戦国時代の伊予国(現在の愛媛県)にその名を刻んだ武将、土居清良(どい きよよし、1546-1629)。彼は一般に、伊予南部の戦国大名・西園寺氏に仕えた「西園寺十五将」の一人として、また知勇に優れた武将として知られている 1 。さらに、彼の名を不朽のものとしているのが、その一代記である『清良記(せいりょうき)』の存在である。特にその第七巻『親民鑑月集(しんみんかんげつしゅう)』は、日本最古の農書とも称され、清良を単なる武人にとどまらない、民を慈しむ仁政家として描き出している 3 。
しかし、この土居清良という人物の生涯や業績を伝える史料は、そのほぼ全てを、彼の子孫が江戸時代初期に編纂した軍記物『清良記』に依存しているという特異な構造を持つ 5 。この一点こそが、清良の実像を探求する上での最大の鍵であり、同時に最大の障壁でもある。軍記物語は、歴史的事実を客観的に記録するものではなく、編纂者の意図や時代の価値観を色濃く反映した「物語」としての性格を強く持つ 7 。『清良記』もまた、清良の死後数十年を経て、一族の顕彰を主たる目的として書かれたものであり、その記述を無批判に受け入れることはできない 5 。
本報告書は、この『清良記』を一次史料としてではなく、批判的に分析すべき対象として捉え、他の断片的な史料や、彼が生きた時代の政治・社会状況と照合することを試みる。これにより、後世に創られた理想の英雄像の向こう側にある、戦国乱世の伊予という辺境で、激動の時代を生き抜いた一人の地方国人領主のリアルな姿を、多角的な視点から再構築することを目的とする。土居清良の研究は、本質的に『清良記』というフィルターの性質を解明する史料論であり、その作業を通じて初めて、我々はその実像に迫ることができるのである。
土居清良の生涯は、壮絶な没落から始まる。『清良記』が描くその前半生は、一族の悲劇と、再起をかけた流浪の物語である。
土居清良が生まれた土居氏は、伊予国宇和郡三間(みま)郷(現在の愛媛県宇和島市三間町)を本拠とした在地土豪であった 2 。その出自については、紀伊国熊野の鈴木氏の末裔であるという伝承が残されているが、これは後世の権威付けである可能性も否定できない 10 。確かなことは、彼らが長らく三間の地に根を張り、勢力を築いていたということである。
彼らが仕えた西園寺氏は、もとは鎌倉時代に伊予国宇和荘の地頭職を得て下向した公家を祖とする名門であった 12 。しかし、戦国時代に至る頃には在地勢力化し、宇和郡の総帥として君臨していた 13 。土居氏のような在地土豪層は、西園寺氏を盟主として結集することで、自領の安全を確保し、相互の争いを収めるという、いわば連合体を形成していた 13 。土居氏は、この西園寺氏の勢力圏において、有力な国人領主の一角を占めていたのである。
清良の運命を大きく変えたのは、永禄3年(1560年)に勃発した豊後(現在の大分県)の戦国大名・大友宗麟による伊予侵攻であった。『清良記』によれば、この戦いで清良の祖父・土居清宗と父・清晴は、石城(いしじろ)に籠城して奮戦するも、衆寡敵せず、一族郎党122名と共に自刃して果てたとされる 10 。この時、清良はまだ15歳の少年(幼名:虎松)であり、一族の再興をただ一人託され、戦場から落ち延びることとなった 16 。
この石城での壮絶な玉砕は、『清良記』において、土居一族の「名誉を重んじる気魄」を象徴する出来事として、劇的に描かれている 16 。これにより土居家は一時的に完全に没落し、清良は故郷を追われる身となったのである 15 。
全てを失った清良が頼ったのは、隣国・土佐国(現在の高知県)の中村を本拠とする土佐一条家であった。一条家は、関白・一条教房が応仁の乱を避けて下向したことに始まる公家大名であり、南伊予の西園寺氏とは時に争い、時に婚姻関係を結ぶなど、複雑な関係にあった 18 。
