本報告書は、戦国時代の武将、土屋昌続(つちや まさつぐ)の生涯について、その出自、武田信玄の側近としての台頭、武将としての戦功、そして長篠の戦いにおける壮絶な最期に至るまでを、現存する史料に基づき徹底的に詳述するものである。一般に武田二十四将の一人としてその武勇が知られるが 1 、信玄の懐刀として政務や外交にも辣腕を振るった側近としての側面も持ち合わせていた 1 。本報告では、これら武と文の両面に光を当て、その生涯と歴史的評価の全体像を明らかにすることを目的とする。
なお、彼の諱(いみな)については、同時代の文書史料では「昌続」と記されているものが確認されている 1 。一方で、江戸時代に編纂された『甲斐国志』などでは「昌次(まさつぐ)」の名で知られており、両方の呼称が伝わっている 1 。本報告書では、一次史料の記述を尊重し、主に「昌続」の表記を用いるが、引用や逸話の紹介においては「昌次」の呼称にも言及する。
土屋昌続は、天文14年(1545年)頃、武田家の譜代家老である金丸筑前守虎義(かねまるちくぜんのかみとらよし)の次男として生を受けた。幼名は平八郎と称した 1 。
金丸氏は、清和源氏の流れを汲む甲斐源氏の一門であり、甲斐守護であった武田信重の子、金丸光重を始祖とする由緒正しい家柄であった 1 。父である虎義は、武田信玄(当時は晴信)が若かりし頃、重臣の板垣信方と共にその傅役(もりやく)、すなわち教育係を務めたとされる人物である 1 。この高貴な家格と、父が主君の教育係という特別な立場にあったことが、昌続が若くして信玄の側近くに仕えるための重要な基盤となった。
昌続の兄である金丸平三郎は、信玄の「奥近習横目役(おくきんじゅうよこめやく)」という、側近でありながら監察官の役割も担う重要な役職に就いていた。しかし、『甲陽軍鑑』によれば、永禄3年(1560年)、職務上の報告が原因で家臣の恨みを買い、殺害されるという悲劇に見舞われた 1 。
この兄の死が、昌続の運命を大きく動かす一因となった可能性は高い。兄の欠員を埋めるかのように、昌続は武藤喜兵衛(後の真田昌幸)、三枝昌貞(守友)、曽根昌世ら、後に武田家の中核を担うことになる若き俊英たちと共に、「奥近習六人衆」の一人に選抜されたのである 1 。
信玄は、この若手エリート集団を深く寵愛し、自身の偏諱(へんき)である「昌」の一字をそれぞれに与えた。これにより、平八郎は「昌続」と名乗ることとなった 1 。
『甲陽軍鑑』は、昌続が奥近習の中でも特に信玄から寵愛されていたことを示す逸話を数多く伝えている。例えば、歌会において信玄の隣に座ることが許される「御膳担(ごぜんたん)」という特別な役割を担っていたとされ、他の近習が配膳を担当する「配膳担」であったことと対比して、その格別の地位が強調されている 1 。また、主君の夜伽を務めたことを示唆する「御座をなをし」という記述や、織田信長から贈られた貴重な猩々緋(しょうじょうひ)の笠を、信長の使者の目の前で「信長の武辺にあやかれ」と言って昌続に与えたという逸話も記録されている 1 。
これらの逸話は、後世に成立した軍記物語である『甲陽軍鑑』に依拠するため、その全てを史実と断定することは慎重であるべきである。しかし、複数の逸話が一貫して昌続への特別な信頼と寵愛を描いている点は極めて重要である。これは、昌続が単なる一介の家臣ではなく、信玄にとって公私にわたり極めて近しい、特別な存在であったという歴史的記憶が、物語という形で結晶化したものと解釈できる。
