最終更新日 2025-08-01

垣屋政忠

垣屋政忠は史料にないが、但馬垣屋氏は山名氏守護代として台頭し、下剋上を達成。織田・毛利の狭間で分裂し、関ヶ原で終焉を迎えた。
「垣屋政忠」の画像

日本の戦国時代における但馬垣屋氏の興亡と「政忠」の謎

序論:垣屋政忠をめぐる史料上の謎と本報告書の視座

日本の戦国時代、但馬国にその名を刻んだ武家、垣屋氏。主君である山名氏の「四天王」に数えられ、但馬守護代として権勢を振るい、気多郡楽々前(ささのくま)城を拠点とした一族として知られている。本報告書は、利用者より提示された「垣屋政忠」という特定の人物に関する徹底的な調査依頼に端を発する。

しかし、現存する各種史料、古文書、編纂物などを精査した結果、驚くべきことに「垣屋政忠」という名の人物を直接的に確認することはできなかった 1 。この事実は、本調査の出発点を大きく転換させる。すなわち、史料に現れない一人の人物を追うのではなく、彼が存在したであろう「垣屋氏」そのものの歴史的変遷を丹念に解き明かすことこそが、依頼の核心に応える唯一の道であるとの結論に至った。本報告書は、垣屋氏の出自からその権力形成、主家を凌駕する「下剋上」、織田・毛利という二大勢力の狭間での分裂、そして豊臣政権下での栄達と関ヶ原の戦いにおける終焉まで、その激動の軌跡を包括的に描き出す。

その上で、「政忠」という名が持つ意味について一つの仮説を提示したい。「政」の一字は、当時の但馬守護・山名 豊から与えられた偏諱(へんき)である可能性が極めて高い。そして「忠」は、文字通り「忠義」を意味する。これは、垣屋政忠が山名政豊に忠節を尽くした人物であったことを強く示唆する。具体的には、文明15年(1483年)、山名政豊が播磨で赤松氏に大敗を喫した際、当時の垣屋氏当主・宗続(そうぞく)と共に討死した350名余りの一族郎党の中に、この「政忠」が含まれていたのではないか 4 。彼の存在は、後に主家を裏切り、自らの野心のために動くことになる垣屋続成や光成、豊続といった後継者たちとは対照的な、「忠臣」としての垣屋氏の記憶を今に伝える、失われた環(ミッシング・リンク)なのかもしれない。

歴史の記録は、しばしば天下の動静に関わった者、すなわち中央の権力者と書状を交わし、大規模な合戦で名を馳せた人物に光を当てる。垣屋続成、光成、豊続らが史料に頻出するのはそのためである 1 。一方で、局地的な出来事の中で忠義に殉じた人物の名は、特定の寺社の過去帳や散逸した家譜にのみ記され、歴史の表舞台から姿を消すことが多い。「垣屋政忠」の謎は、まさにこの歴史叙述の性質そのものを我々に突きつけている。

したがって、本報告書は、垣屋一族の興亡という壮大な歴史のタペストリーを織り上げることによって、その中に「政忠」という人物がいたであろう空間を特定し、彼の生きた時代の政治的、軍事的、社会的実像を明らかにすることを目的とする。

第一章:但馬守護代・垣屋氏の出自と権力基盤の形成

1-1. 出自と但馬入部

垣屋氏の出自については諸説あり、その系譜は複雑である。最も有力な説として、桓武平氏の流れを汲む坂東武者の土屋氏の一族とするものがある 1 。史料によっては「柿屋」や「垣谷」とも表記されるこの一族が但馬の歴史に登場するのは、南北朝時代、主家である山名氏に従って関東から下向したことに始まるとされる 1 。当初、垣屋氏は山名家において主家の家政を司る執事的な地位にあり、譜代の家臣として重用された 1

1-2. 山名四天王と守護代

室町時代を通じて、垣屋氏は着実にその地位を高めていった。やがて、同じく山名氏の重臣であった太田垣氏、八木氏、田結庄(たゆいのしょう)氏らと共に「山名四天王」と称される筆頭家老の地位を確立するに至る 8 。これは、彼らが但馬国内において単なる家臣ではなく、国政を左右する有力国人領主であったことを示している。

