土岐頼遠は南北朝時代の婆娑羅大名。青野原の戦いで武功を挙げ美濃守護となる。光厳上皇への狼藉で処刑されたが、土岐氏の繁栄を招いた。
本報告書は、南北朝時代の武将、土岐頼遠(とき よりとお)の生涯を、多角的な視点から徹底的に分析し、その歴史的実像に迫ることを目的とする。頼遠は、光厳上皇の牛車に狼藉を働いて処刑されたという逸話によって、粗暴な武辺者としての印象が強い 1 。しかし、その生涯を丹念に追うと、単一のイメージでは到底捉えきれない、複雑で矛盾に満ちた人物像が浮かび上がってくる。
彼は、室町幕府草創期において数多の戦功を挙げた比類なき猛将であり、幕府の功臣であった 3 。その一方で、幕府の権威の源泉たる上皇を公然と侮辱し、自らの破滅を招いた。さらに、武勇一辺倒の人物かと思えば、『新千載和歌集』などに名を連ねる教養人としての一面も持ち合わせていた 1 。この「武勇に優れた功臣」「権威を嘲笑う狼藉者」「教養ある文化人」という三つの顔は、なぜ一人の人間に同居し得たのか。
この問いを解く鍵は、彼が生きた南北朝という時代の特異な価値観、すなわち「婆娑羅(ばさら)」にある。婆娑羅とは、旧来の権威や秩序を軽んじ、華美で奔放な振る舞いを是とする、この時代特有の美意識であり、行動様式であった 6 。頼遠の生涯は、一個人の物語に留まらない。それは、室町幕府という新たな武家政権が、その草創期において直面した「秩序形成の論理(足利直義)」と「秩序破壊のエネルギー(婆娑羅大名)」との間の、深刻な緊張関係を象徴している。彼の処刑は、新しい政権が自らの存立基盤を固めるため、かつては有用であったはずの功臣の破壊的エネルギーを、政治的必然性のもとに断ち切らねばならなかった悲劇と捉えることができる。
本報告書では、まず頼遠の出自と彼を取り巻く時代の動向を概観し、次に青野原の戦いをはじめとする赫々たる武功を詳述する。続いて、美濃守護としての統治や文化人としての一面を明らかにし、彼の代名詞ともいえる光厳上皇への狼藉事件を、婆娑羅という時代の空気と共に深く分析する。そして、その処刑が持つ政治的意味と、彼の死が皮肉にも土岐氏の最盛期を招いた逆説的な結末を考察し、土岐頼遠という人物を通して、南北朝という時代の本質を浮き彫りにする。
年代(西暦/和暦) |
出来事 |
不明 |
土岐頼貞の七男として生まれる 1 。 |
1324年(正中元年) |
正中の変。土岐一族の頼兼、多治見国長らが後醍醐天皇の倒幕計画に与し、自刃する 8 。 |
1333年(元弘3年) |
元弘の乱。父・頼貞と共に足利尊氏に与し、鎌倉幕府を滅ぼす 9 。 |
1335年(建武2年) |
中先代の乱。 |
1336年(延元元年/建武3年) |
多々良浜の戦いで菊池武敏軍と戦う。足利尊氏、室町幕府を開く。頼貞が初代美濃守護に任じられる 1 。 |
1338年(延元3年/暦応元年) |
青野原の戦い。北畠顕家軍と激突し、奮戦するも敗走。しかし、顕家軍に大打撃を与える 10 。 |
1339年(延元4年/暦応2年) |
父・頼貞の死により家督を継ぎ、第二代美濃守護となる。本拠地を土岐郡から長森城へ移す 1 。 |
1340年(興国元年/暦応3年) |
脇屋義助を美濃根尾城に攻め、尾張へ敗走させる 1 。 |
1342年(興国3年/康永元年) |
9月、光厳上皇の牛車に狼藉を働く。12月1日、足利直義の命により、京都六条河原にて斬首される 1 。 |
1342年(興国3年/康永元年) |
頼遠の死後、即日、甥の土岐頼康が家督を継ぎ、第三代美濃守護となる 13 。 |
1353年(正平8年/文和2年) |
頼康、南朝に追われた後光厳天皇を美濃に迎える。後に美濃・尾張・伊勢の三国守護となり、土岐氏の最盛期を築く 3 。 |