信玄が組織した奥近習六人衆は、単なる身辺警護や雑用係ではなかった。彼らは信玄直属の幹部候補生であり、戦場の偵察から家臣の人事評価、さらには重臣との秘密会議への陪席まで許される、一種のエリート集団であった 18 。これは、次世代の指導者層に、軍事、政治、外交のあらゆる局面における大局観と実務能力を叩き込むための、極めて高度な人材育成プログラムであったと言える。領国が拡大し、統治が複雑化する中で、信玄の意思を迅速かつ正確に実行し、領国の隅々まで統制を及ぼすためには、当主直属の、機動力と高い忠誠心を持つ実務家集団が不可欠であった。昌続は、父が信玄の傅役であったという信頼の基盤の上に、自身の才能でその期待に応え、このシステムが生んだ最高傑作の一人となったのである。
氏名 |
主な経歴・役割 |
武田家滅亡後の動向 |
典拠 |
土屋昌続 |
竜朱印状奏者、侍大将。三方ヶ原で鳥居忠広を討ち取る。 |
長篠の戦いで戦死。 |
1 |
武藤喜兵衛(真田昌幸) |
奥近習として信玄に仕え、後に真田家を継ぐ。智謀で知られる。 |
独立大名として存続。 |
17 |
三枝昌貞(守友) |
山県昌景の娘婿。花沢城攻めで一番槍の功名を上げる。 |
長篠の戦いで戦死。 |
19 |
曽根昌世 |
駿河興国寺城主。三増峠で浅利信種の部隊を指揮。 |
徳川家康に仕えるも出奔、後に蒲生氏郷に仕える。 |
17 |
甘利昌忠 |
上野箕輪城代。上野方面の責任者。 |
落馬により死亡。 |
17 |
長坂昌国(源五郎) |
父・釣閑斎と共に奏者を務める。義信事件に関与。 |
武田家滅亡まで仕える。 |
1 |
永禄4年(1561年)、昌続は17歳にして、戦国史上最も激しい合戦の一つとして知られる第四次川中島の戦いに、真田昌幸と共に初陣を飾った 1 。この戦いでは、上杉謙信率いる軍勢が武田本陣にまで肉薄する危機的状況に陥ったが、昌続は主君・信玄の傍らを決して離れず奮戦し、その武勇と揺るぎない忠誠心を示した 1 。
『甲陽軍鑑』は、この川中島での功績により、信玄から名族「土屋」の名跡を与えられたと記している 1 。しかし、一次史料である永禄9年(1566年)閏8月に作成された長坂昌国起請文の宛名において、昌続はまだ「金丸平八郎」と記されている 1 。このことから、『甲陽軍鑑』の記述と実際の継承時期にはずれがあり、土屋姓の継承は、後述する侍大将への昇進と同時期であったと考えるのがより史実に近いとみられる。
永禄12年(1569年)、武田軍が北条氏の小田原城を攻めた後の帰路、三増峠において後北条軍と激突した(三増峠の戦い)。この戦いで、武田軍の侍大将であり、対北条氏の重要拠点である西上野の箕輪城代を務めていた浅利信種が戦死した 23 。
この浅利信種の戦死が、昌続のキャリアにおける大きな転換点となる。昌続は、戦死した信種の配下であった同心衆(どうしんしゅう)を与えられ、騎馬百騎を率いる侍大将へと、22歳という若さで異例の大抜擢を受けたのである 1 。そしてこの時、桓武平氏三浦氏の流れを汲む甲斐の名門「土屋」の名跡を正式に継承し、「土屋昌続」として黒地に白鳥居の旗印を授かったと考えられている 1 。
昌続が継承した浅利信種の部隊は、武田軍団最強の精鋭部隊の称号である「赤備え」であったと『甲陽軍鑑』は伝えている 24 。赤備えは、飯富虎昌、そして山県昌景が率いたことでその名が轟いており、武勇の誉れの象徴であった 28 。この栄誉ある部隊の指揮を、信玄が22歳の若き昌続に任せたという事実は、彼が単なる寵臣ではなく、武田軍の次代を担う中核的武将として、その軍事的能力を極めて高く評価されていたことの何よりの証左である。由緒ある「土屋」の名跡と、武勇の象徴である「赤備え」という二つの栄誉を同時に与えることで、信玄は昌続の権威を家臣団の中で絶対的なものにしようとした。これは、血縁や旧来の序列によらない、信玄自身の評価に基づく新たな権力秩序を構築しようとする、彼の巧みな人事戦略の現れであった。