そして、垣屋氏は但馬国の行政・軍事を守護に代わって執行する「守護代」の職を世襲するようになる 1 。この守護代という役職こそ、後に彼らが主家を凌駕し、戦国大名へと飛躍するための強力な権力基盤となったのである。

1-3. 本拠地・楽々前城

垣屋氏が代々の居城としたのが、但馬国気多郡に位置する楽々前城(ささのくまじょう)である 13 。この城の名は「らくらくまえじょう」ではなく「ささのくまじょう」と読むのが正しい 15 。標高約300メートルの山上に築かれたこの城は、南北約600メートルに及ぶ広大な城域を持つ巨大な山城であった 16 。築城は応永年間(1394年~1428年)に垣屋隆国によって行われたと伝えられている 15

楽々前城の構造は、単なる防衛拠点の域を超えている。城跡には今日もなお、高く切り立った切岸(きりぎし)や深い堀切(ほりきり)が残り、特に西側斜面に設けられた大規模な「畝状竪堀群(うねじょうたてぼりぐん)」は圧巻である 17 。畝状竪堀は、戦国時代後期に発達した防御施設で、斜面を登ってくる大軍の歩兵の動きを阻害し、側面からの攻撃を容易にするためのものである。

この楽々前城の堅固で巨大な構造は、単に軍事技術の高さを示すだけではない。このような大規模な城郭を築くには、莫大な財力と領民を動員する強大な権力が必要不可欠である。それは、守護代という立場にあった垣屋氏が、すでに名目上の主君である山名氏を凌ぎ、但馬一国の富と労働力を実質的に掌握していたことの動かぬ証拠と言える。楽々前城は、来るべき下剋上の時代を前に、垣屋氏が自らの力を内外に誇示するために築いた、権力のモニュメントだったのである。

第二章:下剋上―戦国大名への道

2-1. 主家・山名氏の衰退

かつて室町幕府の四職(ししき)の一つに数えられ、十一か国の守護を兼ねた山名氏も、応仁の乱(1467年~1477年)を境にその勢力を急速に失っていった 20 。惣領家の内紛と、守護代をはじめとする有力被官の台頭が、その衰退に拍車をかけた 1

垣屋氏は、守護の徴税権であった反銭(たんせん)の徴収権を譲り受けるなど、主家の権益を次々と侵食していく 1 。その結果、山名氏は但馬国の中枢であった豊岡の守護所を追われ、自己の直轄領である出石(いずし)へと拠点を移さざるを得なくなった 12 。これは、守護山名氏が、その家臣であった垣屋氏によって自領の片隅へと追いやられたことを意味し、両者の力関係の逆転を象徴する出来事であった。

2-2. 垣屋続成の台頭と主家への挑戦

文明17年(1485年)の播磨遠征で当主・宗続をはじめ一族の多くを失うという壊滅的な打撃を受けた垣屋氏であったが、宗続の子・続成(つぐなり)の代に驚異的な復興を遂げる 4 。続成は巧みな領国経営によって勢力を回復・拡大させ、16世紀初頭には、もはや守護山名氏を完全に凌駕する実力を持つに至った 1

そして永正元年(1504年)、続成はついに公然と主家へ牙をむく。山名致豊(ちほう)の居城である此隅山城(このすみやまじょう)を攻撃したのである 1 。これは、家臣が主君を武力で打倒しようとする「下剋上」の典型であった。

2-3. 但馬の支配者として

この軍事衝突は、室町幕府の仲介によって和議が成立するが、但馬における実質的な支配者が垣屋氏であることは、もはや誰の目にも明らかであった 1 。続成は、この圧倒的な力を背景に、巧みな政治的駆け引きを見せる。彼は主君である致豊に将軍・足利義稙(よしたね)への拝謁のため上洛するよう「勧め」、これを実現させた。この「功績」により、垣屋続成は将軍から直接、大名格の待遇である毛氈(もうせん)の鞍覆(くらおおい)や白傘袋(しろかさぶくろ)、網代輿(あじろごし)の使用を許可されるという破格の恩賞を得た 1

