本報告書は、安土桃山時代の武将、垣屋恒総(かきや つねふさ)の生涯を、その出自から最期、そして一族のその後に至るまで、現存する史料に基づき徹底的に解明することを目的とします。
垣屋恒総は、豊臣秀吉に見出され、因幡国浦住(うらすみ)桐山城(現在の鳥取県岩美町)に一万石を領した大名です 1 。通称を新五郎、官位を隠岐守と称しました 1 。彼は秀吉の天下統一事業に従い、小田原征伐や朝鮮出兵にも従軍しましたが、秀吉の死後に勃発した関ヶ原の合戦において西軍に与し、その敗北によって自害、大名としての垣屋宗家はここに一旦、滅亡の途を辿ります 1 。
しかし、彼の死は、垣屋一族の物語の終焉ではありませんでした。西軍に与した恒総の宗家が改易される一方で、東軍に付いた分家は新たな主君の下で家名を保ち、さらに驚くべきことに、自害した恒総の直系の子孫までもが徳川御三家の一つである紀州藩に仕官し、宗家を再興させるという劇的な展開を迎えるのです 1 。
一人の武将の悲劇的な死と、その裏で繰り広げられた一族のしたたかな生存戦略。本報告書は、垣屋恒総という人物の生涯を丹念に追うことで、彼が属した「垣屋氏」という一族の視点から、戦国から近世へと移行する時代のダイナミズムと、その激動の時代を生きた地方豪族の流転の実像に迫ります。
以下に、本報告の理解を助けるため、垣屋恒総の生涯における主要な出来事を年譜として示します。
表1:垣屋恒総 年譜
西暦 (和暦) |
出来事 |
典拠史料/参考文献 |
生年不詳 |
垣屋光成の子として誕生。通称、新五郎。 |
1 |
天正18年 (1590) |
小田原征伐に従軍。400人の軍役を課される。 |
5 |
文禄元年 (1592) |
文禄の役(朝鮮派兵)に従軍し、渡海。 |
3 |
文禄2年 (1593) |
第二次晋州城攻めに201人の兵を率いて参加。 |
6 |
慶長5年 (1600) |
関ヶ原の戦い。 西軍に属し、大津城攻撃に参加。 |
1 |
慶長5年 (1600) |
西軍敗北後、高野山千手院にて自害。 |
1 |
垣屋恒総の生涯を理解するためには、まず彼が属した垣屋氏が、但馬国(現在の兵庫県北部)においていかなる歴史を歩んできたのかを把握する必要があります。その出自は錯綜し、室町時代には主家を凌ぐほどの勢力を誇った一族でした。
垣屋氏の出自については、複数の説が存在し、単一の起源に収斂させることは困難です。これは、一族が但馬国内で複数の系統に分かれ、それぞれが自家の権威付けのために異なる系図を作成・伝承した結果と考えられます。
表2:垣屋氏の出自に関する諸説の比較
史料名/伝承元 |
主張される出自 |
始祖とされる人物 |
備考 |
『紀州垣屋系図』等 |
桓武平氏 土屋氏族 |
平継遠 |
紀州徳川家に仕えた宗家の子孫が作成。比較的信頼性が高いとされる 4 。 |
豊岡市伝来『垣屋系図』 |
千葉氏族 |
千葉忠法 |
豊岡市に伝わる系図に基づく 9 。 |
『高畑垣屋文書』 |
源姓 山名氏分家 |
(山名氏の支流) |
龍野藩脇坂家に仕えた分家の公式文書。江戸幕府への配慮から源氏を称した可能性が指摘される 9 。 |
これらの説の中で、江戸時代に紀州徳川家の重臣となった恒総の子孫が作成した『紀州垣屋系図』などに見られる「桓武平氏・土屋氏族説」が、他の史料との整合性から比較的有力視されています 4 。この説によれば、相模国(現在の神奈川県)の武士団である土屋氏の一族が但馬に移り住んだのが始まりとされます。
一方で、龍野藩脇坂家に仕えた分家が公式文書として用いた『高畑垣屋文書』では「源姓・山名氏分家説」を採っています 9 。これは、江戸時代に入り、主家である脇坂氏や、天下人となった徳川家(源氏)におもねって系図を改変した可能性が考えられます。このように、出自の多様性は、垣屋氏という一族の複雑な成り立ちと、近世社会を生き抜くための生存戦略の一端を物語っているのです。
