戦国時代から江戸時代初期にかけての日本史は、数多の武将たちの栄枯盛衰の物語によって彩られている。その中でも、伊勢国菰野藩の初代藩主・土方雄氏(ひじかた かつうじ)の生涯は、一際数奇な軌跡を辿ったものとして注目に値する。豊臣政権下で順調な出世を遂げた若きエリート武将は、父・雄久(かつひさ)と共に徳川家康暗殺計画の嫌疑をかけられ、一日にして大名の地位を追われ配流の身となる 1 。しかし、彼の物語はここで終わらない。関ヶ原の戦いという天下の激動を好機として捉え、奇跡的な復活を遂げると、徳川の世において一万二千石の藩祖として家名を確立し、その血脈を明治維新まで繋いだのである 2 。
彼の生涯は、単なる武勇伝や立身出世物語とは一線を画す。それは、時代の荒波の中で、いかにして危機を乗り越え、家を存続させたかという、極めて高度な生存戦略の記録である。本報告書は、土方雄氏の出自、彼が巻き込まれた政治的事件の真相、そして失脚から再起に至る過程を、関連史料に基づき多角的に検証する。これにより、激動の時代を粘り強く生き抜いた一人の武将の実像を、深く、かつ立体的に明らかにすることを目的とする。
表1:土方雄氏 生涯略年表
年代(西暦) |
出来事 |
天正11年(1583) |
美濃国にて、土方雄久の長男(庶子)として生まれる 5 。 |
文禄3年(1594) |
12歳。父・雄久と共に豊臣秀吉に仕え、伊勢国内に三千石の知行を得る 5 。 |
慶長3年(1598) |
16歳。豊臣秀頼に仕え、従五位下・丹後守に叙任される 5 。 |
慶長4年(1599) |
17歳。父・雄久と共に徳川家康暗殺計画の嫌疑をかけられ、改易。常陸国の佐竹義宣預かりとなる 2 。 |
慶長5年(1600) |
18歳。関ヶ原の戦い直前、家康に罪を赦される。戦後、伊勢・近江国内に一万二千石を与えられ、伊勢菰野藩を立藩 1 。 |
慶長6年(1601) |
19歳。初めて領地である菰野に入る 5 。 |
慶長19年(1614) |
32歳。大坂冬の陣に徳川方として参陣。翌年の夏の陣でも武功を挙げる 3 。 |
寛永12年(1635) |
53歳。病により隠居し、家督を長男の雄高に譲る。京都にて隠居生活を送る 3 。 |
寛永15年(1638) |
56歳。京都の屋敷にて死去。墓所は自らが創建した京都の功運院 1 。 |
土方雄氏の人格と生涯を理解するためには、彼が生まれ育った土方家そのものの歴史と、特に父・雄久が築き上げた政治的地位を把握することが不可欠である。土方家は、戦国の動乱期に武士としての地位を確立し、雄久の代に豊臣政権下で大名へと飛躍を遂げた。この父の栄光と人脈が、雄氏の青年期を輝かせると同時に、後の波乱の伏線ともなっていく。
土方氏の出自は、清和源氏宇野氏族に遡るとされ、その祖先が大和国(現在の奈良県)の土方村に住んだことから土方姓を称するようになったと伝えられている 7 。江戸幕府が編纂した公式系譜集『寛政重修諸家譜』においても、この大和国土方村を起源とすることが記されている 10 。
戦国時代に入り、雄氏の祖父にあたる土方信治(彦三郎)の代に、一族は尾張国で勢力を拡大していた織田信長に仕えることとなる 8 。信治は武将として信長に尽くしたが、若くして戦死したと記録されており 9 、土方家は早くから織田家との深い関わりを持つ、戦国の武家としての道を歩み始めていた。
父・土方雄久は、信治の死後、土方家を大きく飛躍させた人物である。当初、信長の次男・織田信雄(のぶかつ)に仕え、その才能と忠誠を高く評価された。信雄から自身の諱(いみな)の一字である「雄」の字を与えられ、「雄久」と名乗ったことからも、両者の信頼関係の深さが窺える 8 。
天正12年(1584年)に勃発した小牧・長久手の戦いでは、雄久は信雄の命令を受けて、対立していた家老の岡田重孝を暗殺するという、極めて困難な任務を遂行した 11 。この功績などにより、雄久は尾張国犬山城主として四万五千石という広大な所領を与えられ、信雄家臣団の中で重きをなすに至った 9 。
