試みは、この『清良記』という鏡に映る英雄の姿を、歴史学的な手法で丹念に分析することから始まるのである。
表1:土居清宗 関連年表
西暦 (A.D.) |
和暦 (Japanese Era) |
土居清宗・土居家関連 |
伊予国・周辺情勢 |
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1483年 |
文明15年 |
土居清宗、誕生 1 。 |
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1546年 |
天文15年 |
孫・土居清良(虎松)、誕生 7 。 |
清宗、西園寺実充の命により石城へ移鎮 1。 |
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1560年 |
永禄3年 |
8月29日、大友宗麟の大軍が伊予に侵攻 8 。 |
10月6日、石城落城。土居清宗、子・清晴と共に戦死(享年78)1。 |
大友宗麟と土佐一条兼定が姻戚関係を結ぶ(政略結婚) 9 。 |
1562年 |
永禄5年 |
孫・土居清良、土佐一条氏の庇護下から大森城へ帰還し、土居家を再興 11 。 |
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1565年 |
永禄8年 |
清宗の主君・西園寺実充、死去 13 。 |
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1629年 |
寛永6年 |
孫・土居清良、死去(享年84) 7 。 |
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1650-1653年 |
慶安3-承応2年 |
子孫の土居水也らにより『清良記』が編纂される 3 。 |
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土居氏の出自については、紀伊国(現在の和歌山県)の鈴木一族の末裔を称する伝承が残されているが、これを裏付ける確かな史料は存在しない 14 。しかし、より重要な事実は、彼らが戦国時代において伊予国南部、特に宇和郡に深く根を張り、大きな影響力を持った在地土豪であったという点である 16 。
その主家である伊予西園寺氏は、京都の公家・西園寺家を祖に持つ名門であった。鎌倉時代に伊予国に所領を得て下向し、戦国時代には宇和郡の国人領主たちを束ねる地域権力として君臨していた 13 。しかし、その支配基盤は宇和郡を中心とした限定的なものであり、常に周辺の強大な勢力からの圧力に晒される、不安定な立場にあった。西園寺氏の統治は、土居氏のような有力な家臣団の軍事力によって支えられていたのである 16 。
当時の伊予国は、単一の権力によって統一された地域ではなかった。中予(中部)には守護の家柄である河野氏が湯築城を拠点としていたが、その支配力は盤石とは言えず、一族内での抗争も絶えなかった 18 。南予(南部)では西園寺氏が、喜多郡では宇都宮氏がそれぞれ独自の勢力を保ち、東予(東部)では細川氏の影響下にある諸勢力が割拠していた。さらに、瀬戸内海に浮かぶ芸予諸島では村上水軍が独立的な勢力として存在し、伊予の政治情勢に複雑な影響を与えていた 17 。
このような群雄割拠の状態にあったため、西園寺氏は常に北の河野氏、東の土佐一条氏、そして豊後水道を隔てて対峙する九州の雄・大友氏という、自らよりも強大な勢力からの軍事的・政治的圧力に直面していた。土居清宗が生きた時代は、まさにこれらの外敵からいかにして主家と自らの領地を守り抜くかという、絶え間ない緊張の中にあったのである。