土岐頼遠という人物を理解するためには、まず彼が属した土岐氏という一族の成り立ちと、彼が生きた時代の転換点、すなわち鎌倉幕府の末期から南北朝の動乱期へと至る激動の歴史的背景を把握する必要がある。
土岐氏は、清和天皇を祖とする清和源氏の中でも、源頼光を祖とする摂津源氏の流れを汲む、由緒正しい名門武家である 15 。頼光の子・頼国が美濃守に任じられたことを契機に、その子孫は美濃国に根を下ろし、「美濃源氏」と称される武士団の中核を形成した 15 。その名字の地は、美濃国土岐郡土岐郷、現在の岐阜県瑞浪市土岐町一帯にあたる 17 。
平安時代末期に美濃に土着した土岐氏は、鎌倉時代に入ると、一族の土岐光衡が源頼朝の挙兵に応じて鎌倉幕府の御家人となり、美濃国守護職に補任されたことで、その地位を不動のものとした 3 。以来、土岐氏は美濃国東部(東濃地方)を本拠地として勢力を拡大し、京の治安維持や宮中警護の任にも当たるなど、幕府の有力御家人として重きをなした 3 。
頼遠の父である土岐頼貞(1271-1339)の時代、土岐氏と鎌倉幕府の関係は、一見すると極めて良好であった。頼貞は、鎌倉幕府の執権を輩出する北条得宗家と深い姻戚関係を結んでいた。彼の母は北条氏の一族であり、妻も第8代執権・北条時宗の異母弟にあたる北条宗頼の娘であったとされる 3 。この強力な縁戚関係は、土岐氏が幕府内で高い地位を維持するための重要な基盤となっていた。
しかしその一方で、水面下では幕府との間に深刻な亀裂を生じさせる事件も発生していた。1324年(正中元年)に発覚した後醍醐天皇による最初の倒幕計画、いわゆる「正中の変」である。この計画には、土岐氏の一族である土岐頼兼(頼貞の十男)や多治見国長らが関与しており、計画が六波羅探題に露見すると、彼らは幕府軍の追討を受けて自刃に追い込まれた 8 。惣領である頼貞自身も幕府から関与を疑われるなど、この事件は土岐氏にとって一族が幕府に誅殺されるという大きな痛手となった。
この鎌倉幕府との関係性は、単純な忠誠や反逆では割り切れない、二重性を帯びていた。北条氏との姻戚関係に象徴される「恩」と、正中の変における一族誅殺という「恨」が、土岐氏の内部で同居していたのである。このアンビバレントな感情こそが、彼らが旧来の権威である鎌倉幕府に見切りをつけ、足利尊氏という新たな秩序の担い手に未来を託すという、後の大きな政治的決断を促す重要な伏線となったと考えられる。
土岐頼遠は、そのような時代の転換期に、土岐頼貞の七男として生まれた 1 。彼は父・頼貞が本拠とした一日市場館(現在の瑞浪市)には移らず、土岐氏発祥の地に近い大富館を継いだとされる 1 。
頼遠には多くの兄弟がおり、それぞれが武将として歴史に名を残している。兄には、東寺の戦いで「悪源太」の異名をとるほどの武勇を示した頼直や、伊予国守護に任じられた頼清がいる 1 。また、異母弟には前述の正中の変で命を落とした頼兼や、後に明智氏の祖となったとされる長山頼基、そして頼遠の死後に美濃守護を継ぐことになる頼明がいた 1 。このように、一族全体が武勇に優れた家柄であり、頼遠もまた、父や兄たちと共に各地を転戦する中で、その武才を磨いていったのである 3 。
人物名 |
読み |
続柄・関係性 |
概要 |
土岐頼貞 |
とき よりさだ |
父 |
初代美濃守護。北条氏と姻戚関係を結ぶ一方、足利尊氏に従い倒幕に参加 9 。 |
土岐頼清 |
とき よりきよ |
兄 |
伊予守護。足利尊氏に従い各地で戦うが、摂津にて病死。頼康の父 1 。 |
土岐頼康 |
とき よりやす |
甥 |
