戦国時代の九州は、数多の英雄たちが覇を競い、そして散っていった動乱の舞台であった。その中にあって、日向国(現在の宮崎県)北部に700年にわたり君臨した名門、県(あがた)土持氏の最後の当主、土持親成(つちもち ちかしげ)の生涯は、地方豪族が巨大勢力の狭間でいかにして生き、そして滅びていったかを象徴する悲劇として語り継がれている。
土持親成は、彼を滅ぼした敵である大友氏の史料においてさえ、「土持累代当主中でも親成は智勇兼備の良将であり、県土持氏の最盛期を築いた」と、異例の高い評価を受けている 1 。しかし、その「良将」が下した決断は、結果として一族を滅亡へと導いた。この評価と結末の間に横たわる深い溝こそ、土持親成という武将の実像を解き明かす鍵である。
本報告書は、土持親成個人の生涯を追うだけでなく、彼が背負った一族の歴史、当時の九州を揺るがした地政学的状況、そして彼の死後に生まれた特異な評価の背景を徹底的に調査・分析するものである。彼の決断は、単なる戦略的誤謬だったのか。あるいは、巨大な権力の奔流の前には抗いようのない、地方領主の宿命だったのか。さらに、その死が敵方に与えた衝撃が、いかにして「怨霊」としての畏怖を生み、彼の人物像を後世に歪めて伝えたのか。土持親成の生と死を通して、戦国という時代の非情さと、そこに生きた人々の複雑な精神世界に迫る。
土持親成の悲劇を理解するためには、まず彼がその双肩に担っていた土持一族の長大な歴史を紐解く必要がある。土持氏は、単なる一地方の武士団ではなく、古代にまで遡る由緒と、日向国北部に深く根差した権威を持つ名門であった。
土持氏の起源は平安時代にまで遡り、豊前国(現在の大分県北部)の宇佐八幡宮に仕える社人(神官)であったと伝えられている 2 。その姓の由来は、欽明天皇の御代(6世紀)、宇佐八幡宮の造営に際し、一族の祖である田部宿禰直亥(たべのすくねなおい)が土を袖に包んで運んだところ、決して崩れなかったことから帝に賞賛され、「土持」の姓を賜ったという伝説に求められる 3 。
宇佐八幡宮は日向国北部に広大な荘園を有しており、土持氏はその荘官として現地に赴任し、勢力を拡大していった 3 。12世紀には、日向の在庁官人として力を持っていた日下部(くさかべ)氏と婚姻関係を重ねることでその権益を吸収し、鎌倉時代には幕府の御家人として、公式に地頭職を拝命するに至った 2 。
一族の最盛期には、県(あがた)・財部(たからべ)・大塚・清水(きよみず)・都於郡(とのこおり)・瓜生野(うりゅうの)・飫肥(おび)の七つの有力な分家が日向各地に勢力を張り、「土持七頭(ななかしら)」と称されるほどの繁栄を誇った 2 。この広大な勢力圏の中心にあったのが、後の親成に繋がる県土持氏であった。
しかし、土持氏の歴史は、同じく日向に根を張ろうとする伊東氏との絶え間ない闘争の歴史でもあった。当初、日向に地盤を持たなかった伊東氏は、土持氏との婚姻を通じて勢力を浸透させたが、やがて両者の関係は日向の覇権をめぐる激しい敵対関係へと変化する 3 。特に室町時代に入るとその対立は先鋭化し、1457年(長禄元年)の小浪川の合戦で、土持七頭の一つであった財部土持氏が伊東祐堯(すけたか)に敗れ、滅亡に追いやられるという事件が起こる 3 。この敗北は、土持一族全体の衰退を象徴する出来事であり、県土持氏にとっては、伊東氏への警戒と失地回復が代々の宿願となった。
親成が家督を継いだ時、彼が受け継いだのは栄光ある名門の看板だけではなかった。それは、宿敵・伊東氏との長年にわたる確執と、一族の衰退という重い宿命そのものであった。彼の行動原理を理解する上で、この「継承された闘争」という視点は不可欠である。
土持親成が歴史の表舞台に登場した16世紀中頃、九州の政治情勢は激動の只中にあった。彼の本拠地である日向国北部は、三つの巨大な勢力が睨み合う、地政学的に極めて危険な位置にあった。
