年(和暦) |
西暦 |
年齢(推定) |
垣見一直の動向 |
関連する歴史的出来事・人物 |
生年不詳 |
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近江国に生まれるか。通称は弥五郎、和泉守。諱は家純、家紀とも 1 。 |
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天正12年 |
1584 |
不詳 |
小牧・長久手の戦い において、美濃大垣城の普請を検知(監督)する 1 。 |
豊臣秀吉と徳川家康・織田信雄が対立。 |
天正18年 |
1590 |
不詳 |
小田原征伐 に従軍。奥州仕置では、秀吉の会津行軍に際し道路奉行を務める 1 。 |
豊臣秀吉による天下統一が完成。 |
文禄元年 |
1592 |
不詳 |
文禄の役 。11月、慰問使として朝鮮へ渡海 2 。 |
豊臣軍が朝鮮へ侵攻。 |
文禄2年 |
1593 |
不詳 |
漢城(京城)にて軍議を主導し、在陣大名の連判状をもって朝鮮からの撤退を秀吉に進言 2 。 |
碧蹄館の戦い。大友義統が失態により改易される。 |
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閏9月、旧大友領である豊後海部郡2万8千石の太閤蔵入地代官となる 2 。 |
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文禄3年 |
1594 |
不詳 |
2月頃、豊後国東郡富来に2万石を与えられ、大名となる。富来城主 2 。 |
豊臣秀吉が伏見城の築城を開始。 |
慶長2年 |
1597 |
不詳 |
慶長の役 。軍目付として再び渡海。泗川倭城の築城奉行を務める 2 。 |
豊臣軍が朝鮮へ再侵攻。 |
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泗川倭城の普請を巡り、長宗我部元親と対立 2 。 |
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慶長3年 |
1598 |
不詳 |
第一次蔚山の戦いの後、戦線縮小論を唱えた黒田長政らを批判。秀吉に賞賛される 2 。 |
8月、豊臣秀吉が死去。 |
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8月、大坂城の作事奉行を務める。秀吉の遺物として脇差と金子を賜る 2 。 |
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慶長4年 |
1599 |
不詳 |
蔚山の戦いの報告を巡る武断派の訴えにより、謹慎を命じられる 1 。 |
前田利家が死去。石田三成が七将に襲撃され、佐和山へ蟄居。 |
慶長5年 |
1600 |
不詳 |
関ヶ原の戦い 。西軍に属し、伏見城攻めに参加。その後、美濃大垣城に籠城 1 。 |
徳川家康が会津の上杉景勝討伐へ出陣。石田三成らが挙兵。 |
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9月18日(17日説あり)、大垣城内にて、東軍に内応した相良頼房らに謀殺される 1 。 |
9月15日、関ヶ原の本戦で西軍が敗北。 |
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9月下旬~10月初旬、国元の富来城は黒田如水軍の攻撃の末、主君の死を知り開城 11 。 |
黒田如水が九州で西軍諸城を攻略。 |
垣見一直(かきみ かずなお)は、安土桃山時代の激動期を駆け抜け、豊臣秀吉の天下統一事業とその後の政権運営において、能吏として、また武将として重用された人物である。秀吉子飼いのエリート集団「金切裂指物使番」に名を連ね、豊後国(現在の大分県)に二万石を領する大名にまで上り詰めた彼の生涯は、豊臣政権の栄光を体現するものであった 1 。しかし、その最期はあまりにも悲劇的であった。慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いにおいて、西軍の拠点・大垣城に籠城中、味方であるはずの相良頼房らの裏切りによって謀殺されるのである 2 。