頼清の子。頼遠の死後、美濃守護を継承。土岐氏の最盛期を築く 14 。 |
足利尊氏 |
あしかが たかうじ |
主君 |
室町幕府初代将軍。頼遠は尊氏に従い、北朝方として戦功を重ねた 21 。 |
足利直義 |
あしかが ただよし |
主君の弟 |
尊氏の弟。幕府の政務を統括。頼遠の狼藉に激怒し、処刑を命じた 1 。 |
光厳上皇 |
こうごんじょうこう |
狼藉の被害者 |
北朝の初代天皇。治天の君として幕府の権威を支える存在だった 1 。 |
夢窓疎石 |
むそう そせき |
禅僧 |
当代随一の高僧。頼貞・頼遠親子が帰依し、寺社創建を依頼。頼遠の助命嘆願も行った 1 。 |
北畠顕家 |
きたばたけ あきいえ |
敵将 |
南朝方の公卿・武将。青野原の戦いで頼遠と激突した 10 。 |
高師直 |
こうの もろなお |
同僚 |
幕府執事。婆娑羅大名の一人。後に足利直義と対立(観応の擾乱) 6 。 |
佐々木道誉 |
ささき どうよ |
同僚 |
婆娑羅大名の筆頭格。頼遠と同じく、旧来の権威を軽んじる行動で知られた 6 。 |
鎌倉幕府が崩壊し、後醍醐天皇による建武の新政もわずか数年で瓦解すると、日本は北朝と南朝が並立する未曾有の内乱時代へと突入する。土岐頼遠は、この動乱の中でこそ、その武才を遺憾なく発揮し、室町幕府の功臣としてその名を天下に轟かせた。
元弘の乱(1333年)において、父・頼貞と共に後醍醐天皇の綸旨に応じ、足利尊氏の麾下で倒幕に加わった土岐氏は、続く南北朝の動乱においても一貫して尊氏率いる北朝方として戦った 1 。頼遠も父や兄弟と共に各地を転戦し、武将としての経験を積んでいく。
その活躍は、幕府の命運を左右する重要な合戦においても確認できる。1336年(延元元年/建武3年)、九州で破竹の勢いであった南朝方の菊池武敏を迎え撃った多々良浜の戦いや、同年に京で新田義貞軍と繰り広げられた市街戦など、頼遠は常に最前線で戦い続けた 1 。さらに1340年(興国元年/暦応3年)には、美濃国根尾城に籠城していた南朝方の将・脇屋義助(新田義貞の弟)を、甥の頼康らと共に攻め立て、尾張へと敗走させる軍功を挙げている 1 。これらの戦歴は、頼遠が幕府草創期を支えた中心的な武将の一人であったことを物語っている。
頼遠の武名を不朽のものとしたのが、1338年(延元3年/暦応元年)1月に美濃国で繰り広げられた「青野原の戦い」である 3 。この戦いは、後醍醐天皇の皇子・義良親王を奉じ、奥州から京を目指して破竹の勢いで西上する南朝軍の総大将・北畠顕家を、足利方が美濃で迎え撃った一大決戦であった。
『太平記』によれば、50万騎(誇張はあるものの、圧倒的な大軍であったことは確かである)ともいわれる顕家軍に対し、足利方の諸将は軍議を開いた 10 。多くの将が、大軍との正面衝突を避け、敵が疲弊するのを待ってから攻めるべきだという消極策に傾く中、頼遠は敢然として異を唱えた。「そもそも目の前の敵を見過ごし、後日疲れたところを攻めるというのは、武士の道に反するのではないか。他の者たちがどうしようと、自分一騎になろうとも、ここで一戦を交える所存である」 3 。この言葉は諸将の士気を奮い立たせ、足利方は決戦を決意する。
戦端が開かれると、足利方は数に劣り、次々と部隊が打ち破られていく。その総崩れの中、頼遠は桃井直常と共に、わずか千騎の精鋭を率いて、数万と号する顕家の本隊に突撃した 11 。鬼神のごとき奮戦ぶりで敵陣を蹂躙し、一時は行方不明になったと伝えられるほど、自らも顔面に傷を負う激しい戦いを繰り広げた 4 。『太平記』は、頼遠の兵たちが「千騎が一騎になるまで引くな」と励まし合い、最終的に23騎になるまで戦い抜いたと記している 4 。
