最終更新日 2025-06-15

垣屋光成

「垣屋光成」の画像

但馬の驍将、因幡の領主 ― 垣屋光成の生涯と一族の軌跡

序章:激動の時代を生きた国人領主

戦国時代は、旧来の権威が失墜し、実力のみがものをいう下剋上が常態化した激動の時代であった。かかる社会において、守護大名に仕える被官、いわゆる国人領主たちが、いかにして自らの家と所領を守り、あるいは勢力を拡大していったのか。その興亡の軌跡は、この時代の本質を理解する上で極めて重要な視座を提供する。本報告書で取り上げる垣屋光成(かきや みつなり)は、まさにその典型とも言うべき生涯を送った武将である。

一般に、垣屋光成は「但馬守護・山名氏の家臣であり、父の仇である田結庄是義(たいのしょう これよし)を討ち、後に羽柴秀吉に仕えて因幡国で一万石を領した大名」として知られている 1 。しかし、この簡潔な経歴は、彼の波乱に満ちた生涯の僅かな一側面に過ぎない。史料を深く読み解くと、彼の出自、父の仇討ちとされる「野田合戦」の真相、そして豊臣政権下で彼が果たした真の役割について、錯綜する情報と複数の解釈が存在することが明らかになる 1

本報告書は、これらの史料間の矛盾点を丹念に解きほぐし、但馬の有力被官から豊臣政権下の一大名へと変貌を遂げた垣屋光成の実像に迫ることを目的とする。さらに、彼の個人的な成功に留まらず、関ヶ原の戦いを境に大きく運命を変えた垣屋一族全体の軌跡を、政治、軍事、経済という多角的な視点から徹底的に分析・解明する。

第一部:但馬山名氏の重臣として ― 権勢と確執

羽柴秀吉の麾下に入る以前、垣屋光成は但馬国において、主家である山名氏の権威を時に凌駕するほどの力を持つ有力国人領主であった。本章では、彼の前半生を形作った但馬時代に焦点を当て、垣屋氏の権勢の背景と、宿敵・田結庄氏との深刻な対立構造を、当時の但馬を巡る織田・毛利という二大勢力の角逐というマクロな視点から分析する。

第一章:名門・垣屋氏の出自と権勢

垣屋氏は、但馬守護・山名氏の支配体制を支えた太田垣氏、八木氏、田結庄氏と並び、「山名四天王」と称された有力被官の一族であった 4 。その中でも垣屋氏は筆頭格と目され、その勢力は絶大であった 6 。一族は但馬国北部の楽々前(ささのくま)城を本拠とし、宵田城や轟城などに分家を配することで、広大な勢力圏を形成していた 6 。その権勢は時に主君である山名氏をも凌ぎ、両者の関係は常に緊張をはらんでいたとされる 6 。光成の父(あるいは祖父)とされる垣屋続成は、永正9年(1512年)に鶴ヶ峰城を築城し、一族の新たな拠点とした 6

垣屋氏の起源については、主に二つの説が伝えられている。一つは桓武平氏の流れを汲むとする説であり、もう一つは下総国の名族・千葉氏の傍流とする説である 10 。一つの氏族に複数の起源説が存在する背景には、単なる記録の混乱だけでなく、一族の権威付けや、時代ごとの政治的立場を正当化するための意図的な「系図の選択」があった可能性が考えられる。著名な武家の祖である桓武平氏に連なることは家格を高める上で有効であり、一方で特定の有力氏族である千葉氏に繋げることは、政治的連携において自らの立場を強調する意図があったのかもしれない。これは、垣屋氏が単一の意思で動く一枚岩の集団ではなく、内部に多様な利害関係を抱えた複合的な武士団であったことを示唆している。