昌続の才能は、戦場での武勇に留まらなかった。彼は、武田氏の公式な意思を表明する文書である「竜朱印状(りゅうしゅいんじょう)」を、当主の意を受けて発行する「奉者(ほうじゃ)」として、武田の領国経営の中枢で活躍した 5 。
奉者は、当主の命令を伝達し、その正当性を保証する極めて重要な役職であり、その職務を遂行するためには大きな権限が与えられていた 5 。昌続が奉者として発給した文書は、天正2年(1574年)に海島寺の寺領と「郷中罰銭役」という諸役を免許した朱印状などが現存しており、彼の行政官としての活動を具体的に裏付けている 34 。
一次史料の分析によれば、信玄期において昌続は、同じく側近として重用された跡部勝資を上回る数の朱印状を奉じていたことが指摘されている 5 。この事実は、彼が信玄政権下で最も影響力のある側近の一人であったことを示している。
奉者としての役割に加え、昌続は「取次(とりつぎ)」として外交や占領地統治においても重要な役割を担った。武田氏の支配下に入った信濃の国衆(玉井氏、市川氏、海野氏など)との連絡・調整役を担当し、彼らとの関係を円滑に保つことで、占領地の安定化に深く関与した 1 。
対外的には、房総の里見氏や、関東の太田氏、梶原氏といった諸大名との外交交渉も担当しており、武田氏の複雑な対外戦略の一翼を担う存在であった 1 。さらに、永禄11年(1568年)の駿河侵攻の際には、信玄の意向を現地の諸将に伝達する役割を全面的に担っており、これは方面軍の司令部機能を代行するほどの絶大な信頼を得ていたことを物語っている 4 。
昌続のこうした奉者・取次としての活動は、武田氏の統治システムが、譜代家老による合議制だけでなく、当主直属の側近を通じたトップダウンの意思決定によっても強力に機能していたことを示している。特に、拡大した領国の国衆を直接統制し、複雑な外交関係を処理する上で、昌続のような有能な側近の存在は不可欠であった。
しかし、この権力構造は勝頼の代になると変化する。信玄期には昌続が奉者として筆頭格であったのに対し、勝頼の代になると跡部勝資が発給する朱印状の数が昌続を圧倒するようになる 5 。これは、勝頼が父の代からの宿老よりも、自身に近い側近を重用した結果であり、武田家中の権力構造の変化を示唆している。長篠での昌続の戦死は、この権力バランスの崩壊を加速させ、跡部勝資らへの権力集中を招く一因となった。この権力構造の変化が、後の武田家の命運に影を落としていくことになる。
元亀3年(1572年)、信玄は生涯最後の大規模軍事行動となる西上作戦を敢行。昌続もこれに従軍した。武田軍は徳川家康の領国である遠江に侵攻し、その本拠地である浜松城へと迫った。
元亀3年(1573年)12月22日に行われた三方ヶ原の戦いにおいて、昌続は生涯の武功として後世まで語り継がれる輝かしい働きを見せる。徳川軍の猛将として知られ、徳川十六神将にも数えられる鳥居忠広と一騎討ちとなったのである 1 。
『甲陽軍鑑』によれば、忠広の強力な一撃によって昌続の兜は打ち割られたものの、幸いにも名工・明珍(みょうちん)の手による堅牢な兜であったため、頭に傷一つ負わなかった。すぐさま体勢を立て直した昌続は、忠広と組み討ちとなり、激闘の末にその首を討ち取るという大功を上げた 1 。
敵味方が入り乱れる激戦の最中、徳川家中でも屈指の豪勇として知られた忠広を単独で討ち取ったことで、昌続の武名は一段と高まり、敵方からも「武田には鳥居を凌ぐ豪の者がいる」と恐れられる存在となった 35 。信玄はこの戦功を大いに喜び、自らが手ずから育て上げた側近の目覚ましい活躍を絶賛したと伝えられている 35 。
