坂崎直盛(さかざき なおもり)という武将の名は、歴史上、一つの劇的な逸話と分かち難く結びついている。それは、大坂夏の陣で徳川家康の孫娘・千姫を救出した功により彼女を妻として約束されながらも、その約束を反故にされたことに憤激し、姫の輿入れを襲撃しようとして果たせず、悲劇的な最期を遂げたという「千姫事件」である 1 。この情熱的で破滅的な物語は、後世の講談や戯曲を通じて広く知れ渡り、坂崎直盛という人物に「恋に狂った悲劇の主人公」という強烈なイメージを刻み付けた。
しかし、この情痴的な人物像は、彼の生涯の一側面に過ぎず、むしろその一面が彼の全体像を覆い隠してしまっているのが実情である。彼の評価は、この千姫事件というあまりにも dramatic な逸話によって著しく歪められており、宇喜多家の一門としての複雑な立場、敬虔なキリシタンとしての熱烈な信仰心、そして津和野藩初代藩主として発揮した優れた行政手腕といった、彼の生涯を構成する重要な側面が見過ごされがちである 4 。
本報告書は、この歪められた人物像を是正し、坂崎直盛の歴史的実像に迫ることを目的とする。宇喜多一門の将、キリシタン「パウロ」、津和野藩の創業者、そして何よりも道義に外れたことを許せない「義憤」に生きた一人の人間として、彼を多角的に捉え直す。そのため、幕府の公式記録、同時代の外国人の日記、後世の軍記物や地域の伝承といった多様な史料を比較検討し、その生涯の軌跡を丹念に再構築することで、悲劇の裏に隠された真の姿を明らかにしていく。
坂崎直盛は、戦国時代、備前国(現在の岡山県)にその勢力を築いた大名・宇喜多氏の一族として生を受けた 7 。彼の父は、謀将として知られる宇喜多直家(なおいえ)の異母弟・宇喜多忠家(ただいえ)である 8 。これにより、豊臣政権下で五大老の一人に数えられた宇喜多秀家(ひでいえ)とは従兄弟という、極めて近い血縁関係にあった 1 。父・忠家は、常に兄・直家の謀略を警戒し、就寝時ですら鎖帷子を手放さなかったと伝えられるほどの緊張関係にありながらも、兄の覇業を支え続けた有能な武将であった 6 。直盛は、天正14年(1586年)頃、父・忠家が隠居して豊臣秀吉の直臣となったことを機に、宇喜多一門の重臣として家督を相続したと見られている 8 。
直盛の生涯は、その時々の立場を反映して、複数の名で記録されている。宇喜多詮家(うきた あきいえ)、浮田左京亮(うきた さきょうのすけ)、坂崎成正(さかざき なりまさ)など、史料によって様々な呼称が見られる 7 。
近年の研究では、「詮家」という名は後世の軍記物である『備前軍記』に由来する俗称とされ、同時代の史料では「浮(田)左京知家」や「宇喜多左京正勝」といった名が確認されている 8 。また、文禄年間頃からは、宇喜多宗家と庶流を明確に区別するため、嫡流のみが「宇喜多」を名乗り、庶流は「浮田」と称する方針が取られた 8 。直盛もこれに従い「浮田」姓を用いるようになったが、この方針は当主・秀家への権力集中と庶流の従属化を意図したものであり、直盛をはじめとする一門や古参の重臣たちとの間に、後の対立につながる軋轢を生む一因になった可能性が指摘されている 8 。
直盛の人物像を理解する上で欠かせないのが、彼の熱烈なキリスト教信仰である。文禄3年(1594年)、大坂の城下でキリスト教の教えに触れた直盛は、その教義に深く傾倒した。彼は小西行長の屋敷に招かれ、日本人修道士ヴィセンテ洞院と徹夜で教義を議論した末、洗礼を受けることを強く希望し、「パウロ」の霊名を授かった 8 。