清良が身を寄せたのは、土佐一条家の中でも御一門筆頭の地位にあり、筆頭家老でもあった土居宗珊(どい そうさん)のもとであった 17 。宗珊と清良の父・清晴は義兄弟の縁があったとされ、その繋がりから清良は単なる亡命者としてではなく、格別の客分として厚遇されたと伝わる 4 。この土佐での亡命期間中、彼は同じく一条家のもとにいた渡辺教忠(のちの河後森城主)らと共に過ごし、再起の機会を待った 17 。
一族が壊滅するという絶望的な状況から、清良が再び歴史の表舞台に立つことができたのは、彼の個人的な武勇や才覚もさることながら、国境を越えて機能していた武家社会の人的ネットワーク、すなわち土居宗珊との個人的な繋がりというセーフティネットが存在したからに他ならない。戦国時代の地方社会において、血縁や地縁、そして義兄弟といった擬制的な関係が、いかに重要な役割を果たしていたかを示す好例と言えよう。彼の復活劇は、彼が属していた「国境地帯の領主層ネットワーク」という、より大きな構造の中で理解する必要がある。
西暦(和暦) |
土居清良の動向(年齢) |
関連する伊予・土佐の情勢 |
主な典拠 |
1546年(天文15) |
伊予国宇和郡三間にて、土居清晴の子として誕生(1歳) |
- |
2 |
1560年(永禄3) |
石城合戦。大友氏の侵攻により、祖父・清宗、父・清晴が戦死。一族は没落し、土佐へ亡命(15歳) |
豊後の大友氏が伊予に侵攻。西園寺方は苦境に陥る。 |
15 |
1562年(永禄5) |
土佐一条家の援助を得て伊予に帰還。大森城主となる(17歳) |
- |
10 |
1564年(永禄7) |
『親民鑑月集』が成立したとされる年(19歳) |
長宗我部元親が土佐中部の本山氏を攻める。 |
23 |
1565年(永禄8) |
甲賀より鉄砲鍛冶を招聘したとされる(20歳) |
西園寺公広が家督を継承。 |
16 |
1568年(永禄11) |
鳥坂峠の戦い。西園寺氏は毛利・河野氏と結び、一条・宇都宮氏に勝利。 |
毛利氏が伊予に出兵。宇都宮氏が滅亡。 |
26 |
1572年(元亀3) |
西園寺公広と一条兼定の和睦を仲介したとされる(27歳) |
土佐一条家で家老・土居宗珊が主君・兼定に殺害される。 |
26 |
1575年(天正3) |
- |
長宗我部元親が土佐を統一。 |
29 |
1579年(天正7) |
岡本合戦(天正7年説)。長宗我部軍を撃退したとされる(34歳) |
長宗我部氏の伊予侵攻が本格化。 |
16 |
1581年(天正9) |
岡本合戦(天正9年説)。『清良記』が記す年(36歳) |
- |
16 |
1584年(天正12) |
- |
西園寺公広が長宗我部元親に降伏。 |
25 |
1585年(天正13) |
- |
豊臣秀吉の四国平定。伊予は小早川隆景の所領となる。 |
25 |
1587年(天正15) |
戸田勝隆、藤堂高虎からの仕官の誘いを断り、隠棲(42歳) |
新領主・戸田勝隆により西園寺公広が謀殺され、西園寺氏滅亡。 |
17 |
1629年(寛永6) |
3月24日、死去。享年84。 |
- |
2 |
1654年(承応3)頃 |
子孫の土居水也により『清良記』が完成。 |
- |
5 |
1661年(寛文元) |
清良の没後33年にあたり、「清良大明神」の神号を得て神として祀られる。 |
- |
17 |
土佐での亡命生活を経て伊予に帰還した清良は、西園寺氏の家臣として、また一人の独立した領主として、激動の時代を生き抜くための基盤を築き始める。その活動は、単なる主家への奉公にとどまらない、国人領主のしたたかな生存戦略を浮き彫りにする。