本報告書で扱う垣屋一族の人物関係は史料によって記述が異なり、時に混同が見られるため 1 、議論の前提として主要人物の関係を以下の表に整理する。

氏名

読み

関係性

概要

垣屋 続成

かきや つぐなり

光成の父、または祖父

山名四天王の一人。親毛利派。元亀元年に田結庄是義の奇襲により自刃 11

垣屋 光成

かきや みつなり

続成の子、または孫

本報告書の主題 。播磨守、宗管と号す。羽柴秀吉に仕え、因幡桐山城主となる 1

垣屋 恒総

かきや つねふさ

光成の子

隠岐守。父の跡を継ぎ桐山城主となるが、関ヶ原の戦いで西軍に与し、敗戦後に自害。大名としての垣屋宗家は断絶 15

垣屋 豊続

かきや とよつぐ

光成の従兄弟か

駿河守。轟城主。但馬における親毛利派の中核武将。野田合戦を主導したという説がある 2

第二章:宿敵・田結庄氏との死闘

但馬国が織田信長と毛利輝元という二大勢力の衝突の最前線となる中で、山名氏の家中は親織田派と親毛利派に分裂し、深刻な内部抗争を繰り広げた 3 。この対立構造において、同じく山名四天王の一角であった田結庄是義は、早くから織田方としての立場を鮮明にした 13 。これに対し、垣屋一族の多くは伝統的に関係の深い毛利氏を支持し、その中核を担った 2 。両者の争いは、美含郡の領有を巡る対立 13 や、鉄砲の誤射に端を発する家臣の殺害事件といった偶発的な出来事 2 をきっかけとしながらも、その本質は但馬の将来の趨勢を賭けた代理戦争の様相を呈していた。

この激しい対立の末、元亀元年(1570年)、親毛利派の重鎮であった垣屋続成は、田結庄是義の周到な奇襲を受け、城崎郡岩井村の養寿院において自刃に追い込まれた 1

この父(または祖父)の非業の死に対し、光成が仇を討ったとされるのが、天正3年(1575年)の「野田合戦」である。この戦いで垣屋方は田結庄是義を攻め、是義は菩提寺の正福寺にて自害し、田結庄氏は滅亡した 1 。この「孝子の仇討ち」は光成の最も著名な逸話として知られている。

しかし、この野田合戦の主導者については、史料によって見解が分かれている。光成を主導者とする記録 1 が広く流布している一方で、より一次史料に近いとされる『吉川家文書』を典拠とする記述や豊岡市関連の郷土史料は、この戦いを主導したのは光成の従兄弟であり、当時但馬における親毛利派の軍事的中核を担っていた垣屋豊続であったと記している 2 。この食い違いは、単なる記録ミスとは考えにくい。毛利氏の軍事戦略の一環として行われたこの合戦において、軍事行動の主体が豊続であった蓋然性は高い。光成が主導者として語られるようになったのは、後に豊臣大名として立身した彼の経歴をより劇的に見せるための物語的脚色か、あるいは一族の当主として象徴的に功績が帰せられた結果である可能性が考えられる。本報告書では、豊続が軍事行動の主体であり、光成も一族の有力者としてこれに深く関与した、という立場を基本としつつ、この解釈の相違自体が、垣屋一族内部の複雑な力関係を反映している可能性を指摘しておきたい。

第二部:豊臣政権下の大名へ ― 転身と飛躍

但馬の有力国人であった垣屋光成は、織田信長の中国方面軍司令官、羽柴秀吉の但馬侵攻を機に、その生涯の大きな転換点を迎える。本章では、彼が旧主山名氏と袂を分かち、豊臣政権の一大名へと転身していく過程を追い、その政治的決断の背景と、豊臣政権下で与えられた役割の重要性を軍事・経済の両面から明らかにする。

第一章:羽柴秀吉への帰順と「因幡衆」としての活動

天正8年(1580年)、羽柴秀吉による但馬侵攻が本格化すると、但馬の国人衆は織田方につくか、毛利方につくかの最終的な選択を迫られた。これまで親毛利派として行動してきた垣屋氏であったが、光成はこの時、時流を的確に読み、いち早く秀吉に降伏する道を選んだ 1 。この決断は、西から迫る毛利と、圧倒的な力で東から進軍してくる織田の勢力を見極めた、極めて現実的な政治判断であったと言えよう。