これは、垣屋氏がもはや山名氏の家臣ではなく、将軍に直属する独立した大名(戦国大名)として幕府に公認されたことを意味した 1 。名実ともに但馬の支配者となった垣屋氏の発言力は、以後、絶対的なものとなったのである。


表1:垣屋氏関連年表(室町後期~安土桃山時代)

年代(和暦/西暦)

垣屋氏の動向

但馬国の動向(主に山名氏)

日本全体の動向

応永年間 (1394-1428)

垣屋隆国、楽々前城を築城と伝わる 18

山名時熙、明徳の乱後に但馬守護となる 21

足利義満の治世

文明15年 (1483)

垣屋宗続、播磨での合戦で敗死(政忠もこの時か) 4

山名政豊、播磨遠征で赤松政則に大敗 4

応仁の乱終結後

永正元年 (1504)

垣屋続成、山名致豊の此隅山城を攻撃 1

山名致豊、家臣である垣屋氏に攻撃される

戦国時代の本格化

永正5年 (1508)

続成、将軍より大名格の待遇を許可される 1

山名氏と垣屋氏の和与が成立

足利義稙、将軍に復職

元亀元年 (1570)

垣屋続成、田結庄是義に討たれる(異説あり) 10

但馬国人、織田・毛利間で分裂

織田信長、台頭

天正3年 (1575)

垣屋豊続、野田合戦で田結庄是義を破る 23

山名祐豊、毛利氏と同盟 3

長篠の戦い

天正8年 (1580)

豊続は秀吉に抵抗後降伏。光成は秀吉に帰順 3

山名祐豊、秀吉に降伏し有子山城を開城 20

羽柴秀吉の中国攻め

天正9年 (1581)

光成、鳥取城攻めの功で因幡国に1万石を得る 3

但馬、羽柴(豊臣)氏の支配下に入る

鳥取城の渇え殺し

慶長5年 (1600)

垣屋恒総(光成の子)、西軍に属し敗死 12

-

関ヶ原の戦い


第三章:分裂する一族―織田と毛利の狭間で

3-1. 二大勢力の影

戦国時代も後期に入ると、東から天下布武を掲げる織田信長、西から中国地方を制覇した毛利輝元の勢力が但馬国に迫ってきた。山陰と山陽を結ぶ要衝に位置する但馬は、二大勢力が激突する最前線となり、国人領主たちは織田につくか、毛利につくか、存亡をかけた選択を迫られた 2

3-2. 親織田派・垣屋光成と親毛利派・垣屋豊続

但馬最大の実力者であった垣屋一族も、この巨大な地政学的圧力の中で、二つに分裂することになる。

一方は、楽々前城を本拠とする惣領家の当主、**垣屋光成(みつなり)**である。彼は、下剋上を成し遂げた続成の子、あるいは孫とされ、中央の情勢を見据え、早くから織田信長に接近する道を選んだ 1

もう一方は、日本海沿岸の竹野(たけの)に轟城(とどろきじょう)を構える庶子家の当主、**垣屋豊続(とよつぐ)**である 2 。彼は徹底した親毛利の立場を貫き、但馬における反織田勢力の中心人物となった 2

この分裂は、単なる政治路線の違いに留まらなかった。光成の楽々前城が内陸部に位置し、伝統的な陸上交通の要衝を抑えていたのに対し、豊続の轟城は竹野港に近く、日本海の水運を掌握していた。毛利氏にとって、山陰沿岸の制海権は自国の生命線であり、竹野から諸寄(もろよせ)に至る沿岸部を抑える豊続の存在は、因幡・伯耆・出雲を防衛する上で戦略的に不可欠であった 5 。豊続の親毛利路線は、彼の地理的・経済的基盤に根差した、必然的な選択だったのである。かくして、垣屋一族の内部対立は、内陸の伝統的権力と、沿岸の新興海洋勢力との相克という側面を帯びていった。

3-3. 野田合戦―但馬の関ヶ原

一族の分裂は、天正3年(1575年)、ついに血で血を洗う内戦へと発展する。世に言う「野田合戦」である 23 。これは、織田と毛利の代理戦争とも言うべき戦いであった 27