永禄5年(1562年)、土佐一条家の援助を背景に、清良は17歳で故郷である三間郷への帰還を果たし、大森城の城主として返り咲いた 10 。大森城は三間盆地を一望のもとに収めることができる標高約316メートルの山城であり、西園寺氏の本城・黒瀬城へ通じる街道を抑える戦略的要衝であった 33 。『清良記』には、帰還した清良が領民に赤飯を振る舞い、人心の掌握に努めたという逸話が記されており、彼が領国経営を重視する姿勢を持っていたことがうかがえる 16 。
清良は後世、「西園寺十五将」の一人として勇名を馳せるが、その実態を理解する上で極めて重要なのが、西園寺家臣団内における彼の立場である 34 。西園寺氏の家臣団は、直属の「旗本衆」と、より独立性の高い「与力衆(よりきしゅう)」に大別されていた 13 。清良が属していたのは、後者の与力衆であった。
与力衆とは、西園寺氏を盟主として認め、戦時の軍役などを約束する見返りに、自領の支配権(一円知行権)を保障されるという、いわば同盟者に近い存在であった 13 。彼らと西園寺氏との間には、土地を媒介とした強固な主従関係は結ばれておらず、その関係は常に破綻の危険性をはらむ、緩やかなものであった。これは、西園寺氏の支配体制が決して盤石ではなく、在地土豪たちの連合体という性格を色濃く持っていたことを示している。清良の知行高は約二千石余とされ、津島殿(一万石)や河原淵殿(一万六千石)といった他の与力衆と比べると、小身の部類に属していた 13 。
この「与力衆」という立場こそが、清良のその後の行動を理解する鍵となる。彼は西園寺氏の命令をただ待つだけの存在ではなく、自らの一族と領地を守るため、常に自律的な判断と行動を求められる、独立した政治主体であったのである。
独立領主としての性格は、清良の具体的な行動にも表れている。『清良記』によれば、彼は一族を壊滅に追いやった石城合戦の敗因を鉄砲の数の劣勢にあると分析し、永禄8年(1565年)には近江国甲賀から鉄砲鍛冶の一団を三間に招き入れ、鉄砲の生産と改良に心血を注いだとされる 16 。これは、主家である西園寺氏の軍事力に依存するのではなく、自らの力で軍備を増強しようとする、彼の自立志向の表れと見ることができる。
また、かつての恩人である土佐一条家との関係も一筋縄ではいかない。長宗我部氏の台頭を警戒して一条家の人質を奪還し、一時的に対立関係に入る一方で 16 、元亀3年(1572年)には、主君・西園寺公広と一条兼定との間の和睦を仲介するという、重要な外交的役割も果たしている 25 。これは、彼が単なる西園寺氏の部将ではなく、土佐一条家にも影響力を持つ、国境地帯のキーパーソンとして認識されていたことを示唆している。彼の価値は、西園寺氏への忠誠心のみならず、この独自の外交パイプにもあったのである。清良は、西園寺家臣という枠組みの中にありながら、常に自らの存続をかけた独自の戦略を展開する、したたかな国人領主であった。
土居清良の名声を高めたのは、数々の合戦における知略と武勇である。特に、四国制覇を目指す長宗我部元親の猛攻を食い止めたとされる岡本合戦は、『清良記』において彼の活躍が最も華々しく描かれる場面の一つである。しかし、その記述は他の史料との間に多くの矛盾をはらんでおり、史料批判の格好の対象となっている。
天正3年(1575年)に土佐を統一した長宗我部元親は、その勢いを駆って四国全土の制覇に乗り出す 29 。その矛先は伊予にも向けられ、西園寺氏の領内では、長宗我部方の調略によって内通者が続出し、多くの城が次々と寝返っていった 16 。宇和郡は、まさに長宗我部氏の侵攻の最前線となり、西園寺方の領主たちは存亡の危機に立たされたのである。
このような状況下で起きたとされるのが「岡本合戦」である。『清良記』によれば、天正9年(1581年)5月、長宗我部方の勇将・久武内蔵助親信らが岡本城(現在の宇和島市三間町)を夜襲したが、土居清良はこれを事前に察知し、河野通賢らと共にこれを迎え撃ち、親信を討ち取って大勝利を収めたと、詳細に記されている 16 。