当時の豊臣政権はバテレン追放令を発布しており、キリスト教信仰は厳しく制限されていた。宣教師は直盛の身を案じ、入信の事実を隠すよう約束させたが、彼はその約束を破り、本国・備前に帰国すると公然と入信を宣伝し、布教活動まがいのことまで始めたという 6 。この行動は、権威(秀吉の禁教令)に屈しない反骨精神と、自らの信じる正義を公言せずにはいられない彼の直情的な性格を如実に示している。
彼の熱意は個人的な信仰に留まらなかった。文禄5年(1596年)には、同僚の重臣・明石全登(あかし てるずみ)を自邸に招き、宣教師に宣教を依頼して彼を入信へと導いている 8 。さらに同年、秀吉が再び禁教令を強化し、京都や大坂のキリシタンが捕縛され処刑された「長崎二十六聖人殉教事件」の直後には、全登と共に危険を顧みず大坂の教会を訪れ、二人の宣教師を説得して安全な場所へ逃がすという大胆な行動を取った 8 。これらの逸話は、彼の生涯を貫く「直情的な正義感」の最初の顕著な現れであり、後の宇喜多騒動や千姫事件における彼の行動原理を理解する上で、極めて重要な意味を持っている。
豊臣秀吉の死後、慶長4年(1599年)、宇喜多家は深刻な内紛に見舞われる。後に「宇喜多騒動」と呼ばれるこの事件は、単一の原因によるものではなく、複数の要因が複雑に絡み合って発生した 10 。
第一に、新旧家臣団の対立が挙げられる。宇喜多秀家の正室・豪姫(前田利家の娘)が嫁ぐ際に付き従ってきた中村次郎兵衛らの新参側近が、秀家の寵愛を背景に権勢を振るった。これに対し、宇喜多直家時代からの譜代家臣であり、武功によって家の屋台骨を支えてきた戸川達安(みちやす)や花房正成(はなぶさ まさなり)ら古参の重臣たちが激しく反発したのである 16 。
第二に、若き当主・秀家自身の資質と統治方針への不満があった。秀家が豊臣家や、妻の実家である前田家に傾倒した政策を進めたことに対し、宇喜多家独自のアイデンティティを重んじる一門や重臣は強い危機感を抱いた 6 。直盛に至っては、後に「豊臣と前田の傀儡になりさがった宇喜多など滅んでくれていっこうに構わん」とまで言い放っており、その不満の根深さが窺える 18 。
第三の要因として、しばしば宗教対立が挙げられる。しかし、首謀者の一人とされる直盛自身が熱心なキリシタンであったのに対し、彼と行動を共にした戸川達安らは日蓮宗の熱心な信者であった 14 。この事実から、宗教は対立の主因ではなく、家中の派閥を形成する一要素に過ぎなかったと考えるのが妥当であろう。
騒動は、戸川達安が中村次郎兵衛の暗殺を試みて失敗したことで一気に激化する。追われる身となった達安を、義理の兄にあたる直盛が自らの大坂屋敷に匿ったことで、直盛は反秀家派の中心人物として、主君と一触即発の事態に陥った 16 。
自力での収拾が不可能となった宇喜多家に対し、五大老筆頭の徳川家康が調停に乗り出す。大谷吉継らと共に仲介に入った家康は、最終的に騒動の責任者として戸川達安らを追放する一方、彼らを庇った直盛も宇喜多家から離脱させ、自らの預かりとする裁定を下した 13 。
この一連の出来事は、単なる家中の権力闘争に留まらない。豊臣政権を支える有力大名が抱えていた内部矛盾の爆発であり、天下統一への野心を抱く家康にとっては、豊臣恩顧の大名を内側から切り崩す絶好の機会であった。家康は調停という形で巧みに介入し、西軍の主力となるべき宇喜多家の有力武将である直盛や戸川達安を自らの影響下に置くことに成功した。これは、関ヶ原の戦いに先立って宇喜多家を弱体化させるという、家康の高度な政治戦略の一環であったと解釈できる。直盛の「義憤」は、結果として家康の天下取りの布石として利用された形となったのである。