土居清宗は、しばしば「西園寺十五将」の一人として語られる 1 。これは、西園寺氏に仕えた代表的な15人の武将を指す呼称である。しかし、この呼称には注意深い検討が必要である。現存する十五将のリストを確認すると、そこに挙げられているのは土居清宗ではなく、その孫である土居清良の名前なのである 7 。
この事実は、重要な示唆を与えてくれる。「西園寺十五将」という呼称そのものが、清宗が生きた戦国時代にリアルタイムで用いられていた公式なものではなく、後世、おそらくは江戸時代に入ってから、かつての名家の栄光を偲ぶために作られた一種の名誉的なリストであった可能性が高い。戦国武家の間では「武田二十四将」のように、有力な家臣団を数で括って称揚する文化があり、西園寺十五将もその系譜に連なるものと考えられる。
リストに清宗ではなく清良の名があるのは、清良が祖父の悲劇的な死を乗り越えて土居家を再興し、長宗我部氏の侵攻を幾度も撃退するなど、より華々しい武功を立てて名を馳せたこと、そして彼の活躍が『清良記』によって後世に広く知られたためであろう 7 。リストが編纂された江戸時代には、土居家の代表者は、悲劇の将であった清宗よりも、家を再興した英雄である清良と認識されていたのである。したがって、土居清宗が西園寺家中で屈指の将であったことは疑いないが、「十五将の一員」という称号は、後世に与えられた栄誉と理解するのが妥当である。
表2:西園寺十五将 一覧
武将名 |
居城 |
西園寺公広 |
黒瀬城 |
西園寺宣久 |
丸串城 |
観修寺基栓 |
常盤城 |
津島通顕 |
天ヶ森城 |
法華津前延 |
法華津本城 |
今城能定 |
金山城 |
土居清良 |
大森城 |
河野通賢 |
高森城 |
竹林院実親 |
一之森城 |
渡辺教忠 |
河後森城 |
北之川通安 |
三滝城主 |
魚成親能 |
竜ヶ森城 |
宇都宮乗綱 |
白木城 |
宇都宮房綱 |
萩之森城 |
南方親安 |
元城主 |
出典: 22 。注:リストには土居清宗ではなく、その孫・土居清良の名が記されている。これは、リストが後世に編纂されたものであることを示唆している。
土居清宗(1483年生)は、その生涯を通じて主君である西園寺実充(さねみつ)に忠誠を尽くし、実充からも絶大な信頼を寄せられていた 1 。この強固な主従関係を象徴する出来事が、実充が自身の娘を清宗の子である土居清晴(きよはる)の妻として与えたことである 1 。
これは単なる功績への褒賞ではない。戦国時代において、主君の娘を家臣に嫁がせることは、両家を血縁で結びつけ、単なる主従関係を擬制的な親族関係へと昇華させる、極めて重要な政治的行為であった。当時、西園寺氏は大友氏や一条氏といった外部勢力からの圧力を日増しに強く受けていた。このような状況下で、実充は自らの防衛戦略の要となる有力家臣を、裏切りの可能性が極めて低い血縁という絆で固める必要があった。土居氏に娘を与えたという事実は、清宗が西園寺家中でいかに重要な地位を占め、その忠誠心と武略が不可欠であると見なされていたかを雄弁に物語っている。この婚姻は、土居氏の家中における地位を確固たるものにすると同時に、西園寺氏の防衛体制を内側から強化する、高度な戦略的判断だったのである。
表3:土居氏・西園寺氏 関連略系図
Mermaidによる関係図
土居氏が代々本拠とした大森城は、現在の宇和島市三間町に位置する山城である。標高約316メートルの大森城山山頂に築かれ、眼下に広がる三間盆地を一望できるだけでなく、主家である西園寺氏の居城・黒瀬城(現在の西予市宇和町)へと通じる街道を抑える、戦略上の極めて重要な拠点であった 23 。
城郭の構造は、残された遺構の調査記録からその姿をうかがい知ることができる。山頂の主郭を中心に、東西に伸びる尾根上に複数の曲輪(郭)が階段状に配置された、連郭式の縄張りを持つ 11 。特に主郭の東側にある曲輪には石垣が用いられており、防御の要であったことがわかる 14 。城の防御は急峻な自然地形を最大限に利用しつつ、人工的な削平地や土塁、堀切を組み合わせることで堅固なものとされていた。また、山麓には城主の日常的な居住空間であったとみられる居館跡の存在も推定されている 14 。この大森城こそ、土居清宗がその武威を以て南伊予に睨みを利かせた拠点であった。