秀吉の麾下に加わった光成は、直ちにその軍事力として動員される。但馬平定後、秀吉の次なる目標は因幡国であった。光成は秀吉軍の先鋒として、天正9年(1581年)の第二次鳥取城攻めに参加する 1 。この戦いは、秀吉の代名詞とも言える「兵糧攻め」によって城兵を飢餓地獄に陥れたことで知られるが、光成はこの過酷な戦いの最前線で戦功を挙げ、秀吉の信頼を勝ち取った。

鳥取城の落城後、秀吉は因幡国の新たな支配体制を構築する。鳥取城主に腹心の宮部継潤を据え、その支城として鹿野城に亀井茲矩、若桜鬼ヶ城に木下重堅、そして浦富桐山城に垣屋光成を配置した 20 。彼らは「因幡衆」として編成され、秀吉の直臣として因幡の統治と防衛を担うと共に、その後の豊臣政権による全国統一事業の尖兵として各地を転戦することになる 22

光成が因幡衆の一員として参陣した戦役は、記録に残るだけでも多岐にわたる。天正15年(1587年)の九州平定では、総大将・羽柴秀長が率いる日向方面軍の四番隊に、宇喜多秀家、宮部継潤らと共にその名を連ねている 24 。さらに天正18年(1590年)の小田原征伐 15 、そして秀吉の晩年最大の事業であった文禄の役(1592年)にも、400人の軍役を課せられ従軍した 15 。これらの従軍歴は、彼がもはや但馬の一国人領主ではなく、豊臣政権の軍事機構に完全に組み込まれた大名であったことを明確に物語っている。

第二章:因幡国桐山城主としての統治

鳥取城攻めにおける戦功により、光成は秀吉から因幡国巨濃郡(このぐん)に一万石の知行を与えられ、浦富(うらどみ)の桐山城主となった 14 。一部に所領を二万石とする資料も存在するが 1 、複数の史料が示す一万石という石高がより正確な数値と推定される。

光成の居城となった桐山城は、日本海に面した標高約203メートルの岩山に築かれた天然の要害であった 19 。この城は、陸路の要衝であると同時に、日本海の水運を掌握する上でも極めて重要な拠点であった。秀吉が、かつて但馬で水軍を率いた経験を持つ光成をこの地に配置した背景には、日本海交易路の確保と、依然として山陰に強大な影響力を保持する毛利氏への備えという、明確な戦略的意図が存在したことは想像に難くない。

光成は単なる軍人ではなかった。彼と息子の恒総が約20年間にわたって浦富を治める中で、現在の浦富の城下町の原型が形成されたと伝えられている 14 。これは、彼が領国経営を行う行政官としての優れた才覚も併せ持っていたことを示している。

しかし、垣屋光成の統治を理解する上で、石高や城下町形成以上に重要な要素が存在する。それは、彼の所領である巨濃郡に「因幡銀山(蒲生銀山)」という、当時国内有数の産銀量を誇る鉱山が存在したことである。豊臣政権は、石見銀山や生野銀山をはじめとする全国の主要鉱山を蔵入地(直轄地)とし、そこから産出される金銀を政権の強大な財政基盤としていた 31 。因幡銀山は文禄2年(1593年)に発見され、鳥取城主の宮部継潤によって盛んに開発が進められた 34 。慶長3年(1598年)には、この銀山から産出された銀9282枚余りが秀吉に献上されており、これは但馬生野銀山に次ぐ規模であったと記録されている 34 。この運上は鳥取城主の宮部長煕(継潤の子)の名で行われているが、鉱山自体は光成・恒総父子の支配下にあったとされ 37 、両者はその管理に深く関与していた。