慶長5年(1600年)、天下分け目の関ヶ原の戦いが勃発すると、坂崎直盛は宇喜多騒動からの流れで徳川家康率いる東軍に与した 7 。宇喜多家を出奔し、家康預かりの身となっていた彼にとって、西軍に味方するという選択肢は事実上存在しなかった 8 。
関ヶ原の本戦において、彼の立場は極めて複雑なものであった。西軍の最前線では、かつての主君であり従兄弟の宇喜多秀家が1万7000の大軍を率いて東軍の福島正則隊と激戦を繰り広げ、西軍最強の戦闘力を見せつけていた 17 。その一方で、直盛は東軍の武将として、かつての同胞に刃を向けることになったのである 15 。
直盛個人の具体的な武功を詳細に記した一次史料は乏しい。後世の『浦上宇喜多両家記』では、「武気強精、常に荒くして」「武道も尤も強し」と、その武勇を評価する一方で、「さして勝れたる働きなき故にここに記さず」とも述べられており、合戦における際立った功績は伝わっていない 8 。このことから、彼の関ヶ原における功績は、戦闘そのものではなく、豊臣恩顧の有力大名である宇喜多家の重臣が家康に味方したという、その政治的行動の大きさにあったと考えるべきであろう。
戦後、東軍の勝利に貢献した功績が認められ、直盛は石見国津和野(現在の島根県鹿足郡津和野町)に3万石の所領を与えられ、大名としての地位を確立した 7 。これが石見津和野藩の立藩である。
この論功行賞の際、家康が宇喜多という姓を嫌ったため、姓を「坂崎」に改めるよう命じられたと伝えられている 7 。この改姓は、彼が名実ともに宇喜多一門と決別し、徳川家の家臣として新たな道を歩み出すことを天下に示す、象徴的な出来事であった。
直盛が関ヶ原で下した決断は、戦国から近世へと移行する時代の武将が直面した苦悩を象徴している。旧来の価値観である主家への忠誠と、天下の趨勢を見極めて自らの家を存続させるという現実的な判断との間で、彼は後者を選択した。それは、かつての主君であり血縁者でもある秀家との敵対という痛みを伴うものであったが、結果として彼は独立した大名としての地位を手に入れた。彼の選択は、中世的な「忠義」の概念が変容し、新たな支配者である徳川への帰属が最優先される時代の到来を告げるものであった。
千姫事件の悲劇的なイメージに隠れがちであるが、坂崎直盛は津和野藩初代藩主として、わずか16年の治世の間に藩政の基礎を築いた有能な行政官であった 23 。彼の施策は、その後の亀井氏による250年以上にわたる統治の土台を築き、「名君」と評価されるに足る実績を残している 23 。
直盛は津和野に入封すると、直ちに中世以来の山城であった三本松城の近世城郭への大改修に着手した 12 。
彼の城普請は大規模なもので、まず山頂部を大きく削平して本丸や二の丸、三の丸といった主要な曲輪を造成し、それらを総石垣で固めた 24 。特筆すべきは、城の縄張り(設計)の変更である。彼は、それまで城の裏口(搦手)であった西側から、城の正面玄関(大手)を東側の城下町に面した位置へと移し、城と城下町を一体的に機能させる都市計画を行った 24 。
建造物としては、二の丸に三重の天守を新たに建造し、さらに本丸の北側には防御の拠点として「出丸」を築いた 12 。この出丸は、普請の奉行を務めた家老・浮田織部(うきた おりべ)の名にちなんで「織部丸」とも呼ばれ、城の防御力を飛躍的に向上させた 12 。
城の大改修と並行して、直盛は城の東麓に南北約3km、東西約300から500mにわたる細長い城下町を計画的に建設した 28 。この町割りは現在の津和野の町の骨格となっている。