この合戦の経緯については、史料によって記述が錯綜しており、注意深い分析を要する。

一つの説では、親毛利派の垣屋豊続が、親織田派の急先鋒であった田結庄是義(山名四天王の一人)の居城・鶴城(つるじょう)を攻撃し、野田の地で是義を討ち取ったとされる 23。この際、垣屋光成ら惣領家は田結庄方を支援したとされ、垣屋一族同士が直接戈を交えたことになる 1。

一方で、これに先立つ元亀元年(1570年)、田結庄是義の奇襲によって垣屋 続成 (光成の父または祖父)が殺害されており、天正3年の合戦は、光成による父祖の仇討ちであったとする説も根強い 3 。また、合戦のきっかけを、是義が垣屋の家臣を殺害したことに対する豊続の遺恨晴らしとする逸話も伝わっている 2

いずれの説が正しいにせよ、この野田合戦で親織田派の田結庄是義が敗死したことにより、但馬における毛利方の優位が一時的に確立された。しかし、それは垣屋一族内に修復不可能な亀裂を残す、高くつく勝利であった。


表2:天正期における但馬国人衆の対立構造図(野田合戦前後)

親織田派

親毛利派

主要勢力

垣屋 光成(垣屋惣領家)

居城:楽々前城 2

垣屋 豊続(垣屋庶子家)

居城:轟城 2

田結庄 是義(山名四天王)

居城:鶴城 10

八木 豊信(山名四天王)

居城:八木城 1

太田垣 輝延(山名四天王)

居城:竹田城 1

山名 祐豊(但馬守護)

居城:有子山城 2

動向

中央の織田政権との連携を模索。

中国地方の覇者・毛利氏と連携し、織田勢力の排除を目指す。

結果

野田合戦で田結庄是義が敗死し、一時的に後退。

野田合戦で勝利し、但馬における主導権を一時的に握る。


第四章:羽柴秀吉の但馬平定と垣屋氏の帰趨

4-1. 秀吉の但馬侵攻

織田信長の命を受けた羽柴秀吉による本格的な但馬侵攻は、天正8年(1580年)に開始された。秀吉の弟・羽柴秀長を総大将とする大軍が、但馬へと雪崩れ込んだのである 20 。これに先立つ永禄12年(1569年)にも秀吉は一度但馬に侵攻しており、この時に垣屋光成を含む多くの国人が一度は織田方に降伏していた 18

4-2. 抵抗と降伏

秀吉の大軍を前に、但馬の勢力図は最終的な決着を迎える。守護であった山名祐豊は、戦わずして居城の有子山城を開城し、降伏した 23

しかし、但馬における毛利方の主柱であった垣屋豊続は、徹底抗戦の道を選ぶ。彼は但馬の主戦派を率いて水生(みずなり)城に籠城し、最後の抵抗を試みたが、織田軍の猛攻の前に落城 1 。豊続は城を脱出し、なおも余部城、田井城と拠点を移して戦い続けたが、衆寡敵せず、ついに降伏勧告を受け入れた 23

対照的に、親織田派であった垣屋光成は、秀吉軍の侵攻に対し、速やかに恭順の意を示し、その麾下に入った 3 。一族の存続のため、現実的な選択を下したのである。

4-3. 豊臣大名への道

但馬平定後、秀吉は垣屋一族に対して興味深い処遇を見せる。

最後まで抵抗した垣屋豊続に対し、秀吉は意外にも寛大な措置を取った。秀吉は豊続の武将としての器量を高く評価し、「その方の儀は役に立たれるべき身の上」であるとして、他の但馬国人衆のように所領を没収して追放するのではなく、部将の宮部継潤(みやべけいじゅん)の配下として取り立てた 5 。敵将の能力を見抜き、自軍に組み込む秀吉の人材登用術の一端がうかがえる。

一方、いち早く味方についた垣屋光成は、続く因幡国・鳥取城攻めにおいて重要な役割を担うことになった 3 。そして、鳥取城落城の暁には、その功績を認められ、因幡国巨濃(この)郡に1万石(一説に2万石)の所領を与えられ、桐山城主となった 3 。ここに、垣屋氏惣領家は但馬の国人領主から、豊臣政権を構成する近世大名へと、見事な転身を遂げたのである。