これらの事実を統合すると、垣屋光成の桐山城への配置は、単なる一万石の大名としての封賞に留まらない、より高度な政治的・経済的意図に基づいていたことが明らかになる。彼は、豊臣政権の「準・蔵入地」とも言うべき重要経済拠点の現地管理者としての役割を期待されていたのである。その任務は、国境の軍事的な防衛に加え、豊臣政権の財政を支える膨大な鉱物資源の安定供給を保証することにあった。この視座は、光成の評価を単なる一武将から、豊臣政権の国家経営の一翼を担った重要人物へと大きく引き上げるものである。

第三部:光成の死と垣屋一族の行方 ― 栄光の終焉と再生

豊臣政権下で大名への飛躍を遂げた垣屋光成。しかし、彼の死と、その後の天下の情勢の激変は、垣屋一族の運命を大きく揺るがすことになる。本章では、光成個人の死を巡る謎から説き起こし、関ヶ原の戦いにおける嫡流の断絶と、それとは対照的な分家による家名存続という、戦国から近世への移行期における武家のしたたかな生き残り戦略を具体的に追跡する。

第一章:晩年と死を巡る謎

垣屋光成の没年には、文禄元年(1592年)説と 1 、それより10年早い天正10年(1582年)説が存在する 1 。しかし、天正15年(1587年)の九州平定に「因幡衆」の一員として従軍した記録が複数の史料で確認できることから 24 、文禄元年(1592年)説が有力と見なされる。1582年以降の事績を子の恒総のものとする説も存在するが 1 、これは没年に関する矛盾を解消するための一つの仮説であり、光成自身の活動と考える方が自然であろう。

光成は「播磨守」の官途名のほか、「宗管(そうかん)」という法号も称していた 14 。その墓は当初、居城であった桐山城内に設けられたが、後世に改葬され、現在は鳥取県岩美郡岩美町の定善寺に五輪塔として祀られている 14 。この五輪塔は町の史跡にも指定されている 14

この墓所には、光成の威光を物語る一つの伝説が残されている。江戸時代に入り、この地を新たに治めることになった鳥取藩池田氏の家臣が、旧領主の墓所が邪魔であるとして掘り返させたところ、埋葬から三十余年が経過しているにもかかわらず、光成の遺体はまるで生きているかのような姿を保っていたという。そして、この墓の破却に関わった者たちが次々と急死したり、病に倒れたりしたため、人々はこれを「光成の祟り」だと恐れ、語り継いだとされる 14

この種の祟り伝説は、単なる怪談として片付けるべきではない。そこには、新来の支配者である池田氏に対する、旧領主・垣屋氏を慕う在地の人々の複雑な感情や、支配者交代に伴う社会の動揺が、「旧領主の怨霊」という形で物語化されたものと解釈できる。武力によって支配者が交代しても、人々の心に残る旧主への思慕や新支配者への抵抗感は、こうした超自然的な物語として表現され、共有されることがある。この伝説は、光成がその死後も在地社会において強い記憶として残り続けた人物であったことを、逆説的に証明していると言えよう。

第二章:関ヶ原の戦いと一族の岐路

慶長5年(1600年)、豊臣秀吉の死後に顕在化した徳川家康と石田三成の対立は、天下分け目の関ヶ原の戦いへと発展する。この国家的な動乱は、垣屋一族にとっても、その存亡を賭けた重大な岐路となった。

光成の跡を継いだ嫡男・垣屋恒総は、この決戦に際して石田三成が率いる西軍に与した 15 。恒総は、伏見城攻めや大津城攻めに参加した記録が残っている 29 。彼のこの選択は、決して軽率な判断ではなかった。父・光成の栄達も、彼自身の地位も、すべては豊臣秀吉によって与えられたものであった。秀吉の死に際しては遺物である名刀「長光」を拝領するなど 15 、恒総は豊臣家への忠誠を期待される「豊臣恩顧の大名」そのものであり、徳川家康に与する義理はなかった。また、同じ「因幡衆」の宮部長熙や木下重堅も西軍に加わっており 22 、地域的な行動の一体性も見られる。恒総の西軍参加は、彼の出自と立場から導き出される、むしろ合理的な行動であった。

