日本の歴史上、最も激しい変革期であった戦国時代末期から江戸時代初期。この時代は、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康という三人の天下人のもとで、日本の統治構造が根底から再編された時期であった。この混沌と創造の時代を、一人の武将として、そして大名として生き抜いた人物がいる。その名を土方雄久(ひじかた かつひさ)という。
彼の生涯は、まさに波乱万丈の一語に尽きる。はじめ織田信雄の忠実な家臣として頭角を現し、その後の主家の没落を経て豊臣秀吉の直臣大名へと転身。しかし、秀吉の死後、徳川家康暗殺計画という大事件に連座して改易され、大名の地位を失うという最大の危機に直面する。だが、彼はそこから奇跡的な復活を遂げ、関ヶ原の戦いを経て再び徳川の大名として返り咲き、二つの藩の礎を築いた。
本報告書は、この土方雄久という特異な経歴を持つ武将の生涯を、出自から子孫の代に至るまで徹底的に追跡するものである。彼の行動の一つ一つを、当時の政治的力学や社会情勢、そして武士の価値観の変容という文脈の中に位置づけ、その実像に迫ることを目的とする。特に、彼の運命を大きく左右した「徳川家康暗殺計画」については、複数の史料を比較検討し、その深層に隠された政治的意図を分析する。雄久の生涯は、一個人の物語にとどまらず、戦国という旧時代が終焉し、近世という新時代が胎動する過渡期を生きた武士の生存戦略、忠誠観、そして権力闘争の過酷さを映し出す、貴重な歴史の証言なのである。
土方氏の出自は、清和源氏頼親流宇野氏の末裔を称し、その祖先である季治(すえはる)が大和国土方村(現在の奈良県)に居住したことから土方姓を名乗るようになったと伝えられている 1 。戦国時代の武将が自らの家格と権威を高めるために、名門の系譜を称えることは一般的であり、土方氏もまたその慣例に倣っていたことがうかがえる。
雄久の父は土方信治(のぶはる)、通称を彦三郎といい、織田信長に仕官した 1 。しかし、信治は若くして戦死を遂げたとされる 5 。一説によれば、弘治2年(1556年)に勃発した斎藤道三・義龍親子の内乱である長良川の戦いにおいて、信長が義父・道三を救援するために派遣した軍勢に加わり、討ち死にしたとも言われている 8 。これが事実であれば、天文22年(1553年)生まれの雄久は、わずか3歳にして父を失ったことになり、彼の武将としてのキャリアが、自らの力で切り拓かねばならない厳しい環境から始まったことを示唆している。
父の早逝後、尾張国名古屋で生まれた雄久は 6 、長じて信長の次男である織田信雄(のぶかつ)に仕えることとなる。その才覚を認められた雄久は、信雄から諱(いみな)の一字である「雄」の字を与えられ、初めは「雄良(かつよし)」、後に「雄久(かつひさ)」と名乗った 2 。主君から一字を拝領することは、家臣にとって最高の栄誉の一つであり、信雄からの深い信頼と期待が寄せられていたことの証左である。
雄久が信雄の家臣団の中で頭角を現すきっかけとなったのは、一連の汚れ仕事ともいえる非情な任務の遂行であった。天正4年(1576年)、信雄が伊勢の支配権を確立する過程で起こった「三瀬の変」において、雄久は日置大膳亮らと共に田丸城に赴き、北畠家の旧臣である長野具藤(とものり)ら一門を粛清する役割を担った 6 。さらに天正9年(1581年)の第二次天正伊賀の乱においても武功を挙げるなど 1 、信雄の勢力拡大に貢献し、その地位を不動のものとしていった。
これらの初期の経歴は、雄久が単なる武勇に優れた武将であっただけでなく、主君の権力基盤を固めるためには、粛清という血生臭い任務も厭わない冷徹な実行力を持つ「懐刀」としての側面を強く持っていたことを示している。この、主君の暗部を担う「実行部隊」としての能力と忠誠心は、彼のキャリアを大きく飛躍させる一方で、その後の彼の運命に暗い影を落とす遠因ともなっていくのである。