この戦い自体は、兵力差の前に足利方の敗北に終わった。しかし、この時の頼遠の凄まじい奮戦ぶりは、後に歴史家の今川了俊(貞世)がその著書『難太平記』の中で、「青野原の軍(いくさ)は土岐頼遠一人高名と聞きし也」と、名指しで絶賛するほどであった 3 。
この青野原での戦いは、単なる武勇伝に留まらない、より深い歴史的意義を持つ。戦術的には敗北であったものの、頼遠の捨て身の猛攻は、北畠顕家軍に甚大な打撃と消耗を強いた 1 。この時の疲弊が、結果的に顕家軍の上洛を遅らせ、進路の変更を余儀なくさせた。そして、これが後の和泉国石津の戦いにおいて、高師直率いる幕府軍に敗れ、顕家が戦死する遠因となったと分析できる。つまり、頼遠の行動は「戦術的敗北」と引き換えに、「戦略的に北朝の勝利に大きく貢献した」という、逆説的ながらも極めて高い評価が可能なのである。彼の勇名は、幕府内での発言力を高め、後の美濃守護就任への道を確固たるものにした。
戦場での勇猛さばかりが注目されがちな土岐頼遠だが、彼は同時に、美濃一国を預かる守護大名として、また、京の文化にも通じた教養人としての一面も持ち合わせていた。これらの側面は、彼の人物像をより立体的に理解する上で不可欠である。
1339年(暦応2年)、父・頼貞が没すると、頼遠は兄たちを差し置いて土岐氏の惣領となり、室町幕府から正式に第二代美濃守護に任命された 1 。これは、青野原の戦いをはじめとする数々の戦功が、幕府から高く評価された結果に他ならない。
守護に就任した頼遠は、注目すべき政治的決断を下す。それは、土岐氏が長年本拠としてきた東濃地方の土岐郡大富(一日市場館、または鶴ヶ城)から、京に近く、交通の要衝でもある美濃国中部の厚見郡長森(現在の岐阜市長森地区)に守護所を移転したことである 1 。長森城は、後の岐阜城の東に位置し、中山道を押さえる戦略的にも重要な拠点であった 26 。この拠点移転は、単なる利便性の追求ではない。それは、地方の土豪から脱皮し、守護として中央政権である室町幕府の政治に積極的に関与していこうとする、頼遠の強い意志の表れであったと解釈できる。彼は、美濃一国の統治者であると同時に、幕府を構成する有力大名として、京の政界にその存在感を示そうとしていたのである。
頼遠の文化人としての一面を語る上で欠かせないのが、禅宗、特に臨済宗への深い帰依である。これは父・頼貞からの影響が大きい。頼貞は若年期を鎌倉で過ごし、北条氏が篤く保護した鎌倉禅宗の高僧たちと親交を結んだ 9 。中でも、後に天龍寺などを開山し、七度にわたり国師号を賜る当代随一の禅僧・夢窓疎石との縁は深く、彼を美濃に招いて永保寺(多治見市)を開かせたことは有名である 22 。
頼遠もこの父の信仰心を受け継ぎ、夢窓疎石に帰依して、美濃国加茂郡に妙楽寺や東光寺(現在の富加町)といった禅寺を創建した 1 。特に東光寺の裏山には、後醍醐天皇、足利尊氏、夢窓疎石の供養塔と並んで頼遠の供養塔が建てられており、彼がこの時代の主要人物と肩を並べる存在として認識されていたことがうかがえる 22 。この夢窓疎石との強固な関係は、後に彼が光厳上皇への狼藉事件を起こした際、最後の頼みの綱として助命嘆願を依頼する重要な伏線となる 1 。
頼遠の教養の高さを示すもう一つの証拠が、和歌の才能である。彼の和歌は、『新千載和歌集』『新拾遺和歌集』そして『新後拾遺和歌集』という、天皇の勅命によって編纂された三つの勅撰和歌集に採録されている 1 。勅撰集への入集は、当時の歌人にとって最高の栄誉であり、彼が京の公家社会にも通用する高度な文化的素養を身につけていたことを雄弁に物語っている。