しかし、天正18年(1590年)の小田原征伐後、主君の信雄が豊臣秀吉によって改易されると、雄久もまたその立場を失う。だが、彼の能力は秀吉にも認められており、信雄没落後は秀吉の直臣、すなわち豊臣大名として取り立てられた。当初一万石を与えられた知行は、後に二万四千石まで加増されており、豊臣政権下で確固たる地位を築いたことがわかる 11 。
この父・雄久が築いたキャリアは、息子の雄氏の生涯に決定的な影響を与えた。織田信雄との旧縁、豊臣大名としての地位、そして雄久の従兄弟が加賀の前田利長・利政であったという姻戚関係 11 は、豊臣政権が崩壊に向かう中で、雄氏を巨大な政争の渦に巻き込む要因となる。父が築いた華々しい経歴と人間関係という資産は、雄氏にとって、後の人生を左右する「両刃の剣」であったと言えよう。
豊臣秀吉の死は、日本の政治情勢に巨大な権力の空白を生み出した。その中で台頭する徳川家康と、豊臣家の将来を憂う諸将との間の緊張は日増しに高まっていく。この激動の時代に青年期を迎えた土方雄氏は、父と共に、彼の人生を根底から覆す大事件に巻き込まれることとなる。
天正11年(1583年)に生まれた雄氏は、父・雄久が豊臣大名として活躍する中で成長した。文禄3年(1594年)、12歳にして父と共に秀吉に仕え、伊勢国員弁郡などに三千石の知行を与えられている 5 。これは、早くから後継者としての道を歩み始めていたことを示している。
秀吉が没した慶長3年(1598年)、雄氏は16歳で後継者である豊臣秀頼に仕え、従五位下・丹後守(たんごのかみ)に叙任された 5 。丹後守という官位は、戦国時代から江戸時代にかけて京極家などの有力大名も称した格式あるものであり 14 、若き雄氏に対する豊臣政権の期待の高さが窺える。父から受け継いだ地位と自らの将来性により、雄氏の前途は洋々たるものに見えた。
しかし、慶長4年(1599年)、雄氏の運命は暗転する。秀吉の死後、豊臣家臣団は石田三成らを中心とする「文治派」と、加藤清正や福島正則らの「武断派」との対立が先鋭化し、政権は分裂の危機にあった 16 。この混乱を収拾し、事実上の最高権力者として台頭したのが徳川家康であった。
その年の9月、五奉行の一人であった増田長盛が、家康に対して驚くべき情報を密告する 17 。それは、家康の暗殺計画が進行中であるというものであった。首謀者と名指しされたのは、五大老の一人であった前田利家の後を継いだ前田利長、そして同じく五奉行の浅野長政。実行役としては、豊臣家の譜代家臣である大野治長、そして土方雄久の名が挙げられた 16 。この嫌疑により、息子の雄氏も父との連座を問われることになったのである 2 。
この「家康暗殺計画」については、その真相を巡って様々な解釈が存在する。実際に反家康勢力による計画が存在したとする見方もあるが、近年では、この事件は家康が政敵を合法的に排除し、大坂城西の丸に入城して豊臣政権内での影響力を決定的なものにするために、自ら、あるいは側近の本多正信らと画策した「捏造事件」であったという説が有力視されている 16 。いずれにせよ、この事件は家康の政治的勝利に繋がり、土方父子にとっては破滅的な結果をもたらした。
嫌疑を受けた結果、土方雄久・雄氏父子は改易、すなわち大名としての地位と全ての領地を没収された。そして、その身柄は常陸国(現在の茨城県)の大名・佐竹義宣(あるいはその父・義重)のもとへ預けられることとなった 7 。これは、豊臣大名としての輝かしいキャリアからの完全な失脚であり、雄氏の人生における最大の危機であった。