天正10年(1582年)の本能寺の変後、織田家の家督と天下の覇権を巡る争いが激化する中、雄久の主君・信雄は羽柴秀吉との対立を深めていった。そして天正12年(1584年)3月6日、両者の緊張関係はついに一線を越える。信雄は、自らの家老である岡田重孝(おかだしげたか)、津川義冬(つがわよしふゆ)、浅井長時(あざいながとき)の三名が秀吉に内通しているとの嫌疑をかけ、彼らを伊勢長島城に誘い出して誅殺するという暴挙に出た 7 。
この粛清劇において、中心的な役割を果たしたのが土方雄久であった。特に、信雄家臣団の筆頭格であった岡田重孝の誅殺は、雄久が自ら進んで願い出て実行したという逸話が『常山紀談』などに記されている 12 。それによれば、かつて重孝が雄久に対し、「我が主君は人の讒言を軽々しく信じる癖がある。いつか私もその戯言によって討たれるかもしれん。その時は、お主が私を斬りに来るがよい」と冗談めかして語ったことがあったという。雄久はその約束を違えることなく、自らがその介錯人となることを望んだとされ、彼の義理堅さ、あるいは複雑な人間性を示すエピソードとして伝えられている 12 。
この三家老誅殺事件は、信雄から秀吉への事実上の宣戦布告であり、徳川家康を巻き込んだ天下分け目の戦い「小牧・長久手の戦い」が勃発する直接的な引き金となった 7 。雄久は、主君の意思を代行する「引き金」を引くという、歴史の転換点において極めて重大な役割を担ったのである。この行動は、単なる命令遂行を超え、信雄の秀吉に対する敵意を天下に知らしめる象徴的な行為となった。これにより、雄久は「主君のためなら、敵対勢力との決定的な衝突を引き起こすことも辞さない危険な人物」として、秀吉方からも強く認識されることになったであろう。
主君のために歴史的な大戦の口火を切るという、絶大な忠誠を示した雄久に対し、信雄は破格の恩賞で報いた。天正15年(1587年)、雄久は三家老誅殺の功績を認められ、尾張国犬山城と4万5000石という広大な所領を与えられた 1 。これは信雄からの絶大な信頼の証であり、一介の家臣であった雄久のキャリアにおける最初の頂点であった。彼は天正18年(1590年)に信雄が改易されるまでの約3年間、犬山城主としてその地を治めた 11 。この一件は、雄久の人生を良くも悪くも決定的に方向づけた出来事であったと言える。
小牧・長久手の戦いは、戦術的には徳川・織田連合軍が優勢であったものの、最終的には秀吉が巧みな外交戦略で信雄を屈服させ、戦略的勝利を収めた 15 。その後、天正18年(1590年)の小田原征伐において、雄久は信雄軍の一員として従軍し、夜襲を仕掛けてきた北条氏房の軍を撃退するという武功を挙げている 5 。しかし、戦後処理を巡って、秀吉は信雄に旧領の尾張・伊勢から徳川の旧領である駿河・遠江への国替えを命じた。これを信雄が拒否したため、秀吉の怒りを買い、信雄は改易、すなわち領地を没収され大名の地位を失った 3 。
主君を失った雄久であったが、彼は信雄と運命を共にすることなく、新たな天下人である豊臣秀吉に直接仕える道を選んだ。これは、特定の「家」への忠誠を絶対とする中世的な主従観念から、自らの能力を評価してくれる新たな権力者に仕えるという、より現実的で近世的な武士のあり方への移行を象徴する行動であった。雄久が浪人になることなく、スムーズに豊臣政権に組み込まれた背景には、小田原での武功に加え、信雄の家臣時代に示した実行部隊としての高い能力が、秀吉から「武将としての市場価値」として評価されていたからに他ならない。