この一騎打ちは、単なる一個人の武勇伝に留まるものではない。徳川家の重臣という象徴的な存在を、信玄が自ら抜擢した若き側近が討ち取ったという事実は、武田軍の強さと人材層の厚さを内外に誇示する絶好の機会となった。信玄にとっては、自身の「人を見る目」が正しかったことの証明であり、寵愛する側近が期待通りに大舞台で最高の結果を出したことへの純粋な満足感があったと推察される。この逸話は、昌続を「文武両道」の将として後世に記憶させる上で決定的な役割を果たし、政治・外交における冷静な手腕だけでなく、戦場での個人的武勇も最高レベルであったことを示す、象徴的な出来事として語り継がれていくことになった。
天正3年(1575年)5月、三河の長篠城を包囲する武田軍に対し、織田信長・徳川家康連合軍が設楽原に着陣した。信長自らが3万ともいわれる大軍を率いて出陣したことを知った昌続は、山県昌景、馬場信春、内藤昌秀といった信玄以来の宿老たちと共に、主君・武田勝頼に対して撤退を進言したと伝えられている 1 。しかし、勝頼はこの慎重論を受け入れず、連合軍との決戦を選択した。
この宿老たちの諫言と勝頼の決断の対立は、信玄時代と勝頼時代の意思決定プロセスの質の変化を象徴している。信玄であれば、歴戦の宿老たちの意見を完全に無視し、数で劣り、敵が堅固な馬防柵を築いているという戦術的に極めて不利な状況での決戦に臨むことは考えにくい。勝頼が決戦に固執した背景には、偉大な父・信玄を超える功績を挙げたいという焦りや、跡部勝資ら主戦派の側近の影響力増大があったと指摘されている。
昌続は信玄の側近でありながら、勝頼の代でも重用されていた人物である。その彼が宿老たちと同調して撤退を進言したという事実は、この決戦がいかに無謀なものであったかを物語っている。彼の死は、武田家中から貴重な「理性の声」と、「宿老たちと勝頼をつなぐパイプ役」が失われたことを意味し、武田家の悲劇を加速させることになった。
長篠・設楽原の戦いにおいて、昌続は武田軍右翼に、真田信綱・昌幸兄弟と共に布陣した 1 。
戦闘が開始されると、昌続の部隊は織田・徳川連合軍が築いた三重の馬防柵に猛然と突撃した。その凄まじい勢いは、二重の柵までを突破するという、驚異的な奮戦ぶりであった 9 。しかし、最後の柵に到達したところで、待ち構えていた織田軍の鉄砲隊による熾烈な一斉射撃を浴び、柵にもたれかかるようにして壮絶な戦死を遂げた 6 。享年31。あまりにも若すぎる死であった 1 。
その首は、従者の温井左近が敵に渡すまいと持ち帰ろうとしたが叶わず、首を埋葬した後に殉死したと伝えられている 1 。現在も愛知県新城市には「土屋右衛門尉昌次戦死之地」の碑が、武田軍の猛攻の到達点を示すかのように、馬防柵の最も奥まった一角に建てられている 6 。
昌続の死は、山県昌景、馬場信春、内藤昌秀、原昌胤、真田信綱ら多くの宿老・重臣の戦死と共に、武田軍団の壊滅的な敗北と、その後の武田家衰退を決定づける象徴的な出来事となった 40 。
兄・昌続と、駿河の武将で養父でもあった土屋貞綱が長篠で共に戦死したため、弟の昌恒(まさつね、通称:惣蔵)が両土屋家の家督と家臣団を継承することになった 44 。
天正10年(1582年)、織田・徳川連合軍による甲州征伐が始まると、譜代の重臣たちが次々と勝頼を裏切り離反していく中、昌恒は最後まで主君に従い、その忠義を貫いた 44 。
勝頼一行が天目山に追い詰められ、最期の時を迎えると、昌恒は主君が自害するための時間を稼ぐべく、狭い崖道に一人立ちはだかった。片手で藤蔓を掴んで崖から落ちないようにし、もう片方の手で刀を振るって追手の織田勢を次々と斬り倒したという。この鬼神の如き奮戦は、後に「片手千人斬り」と語り継がれる伝説となった 44 。