出自の詳細はさておき、垣屋氏が但馬の歴史に確固たる足跡を記し始めるのは、南北朝時代に但馬守護・山名時氏に従って同国に入部してからです 4 。彼らの運命を大きく変えたのが、明徳2年(1391年)に勃発した明徳の乱でした。この乱において、山名一族の多くが幕府に反旗を翻した山名氏清・満幸方に付く中、垣屋氏は一貫して幕府方である山名時熙に味方し、戦功を挙げました。この功績が認められ、垣屋氏は山名家中で飛躍的にその地位を高めることになります 9 。
室町時代を通じて、垣屋氏は太田垣氏、八木氏、田結庄(たいのしょう)氏と並び「山名四天王」と称されるほどの重臣の地位を確立します。その中でも筆頭格と見なされ、主家である山名氏を支える重要な役割を担いました 9 。
応仁の乱(1467年-1477年)を経て、守護大名であった山名氏の権威が揺らぎ始めると、守護代であった垣屋氏はその力を背景に、但馬国の中央部である城之崎城(豊岡城)周辺を制圧し、戦国大名化への道を歩み始めます。その勢いは凄まじく、一時は主家である山名氏を出石(いずし)地方に追いやり、「小土豪同然」の存在にまで貶めたと記録されています 10 。これは、垣屋氏が単なる忠実な家臣ではなく、機に乗じて主家を凌駕しようとする「下剋上」の気風を持った、独立志向の強い武士団であったことを示しています。
しかし、戦国時代後期に入ると、一族内の対立や周辺勢力との抗争により、その勢力は一時的に衰退します。恒総の祖父とされる垣屋続成(つぐなり)が、同じく山名氏重臣であった田結庄是義に討たれるなど、一族は苦難の時代を迎えることになりました 10 。この逆境の中から、父・光成、そして恒総の時代が幕を開けるのです。
戦国後期の混乱の中、垣屋氏を再興し、豊臣政権下の大名へと押し上げたのが、恒総の父である垣屋光成(みつなり)でした。彼の的確な状況判断と戦略的な選択が、一族の運命を大きく左右しました。
天正年間、織田信長の勢力が中国地方に及ぶと、但馬の国人衆は織田方につくか、西国の雄・毛利方につくかの選択を迫られます。このとき、垣屋一族内でも意見が分かれ、分家の垣屋豊続(とよつぐ)が毛利方に通じる一方で、宗家を率いる光成は織田方への接近を模索します 13 。
当初、光成は主君・山名祐豊の意向を受け、尼子氏の再興を目指す山中幸盛(鹿介)を支援するなど、反毛利の姿勢を示していました 14 。しかし、天正8年(1580年)、信長の命を受けた羽柴秀吉が圧倒的な軍事力をもって但馬に侵攻すると、光成は抵抗を続けることなく、いち早く秀吉に降伏します 10 。この迅速な決断は、旧来の主従関係や地域のしがらみに囚われず、新たな時代の到来を見据えた、極めて現実的な戦略的転換でした。この「鞍替え」の成功が、息子・恒総の代までの繁栄を約束することになります。
秀吉の麾下に入った光成は、但馬平定戦で活躍した後、天正9年(1581年)の第二次鳥取城攻めにおいて重要な役割を担います。秀吉は、光成を因幡と但馬の国境に位置する海上交通の要衝、桐山城(浦富木山城)に配置しました 12 。
この配置には、秀吉の巧みな人事戦略が窺えます。桐山城は日本海に面した「水軍城」としての性格が強く 12 、但馬沿岸部に勢力基盤を持っていた垣屋氏は、水運に関する知識と経験が豊富であったと考えられます 13 。秀吉は、光成をこの地に置くことで、鳥取城攻めの生命線である兵站路の確保と、但馬方面からの毛利勢の牽制という二つの目的を果たそうとしたのです。これは、垣屋氏が単なる戦闘部隊としてだけでなく、兵站を担う専門家集団としても高く評価されていたことを示唆しています。