秀吉の直臣となった雄久は、天正19年(1591年)、越中国新川郡において1万石を与えられ、豊臣家の大名として新たなスタートを切った 7 。その知行は後に2万4000石まで加増され、野々市(現在の富山市布市周辺)に拠点を置いた 1 。これにより、織田家の一家臣から、天下人・豊臣家の直参大名へと華麗な転身を遂げたのである。文禄・慶長の役(朝鮮出兵)への具体的な従軍記録は乏しいが、豊臣大名として何らかの軍役を負担したことは想像に難くない 16 。
慶長3年(1598年)に秀吉が死去すると、雄久はその後継者である豊臣秀頼に仕え、豊臣政権の一翼を担い続けた 5 。しかし、絶対的な権力者であった秀吉の死は、政権内部に深刻な権力闘争の嵐を巻き起こし、雄久もまたその渦中へと否応なく巻き込まれていくことになる。彼の持つ、状況に応じて主君を変える柔軟性と現実的な判断力は、この時点までは彼のキャリアを押し上げる力となったが、次の時代においては、逆に彼の身を危うくする要因ともなり得たのである。
慶長3年(1598年)の豊臣秀吉の死は、政権の重しを失った豊臣家中に激しい権力闘争を誘発した。五大老筆頭の徳川家康は、秀吉の遺命を次々と破り、諸大名との私的な婚姻政策を進めるなど、その権勢を急速に拡大させていった 17 。これに危機感を抱いた五奉行の石田三成ら文治派と、加藤清正、福島正則ら武断派との対立は先鋭化し、慶長4年(1599年)には七将による三成襲撃事件へと発展する 18 。家康はこの騒動を巧みに調停し、三成を佐和山城への隠居に追い込むことに成功。自らは大坂城西の丸に入り、事実上の「天下殿」として君臨し始めた 18 。豊臣政権は、家康の独走を許すか、あるいはそれに抗うかの岐路に立たされていた。
この緊迫した政治情勢の中、同年9月、徳川家康の暗殺計画が発覚したとされる 21 。『当代記』や『慶長年中卜斎記』といった後代の編纂史料によれば、この計画の首謀者は加賀百万石の大大名・前田利長であり、五奉行の一人・浅野長政、そして豊臣秀頼の側近である大野治長と土方雄久が共謀した、というものであった 18 。
計画の具体的な内容は、家康が大坂城に登城した際、千畳敷の廊下において、まず雄久が斬りかかり、混乱に乗じて治長がとどめを刺すという手筈だったとされる 21 。しかし、この計画はあまりにも稚拙であり、警備の厳重な城内で大老を襲撃することの成功率は極めて低いことから、その信憑性には当初から疑問が呈されている 21 。計画は、五奉行の一人である増田長盛の密告によって事前に家康の知るところとなり、当日は厳重な警備が敷かれたため未遂に終わったと伝えられる 19 。
この「家康暗殺計画」は、実際の計画ではなく、家康が豊臣恩顧の有力大名を一掃し、自らの権力基盤を盤石にするために仕組んだ「謀略」あるいは「でっち上げ」であったとする見方が、今日の研究では有力視されている。その根拠はいくつか挙げられる。
第一に、連座した人物の顔ぶれである。首謀者とされた前田利長は、父・利家から百万石の所領と五大老の地位を継いだ、家康にとって最大の潜在的ライバルであった 24 。浅野長政は五奉行の一人であり、豊臣政権の中枢を担う人物。大野治長は秀頼の母・淀殿の乳母の子であり、豊臣家の中核に最も近い側近であった 23 。そして土方雄久もまた、豊臣直参の大名である。このように、家康にとって障害となりうる、あるいは豊臣家に忠誠を誓う可能性のある人物が、あまりにも都合よく一網打尽にされている 18 。
第二に、大逆事件としては不自然なほど軽い処分である。首謀者とされた利長は、母・芳春院(まつ)を人質として江戸に送ることで最終的に赦免された 25 。長政は家督を子に譲って隠居、治長と雄久はそれぞれ下総と常陸への流罪に処された 18 。暗殺計画という国家転覆級の罪状にもかかわらず、誰一人として死罪になっていない。これは、家康の目的が彼らの生命を奪うことではなく、その政治力を削ぎ、完全に屈服させることにあったことを強く示唆している 18 。