天文15年(1546年)、土居清宗の武将としてのキャリアは大きな転機を迎える。主君・西園寺実充の厳命により、清宗は長年本拠としてきた大森城を離れ、一族を率いて石城(せきじょう、現在の宇和島市吉田町)へと移ったのである 1 。この「移鎮(いちん)」、すなわち本拠を移して特定の地域の防衛に専念する任務は、彼に寄せられた信頼の厚さと、当時の西園寺氏が置かれていた状況の深刻さを物語っている。
石城は、豊後水道に面した沿岸部に位置し、海を隔てて対峙する九州の雄・大友氏からの侵攻を真っ先に受ける、文字通りの最前線であった。大友氏は当時、土佐の一条氏と同盟関係を結ぶなど、四国への影響力拡大を積極的に図っていた 9 。西園寺氏にとって、大友氏による海上からの侵攻は、領国の存亡を揺るがしかねない最大の脅威であった。実充が、自らの最も信頼する老将である清宗をこの最前線の守りに就かせたのは、彼の卓越した軍事能力に西園寺家の命運を託したに他ならない。清宗の役割は、国境の重要な要塞を防衛する司令官であり、彼の働きが西園寺領全体の安全保障を左右する状況となっていた。
清宗が新たに入った石城は、もともと西園寺氏の居城である黒瀬城の支城として築かれた山城であった 24 。しかし、清宗はこの城に入ると、対大友氏防衛の拠点としてその機能を抜本的に強化するため、大規模な改修を行ったと伝えられている 25 。
城は標高120メートルほどの山に位置し、曲輪や石垣、堀切といった山城の典型的な防御遺構が確認されている 26 。清宗の改修によって、これらの防御施設がより強固なものへと作り変えられたと推測される。特に、城の防御力を飛躍的に高める石垣の構築などが進められた可能性があり、現存する遺構の一部は清宗の時代にまで遡るものと考えられている 4 。清宗は、単に命令に従って城に入るだけでなく、自らの知識と経験を注ぎ込み、石城を難攻不落の要塞へと変貌させようとしたのである。
石城に移ってから永禄3年(1560年)に落城するまでの約14年間、土居清宗はまさしく南伊予の防人として、その責務を全うした。『清良記』や宇和島市吉田町に残る伝承によれば、清宗はこの間、石城を拠点として大友勢による侵攻を実に五度にわたって撃退したとされる 8 。
これらの個々の戦いの具体的な戦闘経過に関する記録は乏しい。しかし、九州全域に覇を唱えようとしていた大友氏の強大な軍事力を、一地方の国人領主が十数年もの長きにわたって食い止め続けたという事実は、驚嘆に値する。これは、清宗個人の武将としての卓越した指揮能力はもちろんのこと、彼が率いた土居一族の結束力と戦闘力が極めて高かったことを証明している。清宗の奮戦があったからこそ、西園寺氏は豊後水道沿いの防衛線を維持し、領国の平穏を保つことができたのである。彼の戦いは散発的な小競り合いではなく、西園寺氏の安全保障政策そのものが成功裏に機能していたことを示すものだった。
永禄3年(1560年)、土居清宗が守り続けた南伊予の平穏は、ついに破られる。宇和島市の市史によれば、この年の8月29日(旧暦)、豊後の戦国大名・大友宗麟は、これまでとは比較にならない規模の軍事行動を開始した。宗麟は自ら九州七か国の兵、三万五千と号する大軍を率い、海を渡って伊予に侵攻したのである 8 。この「三万五千」という兵力は、軍記物語にしばしば見られる誇張表現である可能性が高い。しかし、これを差し引いても、大友家がまさに総力を挙げて西園寺領の攻略に乗り出した、大規模な遠征であったことは間違いない。十数年にわたり石城で抵抗を続けた土居清宗は、生涯で最も過酷な戦いに直面することとなった。
『清良記』や地元に伝わる話は、石城をめぐる攻防戦の様子を悲壮感をもって伝えている 8 。