光成はこの期待に応え、鳥取城攻めにおける兵糧攻め(渇え殺し)を側面から支えました。鳥取城が落城すると、秀吉はその軍功を賞し、光成に因幡国巨濃郡(おおみのこおり)一万石を与え、正式に桐山城主としました 3 。これにより、垣屋氏は但馬の一国人から、豊臣政権に直属する大名へと華麗な転身を遂げたのです。
因幡の初代領主となった光成は、この地で統治の基礎を築きました。彼の没年については、文禄元年(1592年)説 15 や、それ以前の天正10年(1582年)で以降の事績は息子の恒総によるものとする説 15 などがあり、判然としませんが、彼が因幡垣屋氏の礎を築いたことは間違いありません。
彼の墓所は、当初桐山城内にありましたが、後に浦富の定善寺に改葬されたと伝わる五輪塔として現存し、現在は岩美町の史跡に指定されています 17 。この墓には、江戸時代に後任の領主が墓を移そうとした際、光成の遺体が生前の姿を保ったまま(ミイラ化)現れ、工事関係者に祟りをなしたという逸話が残されています 17 。これは、領主交代という大きな変化の中で、地域の人々が旧領主である垣屋氏に対して抱いていた畏敬の念や記憶が、伝説として語り継がれたものと考えられます。
父・光成が築いた基盤の上に、豊臣大名としての道を歩んだのが垣屋恒総です。彼は、秀吉の天下統一事業と、その後の政権安定に貢献しました。
父の跡を継いで因幡国浦富桐山城主となった恒総は、通称を新五郎、後に官位である隠岐守を名乗ります 1 。父子二代にわたる約20年間の統治の間に、浦富の城下町の原型が形成されたと考えられており、恒総が領国経営にも意を用いていたことが窺えます 17 。
また、鳥取の外港である賀露(かろ)港を、隣接する鹿野城主・亀井茲矩(これのり)から譲り受け、鳥取城下の発展に寄与したという伝承も残っています 21 。桐山城が軍事拠点、特に水軍の拠点としての性格が強かったこと 12 と合わせると、恒総の統治は、軍事拠点の維持管理と、日本海交易の結節点である港湾の経営という二本柱で成り立っていたと推測されます。これは、父の代から続く、垣屋氏の「海」との深い関わりを継承した、彼らの領国経営の特色であったと言えるでしょう。
豊臣政権下の大名として、恒総は秀吉が主導する主要な軍事行動に「因幡衆」の一員として参加します。この「因幡衆」とは、鳥取城主の宮部継潤(つぐます)を中核に、恒総や木下重堅(しげかた)、亀井茲矩といった因幡国内の諸将で編成された地域軍団でした。秀吉は彼らを一つの軍事ユニットとして運用しており、恒総の立場も独立した大名というよりは、この地域軍団の構成員という側面が強かったと考えられます。この組織構造は、後の関ヶ原での彼の行動選択にも大きな影響を与えた可能性があります。
天正18年(1590年)、秀吉が関東の後北条氏を討伐した小田原征伐において、恒総(垣屋隠岐守)は400人の軍役を課せられています 5 。これは、同じ因幡衆である宮部継潤(2000人)や木下重堅(900人)と比較すると小規模ですが、豊臣軍の一翼を担う大名として明確に位置づけられていた証拠です 5 。
秀吉による朝鮮出兵においても、恒総は因幡衆の一員として朝鮮へ渡海しました 3 。文禄2年(1593年)6月に行われた第二次晋州城攻めの際の陣立書には、「垣屋恒総 201人」と、彼が動員した具体的な兵力が記録されています 6 。これは、一万石の大名として標準的な軍役であり、彼の動員実態を示す貴重な史料です。また、豊臣秀次の側近であった駒井重勝の日記『増補駒井日記』の閏9月11日条にも、釜山浦に在陣し城の普請(工事)を行うべき武将の一人として「垣屋新五郎」の名が見え、朝鮮半島で着実に任務を遂行していたことが確認できます 23 。
慶長3年(1598年)の豊臣秀吉の死は、日本の政治情勢を再び流動化させます。恒総もまた、この天下分け目の動乱に巻き込まれていきました。