そして第三に、徳川幕府の公式史書である『徳川実紀』の記述である。同書は、この事件を「石田三成らが、徳川家に近い前田利長や浅野長政を陥れるために仕組んだもの」と記している 20 。これは、家康の行動を正当化し、政敵である三成にすべての責任を転嫁しようとする、極めて政治的な意図が透けて見える記述である。
これらの状況証拠を総合すると、この事件における雄久の役割は、家康の描いた壮大な権力奪取劇における「駒」であった可能性が極めて高い。家康が利長や長政といった大物を「首謀者」に仕立て上げるには、具体的な「実行犯」役が必要であった。そこで、かつて主君の命で家老誅殺という「暗殺」を実行した「実績」を持つ土方雄久に白羽の矢が立ったのではないか。彼の過去の忠勤は、皮肉にも、彼を陥れるための最大の理由として利用されたのである。雄久が実際に計画に関与したか否かは定かではないが、家康の政治的シナリオにおいて、彼の名前は不可欠なピースだったのである。
結果として、土方雄久は2万4000石の所領をすべて没収され、改易の処分を受けた。身柄は常陸国の大名・佐竹義宣に預けられ、監視下に置かれることとなった 1 。息子の雄氏もこの事件に連座し 3 、土方家は栄光の頂から一転、断絶の危機に瀕した。一人の武将の運命が、巨大な権力闘争の波にいとも簡単に飲み込まれてしまう、時代の非情さを示す出来事であった。
慶長5年(1600年)、家康は会津の上杉景勝が豊臣政権への謀反を企てているとして、諸大名を率いて討伐に出陣した。しかし、家康が下野国小山(現在の栃木県小山市)に布陣していた最中、石田三成が家康打倒を掲げて大坂で挙兵したとの報が届く。日本の運命を左右する「関ヶ原の戦い」の幕開けであった。
この、後に「小山評定」と呼ばれる軍議の場で、家康は驚くべき手を打つ。常陸国に配流中であった土方雄久を呼び寄せ、その罪を赦免したのである 5 。これは単なる温情による恩赦ではなかった。家康の緻密な戦略的計算に基づいた、極めて政治的な決断であった。
家康が雄久に与えた使命は、加賀の前田利長を説得し、東軍に味方させるという、極めて重要な外交任務であった 5 。この重大な役割に雄久が抜擢されたのには、明確な理由があった。雄久は、前田利長・利政兄弟と従兄弟の関係にあったとされ、前田家と深い血縁関係にあったのである 5 。
当時の前田家は、非常に微妙な立場に置かれていた。当主の利長は、前年の家康暗殺計画の首謀者として嫌疑をかけられた経緯から、家康に対して複雑な感情を抱いていた 25 。一方で、弟の利政は妻子を西軍に人質として押さえられており、東軍への参加に躊躇していた 30 。この一族の動揺を鎮め、百万石の大大名である前田家を確実に東軍に引き入れるためには、利長が信頼できる身内からの説得が最も効果的であると家康は判断した。雄久の持つ「人脈」という無形の資産が、この国家の一大事において決定的な価値を持ったのである。
雄久の説得は見事に功を奏した。利長は東軍への参加を決断し、ただちに金沢から出陣。西軍に与した丹羽長重が守る大聖寺城を攻略するなど、北陸方面で軍事行動を開始した(浅井畷の戦い) 32 。これにより、西軍は関ヶ原の本戦場だけでなく、北陸戦線にも兵力を割かざるを得なくなり、その戦力を分散させる結果となった。雄久の外交工作は、関ヶ原における東軍勝利に、直接的な戦闘参加はなくとも、極めて大きな戦略的貢献を果たしたと言える。
雄久の復活劇は、彼の持つ「人脈」という無形資産と、家康の「戦略的必要性」が合致した、高度な政治的取引であった。彼は改易によって領地も兵力もすべて失ったが、血縁という名の切り札を保持していた。そして、その切り札を最も効果的なタイミングで使うことで、失った大名の地位と一族の未来を見事に買い戻したのである。これは、戦国末期の武将の価値が、石高や兵力といった物理的な力だけでなく、人間関係というネットワークにもあったことを示す好例である。