しかし、この岡本合戦をめぐる記述は、史料によって内容が大きく異なる。特に合戦の発生年については、『清良記』や『土佐物語』が「天正九年説」を採るのに対し 16 、『土佐軍記』は「天正七年説」を記すなど、混乱が見られる 16 。また、『予陽本』という史料にも岡本合戦の記述が見られ、土居清良が長宗我部軍を敗走させたとしているが、その詳細な経緯は異なる 30 。
この年代の食い違いは、単なる記録ミスではなく、各史料が成立する過程で、より劇的な物語を構成するための意図的な編集や、伝聞による誤解が生じた結果である可能性が指摘されている 16 。特に『清良記』が天正9年説を採る背景には、この合戦を天正10年(1582年)に本格化する織田信長の四国征伐計画の直前の出来事として位置づけることで、清良の活躍を中央の大きな歴史の動きと連動させ、その重要性を際立たせたいという編纂者・土居水也の意図があったとも考えられる。岡本合戦の年代論争は、単なる事実確定の問題にとどまらず、『清良記』という史料が「どのように歴史を物語として再構成したか」を解き明かすための、重要なリトマス試験紙なのである。
史料名 |
成立年代 |
合戦発生年 |
伊予方主将(主な活躍者) |
土佐方主将 |
結果・特記事項 |
『清良記』 |
江戸初期(承応3年頃) |
天正9年 (1581) |
土居清良、河野通賢 |
久武親信、山田外記 |
伊予方の大勝利。久武親信を討ち取る。三瀧合戦(天正8年)の翌年の出来事として詳細に記述 16 。 |
『土佐物語』 |
江戸中期(宝永5年) |
天正9年 (1581) |
(詳細な記述は少ない) |
久武親信 |
『清良記』と同様の年数と合戦の順序を採用。久武親信は兄の親信であるとする 16 。 |
『予陽本』 |
不明 |
天正7年 (1579) |
河野通賢、土居清良 |
久武親信、山田外記 |
伊予方が長宗我部軍を敗走させる 30 。 |
『土佐軍記』 |
江戸中期(元禄13年) |
天正7年 (1579) |
(詳細な記述は少ない) |
(不明) |
『長元物語』を基にした二次的創作。この史料が「天正七年説」を流布させたとされる 16 。 |
『元親記』 |
江戸初期(寛文8年) |
年月記載なし |
(詳細な記述は少ない) |
久武内蔵助 |
簡潔な記述のみ。岡本合戦と三瀧合戦の紹介順が『清良記』と逆であり、これが後の混乱の原因となった可能性 16 。 |
『長元物語』 |
江戸初期(万治2年) |
年月記載なし |
(詳細な記述は少ない) |
(不明) |
伝承の寄せ集め。地理的な記述に違和感があり、史料としての信頼性に疑問が呈されている 16 。 |
『清良記』は、清良の武勇だけでなく、その知略を示す逸話も数多く収録している。その代表例が、長宗我部氏による一条家への調略を未然に防いだエピソードである 16 。長宗我部の使者が清良に、一条家を裏切って共に滅ぼすよう持ちかけてきた際、清良は調略に乗ったふりをして相手を油断させ、長宗我部元親が一条兼定に宛てた密書をまんまと奪い取った。そして、その密書を主君の西園寺氏ではなく、かつての恩人である一条兼定に直接届けることで、元親の陰謀を白日の下に晒したという。これにより、清良は一条家からの絶大な信頼を勝ち得たとされる。この逸話は、清良が単なる力押しの武将ではなく、敵の意図を読み、複雑な人間関係を利用して危機を乗り越える、優れた知将であったことを強調するために挿入されたものと考えられる。
