本報告書は、戦国時代の武将、後北条氏家臣・垪和伊予守氏続(はが いよのかみ うじつぐ)の生涯と、彼が属した垪和氏一族の軌跡を、現存する史料に基づき徹底的に解明することを目的とする。
垪和氏続は、従来、後北条氏の駿河方面における防衛を担った興国寺城主として、あるいは『小田原衆所領役帳』に名を連ねる一武将として語られることが多かった。しかし、その出自、家臣団内での序列を示す客観的データ、主君から与えられた破格の待遇、そして一族のその後の動向を詳細に分析することで、彼が単なる方面軍司令官に留まらない、後北条氏の統治と軍事の両面において枢要な地位を占めた重臣であったことが浮かび上がる。彼の存在は、後北条氏という戦国大名の支配体制の特質と、その強さの源泉を解き明かす上で、重要な示唆を与えるものである。
本報告書では、まず第一章で垪和氏の淵源である美作国での動向をたどり、第二章で氏続が後北条氏家臣団の中核に参画していく過程を明らかにする。続く第三章では、『小田原衆所領役帳』などの一次史料を分析し、彼の家臣団内における客観的な地位と実力を検証する。第四章では、彼の軍事キャリアの頂点である興国寺城主としての活躍を詳述し、第五章では謎に包まれた晩年と最期について考察する。最後に第六章で、後北条氏滅亡後の子孫の軌跡を追い、結語において垪和氏続という武将の歴史的意義を再定義する。
後北条氏の重臣としてその名を馳せた垪和氏続の出自は、意外にも後北条氏の本拠地である関東ではなく、遠く西国の美作国(現在の岡山県北東部)に求められる。彼の特異なキャリアを理解するためには、まずその一族が歩んだ歴史を遡る必要がある。
垪和氏は、美作国久米北条郡垪和郷(現在の岡山県久米郡美咲町一帯)を発祥とする武家氏族である 1 。家紋は「丸に抱き茗荷」と伝えられている 2 。「垪和」という姓は難読であるため、同時代の文献や後世の記録においては、「塀和」「垪賀」「羽賀」「方賀」「芳賀」といった様々な仮借文字で表記されることがあるが、これらは本質的に同一の一族を指すものと考えられる 2 。
美作国は、古代には吉備国の一部であったが、和銅6年(713年)に備前国から分立して成立した 3 。山陽道に属しながらも、中国山地を背負い、因幡国や伯耆国といった山陰地方との結びつきも強い、戦略的に重要な地域であった。
垪和氏が歴史の表舞台に登場するのは南北朝時代である。一族は南朝方として活動し、足利幕府の内紛である観応の擾乱(1350年-1352年)以降、美作国の守護となった山名氏の配下として、その勢力を維持・拡大したと見られる 1 。この時期、鶴田城主であった羽賀美濃守祐房の子、垪和助盛が山名氏に従って多くの所領を得たとの記録も残る 2 。
室町時代中期に入っても、垪和氏は中央政権との繋がりを保っていた。文明10年(1478年)には、将軍足利義政の近習として垪和筑後守元為、垪和与次郎政為の名が見え、長享3年(1489年)には、将軍義政の妻である日野富子の御伴衆の一人として垪和右京亮が記録されている 2 。これらの事実は、垪和氏が単なる美作の在地領主(国人)に留まらず、室町幕府の奉公衆として将軍家に直接仕える格式と人脈を持った一族であったことを示唆している。
美作国に確固たる基盤を持ち、幕府奉公衆としての地位も有していた垪和氏が、いかなる経緯で関東に下向し、当時新興勢力であった後北条氏に仕えるに至ったのか。その具体的な経緯を直接的に示す史料は、現時点では確認されていない。しかし、当時の美作国が置かれていた政治的・軍事的状況から、その背景を推察することは可能である。
室町時代後期、美作国では守護であった山名氏の権威が揺らぎ、赤松氏との抗争が激化する。さらに戦国時代に入ると、守護代の浦上氏や、その家臣であった宇喜多氏、さらには西から尼子氏、東から三浦氏といった諸勢力が入り乱れて覇を競う、極めて流動的な情勢にあった 1 。旧来の権威が失墜し、実力のみがものをいう下剋上の時代において、在地領主であった垪和氏のような一族が、安住の地と活躍の場を求めて故郷を離れることは、決して珍しいことではなかった。