関ヶ原の戦いにおける外交上の大功により、土方雄久は再び大名の列に返り咲いた。戦後、家康から越中国布市(現在の富山市布市)に1万石の所領を与えられ、布市藩を立藩した 1 。その後、所領は能登国石崎(現在の石川県七尾市)などに替地され、その石高は実質1万3000石に及んだ 5 。さらに慶長9年(1604年)には、下総国多古(たこ、現在の千葉県香取郡多古町)に5000石を加増され、合計1万5000石の大名となった。これに伴い、本拠地である陣屋も多古に移し、下総多古藩の初代藩主として、徳川政権下での新たなキャリアをスタートさせた 1 。
表1:土方雄久の知行変遷
時期 |
主君 |
領地 |
石高 |
備考 |
天正15年 (1587) |
織田信雄 |
尾張国 犬山城 |
45,000石 |
岡田重孝ら誅殺の功績による 5 |
天正19年 (1591) |
豊臣秀吉 |
越中国 新川郡 |
10,000石 → 24,000石 |
信雄改易後、秀吉に仕え、後に加増 5 |
慶長4年 (1599) |
- |
- |
0石 (改易) |
家康暗殺計画の嫌疑による 5 |
慶長5年 (1600) |
徳川家康 |
越中国 布市 |
10,000石 |
関ヶ原の戦功により大名に復帰 5 |
慶長9年 (1604) |
徳川秀忠 |
能登国石崎・下総国多古 |
15,000石 |
加増および移封 1 |
徳川の世が盤石のものとなるにつれ、雄久の役割もまた変化していった。晩年の彼は、二代将軍・徳川秀忠の「御伽衆(おとぎしゅう)」に任じられた 7 。御伽衆とは、単なる将軍の話し相手ではなく、豊富な知識と経験をもって将軍の相談に応じる、極めて名誉ある側近の役職である。史料には、秀忠が江戸城外桜田にあった雄久の邸宅に、しばしば「御成(おなり)」、すなわち自ら足を運んだことが記録されており、両者の親密な関係を物語っている 6 。
織田、豊臣、徳川の三代に仕え、栄光と挫折の双方を味わった雄久の経験談は、平和な時代に生まれ育った秀忠にとって、父・家康とはまた違う視点から乱世の実態を学ぶことができる、貴重な「生きた歴史教科書」であったに違いない。信雄の家老誅殺の裏側、小牧・長久手の戦いの実情、豊臣政権の内幕、そして関ヶ原の裏面工作に至るまで、徳川幕府成立史の重要局面を当事者として知る雄久は、武力ではなく、その「経験」と「知識」をもって新時代の統治者に仕えた。彼の最後の奉公は、刀ではなく、言葉によってなされたのである。これは、戦乱の時代が終わり、武将がその役割を終え、新たな時代の秩序安定に文化・知性の面で貢献していく姿を象徴している。
慶長13年(1608年)11月12日、土方雄久はその波乱に満ちた生涯を閉じた。享年56 1 。その死因は、過度の喫煙による咽頭の病、現代でいう咽頭癌であった可能性が伝えられている 5 。遺体は江戸神田の吉祥寺に葬られたが、後に寺院は駒込へと移転している 6 。
土方雄久の死後、彼が築いた家名は二つの大名家へと分かれて受け継がれた。しかし、その後の両家の運命は、対照的な道を歩むことになる。
長男(一説に庶子)であった土方雄氏(かつうじ)は、父・雄久とは別に一家を立てていた。彼は父が家康暗殺計画で連座させられた際に同じく処分を受けたが、関ヶ原の戦いの後に赦免され、伊勢国菰野(現在の三重県三重郡菰野町)に1万2000石の所領を与えられて菰野藩を立藩した 4 。
この雄氏の系統である菰野藩土方家は、江戸時代を通じて一度の転封(国替え)もなく、安定した藩経営を続けた 29 。幕末維新の動乱期には、藩論を尊王でまとめ、官軍に参加して時代の変化に対応。その功績により、維新後は華族に列せられ、子爵の爵位を授けられた 4 。雄久の血脈は、この菰野藩土方家によって現代にまで伝えられることとなった。