頼遠の中に同居する「婆娑羅」的な破天荒さと、禅や和歌といった「高度な教養」は、一見すると矛盾しているように思える。しかし、これは南北朝時代の有力武士の典型的な姿でもあった。彼らにとって、武力は自らの存在を支える基盤であったが、それだけでは中央政界で影響力を行使することはできない。禅の修行や和歌の嗜みといった教養や文化は、公家や他の有力武将との交流を深め、自らの社会的・政治的地位を高めるための重要なツール(ソフトパワー)であった。夢窓疎石のような超一流の文化人と緊密な関係を築くこと自体が、彼のステータスを証明するものであった。
さらに、禅の精神、例えば「山水には得失なし、得失は人の心にあり」といった、既成概念にとらわれず物事の本質を直視しようとする思想 30 は、旧来の権威や形式を乗り越えようとする婆娑羅の精神と、深い部分で親和性を持っていた可能性も否定できない。頼遠にとって、文化活動は武人としてのアイデンティティと矛盾するどころか、それを補強し、完成させるための不可欠な要素だったのである。一般に流布する「粗野な乱暴者」というイメージは、彼の多面的な人物像の一面に過ぎない。
土岐頼遠の生涯において、その武功と並んで、あるいはそれ以上に彼の名を歴史に刻みつけたのが、康永元年(1342年)に引き起こした光厳上皇への狼藉事件である。この事件は、単なる一個人の逸脱行為ではなく、南北朝という時代を象徴する「婆娑羅」という価値観が、旧来の最高権威と正面から衝突した、極めて重大な意味を持つ出来事であった。
「婆娑羅」(または婆佐羅、婆娑羅)とは、サンスクリット語の「vajra(金剛、ダイヤモンド)」を語源とし、南北朝時代に流行した特異な社会風潮や美意識を指す言葉である 31 。その特徴は、過度に華美で奢侈な服装や調度品を好み、伝統的な権威や社会常識、礼節を意に介さない、自由奔放で破天荒な言動にあった 7 。
この風潮は、当時の支配層にとって看過できないものであった。1336年に足利尊氏・直義兄弟が制定した室町幕府の基本方針『建武式目』には、「近日、婆娑羅と号して、専ら過差(分不相応な贅沢)を好み、綾羅錦繡(美しい絹織物)を身にまとい、風流な服飾で人の目を驚かせている。これは物狂いというべきか」と記され、厳しく禁じるべき対象とされた 7 。これは、婆娑羅が単なるファッションやライフスタイルの問題ではなく、幕府が築こうとする新しい秩序に対する挑戦と見なされていたことを示している。
この婆娑羅の気風を体現した「婆娑羅大名」の代表格として、佐々木道誉、高師直と並び称されたのが、土岐頼遠その人であった 6 。彼らは、戦乱の中で自らの実力によって成り上がった武士であり、そのエネルギーは、旧来の公家社会が重んじてきた権威や秩序を嘲笑うかのように発露されたのである。
事件は、康永元年(1342年)9月6日の夕刻に起こった 1 。この日、頼遠は同僚の二階堂行春らと共に笠懸(かさがけ、馬を走らせながら的を射る武芸)を楽しんだ帰り道であった 4 。おそらく仲間との酒宴の後で、彼はひどく酩酊していたと伝えられる 1 。
その道中、頼遠一行は、仏事を終えて御所へ戻る途中の光厳上皇の行列と鉢合わせした 36 。上皇の行列に行き会った場合、騎乗の者は馬から下りて道端で拝礼するのが当時の礼儀作法であった。しかし、酔った頼遠は馬を下りようとせず、これを咎めた上皇の供奉人(くぶにん)と口論になった 3 。
『太平記』によれば、供奉人が「院(上皇)の御幸であるぞ、無礼者め」と叱責すると、頼遠はせせら笑い、あの有名な言葉を放った。
「何、院というか、犬というか。犬ならば射ておけ」 1 。