北には、キリシタン大名としても知られ、九州六ヶ国の守護職を兼ねる豊後の大友宗麟。南には、薩摩から破竹の勢いで北上し、九州統一の野望を燃やす島津氏。そして、長年の宿敵であり、日向国内に大きな影響力を持つ伊東氏。この三者の間で、県土持氏のような中小国人は、常に巧みな外交と軍事によって自らの存亡を賭けることを強いられていた 1 。
このような状況下で、親成がまず選択したのは、当時九州最大の勢力を誇った大友宗麟への臣従であった。彼の戦略は、まず最大の脅威である大友氏と和睦することで北方の安全を確保し、その上で宿敵・伊東氏との戦いに集中するという、極めて現実的なものであった。この臣従の証として、親成は自らの娘を人質として豊後府内に送り、大友氏への恭順の意を明確に示している 1 。
この外交政策は、単なる忠誠心から生まれたものではない。それは、弱者が強者の間で生き残るための、計算され尽くした生存戦略であった。親成にとって、大友への臣従は目的ではなく、あくまで一族の安泰と宿願である伊東氏打倒を達成するための手段に過ぎなかった。この冷徹なまでの現実主義こそが、後の彼の劇的な方針転換を理解する上で重要な鍵となる。彼は忠義の士ではなく、自領と一族の存続を第一に考える、戦国時代の典型的な国人領主だったのである。
土持親成の運命を決定的に変えたのは、日向における長年のパワーバランスを根底から覆す二つの大きな出来事であった。伊東氏の崩壊と、それに伴う島津氏の急速な日向進出である。
元亀3年(1572年)の木崎原の戦いで伊東氏は島津氏に大敗を喫し、その勢力は急速に衰え始める 1 。そして天正5年(1577年)、島津氏の調略によって家臣団が次々と離反したことで、伊東義祐はついに本拠地を維持できなくなり、大友宗麟を頼って豊後へと亡命した 1 。
この伊東氏の自壊は、親成にとって長年の目の上の瘤が取り除かれたことを意味した。しかし、それは同時に、これまで伊東氏という防波堤によって隔てられていた、より強大な勢力である島津氏と直接向き合うことを意味していた。日向の支配権をほぼ手中に収めた島津氏の存在は、親成にとって新たな、そしてより深刻な脅威となったのである。
この新たな情勢に対し、親成は大胆かつ危険な賭けに出る。大友氏との同盟を破棄し、新たに日向の覇者となった島津氏へと鞍替えすることを決断したのである。天正6年(1578年)正月、親成は養子(または一族の有力者)である土持相模守高信(高信の名は複数の人物に見られ、この時の使者は土持栄続ともされる)を島津義久のもとへ派遣し、太刀や鎧兜を献上して正式に臣従を誓った 1 。義久はこれを受け入れ、親成に新たな所領を与えることで同盟を確固たるものとした 1 。
この決断の背景には、冷徹なまでの戦略的計算があった。
しかし、この決断は致命的な結果を招く。親成の離反は、人質まで差し出させていた大友宗麟の逆鱗に触れた。宗麟にとって、これは単なる同盟者の離反ではなく、許しがたい裏切り行為であった。さらに、親成と対立関係にあり、大友氏の庇護を求めていた高千穂の三田井氏が、好機とばかりに「土持に叛意有り」と宗麟に注進したことで、大友氏による日向侵攻の格好の大義名分が与えられてしまった 1 。
親成の賭けは、大友氏の報復の激しさを見誤り、そして島津氏が新参の小領主を守るために払うであろう犠牲を過大評価した点において、致命的な誤算を含んでいたのである。
天正6年(1578年)4月、土持親成の裏切りに激怒した大友宗麟は、嫡男・義統を総大将とする数万の大軍を日向へ差し向けた。その第一の目標は、県土持氏の本拠地・松尾城の攻略と、親成の誅殺であった 9 。
大友軍は二手に分かれ、一隊は高千穂方面へ、本隊は親成の居城・松尾城へと進軍した 12 。松尾城(別名・縣城)は、五ヶ瀬川に突き出た丘陵に築かれた、典型的な戦国時代の山城である。発掘調査によれば、複数の曲輪(くるわ)を巧みに配置し、深い堀切(ほりきり)や土塁(どるい)を多用した、極めて防御性の高い要塞であったことが確認されている 13 。