一族の一部が、混沌とする西国に見切りをつけ、伊勢宗瑞(北条早雲)の登場以来、関東で急速に勢力を拡大していた後北条氏に新たな可能性を見出し、仕官した可能性は十分に考えられる。垪和氏続の祖父・信次の代には既に後北条氏に属していたとの記録もあり 6 、一族の関東下向は16世紀初頭から中頃にかけてのことであったと推測される。垪和氏続のキャリアは、後北条氏という大名家が、必ずしも関東出身の武士だけでなく、遠隔地の伝統ある武家をも惹きつけ、その実力に応じて家臣団に組み込んでいた事実を象徴している。これは、後北条氏の持つ求心力と、出自を問わない実力主義的な人材登用の一端を示すものと言えよう。
美作国から関東へ移った垪和氏は、後北条氏の家臣団の中で着実にその地位を固めていく。その中心人物が、本報告書の主題である垪和氏続であった。彼は父から家督を継承すると、後北条氏の軍事組織の中核を担う重要な役割を与えられ、その後の飛躍の礎を築いた。
垪和氏続の祖父は垪和信次、父は伊予守を称した垪和氏堯(うじよし)とされる 6 。祖父・信次の代から後北条氏に仕え、駿河国の興国寺城主を務めたとも伝えられており、一族が早くから後北条氏の駿河方面における戦略に関与していた可能性を示している 6 。
氏続は幼名を又太郎と称した 6 。彼が公式に家督を継承したのは、弘治3年(1557年)7月のことで、父・氏堯からその地位を譲られた 6 。この家督継承により、彼は垪和家の当主として、後北条氏の家臣団の中で本格的なキャリアを開始することになる。
氏続の初期のキャリアで特筆すべきは、彼が後北条氏の家臣団編成において「松山衆」に属し、その「寄親(よりおや)」を務めていたことである 6 。
武蔵松山城(現在の埼玉県比企郡吉見町)は、荒川沿いの丘陵に築かれた堅城であり、北武蔵における軍事上の極めて重要な拠点であった。当初は扇谷上杉氏の拠点であったが、後北条氏の勢力拡大に伴い、対山内上杉氏、後には越後の上杉謙信、さらには甲斐の武田信玄といった強敵に対する最前線基地としての役割を担った 9 。
「松山衆」とは、この松山城を拠点とし、その防衛を担うために編成された地域軍団である。そして、氏続が務めた「寄親」とは、この軍団を構成する上で中核となる指揮官の地位であった。戦国大名の軍事制度、特に後北条氏や武田氏で発達した「寄親・寄子制」は、大名が全ての家臣を直接的に支配するのではなく、方面軍団長や有力な武将である「寄親」に、より小規模な在地武士である「寄子(よりこ)」を軍事的に預け、統率させるシステムである 13 。寄親は、平時においては寄子の所領の保障など後見人的な役割を担い、戦時においては彼らを率いて出陣する、いわば中間管理職であり、軍団長クラスの武将であった。
氏続が、後北条氏にとって戦略的価値の極めて高い武蔵松山城の軍団「松山衆」において、寄親という重責を担っていたという事実は、彼が家督継承後まもない時期から、一軍を率いるに足る指揮官としての能力と、主君からの厚い信頼を得ていたことを明確に示している。彼の後の大抜擢も、この北武蔵の最前線における実績と、そこで培われた信頼が大きな基盤となっていたと考えるべきであろう。
垪和氏続が後北条氏の家臣団内でいかに重要な地位を占めていたかは、彼の軍事的な役職だけでなく、客観的なデータ、特に知行高(所領の経済規模)と、主君から与えられた待遇によって明確に裏付けられる。その最も重要な証拠となるのが、永禄2年(1559年)に北条氏康の命によって作成された分限帳(家臣の知行リスト)である『小田原衆所領役帳』である 17 。