土居清良という人物を理解する上で、『清良記』の分析は避けて通れない。この書物は、清良の生涯を知るためのほぼ唯一の道標であると同時に、彼の姿を覆い隠す厚いヴェールでもある。その成立の背景と意図を解き明かすことで、初めて我々は史実と創作を区別する視座を得ることができる。
『清良記』全30巻は、清良が没してから20年以上が経過した江戸時代初期、慶安3年(1650年)から承応3年(1654年)にかけて編纂された 5 。著者とされているのは、土居清良の子孫であり、三間郷の三嶋神社の神主を務めていた土居水也(真吉水也)である 8 。
戦乱の世が終わり、徳川幕府による安定した統治が確立された江戸時代には、多くの大名家や武士の家で、自らの家の由緒や先祖の武功を記した軍記物や家譜が盛んに編纂された 7 。これは、武力によって自らの存在価値を示す時代が過ぎ去った後、輝かしい歴史を記録し、語り継ぐことによって、平和な時代における一族の社会的地位や権威を確立しようとする動きであった 36 。『清良記』もまた、この大きな流れの中に位置づけられる。編纂者である土居水也の一族は、戦国時代には武士であったが、江戸時代には神官や庄屋といった在地の名望家として存続していた 17 。彼らにとって、祖先である土居清良の武勇伝や仁政の物語を編纂することは、新たな社会秩序の中で自らの一族の「格」を権威づけ、アイデンティティを再構築するための極めて重要な事業だったのである。
このような編纂意図から、『清良記』は客観的な歴史記録ではなく、多分に創作や脚色を含んだ「軍記物語」としての性格を色濃く持っている。合戦の描写は勇壮に、清良の言動は英雄的に描かれ、読者に対する教訓や娯楽性が重視されている。
そのローカルな視点も特徴的である。例えば、天正10年(1582年)の本能寺の変の後、羽柴秀吉が備中高松城から京へ引き返した有名な「中国大返し」について、『清良記』は、秀吉が信長の死を毛利に伝え、仇討ちのための停戦を申し入れた、という通説とは全く異なる記述を残している 16 。これは、『清良記』が中央の政治情勢から隔絶した南伊予という地域で、独自の伝聞や解釈に基づいて編纂されたことを物語っている。
したがって、『清良記』を史料として扱う際には、その価値と限界を明確に認識する必要がある。最大の限界は、これが土居清良本人が残した一次史料ではなく、後世の子孫による顕彰目的の二次的著作物であるという点に尽きる。記述の細部に至るまで、史実性を慎重に吟味しなければならない。
しかし、その一方で、『清良記』が当時の南伊予の状況を知る上で、他に代わるもののない貴重な情報源であることもまた事実である。戦国末期の南伊予における城郭の配置、在地領主間の複雑な関係性、人々の風俗や思考様式など、この書物からでしか得られない情報は数多い 5 。重要なのは、そこに書かれている内容を鵜呑みにするのではなく、常に「一族顕彰」という編纂者の意図のフィルターを通して、そこに描かれた歴史像を批判的に読み解く姿勢である。
『清良記』全30巻の中でも、ひときわ異彩を放ち、土居清良の名声を決定的なものにしたのが、第七巻に収められた『親民鑑月集』である。この農書は、清良を単なる武人から、民を導く賢君へと昇華させるための、最も重要な装置であった。しかし、その成立をめぐっては大きな謎と論争が存在する。
『親民鑑月集』は、『清良記』の第七巻上下を占める部分の題名である 3 。その形式は、城主である土居清良が、領内に住む農業の達人・松浦宗案(まつら そうあん)を城に呼び出し、領国経営と農業振興について諮問し、宗案がそれに答えるという問答体で構成されている 23 。
その内容は驚くほど具体的かつ網羅的である。稲作における開墾、耕起、施肥といった農業技術はもちろんのこと、牛馬や鶏の飼育法、さらには「公事喧嘩をしないこと」「見物・色好みをしないこと」といった領民の生活倫理に至るまで、詳細な記述がなされている 16 。これは単なる農業技術書ではなく、領主と農民が一体となって豊かで安定した共同体を築くための、総合的な経営論・思想書であった 3 。