彼の死は、単なる一敗将の末路として片付けられるべきではない。それは、豊臣秀吉が一代で築き上げた中央集権的な吏僚支配体制と、徳川家康が再構築しようとしていた伝統的な封建秩序という、二つの異なる統治システムが激突した時代の象徴的な出来事であった。秀吉の意を汲み、その代理人として厳格に職務を遂行した一直の姿は、豊臣政権の特性そのものであった。そして彼の悲劇的な死は、豊臣的な価値観が崩壊し、新たな権力構造へと移行する時代の大きなうねりの中で、必然的にもたらされた帰結であったと言える。本報告書は、現存する史料を丹念に読み解き、歴史の狭間に埋もれた垣見一直という一人の武将の実像に迫るものである。
垣見一直の出自は、多くの豊臣系大名と同様、必ずしも明確ではない。しかし、その姓のルーツは近江国神崎郡に見出すことができる。『和名抄』に「垣見郷(かきみごう)」という地名が見え、これが垣見氏の発祥の地と推察される 15 。地名の由来については、周囲を垣で囲んだ美しい集落を意味する「かくみ」から転じたとする説や、古くは「筧(かけひ)」と書かれ、用水路の木樋に関連するという説が存在する 15 。
一部の史料では「浅井家臣か」との推測も記されているが 16 、これを裏付ける確たる証拠はなく、彼の前半生は謎に包まれている。むしろ、この出自の不確かさこそが、伝統的な門閥や家格に捉われず、個人の能力と忠誠心を評価して人材を登用した豊臣秀吉の政権の性格を象徴している。一直のアイデンティティは、生まれ持った家柄ではなく、ひとえに「豊臣秀吉の家臣」という職能に立脚していた。彼の権威と立場は秀吉個人の信任に完全に依存しており、この事実は、秀吉の死後、彼の権力基盤がいかに脆弱であったかを物語る伏線となる。
なお、彼の諱(いみな)については、自署や同時代の文書で確認される「一直」のほかに、『黒田家譜』などの後代の編纂物では「家純(いえずみ)」という名も伝えられている 1 。後世には「家純」の名で知られることもあったが、本稿ではより実名に近いと考えられる「一直」を主として用いる 17 。
興味深いことに、後世、赤穂義士の大石内蔵助が江戸での潜伏中に「垣見五郎兵衛」という変名を用いた逸話が残されている。その由来の一つとして「先祖発祥の地江州神崎郡垣見」にちなんだという説があり、垣見氏が近江にルーツを持つという認識が、江戸時代を通じて存在していたことを示唆している 18 。
垣見一直が歴史の表舞台に登場するのは、豊臣秀吉の側近としてである。彼が任じられた「金切裂指物使番(きんのきっさきさしものつかいばん)」は、秀吉直属の親衛隊とも言うべき馬廻衆の中から、特に信頼の厚い者を選抜して組織されたエリート集団であった 13 。
彼らは、金色の地に切り込みを入れて風になびきやすくした特殊な旗指物(さしもの)を背負うことを許された、秀吉の威光を象徴する存在であった 13 。その役割は、戦場における最高指揮官の命令伝達、諸将の働きを監視する監察、さらには敵軍への使者といった、極めて重要な任務を担っていた 20 。これは、秀吉の意思が軍の隅々にまで直接届くようにするための、中央集権体制の根幹をなす役職であった。
この金切裂指物使番には、後に尾張犬山城主となる石川貞清、同じく大名となる佐久間政実、そして皮肉にも一直と共に大垣城で命を落とすことになる熊谷直盛など、秀吉が低い身分から取り立てた子飼いの武将が多く含まれていた 20 。一直がこの一員に選ばれたという事実は、彼が豊臣政権の中枢に近く、秀吉から深い信任を得ていた人物であったことを何よりも雄弁に物語っている。
一直は、単なる側近ではなく、実務能力に長けた官僚としてもその手腕を発揮した。天正12年(1584年)に勃発した小牧・長久手の戦いでは、秀吉方の重要拠点であった美濃大垣城の普請(城の建設・修繕工事)を「検知」する、すなわち監督・検査する役目を担っている 1 。これは彼のキャリアの比較的早い段階から、土木・兵站管理といった後方支援業務における能力が評価されていたことを示している。