藩政の基礎を固めるため、領内の実情を正確に把握すべく検地(土地調査)も実施している 23 。史料には慶長7年(1602年)に検地が行われた記録が残っており、これにより近世的な知行制と年貢収取体制の確立を目指したことがわかる 31 。
また、直盛は民政にも意を注いだ。城下町に張り巡らされた用水路や堀の整備に伴い、衛生問題として蚊の大量発生が懸念された。これに対し、彼は天敵となる鯉の養殖を奨励したと伝えられている 8 。これが、今日「山陰の小京都」津和野の象徴ともなっている「殿町の鯉」の起源とされる。さらに、藩の重要な財源となる和紙の原料として、楮(こうぞ)の植樹を奨励するなど、地域の特性を活かした産業振興策も打ち出している 8 。
これらの事績は、直盛が単なる武人ではなく、長期的な視野を持った優れた都市計画家であり、行政官であったことを明確に示している。彼の統治能力は、千姫事件の逸話とは全く異なる側面から、再評価されるべきである。
坂崎直盛の生涯を突き動かしていたのは、道義に外れたことへの強い憤り、すなわち「義憤」であったと評されている 15 。彼の行動は、個人的な恨みである「私憤」ではなく、常に公的な正義や道義に基づいていた。しかし、その純粋な正義感は、時として融通の利かない硬直性と、常軌を逸した執拗さとなって現れ、彼の人生に大きな影響を与えた。
後世の記録である『浦上宇喜多両家記』には、「武気強精、常に荒くして家人など手討する事数知れず」と記されており、非常に気が強く、短気で荒々しい一面があったことが窺える 8 。この直情径行な気質は、彼のキリシタンとしての行動にも表れている。禁教令下にもかかわらず、信仰を公言し、布教活動まで行ったことは、自らの信じる正義を貫徹するためには権威や危険を顧みない、彼の性格を物語っている 6 。
直盛の性格的特徴が最も顕著に現れたのが、慶長10年(1605年)に発生した「浮田左門事件」である 8 。この事件は、直盛の甥にあたる浮田左門が、直盛の寵愛する小姓と男色関係になったことに端を発する。これに激怒した直盛が小姓を処罰したところ、今度は左門がその処罰を実行した家臣を殺害して出奔するという、複雑な経緯を辿った 12 。
家臣を殺害した罪人を追うのは藩主として当然の責務であるが、直盛の対応は常軌を逸していた。彼は、左門を匿った縁戚の大名、伊勢安濃津城主・富田信高や日向懸城主・高橋元種に対し、執拗に身柄の引き渡しを要求。拒否されると、伏見城まで押しかけて武力衝突も辞さない構えを見せ、さらには大御所・徳川家康や将軍・秀忠にまで訴え出て裁定を求めたのである 8 。
この訴訟は実に8年もの歳月を費やし、最終的に幕府は直盛の主張を全面的に認め、左門は捕らえられ処刑された。さらに、彼を匿った富田信高と高橋元種は、この一件が原因で改易(領地没収)という厳しい処分を受けることとなった 8 。
この事件は、直盛の「義憤」が、いかに執拗で偏執的な領域にまで達しうるかを示す重要な事例である。自らの正義が少しでも侵害されることを許さず、相手が誰であろうと徹底的に追及するその姿勢は、彼の強みであると同時に、最大の弱点でもあった。この「一度こうと決めたらテコでも動かない」という硬直した性格こそが、後の「千姫事件」において、幕府の決定を受け入れられずに破滅的な行動へと彼を駆り立てる、決定的な伏線となったのである。彼の悲劇は、外部からもたらされたというよりは、彼自身の強烈な性格そのものに深く内包されていたと言えよう。
坂崎直盛の生涯を決定づけ、その名を歴史に刻んだ「千姫事件」。この事件は、後世の創作や脚色によって多くの謎と誤解に包まれている。ここでは、同時代の史料や近年の研究成果を基に、事件の「虚像」と「実像」を徹底的に検証する。