『清良記』の記述によれば、『親民鑑月集』は永禄7年(1564年)に成立したとされ、長らく「日本最古の農書」として学術的にも高く評価されてきた 3 。戦国時代の武将が、これほど先進的な農政思想を持っていたことは驚きをもって受け止められ、清良の評価を大いに高める要因となった。
しかし、近年の研究において、この定説は大きく揺らいでいる。まず、著者とされる松浦宗案という人物が、他の史料では一切その名が確認できず、架空の人物である可能性が指摘されている 23 。さらに決定的なのは、その記述内容である。現存する写本には、江戸時代中期以降に日本に広まった琉球芋(サツマイモ)に関する記述が見られることから、少なくともその部分は戦国時代に書かれたものではないことが確実視されている 23 。
研究者の伏見元嘉氏は、伊予吉田藩の元代官であった土居与兵衛が、藩の政策に対する抗議や怨嗟を込めて、江戸時代中期に『清良記』を全面的に改編したという説を提唱している 23 。この説に立てば、『親民鑑月集』は戦国時代の記録ではなく、江戸時代の農業知識や社会思想が色濃く反映された、後世の創作物ということになる。
では、『親民鑑月集』は単なる偽書であり、価値のないものなのだろうか。そう結論づけるのは早計である。たとえ戦国時代の作ではなかったとしても、そこに集積された農業知識は、中世から近世にかけての南伊予地方における農業技術の一つの到達点を示す、極めて貴重な民俗史料であることに変わりはない 39 。
より重要なのは、「なぜ、このような理想的な農書が、土居清良の伝記に挿入される必要があったのか」という問いである。その答えは、江戸時代の価値観に求めることができる。武力で覇を競う時代が終わり、泰平の世が訪れると、為政者に求められる徳は、武勇よりも民を豊かにする「治政」の能力、すなわち「経世済民」の思想へと変化した。編纂者である土居水也らは、自分たちの祖先を、過ぎ去った時代の勇猛な武将としてだけでなく、新たな時代においても尊敬されるべき「善政を敷いた名君」として描き出すことを望んだ。そのための最も効果的な演出が、理想の農政書を彼の功績として物語に組み込むことだったのである。『親民鑑月集』は、土居清良の「英雄化」プロジェクトの中核であり、その内容は戦国時代の現実というよりは、江戸時代の人々が思い描いた理想の君主像を投影したものと理解すべきであろう。
戦国時代末期、日本の政治情勢は織田信長、そして豊臣秀吉という傑出した天下人の登場によって、地方分権の時代から中央集権の時代へと大きく舵を切る。この巨大な歴史の奔流は、伊予の小領主であった土居清良の運命をも否応なく飲み込んでいった。
天正12年(1584年)、清良が仕えた主家・西園寺氏は、四国制覇を目前にした長宗我部元親の猛攻の前に降伏を余儀なくされる 25 。しかし、その長宗我部氏の栄華も長くは続かなかった。翌天正13年(1585年)、天下統一を進める豊臣秀吉が、弟の秀長を総大将とする10万を超える大軍を四国に派遣する(四国平定) 29 。長宗我部氏は降伏し、伊予国は秀吉の重臣・小早川隆景の所領となった 25 。
そして天正15年(1587年)、伊予に新たに入部した豊臣大名・戸田勝隆の謀略により、西園寺氏の当主・西園寺公広は呼び出された先で殺害される 25 。これにより、鎌倉時代から続いた南伊予の名門・西園寺氏は、大名として完全に滅亡した 12 。
主家が滅亡し、伊予に新たな支配者が次々と入ってくる中で、清良は人生の大きな岐路に立たされる。西園寺氏の旧臣たちには、新領主から仕官の誘いがあった。清良にも、戸田勝隆や、その後の領主である築城の名手・藤堂高虎から、1000石という好条件での仕官の誘いがあったと伝えられている 4 。