『小田原衆所領役帳』には、家督継承後間もない「垪和又太郎」の名で、氏続の所領が詳細に記録されている 21 。その合計貫高は「千百廿八貫六百七十五文」、すなわち1128貫675文という驚くべき高禄であった 21 。
この「貫高」とは、土地の面積ではなく、その土地から得られる年貢収入を銭に換算して示したものであり、後北条氏領国においては、家臣に課せられる軍役(戦時に動員すべき兵士の数)や諸役(普請などの負担)の基準となる、最も重要な指標であった 14 。1000貫を超える知行を与えられていた家臣は、560人以上が記載される『小田原衆所領役帳』の中でもごく一握りであり、筆頭家老の松田憲秀などに次ぐ、紛れもなく最高幹部層に属するものであった。
氏続の広大な所領は、特定の地域に集中しているわけではなく、広範囲に分散していた点に特徴がある。記録によれば、その内訳は武蔵国小沢江(現在の東京都稲城市)、相模国中郡沼部江、東郡千束・七木・土棚、そして上野国との国境に近い武蔵国安保ノ内鬼石など、多岐にわたる 21 。
特に武蔵国小沢郷は、天文15年(1546年)に後北条氏が関東の覇権を確立した「河越夜戦」の軍功により、北条氏康から与えられたとされ、氏続(あるいはその父・氏堯)は小沢城主を務めていたという記録もある 7 。これは、彼ら一族が後北条氏の関東制覇の過程で重要な軍功を挙げていたことを示唆する。
これらの所領が、後北条氏の本拠地である相模国のみならず、武蔵国の枢要な地域や国境地帯に点在していることは、彼が単に経済的な基盤として土地を与えられていただけでなく、後北条氏の広大な領国支配において、戦略的に重要な地点の管理を任されていたことを物語っている。
垪和氏続の家臣団内における特別な地位を象徴する、もう一つの決定的な証拠が、彼の名前に含まれる「氏」の字である。この「氏」の字は、北条氏康、氏政、氏直といった後北条氏の歴代当主が用いる通字(とおりじ、一族代々で受け継がれる特定の漢字)であり、一門の証であった。
驚くべきことに、垪和氏続は、後北条氏の血縁者ではないにもかかわらず、主君からこの「氏」の字を下賜されている 6 。彼の父の名が「氏堯」であることからも、この待遇が氏続一代に限ったものではなく、垪和家に対して与えられていたことがわかる。後北条氏の数多いる家臣の中で、一門以外で「氏」の字の使用を許されたのは、垪和氏が唯一の例とされている 6 。これは、氏続とその一族が、血縁関係はなくとも一門に準ずるほどの絶大な信頼と、他とは一線を画す高い家格を公に認められていたことを示す、何よりの証左である。
美作国出身という、いわば「外様」の家臣が、1000貫を超える高禄と、一門の証である「氏」の字を与えられるという破格の待遇を受けていた。この事実は、後北条氏の支配体制が、旧来の家格や地縁以上に、個人の能力と主君への忠誠を高く評価する、柔軟で実力主義的な側面を持っていたことを示している。そして、垪和氏続こそ、その後北条氏の実力主義を最も体現した武将の一人であったと言えるだろう。
表1:『小田原衆所領役帳』における垪和氏続と主要家臣の知行高比較
家臣名(史料記載名) |
実名(推定) |
貫高 |
主要な役職・立場 |
垪和又太郎 |
垪和氏続 |
1128貫675文 |
松山衆寄親、後の興国寺城主 |
松田左馬助 |
松田憲秀 |
1768貫110文 |
小田原衆、筆頭家老 |
布施弾正左衛門 |
布施康則 |
438貫180文 |
小田原衆 |
南條右京亮 |
南条重長 |
552貫105文 |
小田原衆 |
板部岡右衛門 |
板部岡康雄 |
335貫517文 |
小田原衆、後の外交僧 |
大道寺駿河守 |
大道寺政繁 |
(役帳に記載なし) |
御由緒家、河越城代 |
遠山丹波守 |
遠山綱景 |
(役帳に記載なし) |
江戸城代 |