さらに、天正18年(1590年)、秀吉の天下統一事業の総仕上げとなる小田原征伐に従軍。北条氏降伏後、秀吉が奥州の仕置のために会津へ向かった際には、大軍の円滑な移動を支える「道路奉行」を務めた 1 。これもまた、彼のロジスティクス管理能力と実務遂行能力が高く買われていた証左である。これらの実績は、彼が戦場での武勇のみならず、政権を運営するための行政手腕を兼ね備えた、豊臣政権が求める新しいタイプの武将であったことを示している。
豊臣秀吉が大陸への野望を燃やして引き起こした文禄・慶長の役は、垣見一直のキャリアにおいて重要な転機となった。文禄元年(1592年)11月、彼は慰問使として初めて朝鮮の地を踏む 2 。
彼の真価が問われたのは、翌文禄2年(1593年)のことであった。小西行長らが守る平壌が明軍の猛攻を受けて陥落し、日本軍は戦線縮小を余儀なくされる。さらに龍山倉の兵糧を焼かれるなど、補給線は寸断され、前線の将兵は深刻な兵糧不足に苦しんでいた 2 。この危機的状況下で、一直は同じく上使であった熊谷直盛と共に漢城(京城)に到着する。彼は現地に在陣していた15名の大名を集めて軍議を招集し、このままでは全軍が崩壊しかねないという現実を直視させ、秀吉に対して朝鮮からの全面撤退を進言するという、極めて重大な決定を取りまとめたのである 2 。これは、秀吉の意向に背く可能性のある危険な決断であったが、彼は現場の総意として、全員の連判状を作成して名護屋城の秀吉のもとへ持ち帰った。この行動は、彼の高い調整能力と、困難な状況下でも職責を果たそうとする強い責任感を示している。
文禄の役での苦い経験を踏まえ、秀吉は慶長2年(1597年)の再度の出兵(慶長の役)に際して、中央の統制を格段に強化する。その要として設置されたのが「先手目付(軍目付)」であり、垣見一直はその一人として再び渡海を命じられた 1 。
軍目付の役割は、各大名に随行し、その軍事行動を逐一監視して秀吉に報告することにあった。戦功の証明となる敵兵の鼻の数を検分し、「鼻請取状」を発給するのも彼らの重要な任務であった 6 。これは、文禄の役で見られた諸将の自由裁量を抑制し、秀吉の命令系統を末端まで徹底させるための制度であり、一直はその忠実な実行者であった。
同年10月から12月にかけては、泗川倭城(させんわじょう)の築城奉行の一人を務めている。この時、城の防御施設である鉄砲狭間(銃眼)の設置高を巡って、歴戦の勇将である長宗我部元親と激しい口論になったという逸話が『元親記』に記されている 2 。一直が「この高さでなければ敵兵に城内を覗き込まれる」と規範通りに主張したのに対し、元親は「城内を覗かれるほど敵に接近されたなら、それはこの城が落ちる時だけだ。貴殿はその高さの鉄砲狭間で敵兵の頭上でも撃つつもりか」と一笑に付したという 2 。
この逸話は、単なる技術論争ではない。それは、中央から派遣され、マニュアルに忠実であろうとする吏僚(一直)の規範意識と、長年の実戦経験に裏打ちされた在地領主(元親)の現実的な思考との、根本的な価値観の衝突であった。秀吉の定めた規範を忠実に実行しようとすればするほど、現場の有力大名との溝は深まっていく。この一件は、豊臣政権が内包する構造的ジレンマが個人間の対立として現れた典型例であり、後の武断派諸将との決定的な亀裂を生む萌芽であった。
垣見一直と、加藤清正や黒田長政に代表される「武断派」諸将との対立が決定的となったのは、慶長2年12月から翌年1月にかけての第一次蔚山の戦いがきっかけであった。
この戦いで、加藤清正は蔚山倭城に籠城し、明・朝鮮連合軍の猛攻を受けて絶体絶命の窮地に陥る。黒田長政、蜂須賀家政らの救援によって辛うじて危機を脱したが、この過酷な籠城戦を経験した武将たちは、これ以上の戦線拡大は無謀であると判断し、戦闘後に連名で秀吉に対し戦線の縮小を上申した 2 。
しかし、この動きは秀吉の逆鱗に触れることとなる。秀吉の積極策を支持していた軍目付の一直、福原長堯、熊谷直盛らは、縮小論を主張した武将たちを臆病であると批判的に報告した 2 。報告を受けた秀吉は、長政や家政らを厳しく叱責し、逆に秀吉の意向に忠実であった一直らを賞賛した 2 。この結果、武断派の諸将は「一直らに讒言された」という強い恨みを抱くことになった。この一件は、豊臣政権内部に深く根を張っていた文治派(石田三成ら吏僚)と武断派(加藤清正ら戦功派)の対立をさらに先鋭化させ、後の関ヶ原の戦いにおける陣営分裂へと繋がる重要な伏線となったのである 2 。