しかし、清良はこれらの誘いを全て固辞し、隠棲の道を選んだ 2 。『清良記』は、この時の清良の苦しい胸の内を、次のような言葉で記している。「古代(もと)の味方を狭めて、当代の強き方へ付き、褒美の米を受けては人の志す所なく恥ずかし」(旧主をないがしろにして、今の強い者に付き、褒美をもらって生きるのは、武士として恥ずべきことだ) 16 。この言葉は、新たな支配者に仕えることを潔しとしない、古いタイプの武士としての矜持を示すものとして、後世に語り継がれた。
清良の隠棲は、単なる美学や旧主への忠誠心の問題としてのみ捉えるべきではない。それは、彼がこれまで培ってきた「国人領主としての生存術」が、豊臣政権という新たな統治システムの下ではもはや通用しなくなったという、現実的な判断の結果でもあった。
清良のキャリアは、西園寺氏や一条氏といった複数の勢力の間で巧みにバランスを取り、自らの独立性を維持することで成り立っていた。しかし、秀吉が推し進めた検地や刀狩に象徴される中央集権体制は、そのような曖昧な立場を一切許さない。全ての領主は中央権力に完全に組み込まれ、知行は上から一方的に「与えられる」ものへと変質した。清良が新領主に仕えることは、これまでの自立した領主としての生き方を完全に放棄し、巨大な官僚機構の一員となることを意味した。
当時すでに40歳を過ぎていた彼にとって、新しいシステムに適応して立身出世を目指すよりも、自らの時代の終わりを受け入れ、静かに余生を送ることを選んだのは、ある意味で自然な帰結であったのかもしれない。「恥ずかし」という言葉には、忠誠心の問題に加え、自らの存在証明であった「生き方」そのものが否定されたことへの嘆きが込められている。彼の隠棲は、一個人の引退であると同時に、在地領主が自立性を保ち得た「国人の時代」そのものの終焉を告げる、象徴的な出来事であった。
清良はその後、三間の地で静かな晩年を送り、寛永6年(1629年)3月24日、84歳でその波乱に満ちた生涯を閉じた 2 。
土居清良の物語は、彼の死をもって終わらなかった。むしろ、彼の死後、子孫たちの手によってその存在はより大きく、より理想化された形で語り継がれ、やがて郷土の偉人、さらには神として祀られるに至る。歴史上の人物が、いかにして地域の記憶となり、文化的な象徴へと昇華していくのか。清良の死後の軌跡は、その典型的なプロセスを示している。
清良の評価を決定づけた『清良記』が完成したとされる承応3年(1654年)頃からわずか数年後、彼の顕彰活動は新たな段階に入る。清良の三十三回忌にあたる寛文元年(1661年)、土居家の末裔や旧家臣たちの申請によって、京都の神道を司る吉田家から「清良大明神」の神号が授与されたのである 17 。これにより、土居清良は一人の武将から、信仰の対象である神へとその姿を変えた。
この神格化は、『清良記』の編纂とほぼ同時期に、計画的に進められたと考えられる。まず『清良記』という「物語」を創造して清良の偉業をまとめ上げ、次いでその権威を背景に神として祀ることで、一族の祖先の地位を不動のものにしようとしたのである。
この神格化に伴い、清良を祭神とする清良神社が宇和島市三間町土居中に建立された 41 。現在も存在するこの神社の拝殿の瓦には、土居家の家紋である「丸に楓」が施されており、清良の記憶を今に伝えている 42 。また、江戸時代後期には、清良の子孫である庄官・土居与兵衛森良によって、龍泉寺の境内に立派な五輪塔を擁する廟所が建立・整備されるなど、一族による顕彰は時代を超えて続けられた 37 。