(注)大道寺氏、遠山氏といった支城の城代クラスは、『小田原衆所領役帳』の成立後に大きく加増されたか、あるいはその管轄する支城領全体の収益を管理していたため、個人の知行役としては記載されていない場合がある。しかし、氏続の貫高が、本城である小田原に詰める多くの重臣たちを凌駕し、家臣団の頂点に位置していたことはこの表から明らかである 21 。
北武蔵の守り手として、また後北条氏家臣団の最高幹部の一人としてその地位を確立した垪和氏続のキャリアは、永禄12年(1569年)に大きな転機を迎える。甲斐の武田信玄による駿河侵攻という、後北条氏の屋台骨を揺るがす国家的危機に際し、氏続はその軍事的能力と忠誠心を最大限に発揮する場を与えられたのである。
氏続がその守りを託された興国寺城(現在の静岡県沼津市根古屋)は、後北条氏にとって単なる一つの城ではなかった。この城こそ、後北条氏の始祖である伊勢宗瑞(北条早雲)が、今川家の内紛に介入して手に入れ、戦国大名としての第一歩を記した、いわば「旗揚げの城」であった 7 。
その地理的位置もまた、極めて重要であった。城の南には、当時の東西を結ぶ主要街道の一つであった根方街道が走り、この街道は東の箱根や足柄の関所へと繋がっていた 22 。すなわち、興国寺城は、駿河・伊豆・相模という後北条氏の核心的領土を結ぶ交通路と、関東への入り口を扼する戦略的要衝だったのである。武田信玄が駿河にその勢力を伸ばして以降、この城は対武田氏の最前線基地として、その戦略的価値はかつてないほど高まっていた。
永禄11年(1568年)、武田信玄は長年の同盟関係にあった今川氏を攻撃し、駿河国へ侵攻を開始する(駿河侵攻)。これにより、後北条氏と今川氏、武田氏の間で結ばれていた甲相駿三国同盟は崩壊し、後北条氏は武田氏と敵対関係に入った。
この危機的状況に対応するため、後北条氏当主・北条氏政は、永禄12年(1569年)8月、垪和氏続を興国寺城の城主に任命した 7 。この任命は、氏政自らの花押(サイン)が入った判物(はんもつ)という極めて公式な文書によって行われており、「興国寺城主に定置候」とその重責を命じている 7 。後北条氏発祥の地であり、対武田氏の最前線でもあるこの城の守りを、一門ではなく氏続に託したという事実は、氏政が彼の軍事的能力と忠誠心に寄せていた信頼がいかに厚かったかを物語っている。氏続のキャリアは、北武蔵での対上杉氏から、駿河での対武田氏へと、常に関東の覇権を左右する最重要戦線に投入され続けたのであった。
興国寺城主となった氏続の真価が問われる時が、元亀2年(1571年)正月に訪れた。この時、武田信玄は駿河と相模の国境に近い深沢城(現在の静岡県御殿場市)を大軍で包囲しており、その一部を別動隊として南下させ、興国寺城にも攻撃を仕掛けたのである 22 。
城主である氏続は、この武田軍の猛攻に対し、一族の垪和善次郎ら城兵と共に籠城し、敢然と立ち向かった。この戦いにおいて、氏続は卓越した指揮能力を発揮して城を死守し、攻め寄せる武田方の兵を五十余人も討ち取るという目覚ましい戦功を挙げた 24 。
この知らせを受けた氏政は、直ちに氏続に対して感状(かんじょう)を送り、その功績を激賞した 6 。感状とは、主君が家臣の戦功を公式に賞賛し、後日の恩賞の証拠ともなる文書であり、武士にとって最高の栄誉の一つであった。この時の感状の写しは「垪和氏古文書」として現存しており、氏続の輝かしい軍功を現代に伝える一級の史料となっている。
氏続が守り抜いた興国寺城であったが、その運命は戦局全体の動きによって左右されることとなる。元亀2年(1571年)末、後北条氏と武田氏は、上杉謙信という共通の敵に対抗するため、和睦を結ぶことになった(第二次甲相同盟)。この和睦の条件の一つとして、駿河国における両家の勢力圏が画定され、興国寺城は武田方へと明け渡されることになった 22 。
これにより、垪和氏続の興国寺城主としての任は解かれた。その期間は2年余りと決して長くはなかったが、彼は甲相間の対立が最も熾烈であった時期に、後北条氏の存亡をかけた防衛線で城主という大任を見事に果たし、その名を不動のものとしたのである。