第五章:関ヶ原、そして一族の終焉と存続

5-1. 垣屋恒総の時代

因幡大名となった垣屋光成の跡を継いだのは、その子・恒総(つねふさ)であった 3 。恒総は豊臣家の家臣として、小田原征伐や文禄・慶長の役(朝鮮出兵)にも従軍し、豊臣政権下で大名としての地位を保った 25

5-2. 関ヶ原の戦いと大名垣屋氏の滅亡

慶長5年(1600年)、豊臣秀吉の死後、天下分け目の関ヶ原の戦いが勃発する。この時、垣屋恒総は石田三成方の西軍に与するという、一族の運命を左右する決断を下した 6

しかし、西軍はわずか一日で徳川家康率いる東軍に敗北。西軍に属した恒総は敗走の末、高野山において自害を余儀なくされた 6 。これにより、戦国大名・豊臣大名として続いた垣屋氏の嫡流は、ここに滅亡した。

5-3. 分家の存続

大名としての垣屋氏は滅びたが、その血脈は途絶えなかった。かつて親毛利派として抵抗した垣屋豊続に連なる駿河守系の分家が、関ヶ原の戦いにおいて東軍に味方していたのである 6

この功績により、この分家は罪を問われることなく存続を許された。江戸時代には、播磨国龍野藩の脇坂氏の家老職を務めるなど、武士としての家名を保ち続けた 6 。また、別の系統は紀州徳川家に仕官したことも記録されており 1 、垣屋の名は、形を変えながらも江戸時代を通じて生き長らえたのである。

結論:垣屋氏の歴史的評価と「政忠」の謎への再訪

本報告書で詳述した垣屋氏の歴史は、まさしく戦国乱世の縮図である。主家の忠実な家臣から、守護代として実権を掌握し、やがて主君を凌駕する下剋上を成し遂げる。そして、天下統一の奔流の中で一族が二つに分裂し、ある者は抵抗の末に散り、ある者は時流に乗って大名へと駆け上がる。最後は、天下分け目の戦いでの選択が明暗を分け、一方は滅び、一方は家名を繋ぐ。この一連の軌跡は、忠義、野心、分裂、そして存続という、戦国時代を貫く普遍的なテーマを余すところなく体現している。

この壮大な歴史を踏まえた上で、我々は再び冒頭の謎、「垣屋政忠」とは何者だったのか、という問いに戻ることができる。史料上の確証はないものの、本報告書の分析を通じて、いくつかの蓋然性の高い推論を導き出すことが可能である。

第一に、序論で提示した仮説の再確認である。すなわち、「政忠」は山名 豊に 義を尽くした実在の人物であり、文明15年(1483年)の播磨での敗戦において、当主・宗続と共に討死した350名の一人であった可能性が最も高い 4 。彼の存在は、後の続成らが歩んだ下剋上とは対極にある「旧時代の忠節」を象徴するものであり、その記憶が地域の伝承や散逸した文書の中にのみ残り、利用者の知るところとなったのかもしれない。

第二に、後世における名前の混同の可能性である。山名政豊の名と、彼に仕えた某个かの垣屋一族の人物の記憶が融合し、「政忠」という象徴的な名前が作り出された可能性も否定できない。

第三に、彼が史料に現れない小規模な分家の一員であった可能性である。歴史の記録は、常に惣領家や政治の中枢にいた人物に焦点を当てるため、地方で静かに生涯を終えた人物の事績は記録に残りにくい。

結論として、「垣屋政忠」という個人の具体的な生涯を特定することは、現存史料の制約上、不可能である。しかし、彼が属した垣屋一族の興亡を徹底的に追跡することによって、我々は彼が生きたであろう時代の空気、権力闘争の激しさ、そして武士たちが直面した過酷な選択の数々を、解像度高く描き出すことができた。特定の個人名は歴史の波間に消えたとしても、その人物が立っていた舞台そのものを詳細に復元すること。それこそが、垣屋政忠という謎の人物に対する、最も誠実かつ徹底的な回答であると結論付ける。

引用文献

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