親成はこの堅城の守りを養子・土持高信に託し、自らは別行動をとる 15 。高信と城兵たちは奮戦したものの、大友軍の圧倒的な物量の前に抗しきれず、4月15日、激戦の末に松尾城は落城。高信は城中で自刃して果てたと伝えられる 12 。
松尾城の落城を予期していたかのように、親成は自らの死に場所を別に定めていた。彼はわずか50騎あまりの手勢を率い、古くから土持氏の信仰の対象であった霊山・行縢山(むかばきやま)の要害に立て籠もった 12 。これは単なる敗走ではなく、一族の当主として、聖なる地で最期を遂げようとする、覚悟に満ちた行動であった。
行縢山において、親成は弟の金綱、栄綱らと共に、追撃してきた大友軍を相手に最後の抵抗を試みる。しかし、衆寡敵せず、弟たちは討ち死にし、親成自身もついに捕縛された 15 。保元年間から400年以上にわたって日向北部に君臨した名門・県土持氏が、事実上滅亡した瞬間であった 12 。
この一連の戦いにおいて、最も注目すべきは、親成が盟主と頼んだ島津氏からの援軍が一切現れなかったことである 12 。島津義久は、この時点で大友軍との全面対決を避け、耳川を防衛線として戦力を温存する戦略をとっていた。彼にとって、県土持領は、大友軍の勢いを削ぐための「捨て石」であり、親成はそのための犠牲に過ぎなかった。ポルトガル人宣教師ルイス・フロイスも、その著書『日本史』の中で「島津氏は耳川を防衛線と心得ているらしい」と記述しており、島津方の冷徹な戦略的判断を裏付けている 12 。親成の運命は、大国の非情な論理の前に弄ばれたのである。
行縢山で捕らえられた土持親成の運命は、大友宗麟の冷徹な命令によって決定づけられた。彼の最期は、故郷・日向の地ではなく、敵地である豊後であった。
親成は捕虜として豊後国へと護送された。しかし、府内の城下に連行されることはなく、道中の速見郡浦辺(うらべ)という場所で、宗麟の命令により自害を強要された(あるいは処刑された) 12 。この「浦辺」とは特定の村落名ではなく、国東半島沿岸部一帯を指す広域地名であり、親成が故郷から遠く離れた地で、非業の最期を遂げたことを示している 18 。
当主・親成は死に、県土持氏の領国は失われた。しかし、彼の物語はここで終わりではなかった。親成は自らの死を覚悟する一方で、一族の血脈を未来へ繋ぐための周到な準備を整えていたのである。
これらの子孫たちは、江戸時代を通じて薩摩藩士として存続した。幕末には、西郷隆盛と義兄弟の契りを結んだ土持政照のような人物も現れ、土持の血脈は歴史の大きなうねりの中で生き続けたのである 3 。親成は戦いには敗れたが、一族の血を絶やさぬという、武家当主としての最後の務めは果たしたと言えるだろう。
土持親成の生涯を理解するためには、彼を取り巻く複雑な人間関係を整理することが不可欠である。以下の表は、彼の運命に深く関わった主要な人物とその役割をまとめたものである。
人物名 |
親成との関係 |
役割・重要性 |
典拠 |
土持親佐 (Tsuchimochi Chikasuke) |
父 |
県土持家第15代当主。親成の先代。 |
1 |
佐伯惟教 (Saeki Korenori) |
義理の兄弟(妻の兄) |
大友氏の重臣。親成が助命されると考えていたとされる。 |
1 |
土持高信 (Tsuchimochi Takanobu) |
養子・甥 |
松尾城の守将として奮戦し、城中で自刃。相模守栄続とも。 |
1 |
土持久綱 (Tsuchimochi Hisatsuna) |
養子(初名 高信) |
滅亡を生き延び、後に島津家臣となる。島津義久から偏諱を賜る。 |
20 |
土持親信 (Tsuchimochi Chikanobu) |
実子 |
合戦前に薩摩へ逃れ、土持家の血脈を後世に伝えた。 |
1 |
土持親成の人物像には、一つの大きな謎がある。なぜ、彼を攻め滅ぼした大友氏の記録に、「智勇兼備の良将」という最大級の賛辞が残されているのか 1 。彼の実際の行動を見ると、門川城攻略の失敗や、結果的に家を滅ぼした外交判断など、必ずしも「良将」の評価に合致しない側面も見られる 23 。この矛盾を解く鍵は、当時の日本社会に深く根付いていた「怨霊(おんりょう)信仰」にあると考えられる。