大友軍は白浦(しらうら)から伊予の地に上陸すると、石城へと進軍した。これを迎え撃った土居勢は、地の利を活かした戦術で侵攻軍に手痛い打撃を与えたという。しかし、圧倒的な兵力差はいかんともしがたい。大友軍は畦の瀬(あぜのせ)で陣形を立て直し、土居勢は知永の森(ちえのもり)でこれに対峙したのち、籠城戦へと移行した 8 。
堅固な山城である石城を力攻めにするのは困難と見た大友軍は、城の生命線を断つための策に出た。それは、城兵が飲料水や生活用水として頼りにしていた東西の井戸を掘り抜き、水の手を断つという兵糧攻めであった 4 。山城において水源の確保は死活問題であり、これを失うことは、城の抵抗力が尽きることを意味する。この非情かつ効果的な戦術が、石城の運命を決定づけた。
永禄3年10月6日(西暦1560年10月24日)、水の手を断たれ、援軍の望みも絶たれた中で、石城はついに落城の日を迎えた 1 。
城主・土居清宗は、子の清晴(『清良記』では宗雲、清貞とも伝わる)と共に、武士の習いとして自刃して果てた。時に清宗、78歳。最前線の将として、文字通り城と運命を共にしたのである 1 。『清良記』によれば、この時、清宗に殉じた土居一族・家臣は122名にのぼったという 4 。
この悲劇の中でも、特に哀切な物語として語り継がれているのが、清宗の夫人・妙栄尼の最期である。彼女は落城の炎が城を包む中、幼い孫娘二人を左右の腕に抱きしめ、自ら火中に身を投じたと伝えられる 8 。この悲話は、後に「大工町姫宮様」の伝承として地元に根付き、今日なお人々の心を打ち続けている。
『清良記』における石城落城の描写が、これほどまでに詳細かつ悲劇的に描かれているのには、明確な物語上の意図があると考えられる。物語の真の主人公は、清宗の孫・土居清良である。偉大な英雄譚には、乗り越えるべき壮大な悲劇が必要となる。圧倒的な敵軍、奮戦むなしい籠城、非情な水攻め、そして一族郎党の集団自決と女子供の悲劇。これらの要素は、土居家が被った悲運を最大限に際立たせ、読者の同情を強く引きつける。そして、この絶望的な状況からただ一人生き延びた若き清良に、一族再興という道徳的・感情的な負債を背負わせるのである。清宗一族の壮絶な死は、清良の英雄としての旅立ちを正当化し、その後の彼の戦いに崇高な意味を与えるための、不可欠な序章として機能しているのだ。
永禄3年の石城落城と、土居清宗・清晴父子の戦死により、西園寺氏の重臣として南伊予に勢力を誇った土居家は、事実上壊滅し、一時的に歴史の表舞台から姿を消した 1 。長年にわたり西園寺氏の南の守りを担ってきた一族の没落は、主家にとっても計り知れない打撃であった。
しかし、この絶望的な状況の中にも、一縷の望みは残されていた。落城の混乱の中、当時15歳であった清宗の孫・虎松(とらまつ)、後の土居清良(きよよし)が、一族再興の使命を託されて城を脱出したのである 7 。彼の双肩には、祖父と父、そして城に殉じた一族郎党すべての無念が懸かっていた。
故郷を追われた若き清良が頼ったのは、皮肉にも祖父の宿敵であった大友氏の同盟者、土佐国(現在の高知県)を治める国司・一条氏であった。この亡命がなぜ可能であったかについては、一条家の内部に土居家と縁戚関係にある人物がいたためと説明される。一条家の御一門筆頭であり、筆頭家老でもあった土居宗珊(どい そうざん)が土居氏の一族であり、清良を客分として手厚く保護したのである 7 。一説には清良の姉(または従姉)が宗珊の妻になったとも言われ、義兄弟の間柄になったとされる 30 。
清良は土佐で雌伏の時を過ごしながらも、その武才を遺憾なく発揮する。一条氏の家臣として数々の武功を立て、その能力を主家や宗珊に認められていった 5 。この土佐での2年間は、彼が武将として成長し、再起のための人脈と名声を築く上で極めて重要な期間となった。