まず、事件の発端とされる千姫の救出劇そのものに、大きな認識の相違が存在する。
通説として広く知られているのは、元和元年(1615年)の大坂夏の陣で、直盛が燃え盛る大坂城内に自ら飛び込み、顔に大火傷を負うという壮絶な犠牲を払いながらも千姫を救出した、という英雄的な物語である 3。
しかし、これは後世の講談などによって創られた虚像の可能性が極めて高い。幕府の公式記録である『徳川実紀』によれば、千姫は秀頼母子の助命を嘆願するために自ら城を出て、その途上で直盛の部隊と遭遇し、彼によって家康の本陣まで無事に護送されたとある 35。また、豊臣方の武将であった堀内氏久が千姫を護衛して城を脱出し、直盛の陣まで送り届けた後、直盛が彼女を家康・秀忠のもとへ引き継いだとす る説が、近年の研究では最も有力視されている 8。直盛が城中に突入したという事実は、信頼性の高い一次史料では確認できない。
次に問題となるのが、千姫との婚姻の約束の有無である。家康もしくは将軍秀忠が「千姫を救い出した者に、彼女を妻として与える」と約束したという話は、事件の根幹をなす要素として語られてきた 1 。
しかし、この「約束」にも複数の説が存在し、その実態は極めて曖昧である。(a) 直盛個人に対して直接なされた約束だったとする説、(b) 特定の個人を想定しない一般的な布告だったとする説、(c) 家康が述べた「千姫を助けた者には相応の褒美を与える」という言葉を、直盛が都合よく「千姫自身を与える」と拡大解釈したとする説など、諸説紛々としている 8 。この約束を直接証明する確固たる一次史料は存在せず、事件を劇的に見せるための後世の創作である可能性が否定できない。
では、なぜ直盛は千姫との結婚が叶わなかったのか。そして、なぜ彼は千姫奪取という過激な計画に至ったのか。
ここにも、通説と有力説が存在する。通説は、救出時の火傷で醜くなった直盛の顔を千姫が嫌った、あるいは、護送の途中で目にした眉目秀麗な本多忠刻(ほんだ ただとき)に千姫が一目惚れしたため、という恋愛物語的な筋書きである 1。
しかし、より現実的な動機として近年注目されているのが「面目説」である。これは、千姫救出の功績とは別に、寡婦となった千姫の再婚相手を周旋する役目を幕府から公式に任されていた直盛が、公家との縁談を水面下で進めていたところ、その話が幕府の一方的な都合で突然反故にされ、本多忠刻との縁組が決定した、というものである 8。これが事実であれば、直盛は幕府によって大名としての面目を完全に潰されたことになる。彼の「義憤」に駆られやすい性格を考えれば、この屈辱に激怒し、実力行使に及ぼうとしたという動機は、恋愛説よりもはるかに説得力を持つ。
この事件の様相を伝える上で、極めて貴重なのが、当時江戸の平戸にあったイギリス商館の長、リチャード・コックスが記した日記である 4 。彼の記録は、事件を外部の客観的な(ただし噂も含む)視点から捉えている。
コックスは1616年10月10日(日本の元和2年9月10日)付の日記に次のように記している。「夜遅く、江戸市中に騒動が起こった。出羽殿(直盛)と呼ばれる武士が、明日新しい夫に嫁ぐ将軍(秀忠)の娘(千姫)を途中で奪うと広言したためである。聞くところによれば、老皇帝(家康)は生前、彼が大坂で示した功績に対し、彼女を彼に与えると約束した。しかし、現皇帝(秀忠)はこれを認めず、彼に切腹を命じた。だが彼は命令に従わず、剃髪した臣下一千人および婦女五十人と共に屋敷に立てこもり、全員で死ぬまで抵抗すると決意した。そこで皇帝は一万人余りの兵士でその屋敷を包囲させ、家臣に対し、穏やかに主君を引き渡せば、およそ19歳になる長子に領地を相続させると告げた。これを聞いた父(直盛)は、自らの手でその子を殺した。しかし家臣たちは後に主君を殺してその首を邸外の人に渡し、自分たちの生命を助け、領地を他の子に与えるよう求めた。風評によれば、皇帝はこれを承諾したとのことである」。
