土方雄重(ひじかた かつしげ)は、戦国時代の動乱が終息し、徳川幕府による新たな治世が確立されようとする、まさに時代の転換期に生きた武将・大名である。彼の生涯は、将軍近習としての奉公、大坂の陣における武功、そして新設された藩の初代藩主という、江戸初期の大名が歩む典型的な立身出世の軌跡を辿る。しかしその一方で、彼の人生は、父・雄久の波乱に満ちた経歴、そして兄・雄氏との複雑な家督相続の力学によって、その出発点から深く規定されていた。本報告書は、土方雄重という一人の人物の生涯を徹底的に掘り下げるとともに、彼が属した土方家の存続戦略、そして彼が興した窪田藩の栄光と悲劇を多角的に分析し、徳川幕府黎明期における武家の生き様を浮き彫りにするものである。
土方雄重の性格と運命を理解するためには、まず彼の父である土方雄久(かつひさ)の生涯を紐解く必要がある。土方氏は、その系譜を辿ると大和源氏(宇野氏)の流れを汲むとされる武家の家柄であった 1 。雄久は天文22年(1553年)、尾張国に生まれた 1 。父・信治は織田信長に仕えたが、若くして討ち死にし、雄久は幼くして父を失ったと伝わる 1 。
成長した雄久は、信長の次男・織田信雄に仕え、その偏諱(へんき)を受けて雄良、のちに雄久と名乗った 1 。彼は信雄の家臣として、天正12年(1584年)に羽柴秀吉に通じた同僚を粛清し、小牧・長久手の戦いの直接的な引き金となる事件に関与するなど、戦国の世を生きる武将として激動の時代を駆け抜けた 1 。天正18年(1590年)、主君・信雄が改易されると、雄久は豊臣秀吉の家臣となり、越中国に所領を与えられる 1 。
しかし、雄久の人生における最大の転機は、慶長3年(1598年)の秀吉の死後に訪れる。慶長4年(1599年)、彼は前田利長らと共に徳川家康の暗殺を企てたという嫌疑をかけられ、所領を没収されて常陸国の佐竹義宣預かりの身となる 1 。これは、一歩間違えれば一族郎党が根絶やしにされかねない、絶体絶命の危機であった。ところが翌慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いが迫る中、家康は雄久を赦免する。そして、かつて織田信雄の家臣として縁のあった前田利長を東軍に引き入れるための交渉役という大任を与えた。この任務を見事に成功させた雄久は、その功績によって越中国布市に1万石を与えられ、大名として奇跡的な復活を遂げたのである 1 。その後、所領は下総国多古(田子)に移され、最終的に1万5千石の大名となり、晩年は二代将軍・徳川秀忠の御伽衆を務めた 1 。この父の波乱万丈の生涯、とりわけ家康暗殺嫌疑という汚点と、その後の徳川家への忠勤による名誉回復の経験は、息子である雄重の生き方に計り知れない影響を与えたと考えられる。
土方雄重の人生を考察する上で、父・雄久の経歴と並んで極めて重要なのが、兄・土方雄氏(かつうじ)との関係である。雄氏は雄久の長男でありながら、史料には「庶子」であったと記されている 6 。彼は父・雄久とは行動を共にせず、早くから豊臣秀吉、そして秀頼に仕え、伊勢国内に所領を得ていた 6 。父が家康暗殺嫌疑で蟄居させられた際には連座して同じく佐竹義宣預かりとなったが、関ヶ原の戦いの直前に父子ともに赦免される 6 。戦後、雄氏は徳川家康から新たに近江国内に2千石を加増され、合計1万2千石の大名として伊勢国菰野に藩を立藩した 6 。これが現在まで続く菰野藩土方家の始まりである。
一方で、文禄元年(1592年)生まれの次男・雄重は「嫡子」と位置づけられていた 6 。この嫡庶の別が、土方家の家督相続において決定的な意味を持つことになる。慶長13年(1608年)に父・雄久が死去すると、既に伊勢菰野藩主として独立した大名家を築いていた庶長子の雄氏ではなく、嫡子である雄重が、父の遺領である下総多古1万5千石と土方家の家督を継承したのである 2 。