しかし、関ヶ原の本戦はわずか一日で西軍の壊滅的な敗北に終わる。これにより恒総の運命も決した。彼は戦場から離脱し、紀州高野山へ逃れたものの、そこで自刃して果てた 15 。その所領は没収(改易)され、豊臣大名としての垣屋宗家はここに滅亡したのである 28

宗家の滅亡という悲劇の一方で、垣屋一族の血脈は、近世社会においても巧みに生き残る道を見出していた。これは、関ヶ原という天下の分水嶺において、一族が東西両軍に分かれて属することで家の存続を図るという、多くの武家が採用した「保険」とも言うべき生存戦略の典型例であった。

恒総が率いる宗家が西軍に参加する一方で、分家である駿河守家の垣屋豊実(とよざね)は東軍に属して戦っていたのである 10 。この功績が認められ、戦後、駿河守家は播磨国龍野藩主・脇坂氏の家老として取り立てられ、近世を通じてその家名を保った 10 。近年、たつの市立龍野歴史文化資料館に所蔵される「垣屋氏文書」が注目されているが、これはまさに脇坂家家臣となった垣屋氏の来歴を裏付ける貴重な史料群である 42

さらに驚くべきことに、光成の孫にあたる垣屋吉綱という人物が、徳川御三家筆頭である紀州徳川家に重臣として仕えていたことが確認されている 15 。実際に紀州藩の分限帳や由緒書にも「垣屋」の名が見え、その存在を裏付けている 44

これらの事実は、垣屋氏が嫡流の滅亡と引き換えに、複数の分家を徳川政権下の有力大名家中に巧みに潜り込ませることで、一族全体の血脈と「垣屋」という家名を近世社会に存続させることに成功したことを示している。それは、乱世を生き抜く武家のしたたかな生存戦略の表れであり、光成の代から続く一族の鋭い政治的嗅覚を物語っている。

結論:乱世を生き抜いた武将の実像

垣屋光成の生涯は、但馬の一国人領主が、中央の激しい政治動向に翻弄されながらも、時流を読む鋭敏な嗅覚と大胆な決断力によって豊臣大名へと飛躍し、与えられた新たな領地で確固たる基盤を築き上げた、まさに戦国乱世の縮図とも言うべき軌跡であった。

本報告書を通じて明らかになった光成の実像は、単なる地方武将の枠を大きく超えるものである。父の仇討ちという個人的な動機(その史実性には議論の余地が残るものの)と、織田・毛利の対立という地政学的な状況を巧みに乗りこなし、豊臣政権下においては、因幡衆の一員として各地を転戦する軍事的能力を発揮する一方で、日本海交易の要衝と重要鉱山を管理する経済官僚としての一面も併せ持っていた。彼は、豊臣秀吉という当代随一の為政者から、その多面的な能力を高く評価され、国家戦略の重要な一翼を担う存在として重用されたのである。

光成に関する史料に錯綜が見られること自体が、彼と彼の一族が歩んだ複雑な歴史を反映している。後世に作られた英雄譚、対立する勢力からの記録、そして一族が自らの正統性を主張するために残した系図。本報告書で試みたように、これらの多様な史料を比較検討し、その背後にある文脈を読み解くことで、より立体的で深みのある歴史像を構築することが可能となる。

垣屋光成の物語は、一人の武将の立身出世譚に留まらない。それは、戦国から近世へと時代が大きく転換する中で、無数の武士たちが経験した栄光と没落、そして再生のドラマを凝縮した、魅力的な研究対象であり続けるだろう。

引用文献

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  46. 岸本良信公式ホームページ 藩士と幕臣の名簿 紀州藩(和歌山藩・紀伊藩) https://www.kishimotoyoshinobu.com/%E7%B4%80%E5%B7%9E%E8%97%A9%EF%BC%88%E5%92%8C%E6%AD%8C%E5%B1%B1%E8%97%A9%E3%83%BB%E7%B4%80%E4%BC%8A%E8%97%A9%EF%BC%89/
  47. 紀州藩家臣のご先祖調べ https://www.kakeisi.com/han/han_wakayama.html