興国寺城での輝かしい功績の後、垪和氏続の動向は再び史料の中から見えにくくなる。しかし、断片的な記録を繋ぎ合わせることで、彼が後北条氏の終焉が近づく激動の時代を、重臣の一人として生き抜いたことがわかる。一方で、彼ほどの重要人物でありながら、その最期が明確でないことは、後北条氏滅亡期の混乱を象徴している。
天正10年(1582年)3月、織田信長によって武田氏が滅亡すると、同年6月には本能寺の変で信長自身が横死する。これにより、旧武田領であった甲斐・信濃・上野国は主のいない空白地帯となり、これを巡って後北条氏、徳川家康、越後の上杉景勝らが激しい争奪戦を繰り広げた。これが世に言う「天正壬午の乱」である。
この争乱の中で、後北条氏は上野国に進出し、信長から関東管領の地位を与えられていた織田家臣・滝川一益と全面対決に至る。同年6月、両軍が上野国の神流川で激突した「神流川の戦い」は、天正壬午の乱における最大規模の合戦であった 25 。この重要な戦いに、垪和氏続も後北条軍の一員として参陣していたという記録が残されている 6 。一部の二次史料やゲーム関連資料では、この戦いの参加武将として「垪和康忠」 26 や「芳賀伊代守秋國」 28 といった名前が見られるが、これらは氏続本人を指すか、あるいは同一族の別人の記録が混同・誤伝されたものと考えられる。いずれにせよ、氏続がこの時期、後北条軍の主力として活動していたことは確実である。
垪和氏続の動向が、確実な一次史料で確認できる最後の記録は、神流川の戦いから2年後の天正12年(1584年)のものである。これは、後北条氏の重鎮であり、八王子城主であった北条氏照が、上杉家の家臣・北条高広(きたじょう たかひろ)に宛てた書状の中に、氏続の名前が見えるというものである 6 。この書状の存在により、氏続がこの時点まで存命であったことは確実視されている。
氏続の没年については、一部の事典類で「天正8年(1580年)」とする記述が見られる 8 。しかし、この説は上記の史実と明確に矛盾する。天正10年(1582年)の神流川の戦いへの参陣記録、そして天正12年(1584年)の書状の存在は、彼が少なくとも1584年まで生存していたことを示している。
したがって、1580年没とする説は、何らかの史料の誤読や誤伝に基づくものと考えられ、採用することはできない。より信頼性の高い史料に基づけば、垪和氏続の正確な没年は不詳ながらも、その死は天正12年(1584年)以降であり、豊臣秀吉による小田原征伐(天正18年、1590年)までのいずれかの時期であったと結論付けるのが最も妥当である。
彼ほどの重臣でさえ、1584年以降の動向が途絶え、その最期が記録に残されていないという事実は、豊臣秀吉という巨大な脅威を前に、滅亡へと向かっていく後北条氏末期の史料的空白と、その時代の混沌を象徴しているのかもしれない。我々が知ることができないのは、単に彼の死の事実だけでなく、その死を記録したであろう史料そのものが、主家の滅亡と共に失われてしまったということなのである。
天正18年(1590年)、豊臣秀吉による小田原征伐によって、約100年にわたり関東に君臨した後北条氏は滅亡する。主家の滅亡は、それに仕えた多くの家臣たちにとって、一族の存亡をかけた試練の時代の始まりを意味した。垪和氏続が築き上げた名声と実績を背景に、彼の一族はこの激動の時代をいかに乗り越え、その血脈を後世に繋いでいったのだろうか。
垪和氏続の子として、垪和又太郎信之(のぶゆき)という人物の存在が史料から確認できる。信之は、天正7年(1579年)に、当時の後北条氏当主であった北条氏直から、その諱(いみな)の一字である「直」の字を与えられ、「直之」と名乗ることを許されたという記録がある(後に信之と改めたか) 6 。父・氏続が「氏」の字を、子・信之が「直」の字を、それぞれ歴代当主から下賜されているこの事実は、垪和氏が二代にわたって後北条家からいかに特別な待遇を受けていたかを改めて示している。