この一見複雑な相続形態は、単なる偶然や兄弟間の力関係の結果ではなく、土方家が激動の時代を生き抜くために採用した、高度な存続戦略と解釈することができる。一度は家康暗殺の嫌疑で改易の憂き目に遭った父・雄久は、家名断絶の恐怖を誰よりも深く理解していたはずである。その経験から、一族の血脈を確実に後世に残すためのリスク分散を図ったのではないか。具体的には、庶長子の雄氏には、父の旧領とは切り離された伊勢菰野という安定した地盤を与えて別家を立てさせ、家の「保険」とする。事実、この菰野藩は一度の転封もなく、幕末まで270年以上にわたって存続し、土方家の血を明治の世に伝えた 7 。他方、嫡子である雄重には、父が晩年に築いた徳川幕府中枢との繋がりを継承させ、将軍近習という出世街道を歩ませる。これは家の「成長エンジン」としての役割であり、成功すれば一族の飛躍が期待できるが、中央の政争に巻き込まれるリスクも伴う。この二元的な戦略によって、土方家は「安定」と「成長」を両立させようとした。土方雄重の生涯は、まさにこの「成長」の役割を担う存在として、その幕を開けたのである。
西暦 |
和暦 |
年齢 |
主な出来事 |
出典 |
1592年 |
文禄元年 |
1歳 |
土方雄久の次男として生まれる。 |
13 |
1603年 |
慶長8年 |
12歳 |
二代将軍・徳川秀忠の小姓となる。 |
13 |
1608年 |
慶長13年 |
17歳 |
父・雄久が死去。 |
2 |
1609年 |
慶長14年 |
18歳 |
父の遺領・下総多古藩1万5千石を継承。 |
10 |
1614年 |
慶長19年 |
23歳 |
大坂冬の陣に酒井忠世隊に属して参陣。 |
10 |
1615年 |
元和元年 |
24歳 |
大坂夏の陣・天王寺岡山の戦いで首級8つを挙げる武功を立てる。 |
9 |
1622年 |
元和8年 |
31歳 |
戦功により陸奥菊多郡・能登国内に加増移封され、合計2万石となる。陸奥窪田藩を立藩。 |
13 |
1626年 |
寛永3年 |
35歳 |
三代将軍・徳川家光の上洛に従う。 |
9 |
1629年 |
寛永5年12月29日 |
37歳 |
江戸にて死去。 |
9 |
父・雄久から土方本家の家督と所領を継いだ雄重は、慶長8年(1603年)、12歳の若さで第二代将軍・徳川秀忠の「小姓」として出仕した 13 。この経歴は、彼のその後の人生を方向づける上で、決定的な重要性を持つものであった。将軍に最も近い場所で仕えることは、単なる栄誉ではなく、一族の未来を賭けた戦略的な一手であった。
江戸時代初期における将軍の小姓は、現代の我々が想像するような単なる身の回りの世話役ではない。彼らは将軍の日常生活に密着し、その謦咳に接することで、主君の人柄、政治思想、そして統治の哲学を肌で学ぶことができた。同時に、将軍の側近として、幕府の機密情報に触れる機会も多く、将来の幕閣を担うエリート候補生としての側面を色濃く持っていた。雄重が仕えた徳川秀忠は、父・家康のような圧倒的なカリスマ性や戦場での武勇伝には乏しいものの、その人物像は「大変律儀で礼儀正しい」 16 、「冷静沈着」 17 、そして「現実主義の慎重派」 18 と評価されている。娯楽にはほとんど関心を示さず、酒も嗜まない堅物で 19 、法や規律を厳格に適用し、時には家臣に対しても冷徹な処断を下す一面も持っていた 16 。
このような秀忠の性格を鑑みるに、土方家が嫡子である雄重をその小姓として送り込んだことには、深い戦略的意図があったと考えられる。かつて父・雄久が家康暗殺計画の嫌疑をかけられたという事実は、徳川政権下で生きる土方家にとって、決して消えることのない汚点であり、潜在的なリスクであった 4 。この過去を払拭し、土方家が徳川に対して絶対的な忠誠を誓う、完全に信頼できる家臣であることを証明する必要があった。派手なパフォーマンスや弁舌よりも、日々の実直な勤務態度や忠誠心を評価するであろう、生真面目な秀忠の側近くで仕えることこそ、そのための最良の道であった。雄重は、小姓としての勤勉な奉公を通じて、主君・秀忠個人の深い信頼を勝ち得ていったに違いない。この個人的な信頼関係こそが、後の大坂の陣における戦功の評価、そして異例とも言える加増移封へと繋がる、直接的な伏線となったのである。