永禄5年(1562年)、土佐で功を認められた清良は、ついに一条氏の援助の下、旧領である三間(みま)への帰還を許される 7 。祖父・清宗がかつて本拠とした大森城に入り、城主として土居家を再興したのである 11 。祖父の死からわずか2年後のことであった。これは、清良自身の非凡な器量と、彼を強力に後援した土佐土居氏の影響力の大きさを示すものであった。
大森城に戻った清良は、小領主として生き残りを図るため、巧みな領国経営と軍備増強に努めた。特に、当時最新の兵器であった鉄砲を配下の兵に装備させ、少数ながら精強な軍団を作り上げたと言われる 11 。その後、伊予に侵攻してきた土佐の長宗我部元親の軍勢を幾度となく撃退し、天正7年(1579年)には敵将・久武親信を討ち取る大功を挙げた 31 。彼の目覚ましい活躍により、祖父・清宗の無念は晴らされ、土居家は南伊予の地に再び確固たる地位を築き上げることに成功した。清宗の悲劇的な死は、結果として、彼を超える英雄を土居家から生み出す礎となったのである。
土居清宗とその時代を考察する上で、史料『清良記』の性質を正確に理解することは不可欠である。
『清良記』は、いくつかの点で非常に高い史料的価値を持つ。第一に、戦国時代の南予地方の動向、特に土居氏のような国人領主レベルの武士の具体的な活動や、城郭の様子、合戦の様相を詳細に記述した、他に類を見ない貴重な地方史料であることだ 3 。土居清宗の石城における最期のような、他の記録には見られない詳細な伝承を今日に伝えている点は、本書なくしては知り得なかった情報である。
第二に、その第七巻が「親民鑑月集」と題された農書となっている点である 34 。これは、領主である清良の問いに、農事に通じた家臣・松浦宗案が答えるという形式で、当時の具体的な農業技術や経営論、領民統治の理念が詳細に述べられており、日本最古の農書の一つとして、農業史・経済史研究において極めて重要な文献と評価されている 33 。
一方で、『清良記』を歴史史料として扱う際には、以下の課題を常に念頭に置く必要がある。
以上の点を総合すると、『清良記』は、歴史的な事実の骨格に、豊かな物語性と一族の顕彰意識という肉付けがなされた「歴史文学」として捉えるのが最も妥当である。その記述は、一つ一つを確定した史実として鵜呑みにするのではなく、あくまで「江戸時代に土居家に伝えられていた一族の伝承」として、慎重に扱う必要があるのだ。
伊予の驍将、土居清宗。彼の生涯を丹念に追うことで、戦国という時代の多層的な側面が浮かび上がってくる。
第一に、彼は「忠義の武将」であった。その生涯は、主家である西園寺氏への揺るぎない忠誠心に貫かれている。主君の命一下、安住の地であった大森城を離れて対大友氏防衛の最前線・石城へ赴き、十数年にわたって大国の侵攻を防ぎ続けた。そして最後は、城と運命を共にし、一族郎党と共に殉じたその姿は、乱世に生きた武士の「忠義」の一つの理想形として評価できよう。
第二に、彼の存在は「地方史における重要性」を我々に教えてくれる。土居清宗の奮戦と悲劇的な死は、戦国時代における地方勢力が置かれた過酷な現実を象徴している。中央の政局の華々しい動きの陰で、それぞれの地方では、自らの土地と一族の存亡を賭けた必死の戦いが日夜繰り広げられていた。清宗の物語は、歴史に名を残すことの少なかった、しかし確かにその時代を動かした無数の担い手たちの存在を、力強く我々に示してくれる。
最後に、彼の「後世への遺産」は、史実と伝説の二重構造の中にある。土居清宗の直接的な遺産は、石城の落城と共に一度は途絶えた。しかし、彼の悲劇的な最期は、孫・土居清良という次代の英雄を生み出すための、不可欠な序章となった。清宗の物語は、彼の死から約90年後に編纂された『清良記』という媒体を通じて語り継がれ、歴史的事実を超えた「郷土の英雄」の原型として、今なお南伊予の地に生き続けている 7 。土居清宗という武将は、史実の人物として、そして伝説の源流として、伊予の地が育んだ豊かな歴史文化の、まさに核心をなす存在なのである。