この説は、親成の「名将」という評価が、軍事的な功績に対する客観的な分析ではなく、彼の死後に発生した災厄を鎮めるための、一種の呪術的な言説であったと捉えるものである。その論理は、以下の連鎖によって説明できる。
このように考えると、土持親成の「名将」という評価は、彼の軍事的才能を純粋に評価したものではなく、彼の死がもたらした強烈なインパクトと、それに対する人々の畏怖が生み出した、極めて文化的な背景を持つ「作られた人物像」であったと結論付けられる。彼は死してなお、敵であった大友氏の歴史に、怨霊という形で強烈な影響を及ぼし続けたのである。
土持親成と県土持一族の物語は、700年の長きにわたり彼らが支配した宮崎県延岡市周辺に、今なお数多くの史跡としてその痕跡を残している。
親成最後の居城となった松尾城は、現在、延岡市松山町の丘陵にその跡地が残る。公園として整備されており、曲輪や堀切、土塁といった山城の遺構を今でも確認することができる 14 。本丸跡の一角には、後世に建てられた「土持氏紀念碑」が静かに佇み、この地で繰り広げられた攻防戦と、一族の終焉を今に伝えている 25 。
親成が最後の死闘を演じた行縢山は、その特徴的な山容で知られ、現在も多くの登山者に親しまれている。山中にある行縢神社は、古くから土持氏歴代の祈願所として篤い信仰を集めていた 26 。しかし、天正6年の戦乱において、親成がこの地を本拠としたために社域も戦場と化し、社殿や堂宇はことごとく焼失したと伝えられる 26 。神社の焼失は、この戦いの激しさを物語る何よりの証拠である。
延岡市三須町にある曹洞宗の寺院、法明寺には、土持一族の供養塔である宝篋印塔(ほうきょういんとう)が現存する。特に、天正6年に島津氏への帰順交渉を成功させた土持相模守栄続とその兄・栄益のものの名が刻まれた宝篋印塔は、当時の土持氏の有力者たちの存在を示す貴重な一次史料である 6 。これらの石塔は、滅亡後も一族がこの地で弔われ続けたことを示している。
親成が自害を命じられた「豊後浦辺」は、現在の大分県国東半島沿岸部に比定される 18 。彼の墓所が具体的にどこにあるかは定かではないが、故郷日向を遠く離れたこの地で、700年続いた名門の歴史に幕を下ろした。その無念は、後に怨霊伝説として語り継がれることになる。
土持親成の生涯は、戦国という時代の非情な現実を凝縮した、一つの典型的な悲劇であった。彼は、累代の名門の当主として、宿敵・伊東氏との長年の抗争、そして大友・島津という二大勢力の狭間で、常に存亡を賭けた選択を迫られ続けた。
彼が下した島津への寝返りという決断は、一見すると軽率な裏切りに見えるかもしれない。しかし、それは昇竜の勢いで北上する島津氏を前に、自領と一族を守るために残された、数少ない選択肢の一つであった。それは、忠義や信義といった理想論ではなく、生き残りを最優先する戦国武将としての、冷徹な現実主義に基づいた賭けであった。結果として、その賭けは、大友氏の想像を絶する報復と、頼みとした島津氏の戦略的見殺しによって、最悪の形で裏切られた。
しかし、土持親成の物語は、単なる滅亡の記録では終わらない。彼は自らの死と領国の喪失を覚悟しながらも、実子・親信と養子・久綱を生き延びさせることで、一族の血脈を未来へと繋いだ。県土持氏は歴史の地図から姿を消したが、その子孫は薩摩藩士として江戸時代を生き抜き、幕末に至るまでその名を歴史に刻み続けた。
この一点において、親成は敗者でありながら、勝利者でもあったと言える。彼の生涯は、巨大な力の奔流に抗しきれず滅び去った地方領主の悲哀を物語ると同時に、絶望的な状況下にあっても、次代へ命を繋ごうとした人間の強靭な意志の証でもある。智勇兼備の良将と謳われ、死してなお怨霊として敵に畏れられた日向の最後の巨星、土持親成。その名は、滅びの美学とともに、今なお人々の記憶に深く刻まれている。