慶長13年(1608年)に父・雄久が56歳で死去すると 1 、雄重は翌慶長14年(1609年)2月、その遺領である下総国多古(田子)1万5千石を継承した 9 。これにより、彼は将軍の側近である小姓という立場と、1万石以上の所領を持つ大名(多古藩主)という二つの顔を持つことになった。この時期、彼の生活の中心は江戸の将軍御所であり、秀忠への奉公が主務であったが、同時に自らの領国経営にも責任を負う立場にあった。若き藩主として、また将来を嘱望される将軍の近習として、雄重は着実にそのキャリアを積み重ねていった。
天下分け目の関ヶ原の戦いから十数年、徳川の治世が盤石になりつつあった中で勃発した大坂の陣は、豊臣家を完全に滅ぼし、徳川による天下泰平を完成させるための総仕上げであった。この戦いは、土方雄重にとって、日頃の奉公で培った将軍の信頼を、「武功」という最も分かりやすい形で証明し、自らの価値を天下に示す絶好の機会となった。
慶長19年(1614年)の冬の陣、そして翌元和元年(1615年)の夏の陣において、土方雄重は幕府の重鎮である酒井忠世(さかい ただよ)の軍勢に属して参陣した 9 。酒井忠世は徳川譜代の名門であり、秀忠政権の中核を担う老中の一人であった。その部隊に組み込まれたことは、雄重が将軍側近として、幕府首脳部からも一定の評価と期待を寄せられていたことを示唆している。
雄重の名を不動のものとしたのは、大坂夏の陣の雌雄を決した元和元年5月7日の「天王寺・岡山の戦い」における活躍であった。この日、豊臣方の真田信繁(幸村)や毛利勝永、大野治房らが率いる軍勢は、死を覚悟した凄まじい猛攻を仕掛け、徳川方の前線は各所で崩壊の危機に瀕した。特に、大野治房の部隊は徳川方の陣を突破し、将軍・徳川秀忠の本陣にまで肉薄した 20 。
雄重が属する酒井忠世の部隊も、この治房隊の突撃を食い止めるべく奮戦したが、その勢いの前に一時的に「蹴散らされ」るほどの苦戦を強いられた 20 。徳川方の有力大名である本多忠朝が討ち死にするなど 20 、戦場はまさに大混乱の様相を呈していた。
このような自軍が敗走しかねない絶望的な状況下で、土方雄重は個人の武勇を最大限に発揮する。彼は浮足立つことなく敵陣に踏みとどまり、奮戦の末に敵兵の首を8つ挙げるという、目覚ましい戦功を立てたのである 9 。
この「首級八つ」という戦果は、単なる数字以上の重みを持っていた。戦後の論功行賞において、幕府首脳は部隊全体の勝敗だけでなく、個々の将兵がどのような状況で、いかに働いたかを厳しく吟味した 21 。味方が優勢な中で挙げた手柄と、自軍の戦線が崩壊しかける逆境の中で挙げた手柄とでは、その価値は天と地ほども違う。多くの将兵が恐怖に駆られて敗走する中、冷静に敵と渡り合い、具体的な戦果として8つの首級を挙げた雄重の働きは、彼の武人としての卓越した技量と、主君の危機に際しても動じない強靭な精神力の証明に他ならなかった。この苦戦の中でこそ輝きを放った武功が、戦後、彼の評価を飛躍的に高め、輝かしい未来を切り拓く最大の要因となったのである。
大坂の陣における目覚ましい武功は、土方雄重の人生を大きく飛躍させた。将軍秀忠からの信頼は一層厚くなり、それは具体的な恩賞という形で報いられた。彼は大幅な加増を受け、陸奥国に新たな藩を構えることとなる。しかし、輝かしい栄光の陰で、彼の藩主としての時間はあまりにも短く、その生涯は早すぎる終焉を迎える運命にあった。
大坂の陣から7年後の元和8年(1622年)、雄重に対する論功行賞が正式に決定された。彼は、それまでの下総多古1万5千石に代わり、陸奥国菊多郡(現在の福島県いわき市南部)に1万石、そして能登国内に1万石を加増され、合計2万石を領する大名へと昇進した 9 。彼は新たな本拠地を陸奥国菊多郡窪田に定め、陣屋を構えた。これにより、ここに「窪田藩」(菊多藩とも呼ばれる)が立藩され、土方雄重はその初代藩主となったのである 14 。
この雄重の窪田への移封は、単なる個人的な恩賞という側面だけでは説明できない、幕府による高度な統治戦略の一環であった。その鍵を握るのが、彼の岳父(舅)、すなわち妻の父である内藤政長との関係である。雄重の妻は、内藤政長の娘であった 14 。そして驚くべきことに、雄重が窪田に移封された元和8年(1622年)と全く同じ年に、岳父の政長も上総国佐貫4万5千石から、陸奥国磐城平7万石へと大幅な加増の上で転封となっている 14 。