彼は「院(いん)」と「犬(いぬ)」を意図的に混同し、「犬ならば犬追物(いぬおうもの、犬を的にする武芸)の的として射てしまえ」と嘯いたのである。そして言葉通り、配下の武士約30騎と共に上皇の牛車を取り囲むと、矢を射かけ始めた 4 。この時使われた矢は、殺傷能力のない蟇目(ひきめ)矢であった可能性も指摘されているが、脅しとしては十分すぎる行為であった 3 。さらに彼らは牛車の車輪を破壊し、車体を蹴り倒すという前代未聞の狼藉を働き、嘲笑しながらその場を立ち去った 1 。
この一連の行動は、単なる酒の上の過ちとして片付けるには、あまりにも挑発的かつ象徴的である。これは、頼遠の内に燃え盛る「婆娑羅」というアイデンティティが、国家の最高権威、すなわち北朝の正統性を保証する「治天の君」たる光厳上皇と正面から衝突した、極めて政治的な意味合いを持つ「パフォーマンス」であったと解釈できる。彼の言葉と行動は、武士の「実力」が、公家の「権威」を凌駕するという、南北朝という時代の新しい価値観を、最も過激かつ侮蔑的な形で表明したものだったのである。酔態は、その過激な本音を公の場で露呈させるための、格好の口実であったのかもしれない。
土岐頼遠が引き起こした前代未聞の狼藉事件は、室町幕府の根幹を揺るがす一大政治問題へと発展した。この危機に対し、幕府の実質的な最高指導者であった足利直義が下した決断は、幕府の性格そのものを規定する、極めて重要な意味を持つものであった。
事件の報告を受けた足利直義は、文字通り激怒した 1 。そして即座に頼遠の逮捕を厳命する。直義のこの迅速かつ厳しい対応の背景には、単なる不敬な振る舞いに対する憤りだけではない、冷徹な政治的計算があった。
彼の怒りの本質は、幕府の存立基盤を揺るがす行為への深刻な危機感にあった。頼遠が侮辱した光厳上皇は、単なる一人の上皇ではない。彼は、足利尊氏を征夷大将軍に任命した光明天皇を後見する「治天の君」であり、その権威は、南朝に対抗する北朝、ひいては室町幕府の正統性の源泉そのものであった 1 。その最高権威を幕府の有力守護が公然と傷つける行為は、幕府の正統性を自ら否定するに等しい、許されざる裏切りであった。
加えて、事件当時の幕府内部の政治状況も、直義の決断に影響を与えた。この頃、厳格な法秩序を重んじる直義と、武功を第一とする執事・高師直との間には、政策や人事を巡る対立が水面下で深刻化していた(後の観応の擾乱の前段階) 23 。このような状況下で、直義にとって、婆娑羅大名の筆頭格である頼遠の狼藉を断固として処断することは、緩みつつあった幕府の綱紀を粛正し、自らの政治的権威を再確認する絶好の機会でもあったのである。
逮捕命令が出されたことを知った頼遠は、一度は本拠地の美濃へ逃れ、兵を集めて幕府に反旗を翻すことを計画した。しかし、一族郎党の同調を得られず、この謀反は失敗に終わる 1 。万策尽きた頼遠が最後に頼ったのが、父の代から深い関係にあった禅僧・夢窓疎石であった。彼は京の臨川寺に駆け込み、夢窓疎石を通じての助命を嘆願した 1 。
頼遠の武功を惜しむ声は幕府中にも多く、各方面から助命を求める声が相次いだ 1 。しかし、直義の決意は揺るがなかった。彼は夢窓疎石に対し、事実上の最後通牒を突きつける。「国師(夢窓)の御口添えとあれば、頼遠一人の命は助けられないが、土岐一族の存続と所領の安堵は約束しよう」 1 。これは、功臣一個人の命と、土岐氏という有力守護大名一族の存続を天秤にかけた、非情な政治的取引であった。
夢窓疎石の助命嘆願も空しく、臨川寺を幕府軍に包囲された頼遠は捕縛され、侍所頭人(警察・司法長官)であった細川顕氏に身柄を引き渡された 1 。そして康永元年12月1日、京都の六条河原にて斬首された 1 。処刑に臨み、頼遠は「これほどの大罪になると知っていたならば、美濃に立て籠もって一戦交えたものを」と、最後までその剛気な性格を失わずに悔しがったと伝えられる 38 。