慶長5年(1600年)、徳川家康を中心とする東軍と、石田三成を中心とする西軍が激突する関ヶ原の戦いが勃発すると、恒総は西軍に与することを決断します 1 。
その理由を直接示す史料はありませんが、いくつかの要因が考えられます。第一に、父・光成の代から秀吉に抜擢された「豊臣恩顧」の大名として、豊臣家への忠義を貫こうとしたこと。第二に、彼が属していた「因幡衆」の中核である宮部長煕(宮部継潤の子)や木下重堅も西軍に与しており 3 、彼らと行動を共にするのが自然な流れであったこと。一万石の恒総が、地域の有力大名である宮部氏らと異なる行動を取ることは、政治的にも軍事的にも極めて困難であったと推測されます。彼の選択は、個人的な信条以上に、彼が組み込まれていた組織の論理に強く規定された、現実的な判断であった可能性が高いのです。
恒総は、関ヶ原の本戦には直接参加せず、西軍の別働隊として近江大津城(現在の滋賀県大津市)の攻撃に参加しました 1 。
大津城は、東軍に付いた京極高次がわずかな兵で籠城していましたが、東海道と中山道を押さえる戦略的要衝でした。西軍は、毛利元康を総大将に、立花宗茂や小早川秀包といった名将を含む1万5千の軍勢でこれを包囲します 8 。この攻撃軍の編成を記した史料には、「付衆(付属部隊)」として「垣屋四郎兵衛(恒総ヵ)」の名が見えます 8 。「四郎兵衛」は通称「新五郎」の誤記または別称と考えられ、恒総がこの部隊に加わっていたことは確実視されています。
西軍首脳部は、大津城を短期間で陥落させ、主力を関ヶ原の本戦に合流させる計画でした。しかし、城主・京極高次の予想外の奮戦により、攻城戦は9月7日から15日の本戦当日まで長引きます。恒総らが大津城をようやく開城させたのは、関ヶ原での西軍の敗北が決まった後でした 25 。
結果として、この大津城攻めは、立花宗茂をはじめとする西軍の有力部隊を本戦から引き離すことになり、西軍敗北の一因となりました。恒総にとっても、これは不運な「持ち場」であったと言わざるを得ません。彼は本戦で武功を挙げて名誉を挽回する機会を完全に失い、ただ西軍の敗北という事実だけが残りました。彼がこの戦いで感状(感謝状)などの恩賞を受けた記録は見当たらず、戦後の交渉で有利になるような材料も持ち合わせませんでした 8 。
関ヶ原での本戦に参加することなく、西軍の敗北という報に接した恒総の運命は、急速に暗転します。
慶長5年(1600年)9月15日、関ヶ原での西軍壊滅の報を知った恒総は、大津城の戦後処理を終えた後、戦線を離脱し、紀州高野山へと逃れます 1 。高野山は、古来より戦に敗れた武将が庇護を求めて逃げ込む聖域でした。
追われる身となった恒総は、高野山の千手院にて自害を遂げました 1 。西軍に与した大名としての責任を取る、あるいは追討を免れるための、武士としての潔い最期でした。これにより、豊臣大名としての垣屋宗家は徳川家康によって改易(領地没収)され、ここに一旦滅亡します 3 。彼の辞世の句は伝わっていませんが 1 、その死は戦国乱世の終焉と、徳川による新たな支配体制の確立を象徴する数多の出来事の一つとなりました。
恒総の墓は、自害した高野山の光明院にあるとされています 20 。一方で、彼の遺髪は故郷である因幡国に送られ、鳥取県岩美町宇治にある曹洞宗の寺院、長安寺に葬られました。ここには現在も「垣屋恒総の宝篋印塔」が残り、町の史跡に指定されています 1 。彼の法名は「学窓院殿消雪宗圓大禅定門(がくそういんでん しょうせつそうえん だいぜんじょうもん)」と伝えられています 20 。
また、恒総の自害後、居城であった桐山城に残された妻子は、忠義ある家臣の手引きによって、一族の旧領である但馬国西の下(現在の兵庫県豊岡市日高町)へと落ち延びたと伝えられています 20 。この伝承は、主家が滅んでもなお、主君の家族を守ろうとした家臣たちの存在を今に伝えています。