後北条氏が滅亡した後、この信之の動向について、極めて興味深い記録が残されている。水戸藩の藩士の系譜をまとめた『水府系纂』によれば、信之は「小田原没落の後、秀吉召して千石を賜ふ」とある 6 。つまり、主家を滅ぼした敵将である豊臣秀吉に、その能力を認められて召し抱えられ、千石の知行を与えられたというのである。これは、垪和氏の武将としての能力や名声が、敵方であった秀吉の耳にまで達しており、高く評価されていたことを示す逸話である。
垪和氏の血脈は、豊臣政権下で途絶えることなく、さらに次の時代へと受け継がれていく。信之の子、すなわち氏続の孫にあたる垪和善七勝植(かつうえ)は、関ヶ原の戦いを経て天下人となった徳川家康に仕えた 6 。
そして元和元年(1615年)、勝植は家康の子であり、徳川御三家の一つである水戸藩の初代藩主・徳川頼房に付属され、二百石の知行を与えられた 6 。この記録は、水戸藩の公式な藩士系譜集である『水府系纂』に記載されたものであり、その信頼性は極めて高い 29 。
これにより、垪和氏の嫡流は、後北条氏の滅亡、豊臣政権から徳川政権への移行という、戦国時代から江戸時代への大きな時代の転換期を乗り越え、水戸徳川家の家臣として安定した幕藩体制の中で武家の家名を存続させることに成功したことがわかる。
垪和一族のこの軌跡は、戦国時代から近世へと移行する時期における、多くの武家の「生存戦略」の一つの典型例を示している。主家の滅亡は、必ずしも一族の終わりを意味しない。新たな支配者(秀吉、家康)に、父祖から受け継いだ武門の名声や、個人としての能力を認めさせて再仕官を果たし、新たな秩序の中で家名を保っていく。垪和氏続がその生涯をかけて築き上げた後北条家中での高い評価と実績が、結果的に子孫が新たな時代を生き抜くための、何物にも代えがたい無形の資産となったことは想像に難くない。
本報告書における詳細な検証を通じて、垪和伊予守氏続の人物像は、従来の一面的な評価を大きく超える、重層的で深みのあるものとして再定義される。彼は、単に駿河の一城主という限定的な評価に留まるべき人物ではない。
第一に、氏続は美作国出身という、後北条家臣団の中では異色の経歴を持ちながら、その卓越した能力と忠誠心によって最高幹部層にまで上り詰めた、後北条氏の実力主義を象徴する武将であった。1100貫を超える圧倒的な知行高と、一門以外では唯一許された通字「氏」の下賜は、彼が血縁を超えて「擬似一門」とも言うべき破格の待遇を受けていた動かぬ証拠である。
第二に、彼の軍事キャリアは、後北条氏がその覇権を維持するために直面した二大脅威、すなわち北の上杉氏と西の武田氏との、双方の最前線において常に中核を担うものであった。北武蔵の「松山衆寄親」として対上杉氏の防衛網を支え、駿河の「興国寺城主」として対武田氏の防波堤となる。この経歴は、彼が特定の戦術や地域に特化した専門家ではなく、いかなる強敵に対しても方面軍司令官として対応できる、オールラウンドな軍事的能力の持ち主として、主君から絶大な信頼を寄せられていたことを示している。
第三に、彼と彼の一族の歴史は、戦国という時代のダイナミズムと、そこに生きた武士たちの姿を我々に伝えてくれる。出自を超えた実力による立身出世、主君からの絶対的な信頼の獲得、そして主家滅亡後の苦難を乗り越えての新時代への適応と再生。氏続の生涯と、その子孫がたどった軌跡を丹念に追うことは、後北条氏という一勢力のみならず、戦国武家社会の構造と、そこに生きた人々のリアルな姿を、より深く理解するための一助となるであろう。
本報告書が、垪和氏続という一人の傑出した武将に対する、これまでの評価を更新し、その歴史的重要性を正当に位置づける一石となることを期待する。