その壮絶な働きは、敵方である織田方の公式記録ともいえる『信長公記』に「比類なき働き」と賞賛の言葉をもって記され、武田家最後の忠臣としてその名を後世に不滅のものとした 45 。
昌恒の死後、その遺児である平三郎(後の土屋忠直)は、母(今川家臣・岡部元信の娘)に連れられて駿河の清見寺へと落ち延びた 48 。
天正17年(1589年)頃、鷹狩りの途上で清見寺を訪れた徳川家康が、利発な平三郎の姿に目を留めた。住職から彼が「あの忠臣・土屋昌恒の子」であると聞かされると、家康は深く感じ入り、その忠義に報いるべく彼を召し抱えることを決意したという 45 。
平三郎は二代将軍・徳川秀忠の小姓として仕え、後に「忠直」と名乗り、上総久留里藩二万石の大名に取り立てられた 46 。さらにその次男・数直の系統は常陸土浦藩主となり、土屋家は幕末まで大名家としてその血脈を保ち続けた 46 。
土屋兄弟の物語は、戦国時代から江戸時代への価値観の転換を見事に体現している。兄・昌続は「武功と才覚」によって信玄に認められ、乱世の中で栄達した。一方、弟・昌恒は「主君への殉死」という究極の「忠義」を示した。そして、この「忠義」こそが、敵将であった家康に高く評価され、結果として土屋家の血脈を大名家として存続させる最大の要因となったのである。家康は、昌恒の自己犠牲的な忠義を、これから築く徳川幕府の秩序、すなわち「主君への絶対的な忠誠」というイデオロギーの理想形と見たのであろう。昌恒の遺児を厚遇することは、家康自身の家臣団に対し、「忠義を尽くせば、たとえ主家が滅んでも、その子孫の面倒は私がみる」という強力なメッセージとなった。土屋家の物語は、昌続の「武」と昌恒の「忠」が二代にわたって家を支え、最終的に「忠」が家を救ったという、時代の転換を象徴する物語として結ばれている。
土屋昌続の生涯を概観すると、彼が武勇と知略、そして高度な行政手腕を兼ね備えた、主君・武田信玄の理想とする家臣像の体現者であったことがわかる。
彼をめぐる人物像の形成に大きな影響を与えたのが、軍記物語『甲陽軍鑑』である。江戸時代には甲州流軍学の聖典として広く読まれ、昌続の英雄的なイメージを定着させた 1 。しかし、明治時代以降、近代的な実証史学の観点から年紀の誤りなどが指摘され、その史料的価値は低いと見なされる時期が続いた 57 。
だが近年、平山優氏や丸島和洋氏といった研究者たちの実証的な研究により、『甲陽軍鑑』は一次史料との比較検討を通じて慎重に扱えば、当時の武士の思想や人間関係、組織の実態を窺い知る上で貴重な情報を含むことが再評価されている 59 。特に昌続に関する『甲陽軍鑑』の記述、とりわけ信玄の寵愛を示す逸話群は、全てが史実そのものでなくとも、彼が信玄政権においていかに重要な存在であったかという「歴史的記憶」を色濃く反映したものとして、その価値を認めることができる。
最終的に、土屋昌続は、武田信玄という稀代の経営者の下でその才能を最大限に開花させ、武田家の最盛期を象徴する武将であったと結論付けられる。彼の若すぎる死と、その遺志を継いだ弟・昌恒の悲劇的な忠義は、武田家興亡の物語そのものを凝縮しており、現代に至るまで人々に強い感銘を与え続けている。
最後に、ご依頼者が関心を持たれていた「笛」に関する逸話については、今回調査した主要な史料からは確認することができなかった。しかし、主君である信玄が頻繁に連歌会を催すなど高い文化的教養を持っていたこと 15 、そして昌続がその文化的な場に「御膳担」として侍していた可能性が高いこと 1 から、彼が武辺一辺倒の人物ではなく、高い教養を求められる洗練された環境に身を置いていたことは間違いないであろう。