こうした一族の努力と、『清良記』によって広められた物語は、やがて地域社会に深く浸透していく。地元では、土居清良は敬意と親しみを込めて「清良(きよよし)さま」と呼ばれ、地域の鎮守として敬愛されるようになった 40 。近代に入ってからもその敬愛は続き、地域の小学校が遠足で清良神社に参拝するなど、郷土が誇るべき偉人として、その存在は子供たちの世代にまで語り継がれていった 40 。
清良の記憶は、単なる信仰にとどまらず、地域の文化や産業にも影響を与えたとされる。『清良記』、特に『親民鑑月集』に記された農業に関する教えは、明治維新に至るまでこの地方の農業手引書として活用されたと言われ、米どころ三間の農業の礎を築いたと信じられている 40 。
また、三間町が輩出した世界的な版画家・畦地梅太郎や、日本の農業機械化をリードした井関農機(ISEKI)の創業者・井関邦三郎といった傑出した人物たちの精神的風土の源流に、文武両道に秀で、民を愛した清良の存在を見る向きもある 43 。
このように、土居清良の存在は、歴史上の人物という枠を超え、350年以上の歳月をかけて地域社会に根付き、人々のアイデンティティを形成する文化的な核となった。現代の三間町に生きる「清良さま」の記憶は、歴史上の人物そのものではなく、江戸時代に子孫によって創造された「物語」が、地域の人々によって共有される「記憶」となり、信仰や誇りを生み出した、文化的な構築物なのである。
本報告書は、戦国時代の伊予の武将・土居清良について、その人物像を伝える唯一無二の史料『清良記』を批判的に分析し、他の史料や時代背景と照合することで、多層的な実像の再構築を試みた。その結果、土居清良は、単一のイメージでは捉えきれない、少なくとも三つの異なる顔を持つ複合的な存在として理解されるべきであることが明らかになった。
第一に、 歴史上の実像としての土居清良 である。彼は、豊後の大友、土佐の一条、そして長宗我部といった大勢力が絶えず侵攻してくる伊予の国境地帯において、小規模な在地領主(国人)として、一族の存続をかけて戦った人物であった。彼の特筆すべき能力は、単なる武勇ではなく、主家である西園寺氏に従属しつつも、独自の外交パイプや軍備増強によって自立性を保つという、巧みなバランス感覚にあった。彼の生涯は、中央の大きな権力から自立して存在し得た「国人の時代」の、最後の輝きと、その終焉を体現している。
第二に、 物語上の英雄像としての土居清良 である。これは、江戸時代初期に子孫の土居水也が編纂した『清良記』の主人公としての姿である。この物語の中で、清良は武勇に優れるだけでなく、卓抜した知略で敵を欺き、さらには『親民鑑月集』に象徴されるように、民を慈しみ善政を敷く「仁政の主」として、理想化された武将像を賦与された。この英雄像は、戦乱の世が終わった江戸時代の価値観を色濃く反映した、後世の創造物である。
第三に、 文化的な象徴としての土居清良 である。これは、故郷である宇和島市三間町において、「清良大明神」として神に祀られ、地域の誇りとして今日まで敬愛され続ける郷土の偉人としての姿である。この信仰と記憶は、『清良記』という「物語」が地域社会に深く根付くことで形成された。歴史上の人物が、物語を経て、地域共同体のアイデンティティを支える文化的な象徴へと昇華していく、その典型的なプロセスがここに見られる。
結論として、土居清良とは、これら三つの側面が分かちがたく結びつき、重なり合うことで形成された多層的な人物像であると言える。彼の全体像を真に理解するためには、史実の探求という歴史学的なアプローチと同時に、彼をめぐる「物語」と「記憶」が、時代の中でいかにして生まれ、変容し、受容されてきたのかを追う、文化史的な視点が不可欠である。土居清良という一人の武将の探求は、歴史がいかにして語り継がれ、時代の要請の中で再創造されていくのかという、より普遍的で深遠な問いを、我々に投げかけているのである。