この衝撃的な事件は、京の人々の間でも大きな話題となった。後日、天龍寺の壁には、夢窓疎石の助命が失敗したことを揶揄する狂歌が落書きされた。「いしかりし ときは夢窓に 食らはれて 周済(すさい)ばかりぞ 皿に残れる」。これは、法事の食事である「斎(とき)」と土岐氏をかけ、「美味しい土岐(斎)は夢窓に食べられてしまい、酢の物(周済)だけが皿に残った」と、事件に関与せず無罪放免となった頼遠の弟で僧侶の周済を引き合いに出して、世相を風刺したものである 38 。
直義のこの決断は、室町幕府が「個人的な武功や恩義」といったウェットな関係性よりも、「政権としての公的な秩序と正統性」を優先する、新たな統治段階に入ったことを示す画期的な出来事であった。同じ婆娑羅大名である佐々木道誉が、皇族門跡が住職を務める妙法院を焼き討ちするという大罪を犯した際、その処罰が一時的な配流で済んだことと比較すると、その差は歴然としている 39 。道誉の罪も重大であったが、相手は幕府の存立に直結する「治天の君」ではなかったため、政治的妥協の余地があった。しかし、頼遠の罪は、幕府が自らの存在理由を賭けてでも守らねばならない一線を越えていた。直義は、頼遠という「功臣」を処刑するという大きな犠牲を払ってでも、幕府の権威の源泉である朝廷との関係を修復し、全国の武士たちに「超えてはならない一線」を明確に示したのである。
功臣でありながら、幕府の秩序を乱した罪で処刑されるという衝撃的な最期を遂げた土岐頼遠。通常であれば、このような不祥事は一族の没落に繋がるはずである。しかし、土岐氏の歴史は、その常識とは全く逆の展開を辿ることになる。頼遠の死は、皮肉にも土岐氏にとって、史上空前の最盛期への序曲となったのである。
足利直義が下した裁断は、頼遠個人の処刑に留まり、土岐氏一族への連座は一切問われなかった 38 。所領も没収されることなく、その存続が安堵された。さらに驚くべきは、その事後処理の迅速さである。頼遠が処刑された康永元年12月1日、その日のうちに、彼の甥にあたる土岐頼康(兄・頼清の子)が、第三代美濃守護職を継承することが幕府によって認められた 13 。
この一連の流れは、単なる温情措置ではない。見方を変えれば、これは幕府主導で行われた、土岐氏という巨大企業の、いわば「事業承継」であったと解釈できる。幕府にとって、美濃を領する土岐氏は、南朝勢力や他の有力守護に対抗するための重要な同盟者であり、その力を削ぐことは得策ではない。しかし、当主である頼遠は、その婆娑羅的な気性ゆえに、いつ幕府の秩序を破壊しかねない危険な存在であった。
したがって、幕府にとって最も合理的な解決策は、「当主だけを交代させる」ことであった。頼遠の処刑は、そのための最も確実かつ劇的な手段として実行された。これにより、直義は①幕府の権威を内外に示し、②統制困難な危険人物を排除し、③土岐氏との同盟関係は維持するという、一石三鳥の効果を得たのである。頼遠の死は、彼個人の悲劇であると同時に、土岐氏という「家」が生き残り、さらに飛躍するための、非情な生贄であったと言える。
叔父の劇的な死を受けて家督を継いだ土岐頼康(1318-1387)は、頼遠とは対照的な道を歩んだ。彼は、叔父の武勇を受け継ぎつつも、その破滅的な気性は持たず、幕府との協調を重んじる優れた政治感覚を備えていた 14 。
観応の擾乱(1350-1352)では、一貫して足利尊氏・義詮(尊氏の子)方として戦い、その忠誠心と実力を証明した。特に1353年(正平8年/文和2年)、南朝軍に京を追われた後光厳天皇が美濃へ逃れてきた際には、これを手厚く保護し、小島頓宮(おじまのとんぐう)を造営して行在所を提供するなど、北朝の窮地を救う大功を挙げた 3 。