この失脚は、一見すると完全な不運であった。しかし、歴史の皮肉は、この絶望的な状況の中に、後の復活に繋がる逆説的な好機を潜ませていた。家康暗殺計画の嫌疑者とされたことで、土方父子は「反家康派」のレッテルを貼られた。だが、このレッテルこそが、天下分け目の決戦を前に、彼らを誰にも代えがたい特異な存在へと変貌させることになる。家康にとって、関ヶ原前夜の最大の懸案事項は、加賀百万石を領し、去就が東軍の勝敗を左右しかねない巨大勢力、前田利長の動向であった。その利長は、暗殺計画の「首謀者」とされ、雄久の従兄弟でもあった。この「共犯者」という負の関係性こそが、利長の懐に深く入り込み、その本心を探り、東軍へ味方するよう説得するための、最も効果的な「鍵」となったのである。この特命は、他のどの武将にも遂行不可能な、土方父子だからこそ担える役割であった。最大の不運は、皮肉にも彼らを「対前田利長交渉の専門家」という、代替不可能な外交カードへと変えたのである。
絶望的な配流生活から一年。日本の歴史が大きく動く中で、土方雄氏にも再起の機会が訪れる。それは、かつて自らを失脚させた徳川家康からの、予期せぬ召喚であった。雄氏はこの好機を逃さず、父と共に一世一代の賭けに挑み、見事に大名への返り咲きを果たす。
慶長5年(1600年)、上杉景勝討伐のため会津へ向かっていた家康は、下野国小山(現在の栃木県小山市)の陣中にて、石田三成らが大坂で挙兵したとの報に接する。西軍との決戦を前に、家康は北陸の大大名・前田利長の動向を確実に取り込む必要に迫られた。ここで家康は、常陸国に配流中の土方父子を呼び寄せるという奇策に出る 13 。
家康は父子に対し、利長のもとへ使者として赴き、東軍に味方するよう説得せよという特命を下した 7 。これは、前節で述べた通り、暗殺計画の「共犯者」という特殊な関係性を逆手に取った、極めて高度な政治判断であった。父子はこの重大な任務を見事に成功させ、利長の東軍加担を確約させた。この功績により、父子は罪を完全に赦され、東軍の一員として天下分け目の決戦に臨むことが許されたのである 2 。
関ヶ原の戦いは東軍の圧勝に終わり、家康は名実ともに天下人となった。戦後の論功行賞において、土方雄氏は対前田交渉の功績を高く評価され、伊勢国三重郡に一万石、近江国に二千石、合計一万二千石の所領を与えられた 1 。これにより、雄氏は失脚からわずか一年で大名に復帰し、伊勢菰野藩を新たに立藩、その初代藩主となったのである。
家康が雄氏を伊勢の菰野に配置したことには、単なる恩賞以上の戦略的な意図があったと考えられる。菰野は、伊勢と近江を結び、東海道と畿内を繋ぐ交通の要衝であった 4 。関ヶ原後の家康による大名配置は、江戸を中心とした支配体制を固めるため、信頼できる譜代大名や、忠誠を証明した外様大名を全国の戦略拠点に配置し、潜在的な敵対勢力、特に西国大名を監視・分断するものであった 24 。一度は失脚しながらも、特命を果たして忠誠を証明した雄氏は、家康にとって、大坂や西国への睨みを利かせるこの要衝を任せるに足る人物と判断されたのである。雄氏の菰野への封ぜられ方は、彼が徳川の新たな天下秩序において、西国への玄関口を守るという重要な役割を担う存在として認められたことを意味していた。
一方で、父・雄久も関ヶ原での功績により、越中国布市(後に下総国多古へ移封)に一万五千石の藩を立てることが許された 7 。しかし、慶長13年(1608年)に雄久が死去すると、その遺領と家督は、雄氏の弟で嫡出の息子であった土方雄重が継承した 8 。
雄氏は雄久の長男でありながら、側室の子、すなわち「庶長子」であったため、父の家督を継ぐことはなかった 2 。彼が菰野藩主となったのは、あくまで彼自身の功績によるものであり、父とは別に一家を立てる形となったのである。これにより、土方家は雄重が継いだ宗家(多古藩、後に陸奥窪田藩へ移封)と、雄氏が創始した菰野藩の、二つの大名家として徳川の世を歩むことになった。この事実は、雄氏が父の威光だけに頼らず、自らの力で未来を切り拓き、新たな家を興したという、彼の自立した武将としての一面を強く示している。