この記述は、事件が単なる個人的な襲撃計画ではなく、1000人規模の籠城と1万人による包囲という、大規模な軍事的対立であったことを示唆しており、幕府が直盛をいかに重大な脅威と見なしていたかを物語っている。
錯綜する情報を整理し、各説の信憑性を検討するため、以下に要点をまとめる。
項目 |
講談・俗説 |
幕府公式記録(『徳川実紀』等) |
英国商館長日記(R.コックス) |
近年の研究(有力説) |
千姫救出 |
城内へ突入し火傷を負い救出 3 |
途中で出会い護送 35 |
言及なし |
豊臣方が護送、直盛が引き継ぎ 8 |
婚姻の約束 |
「救出者に姫を与える」と明確な約束 2 |
明確な記述なし |
家康が生前に約束したと記述 40 |
約束の存在は疑わしい。「褒美」の拡大解釈か 8 |
破談の理由 |
直盛の醜い顔を姫が嫌った 1 |
記述なし |
将軍が約束を反故にした 40 |
公家への縁組周旋を反故にされ面目を潰された 8 |
事件の規模 |
個人的な怨恨による襲撃計画 3 |
坂崎出羽守の乱心として処理 21 |
1000人の家臣と籠城、1万人の兵が包囲 40 |
大規模な軍事的対立に発展した可能性 |
信憑性評価 |
物語的で信憑性は低い |
幕府の正当性を強調する意図 |
噂も含むが同時代の貴重な外部記録 |
政治的背景を重視し、最も合理的 |
これらの検証から、「千姫事件」は単なる痴情のもつれや個人の乱心ではなく、徳川幕府による意図的な政治的粛清の側面、異なる情報ソースが織りなす歴史像形成の典型例、そして坂崎直盛自身の「義憤」に駆られる性格の破滅的な発露という、三つの側面が複合した事件であったと結論付けられる。豊臣恩顧で直情的な外様大名は、体制の安定化を目指す幕府にとって邪魔な存在であり、事件を口実に排除された可能性は高い。幕府の意図と彼の性格が、最悪の形で交錯したのがこの事件の本質であったと言えよう。
本多忠刻との婚儀のため、千姫の輿入れの行列が江戸を進む日、坂崎直盛は計画通りに姫を奪うべく兵を動かそうとした。しかし、この計画は事前に幕府に露見しており、彼の江戸屋敷は既に大軍によって包囲されていた 3 。一説には、この包囲作戦には智将として知られる立花宗茂の計策が用いられたとも伝わっている 8 。
屋敷を包囲された直盛の最期については、複数の説が伝わっており、その真相は定かではない。これは、幕府が事件の真相を意図的に曖昧にし、自らに都合の良い物語を流布させた可能性を示唆している。
一つは、 自刃説 である。直盛の友人でもあった将軍家剣術指南役・柳生宗矩が説得にあたり、追い詰められた直盛が武士としての名誉を保つために自ら腹を切った、というものである 8 。この説には、宗矩がこの功により坂崎家の家紋である「二蓋笠(にがいかさ)」を譲り受け、柳生家の替紋にしたという逸話も付随している 8 。これは幕府の穏便な処置と柳生家の名声を高める物語として、幕府にとって都合の良い結末であった。