一方、雄久の嫡流として、その遺領である下総多古藩1万5000石を継承したのは、次男の土方雄重(かつしげ)であった 6 。雄重は父の死の時点で将軍・秀忠の小姓を務めるなど、将来を嘱望されていた。慶長19年(1614年)からの大坂の陣では徳川方として武功を挙げ、その功績により陸奥国窪田(現在の福島県いわき市)に2万石で加増移封され、窪田藩の初代藩主となった 6 。
しかし、雄久の本流ともいえるこの窪田藩土方家は、長くは続かなかった。三代目の藩主・雄隆(かつたか)の代、天和4年(1684年)、藩政の混乱や家中騒動などを理由に幕府から改易を命じられ、わずか三代で断絶してしまったのである 1 。
この二つの家系の明暗は、近世大名の存続がいかに困難であったかを示している。関ヶ原を乗り越え、大名としての地位を確立したとしても、その後の安泰は決して保証されていなかった。初代の功績だけでなく、後継者たちの地道な藩経営能力、幕府との良好な関係維持、そして家中の統制といった、総合的な統治能力がなければ、徳川幕藩体制という厳格なシステムの中で生き残ることはできなかったのである。雄久が遺した二つの家は、一方が安定と繁栄を、もう一方が挫折と断絶を経験した。これは、近世という新たな時代における大名家の存続の厳しさを物語る、一つの縮図と言えよう。
土方雄久の生涯を俯瞰するとき、我々は一人の武将の姿を通して、戦国から江戸へと至る時代の大きなうねりを体感することができる。彼は、特定の主君や家に殉じるという中世的な価値観が揺らぐ中で、自らの能力、実行力、そして人脈という武器を最大限に活用し、織田、豊臣、徳川という目まぐるしく変転する権力構造を渡り歩いた、近世的武将の一つの典型であった。
信雄の家臣時代に見せた、主君の意を汲んで汚れ仕事をも厭わない非情なまでの忠誠。豊臣政権下で大名へと駆け上がった巧みな処世術。そして、家康暗殺計画という絶体絶命の危機を、逆に自らの人脈を元手として再起の好機へと転換させた、驚くべき政治感覚と強運。これらは、彼が単なる武辺者ではなく、時代の流れを読み、逆境を乗り越える強靭な精神力と現実的な判断力を兼ね備えていたことを雄弁に物語っている。
彼を単に主君を次々と変えた「変節漢」と断じることは、結果論からの安易な評価に過ぎない。主家が次々と滅び、昨日までの同僚が明日の敵となるのが常であった激動の時代において、家名を存続させ、ついには二つの大名家の礎を築き上げた彼の生き様は、むしろ乱世における一つの「生存戦略」の完成形として評価されるべきであろう。
最終的に、二代将軍・徳川秀忠の「語り部」としてその生涯を終えたことは象徴的である。刀槍が支配した時代は終わりを告げ、統治者の資質として、武力だけでなく、先人の経験に学ぶ知性が重んじられる新たな時代が到来していた。土方雄久は、まさに戦国と江戸という二つの時代の境界線上に立ち、その両方の価値観を体現しながら生き抜いた、稀有な武将であったと結論づけることができる。
歴史上の人物を語る上で、しばしば同姓の別人との混同が見られる。土方雄久に関しても、幕末に新選組副長として名を馳せた土方歳三との関係について、明確にしておく必要がある。
本報告書で詳述した土方雄久は、清和源氏を称する武家であり、戦国大名から近世大名へと至った家系の人物である 4 。一方、土方歳三は、天保6年(1835年)に武蔵国多摩郡石田村(現在の東京都日野市)の富裕な農家(豪農)に生まれた人物である 35 。
両者の生きた時代、出自、そして活動した社会的階層は全く異なっており、史料上、両者の間に直接的な血縁関係や系譜上の繋がりは一切確認されていない。同姓であることは歴史上の偶然の一致であり、両者は全くの別人として明確に区別されるべきである。