徳川の世が盤石になったかに見えた後も、大坂城には豊臣秀頼が依然として存在し、天下は未だ完全な泰平には至っていなかった。慶長19年(1614年)から翌年にかけて、徳川家と豊臣家の最終決戦である大坂冬の陣・夏の陣が勃発する。
この戦いにおいて、土方雄氏は徳川方として、二代将軍・徳川秀忠の軍に属して参陣した 8 。諸記録には、彼が先陣として武功を挙げたことが記されており 3 、かつての豊臣家臣でありながら、徳川家への揺るぎない忠誠を戦場での働きによって証明した。この大坂の陣での武功により、雄氏の菰野藩主としての地位は、もはや誰にも揺るがすことのできない、不動のものとなったのである。
戦乱の時代を乗り越え、徳川大名としての地位を確立した土方雄氏は、武将としてだけでなく、一藩の創業者として、藩政の基礎固めに着手する。彼の治世は、後の菰野藩の安定と発展の礎を築いた。そしてその晩年は、戦国の喧騒から離れた京都で、家族と父への深い思いと共に静かに過ぎていった。
慶長6年(1601年)、雄氏は初めて自らの領地である菰野に入り、藩の政庁となる菰野陣屋の建設に着手した 2 。これが、明治維新まで続く菰野藩の統治の拠点となった。
武将としての側面だけでなく、統治者として領内の安寧と繁栄を願う姿勢も窺える。寛永7年(1630年)には、菰野城の南に八幡宮(現在の廣幡神社)を創建し、領民の精神的な支柱を築いた 5 。
また、雄氏は私生活においても、かつての主君であった織田信雄の娘・八重姫を正室として迎えている 21 。これは、旧主への敬意を示すと同時に、名門・織田家の権威を自らの家に取り込むという、政治的な意味合いも含まれていたであろう。この八重姫は賢夫人として知られ、城外で働く農婦が幼児に授乳する姿を見て心を痛め、日陰の休憩所として桜並木を作らせたという心温まる逸話が伝えられている 28 。この逸話は、雄氏の治世下における善政の一端を象徴するものとして、後世に語り継がれた。
雄氏が築いたこれらの藩政の基礎は、息子の二代藩主・土方雄高による家中諸法度の制定や藩体制の整備へと受け継がれ 4 、土方家による約270年間の安定した統治を実現させる上で、極めて重要な役割を果たした。
寛永12年(1635年)、雄氏は病を理由に53歳で隠居し、家督を長男の雄高に譲った 3 。その後、彼は領地の菰野ではなく、京都の武者小路にあった別邸に移り住み、隠居生活を送った 5 。
京都での晩年、雄氏は父・雄久への深い思慕の念を行動で示している。寛永14年(1637年)、京都北山の地に、父の菩提を弔うための寺院として功運院を創建した 29 。その翌年の寛永15年(1638年)6月28日、雄氏は京都の屋敷にて、波乱に満ちた56年の生涯を閉じた。その亡骸は、自らが父のために建てた功運院に葬られた 1 。
土方一族の墓所の所在地は、彼らの複雑な歴史とアイデンティティを象徴しており、特に雄氏の心情を読み解く上で興味深い。父・雄久の墓は江戸の吉祥寺にあり 26 、これは雄久から続く土方宗家が、徳川幕府の膝元である江戸で大名として仕えたことの証左である。一方、雄氏自身の墓は、彼が晩年を過ごし、父のために創建した京都の功運院にある 3 。これは、政治の中心地から一歩引いた場所で、生涯を通じて敬愛した父への孝心を全うしようとした、雄氏の極めて個人的な思いの表れと解釈できる。
そして、雄氏が創始した菰野藩の菩提寺は、息子の雄高が父の菩提を弔うために創建した、領地の見性寺である 30 。ここには、雄氏の妻や、雄高以降の歴代藩主の墓が並ぶ。この墓所の地理的な配置は、土方家の「宗家としての徳川への奉公(江戸)」、「雄氏個人の父への思慕(京都)」、そして「雄氏が興した新しい家としての菰野藩(菰野)」という、三つの異なるアイデンティティを雄弁に物語っている。特に、雄氏が自らの終焉の地として、父のために建てた京都の寺を選んだことは、暗殺嫌疑から再起に至るまで運命を共にした父への、生涯変わることのなかった深い思慕の念を、静かに、しかし力強く伝えている。