これらの功績により、頼康は幕府から絶大な信頼を得る。その結果、本領である美濃に加え、隣国の尾張、さらには伊勢の守護職にも次々と任じられ、東海地方の三ヶ国を支配する「三国守護」となった 14 。土岐氏の権勢は、この頼康の時代に史上最高潮に達したのである。幕政においても、全国の武士を統率する侍所頭人(所司)や、最高政務機関である評定衆といった要職を歴任し、幕府の中枢で重きをなした 14 。
頼遠の死は、結果として土岐氏に何をもたらしたのか。それは、一族の破滅ではなく、空前の繁栄であった。幕府にとって扱いにくい「劇薬」であった頼遠が排除され、より穏健で政治力に長けた頼康が当主となったことで、土岐氏は幕府との安定した関係を築き、その勢力を飛躍的に拡大させることに成功した。
頼遠の鮮烈な生涯は、戦乱の中でのみその輝きを最大限に放つものであった。しかし、幕府の支配体制が次第に安定していく中で、彼の持つ過激な婆娑羅のエネルギーは、もはや時代が求めるものではなくなっていた。彼の死は、土岐氏が新たな時代に適応し、その権勢を確立するための、いわば必然の通過儀礼であったのかもしれない。頼遠という存在があったからこそ土岐氏は幕府内で武名を高め、そして彼が死んだからこそ、その後の安定と繁栄がもたらされた。この逆説こそが、土岐頼遠の生涯が持つ、最も興味深い側面である。
本報告書は、南北朝時代の武将・土岐頼遠の生涯を、その出自から最期、そして死後の影響に至るまで、多角的に検証してきた。その結果、彼は単に「上皇に狼藉を働いた乱暴者」という一面的な評価では到底捉えきれない、時代の混沌と活力を一身に体現した、極めて象徴的な人物であったことが明らかになった。
彼は、清和源氏の名門に生まれ、青野原の戦いをはじめとする数々の合戦で「頼遠一人高名なり」と称賛されるほどの武勇を誇った、幕府の紛れもない功臣であった。同時に、禅宗に深く帰依し、勅撰和歌集に名を連ねるほどの高度な教養を身につけた文化人でもあった。しかし、その一方で、彼の精神の根底には、旧来の権威や秩序を歯牙にもかけない「婆娑羅」の精神が燃え盛っていた。この精神が、光厳上皇への狼藉という、自らを破滅に導く過激な形で噴出したのである。
彼の生涯と死は、中世日本の大きな転換点であった南北朝時代の本質を、鮮やかに映し出す鏡である。そこには、伝統的な公家の「権威」が揺らぎ、武士の「実力」がそれに取って代わろうとする、激しい価値観の衝突が見て取れる。頼遠の狼藉は、この時代の新しいエネルギーが、旧秩序の頂点と衝突した象徴的な事件であった。
そして、彼の処刑は、室町幕府が草創期の混乱から脱し、個人の武功や恩義といった私的な関係性よりも、政権としての公的な法秩序と正統性を優先する、より近代的な「公権力」へと変質していく過程で起きた、画期的な出来事であった。幕府は、功臣・頼遠の命という大きな代償を払うことで、自らの権威の不可侵性を内外に示し、統治体制を固めたのである。
皮肉にも、この非情な決断は、土岐氏に没落ではなく史上最大の繁栄をもたらした。危険な「劇薬」であった頼遠が排除され、安定志向の頼康が後を継いだことで、土岐氏は幕府との協調路線のもとで三国守護へと飛躍を遂げた。
結局のところ、土岐頼遠という一人の武将の鮮烈な生き様と悲劇的な死は、個人の物語を超えて、中世から近世へと向かう日本の歴史のダイナミズムそのものを我々に示してくれる。彼の存在は、権力の本質、社会の変動、そして時代の転換期における人間の精神性のありようを考察するための、尽きることのない示唆に富んだ、貴重な歴史的遺産なのである。