これは決して偶然の一致ではない。幕府は、江戸と東北を結ぶ奥州街道の要衝である磐城平に、譜代の重臣である内藤氏を配置し、その支配を固めようとした。そして、その重要な拠点のすぐ隣に、内藤氏の信頼できる娘婿であり、かつ大坂の陣でその忠誠と武勇を証明した土方雄重を配置したのである。この戦略的な配置により、磐城平藩を側面から支援し、この地域における徳川の支配体制をより磐石なものにする狙いがあった。雄重の栄転は、彼個人の功績の賜物であると同時に、幕府が推し進める全国統治戦略の重要なピースとして組み込まれた、極めて政治的な意味合いの強いものであった。
陸奥窪田藩の初代藩主となった雄重であったが、彼がその地を治めた期間は、わずか6年余りに過ぎなかった。そのため、藩主としての具体的な治績に関する記録は乏しく、藩政の本格的な基礎固めは、彼の跡を継いだ息子の雄次に委ねられることになる 14 。藩主としての数少ない記録としては、寛永3年(1626年)、三代将軍・徳川家光が朝廷への挨拶のために上洛した際、その行列に従ったことが挙げられる 9 。これは、彼が将軍家と密接な関係を維持し続けていたことを示している。
しかし、そのわずか2年後の寛永5年12月29日(西暦1629年1月23日)、土方雄重は江戸の藩邸にて急逝した 9 。享年37。武将として、また大名として、まさにこれからという時のあまりにも早い死であった。法名は雪江了寒(せっこうりょうかん)と贈られた 9 。
ここに一つ、興味深い謎が残されている。雄重の墓は、彼が藩主であった下総多古や陸奥窪田、あるいは江戸の菩提寺ではなく、遠く離れた大阪府貝塚市の青松寺(せいしょうじ)に築かれたのである 9 。さらに、彼の跡を継いだ二代藩主・雄次 24 、そして三代藩主・雄隆 28 の墓も同寺に存在することから、これが一時的な事情によるものではなく、窪田藩土方家にとって特別な意味を持つ場所であったことがうかがえる。雄重の経歴と貝塚という土地との直接的な結びつきを示す史料は見当たらないが、父・雄久が豊臣政権下で活動していた時代に築いた縁故、あるいは母(長野藤重の娘)の家系との関連、もしくは土方家が代々帰依していた特定の宗派との繋がりなどが推測される。この墓所の存在は、土方家が公式の経歴の裏で、畿内、特に関西地方に何らかの深い個人的・宗教的な繋がりを持ち続けていたことを物語る、静かなる証左と言えるかもしれない。
時期 |
藩名 |
国・郡 |
石高 |
備考 |
出典 |
慶長14年~元和8年 (1609-1622) |
下総多古藩 |
下総国 |
15,000石 |
父・雄久の遺領を継承。 |
9 |
元和8年~寛永5年 (1622-1628) |
陸奥窪田藩 |
陸奥国菊多郡 能登国内 |
20,000石 |
大坂の陣の戦功により加増移封。陸奥に10,000石、能登に10,000石。 |
9 |
土方雄重がその武功と忠勤によって一代で築き上げた陸奥窪田藩。しかし、彼の早すぎる死は、その栄光の歴史に早くも影を落とすことになる。彼が遺した藩と一族は、その後の数十年で栄光から悲劇へと、対照的な運命を辿ることになる。
雄重の跡を継いだのは、長男の土方雄次(かつつぐ)であった 24 。慶長16年(1611年)生まれの雄次は、父の死を受けて19歳で二代藩主となった。彼は、父が興したばかりの藩の基礎を固めることに心血を注いだ。特に、領内を流れる鮫川沿岸の治水事業に力を入れ、「酒井用水」や「五箇村灌漑用水」といった農業用水路を建設し、新田開発を積極的に推進した 14 。また、寺社の造営や修築にも尽力し、領民の心の拠り所を整えた。雄次の約50年にわたる安定した治世によって、窪田藩は藩としての体裁を整え、磐石な基盤を築き上げたと言える。