もう一つは、より悲惨な 家臣による殺害説 である。幕府が「主君・直盛が自害すれば、家督の相続を認めて家を存続させる」という甘言をもって家臣を懐柔した。しかし直盛が自害を頑なに拒んだため、お家断絶を恐れた家臣たちが、泥酔して寝入った直盛を斬首してその首を差し出した、という説である 3 。リチャード・コックスの日記も、家臣が主君を殺して首を差し出したと記録しており、この説の信憑性を高めている 40 。コックスが伝える「当主自ら子を殺す」ほどの徹底抗戦の意志を考えると、穏やかに自刃を受け入れたとは考えにくく、こちらの説の方がより実態に近い可能性が高い。
いずれにせよ、元和2年(1616年)9月11日、坂崎直盛はこの世を去った。津和野藩主となってからわずか16年、彼の死をもって坂崎家は大名として改易、断絶となった 4 。
大名家としての坂崎家は断絶したが、その血筋が完全に途絶えたわけではなかった。直盛の次男・重行の子孫が石見国鹿足郡日原村に移り住み、後に三隅の士である中村家の娘を娶って中村姓を名乗り、家系を存続させたと伝えられている 4 。その他にも、浜田藩士や加賀藩の家臣として坂崎姓を名乗る家があったとの記録も残っている 8 。
直盛の家臣たちの多くは助命され、後任として津和野藩主となった亀井政矩(かめい まさのり)に仕えた者もいたとされる 42 。
直盛の墓は、津和野の永明寺に現存する 2 。この墓は、彼が生前に庇護していた関ヶ原の敗将、旧出羽横手城主の小野寺義道が、直盛の死後、その恩義に報いるために13回忌に建立したものである。墓石には、徳川幕府を憚ってか「坂崎出羽守」ではなく「坂井出羽守」と刻まれており、彼の波乱に満ちた生涯の最後の痕跡を今に伝えている 13 。
坂崎直盛の生涯は、その劇的な最期、「千姫事件」の悲恋物語のイメージに集約され、語られてきた。しかし、本報告書で検証してきたように、その実像はより複雑で多面的なものであった。宇喜多一門の有力武将として生まれ、禁教令下で熱烈な信仰を貫くキリシタンとして生き、主家と袂を分かって徳川方に付き、関ヶ原の戦いの功で大名へと駆け上がる。その前半生は、まさに激動の時代を自らの意志で生き抜いた戦国武将の姿そのものである。
特に、彼が津和野藩初代藩主として見せた統治者としての側面は、再評価されるべきである。近世城郭への大改修と計画的な城下町の建設、検地の実施、そして地域の特性を活かした産業振興策は、藩政の基礎を固めた「名君」としての確かな手腕を示している 5 。この実績は、千姫事件の情熱的で破滅的なイメージとは対極にある、冷静で長期的な視野を持った為政者の顔を我々に見せてくれる。
彼の人物像を貫く「義憤」という気質は、彼の最大の長所であり、同時に最大の短所でもあった。道義に外れたことを許さない純粋な正義感は、時に彼を大胆な行動へと駆り立てたが、その一方で、時代や他者と妥協できない硬直性と偏執性も併せ持っていた 8 。この強烈な個性が、彼を大名の地位へと押し上げ、同時に破滅へと導いた最大の要因であったと言えよう。
結論として、坂崎直盛は、戦国時代の価値観、すなわち個人の武勇や面目、そして信義に基づく直接的な行動原理を色濃く残したまま、徳川による中央集権的な支配体制へと移行する過渡期を生きた人物である。彼の悲劇は、単なる個人の情念の問題に帰結するものではない。それは、旧時代の価値観を持つ人間が、新しい時代の秩序によって淘汰されていくという、歴史の非情な必然の物語でもあった。千姫事件という一つのレンズを通してのみ彼を判断するのではなく、統治者として、信仰者として、そして「義憤」に生きた一人の人間としての側面を正当に評価することによって、初めて坂崎直盛という武将の、立体的で人間味あふれる実像が浮かび上がってくるのである。