秀吉の死後、政権内で徳川家康ら武断派に与する大名たちの発言力が増すと、この蔚山の戦いを巡る報告の件が再び問題視される。慶長4年(1599年)、一直は武断派からの突き上げを受け、一時謹慎を命じられるに至った 1 。これは、彼の権力の源泉であった秀吉という絶対的な後ろ盾を失ったことで、彼の政治的立場がいかに脆いものであったかを如実に示している。
文禄・慶長の役は、垣見一直に大名への道を開く契機ともなった。文禄2年(1593年)、九州の名門・大友義統が文禄の役における失態(敵前逃亡)を問われ、秀吉によって改易された 2 。
これにより広大な旧大友領は豊臣家の直轄領(太閤蔵入地)となり、その統治を担う代官として、秀吉の側近たちが送り込まれた。一直もその一人として、同年閏9月、豊後海部郡(あまべぐん)において2万8千石の蔵入地代官に任命された 2 。この時点ではまだ大名ではなく、あくまで豊臣政権の行政官としての立場であった。
その後、山口玄蕃らによる太閤検地が進められ、文禄3年(1594年)2月頃、一直は豊後国東(くにさき)郡富来(とみく)に2万石の所領を与えられ、正式に大名としての地位を確立した 2 。彼の石高については、2万石とする史料 2 と1万石とする史料 16 が混在しているが、これは蔵入地代官としての支配分と大名としての所領が時期によって異なっていたり、史料によって混同されたりした可能性が考えられる。
一直の居城となった富来城は、現在の国東市国東町富来浦に位置し、富来港を眼下に望む平山城であった 5 。現在、城跡は城山子供公園として整備されているが、往時を偲ばせる石垣や空堀の一部が遺構として残されている 5 。
しかし、一直自身は朝鮮出兵や大坂での政務に忙殺されることが多く、領国に腰を据える時間は限られていたとみられる。国元の富来城は、兄の垣見理右衛門(史料によっては直信とも記される 2 )と、妻の弟である藤井九左衛門が城代として守っていた記録が残っている 11 。
彼の領国経営に関する具体的な治績を伝える記録は乏しい 7 。彼の役割は、在地に深く根を張る伝統的な領主というよりは、豊臣政権の中央官僚として、また軍事監察官として機能することが主であった。その立場は「蔵入代官兼大名」という、豊臣政権下における過渡期的な支配形態を示す好例と言える 47 。
それでも、富来の城下には「鉄砲町」といった地名が残り、城の廃城後には、その大手門の扉が日出(ひじ)藩主・木下延俊によって日出城の裏門として移築されたという伝承もある 32 。これらの痕跡は、垣見氏の統治下で、城の普請や軍備がある程度の規模で整備されていたことを静かに物語っている。
慶長5年(1600年)、天下分け目の関ヶ原の戦いが勃発する。豊臣秀吉の死後、政権内で石田三成ら文治派との関係を深めていた垣見一直は、迷うことなく西軍に与した 29 。一部の史料には、三成の女婿であったという説も記されており 39 、両者の親密な関係がうかがえる。
一直は、関ヶ原の前哨戦である伏見城攻めに参加した後 1 、西軍の事実上の本拠地となった美濃大垣城に入り、籠城の任に就いた 2 。城内での役割分担において、彼は本丸の総大将・福原長堯らに次ぐ二の丸の守将として、同じく豊臣恩顧の熊谷直盛や木村由信らと共に守備を担当するという、重要な立場にあった 8 。
慶長5年9月15日(西暦1600年10月21日)、関ヶ原の本戦において、小早川秀秋の裏切りなどにより西軍はわずか一日で壊滅的な敗北を喫した。この報が大垣城に届くと、孤立した城内では動揺が走り、将たちの間で生き残りをかけた思惑が交錯する。
この状況をいち早く見限り、東軍への内応を決断したのが、三の丸を守備していた相良頼房、秋月種長、そして高橋元種の九州大名たちであった。彼らは、城を包囲する東軍の将・水野勝成や、徳川家康の重臣・井伊直政と密かに連絡を取り、寝返りの交渉を進めていたのである 8 。