延宝7年(1679年)、雄次は隠居し、家督は次男の土方雄隆(かつたか)に譲られた(長男・雄信は病弱を理由に家督を継がなかった) 14 。この時、雄隆は弟の雄賀(かつよし)に2千石を分与したため、窪田藩の石高は1万8千石となった 10 。
しかし、この三代・雄隆の時代に、藩の命運を根底から揺るがす「御家騒動」が勃発する。雄隆自身も病弱であったためか、天和3年(1683年)、彼は幕府に対し、異母弟の貞辰(さだとき)に家督を譲りたいと願い出た 14 。これに対し、家臣団の中から、かつて家督を継がなかった長兄・雄信の子である内匠(たくみ)を擁立しようとする一派が現れ、家中は後継者を巡って二つに分裂した 5 。重臣たちの対立は次第にエスカレートし、藩政は麻痺状態に陥った。そして遂には、藩主・雄隆の側室が何者かによって射殺されるという、血腥い事件にまで発展してしまったのである 5 。
この一連の醜態は、当然のことながら幕府の耳にも入った。幕府は藩の内情を厳しく糾弾し、貞享元年(1684年)7月22日、「家中紊乱の廉(かど)」、すなわち家中の統制を著しく欠き、大名としての体をなしていないことを理由に、土方家に対して領地没収、すなわち「改易」という最も重い処分を下した 4 。土方雄重が興し、雄次が盤石にした窪田藩は、創立からわずか62年、三代にしてその歴史にあっけなく幕を下ろしたのである。
この窪田藩土方家の短命な栄光と悲劇的な結末は、雄重の兄・雄氏が興した伊勢菰野藩の歴史と、極めて鮮やかな対照をなしている。雄重の家系は、将軍近習という幕政中枢に近い立場と、大坂の陣での華々しい武功を背景に、急成長を遂げた。しかし、その成功は雄重個人の能力と幕府との強い繋がりという、属人的な要素に大きく依存していた。その結果、後継者問題という内的な脆さに直面した際、いとも簡単に崩壊してしまった。一方、兄・雄氏の菰野藩は、1万2千石という小藩であり、幕政の中枢からは常に一定の距離があった 29 。しかし、それゆえに中央の激しい政争に巻き込まれるリスクが少なく、地道な領国経営に専念することができた。その結果、藩内で大規模な一揆が起こることもなく 12 、明治維新まで一度の転封もなく家名を保ち続けた 7 。この対比は、江戸時代の大名家における存続のあり方を象徴している。中央での栄達を目指すハイリスク・ハイリターンな道(雄重の窪田藩)と、地方で着実な統治を目指すローリスク・ローリターンな道(雄氏の菰野藩)。土方一族は、期せずしてこの二つのモデルを同時に実践し、その両極端な結末を後世に示すこととなった。
窪田藩は改易という悲劇的な結末を迎えたが、土方雄重の血脈が完全に途絶えたわけではなかった。藩取り潰しの原因となった御家騒動の際、雄隆から2千石を分与されていた弟の土方雄賀の家系は、旗本として存続することを許された 10 。この旗本土方家はその後も代を重ね、明治時代を迎えることとなる。
総括すれば、土方雄重の生涯は、徳川幕府の黎明期を象徴するような、武功と忠誠による立身出世の物語であった。父の代の汚名を雪ぎ、将軍の信頼を勝ち取り、戦場で手柄を立てて大名となる。それは、当時の武士が誰もが夢見たであろう理想的な生き方であった。しかし、彼が一代で築き上げた栄光は、彼の早世と後継者たちの内紛によって、わずか二代で水泡に帰した。彼の人生、そして彼の一族が辿った二つの異なる運命は、泰平の世へと移行する中で武家が直面した、栄光と挫折、安定と危うさという、時代の光と影を鮮烈に映し出している。
代 |
藩主名 |
続柄 |
在位期間 |
備考 |
出典 |
初代 |
土方 雄重(かつしげ) |
雄久の次男(嫡子) |
元和8年~寛永5年 (1622-1628) |
窪田藩を立藩。37歳で死去。 |
9 |
二代 |
土方 雄次(かつつぐ) |
雄重の長男 |
寛永6年~延宝7年 (1629-1679) |
藩政の基礎を確立。隠居。 |
14 |
三代 |
土方 雄隆(かつたか) |
雄次の次男 |
延宝7年~貞享元年 (1679-1684) |
御家騒動により改易。 |
14 |
- |
土方 雄賀(かつよし) |
雄次の三男 |
- |
兄・雄隆より2千石を分与され、藩改易後も旗本として家名存続を許される。 |
10 |