恒総の自害によって宗家は滅びましたが、垣屋氏の血脈は絶えませんでした。一族は、驚くべきしたたかさと幸運によって、新たな江戸の世を生き抜いていきます。これは、戦国武家がしばしば用いた「両属」あるいは「リスク分散」という生存戦略が、結果的に功を奏した典型例と見ることができます。
恒総の宗家が西軍に与して滅亡した一方で、垣屋氏の分家である駿河守家の系統は、関ヶ原の戦いで東軍に与していました 1 。この駿河守家は、もともと但馬の轟城を拠点とし、一族内でも独立した動きを見せていた家系です 4 。
この東軍参加の功績により、戦後、駿河守家は存続を許されます。そして、同じく関ヶ原で東軍に寝返り功を挙げた脇坂安治が藩主を務める播磨国龍野藩(現在の兵庫県たつの市)に仕え、代々家老職を務める名家となりました 1 。この龍野脇坂家に仕えた垣屋氏の菩提寺はたつの市内の普音寺であり、そこには垣屋氏の家紋である「三つ石畳紋」を刻んだ墓石が現存しています 36 。宗家が西軍、分家が東軍に付くことで、どちらが勝利しても家名を存続させるという、真田家にも見られるような巧みな生存戦略がここにも見て取れます。
さらに特筆すべきは、自害した恒総の直系子孫の動向です。敗軍の将となり「逆賊」として死んだ恒総の孫にあたる垣屋吉綱(よしつな、別名:光重)が、後に徳川御三家筆頭である紀州徳川家に仕官し、重臣として取り立てられるという、劇的な家名再興を果たしたのです 1 。
これにより、一度は改易された垣屋宗家の血脈は、徳川の世で、しかも極めて名誉ある形で復活を遂げました。この再興の背景には、いくつかの要因が考えられます。一つは、龍野藩の家老となっていた分家の垣屋氏が、主君の脇坂安治を通じて幕府や紀州藩に口添えをした可能性です。脇坂安治自身も元は豊臣恩顧の大名であり、同じような境遇の武家に対して同情的であったかもしれません 39 。また、同じく西軍に与して改易されながらも、その実力と人望から後に大名として復活を遂げた立花宗茂の例 40 に見られるように、江戸時代初期にはまだ社会に流動性があり、個人の能力や縁故が評価され、敗者復活の道が開かれる余地があったことも挙げられます。
いずれにせよ、吉綱自身が浪人生活の中で武芸や才覚を磨き、紀州藩に認められるだけの実力を持っていたことは間違いありません。この紀州藩に仕えた垣屋氏によって、一族の歴史をまとめた『紀伊垣屋系図』が編纂され、彼らの出自や歴史が後世に伝えられることになりました 4 。
垣屋恒総の生涯は、豊臣秀吉によって取り立てられ、秀吉の死と共に始まった動乱の中で、豊臣家への忠義と自家の存続との間で苦悩し、最終的に時代の奔流に飲み込まれていった、典型的な豊臣恩顧大名の姿を映し出しています。
彼は、父・光成のような時流を読む機敏さには恵まれなかったかもしれません。しかし、秀吉政権下の大名として小田原征伐や朝鮮出兵といった国家的な事業に参加し、与えられた役目を実直にこなしました。そして関ヶ原では、自らが属する「因幡衆」という組織の一員として西軍に与し、敗北の責めを負って潔く自害するという、武士としての最期を遂げました。
彼の死と、その後の子孫たちによる驚くべき再興劇は、歴史を単なる勝者と敗者の物語では割り切れない、複雑な側面を我々に示してくれます。滅亡の淵に立たされながらも、分家の活躍や孫の才覚によって血脈を繋ぎ、新たな時代に適応していった垣屋一族の歴史は、戦国から近世への移行期における社会構造の流動性と、そこに生きた人々の強かな生命力を如実に物語っています。垣屋恒総の物語は、滅亡と再生が表裏一体であった時代の、貴重な一つのケーススタディと言えるでしょう。