土方雄氏の生涯は、父の代からの栄光、家康暗殺嫌疑による突然の失脚、そして劇的な復活と、まさに安土桃山時代から江戸時代初期への移行期そのものの激動を体現している。彼は、派手な合戦での武勇伝によって歴史に名を残すタイプの武将ではない。しかし、その生涯を深く考察すると、時代の変化を読み、危機を好機に変える、類稀なる生存能力と統治能力を備えた人物像が浮かび上がってくる。
彼の真骨頂は、人生最大の危機であった暗殺嫌疑事件を、自らにしか果たせない「対前田利長交渉」という外交任務によって乗り越えた点にある。この復活劇は、同じく関ヶ原の戦いで西軍に与して改易されながら、後に旧領への復帰を果たした唯一の大名として知られる立花宗茂と比較することで、その独自性がより鮮明になる 33 。宗茂が、その圧倒的な武名と、敵である家康さえも認めた人望によって復活の道を切り拓いたのに対し 35 、雄氏は「暗殺計画の共犯者」という極めて不利な立場を逆用し、復活の糸口を掴んだ。これは、武力だけでなく、複雑な人間関係や政治状況を的確に利用する、知将としての一面を強く示唆している。
最終的に、雄氏は徳川の世で一万二千石の藩祖となり、彼が創始した菰野藩土方家は、一度の転封(領地替え)もなく、明治維新に至るまで約270年間、十三代にわたって存続した 2 。これは、彼が単に幸運な武将であったのではなく、戦国の価値観から泰平の世の統治者へと自己を変革させ、新たな秩序の中で藩政の礎を固めるという、優れた「創業者」であったことを何よりも雄弁に物語っている。土方雄氏の歴史的評価は、戦国の荒波を乗り越え、泰平の世に確固たる家名を残した、その粘り強い生存戦略と卓越した統治手腕にこそ求められるべきであろう。
表2:菰野藩土方家 歴代藩主一覧
代 |
氏名 |
官位 |
在職期間 |
享年 |
備考 |
1 |
土方 雄氏 |
従五位下 丹後守 |
慶長5年 - 寛永12年 (1600-1635) |
56 |
藩祖 |
2 |
土方 雄高 |
従五位下 丹後守 |
寛永12年 - 慶安4年 (1635-1651) |
40 |
初代・雄氏の長男 |
3 |
土方 雄豊 |
従五位下 市正 |
承応元年 - 宝永2年 (1652-1705) |
68 |
2代・雄高の甥で養子 |
4 |
土方 豊義 |
従五位下 丹後守 |
宝永2年 - 享保4年 (1705-1719) |
31 |
3代・雄豊の孫 |
5 |
土方 雄房 |
従五位下 丹後守 |
享保4年 - 寛延3年 (1719-1750) |
48 |
4代・豊義の子 |
6 |
土方 雄端 |
従五位下 備中守 |
寛延3年 - 宝暦8年 (1750-1758) |
43 |
5代・雄房の弟 |
7 |
土方 雄年 |
従五位下 近江守 |
宝暦8年 - 安永9年 (1758-1780) |
45 |
6代・雄端の子 |
8 |
土方 雄貞 |
従五位下 丹後守 |
安永9年 - 天明2年 (1780-1782) |
20 |
田沼意次の六男、7代・雄年の養子 |
9 |
土方 義苗 |
従五位下 大和守 |
天明2年 - 天保6年 (1782-1835) |
68 |
6代・雄端の孫、8代・雄貞の養子 |
10 |
土方 雄興 |
従五位下 主殿頭 |
天保6年 - 天保9年 (1835-1838) |
40 |
9代・義苗の子 |
11 |
土方 雄嘉 |
従五位下 備中守 |
天保9年 - 安政5年 (1838-1858) |
30 |
10代・雄興の子 |
12 |
土方 雄永 |
従五位下 大和守 |
安政5年 - 明治3年 (1858-1870) |
34 |
11代・雄嘉の子 |
13 |
土方 雄志 |
従五位下 |
明治3年 - 明治4年 (1870-1871) |
76 |
分家旗本家からの養子、知藩事 |
(出典: 6 他を基に作成)