そして9月18日(一説に17日)、悲劇が起こる。相良頼房らは「軍議を開く」と偽り、あくまで城を死守し徹底抗戦を主張していた一直、熊谷直盛、木村由信らを誘い出した。そして、その場で彼らを騙し討ちにし、殺害したのである 1 。この謀殺は、東軍への忠誠を示すための「手土産」として、計画的に実行されたものであった。その生々しい事実は、後に水野勝成が相良頼房に宛てた書状に「三ノ丸の西の門口で熊谷直盛・垣見一直・木村由信をあなたが討ち取り、この三首を送られ請取りました」と記されていることからも裏付けられる 10 。
この裏切りは、単なる衝動的な行動ではなかった。相良家の家老・犬童頼兄が事前に井伊直政と内通していた記録が示すように 59 、周到に準備された政治的クーデターであった。一直ら主戦派は、彼らが本領を安堵されるための「取引コスト」として、その命を差し出されたのである。彼の掲げた「豊臣への忠誠」という価値観は、徳川の世を目前にした現実主義者たちの前では、もはや通用しなかった。
主君が遠く美濃の地で非業の死を遂げた頃、国元の豊後富来城もまた、運命の時を迎えていた。九州では、隠居していた黒田如水(官兵衛)が徳川家康に呼応して挙兵し、破竹の勢いで豊後国内の西軍諸城の攻略を進めていた 43 。
如水軍は富来城をも包囲したが、城代の垣見理右衛門と藤井九左衛門らはこれを迎え撃ち、頑強に抵抗したため、城はすぐには落城しなかった 5 。しかし、大垣城から逃れてきた使者が黒田軍に捕縛され、主君・一直の死という衝撃的な報せが城内に伝わると、城兵の戦意は完全に打ち砕かれた 11 。万策尽きた理右衛門らは、黒田如水の降伏勧告を受け入れ、ついに富来城を開城したのである 5 。
主君・垣見一直は関ヶ原の露と消えたが、彼の一族や家臣の全てが歴史から姿を消したわけではない。国元で富来城の開城を決定した兄の垣見理右衛門(直信)は、降伏後に剃髪して理入(りにゅう)と号し、黒田長政に百人扶持という待遇で召し抱えられ、福岡藩士として新たな道を歩んだ 2 。
また、同じく富来城の守備にあたっていた家臣の寺田伝右衛門も、関ヶ原合戦後に黒田如水に召し抱えられ、その家系は福岡藩士として続いたという記録が残っている 63 。これは、主家が滅んでも、有能な武士は新たな主人を見つけて仕官するという、戦国時代の流動的な主従関係を示す一例として興味深い。
垣見一直の名は、意外な形で後世にその痕跡を残している。江戸時代、元禄赤穂事件、いわゆる『忠臣蔵』で有名な赤穂義士の筆頭家老・大石内蔵助は、討ち入り前の江戸潜伏中に「垣見五郎兵衛」という変名を用いていた。この名の由来として、垣見氏の発祥の地である近江国の地名にちなんだという説が伝えられている 18 。悲劇の将の名が、約100年の時を経て、忠義の物語を象徴する人物の仮の名として借用されたとすれば、歴史の不思議な巡り合わせを感じさせる。
さらに現代においては、東京に本社を置く「垣見油化株式会社」が、戦国時代の垣見氏の末裔であるという家伝を伝えている 48 。同社の社史によれば、関ヶ原で討死した後、一族は江戸時代に江戸へ移り、明治4年(1871年)に油脂販売店として創業したとされている。歴史学的な証明は困難であるものの、一族の記憶として語り継がれている点は注目に値する。
垣見一直の生涯を振り返るとき、彼は豊臣秀吉という傑出した個人の信任を絶対的な権力の源泉とし、その強力な中央集権体制を支えるエージェントとして忠実に機能した「吏僚派武将」の典型であったと評価できる。
彼の職務への忠実さと、時に厳格すぎるほどの規範意識は、秀吉の存命中は賞賛の対象であった。しかし、それは同時に、在地に根差した伝統的な価値観を持つ武断派の諸将との間に、修復不可能なほどの深刻な亀裂を生じさせる要因ともなった。
絶対的な後ろ盾であった秀吉の死によって権力の源泉を失い、旧来の封建的秩序を重んじる徳川の時代が到来すると、彼が体現していた「豊臣吏僚」としての価値観は急速に時代遅れのものとなった。そして、かつての政敵からは積年の恨みを晴らす対象と見なされ、新たな時代の覇者に生き残りを賭けて追従しようとする者たちからは、自らの忠誠を示すための格好の「手土産」として利用された。
垣見一直の生涯は、一個人の悲劇であると同時に、豊臣から徳川へという巨大な権力構造の転換期において、旧体制に殉じた多くの吏僚たちの運命を象徴している。彼は、時代の変化の潮流を読み切ることができなかった不器用な忠臣として、あるいは自らの信じる「忠義」を最後まで貫いた武将として、日本史にその名を刻んでいるのである。