城井正房という戦国時代の武将を理解するためには、まず彼が属した一族、豊前宇都宮氏の歴史的背景を把握することが不可欠である。本章では、その出自と豊前国における勢力基盤の形成過程を概観し、正房の生涯を読み解くための前提を提示する。
宇都宮氏は、その遠祖を平安時代中期の関白藤原道兼に遡るとされる名門武家である 1 。その子孫は下野国(現在の栃木県)を本拠地とし、関東において一大勢力を築いた。しかし、豊前国に根を下ろした宇都宮氏の系譜は、この下野国の宗家とは異なる流れを汲むとする説が有力である。具体的には、藤原宗円の子である八田宗綱の兄弟、中原宗房の系統が豊前宇都宮氏の祖と見なされている 3 。
鎌倉時代初期、この中原氏の系譜に連なる宇都宮信房が、源頼朝の幕府創設に参加し、その功績を認められたことが、一族の九州における歴史の幕開けとなった。信房は、文治4年(1188年)に源義経一派の追討を命じられ、平家の影響力が強かった九州の平定に突破口を開いた 3 。この功により、建久3年(1192年)頃、信房は豊前国の地頭職に任じられ、平家方の有力武将であった板井種遠の旧領、すなわち仲津郡城井郷や伝法寺庄などを与えられたのである 3 。こうして、関東の名族であった宇都宮氏は、豊前の地に新たな根を下ろすこととなった。
豊前に入部した信房は、当初、国府にほど近い木井馬場(現在のみやこ町)に神楽城を築き、本拠とした 3 。しかし、時代が下り南北朝時代になると、宇都宮頼房は本拠地を築上町の本庄、すなわち「城井谷(きいだに)」へと移した 3 。この地を本拠としたことから、一族は土着化し、「城井氏」を名乗るようになる 7 。
城井谷は、周囲を巨大な岩壁に囲まれた渓谷であり、天然の要害として比類なき地形であった 9 。平時には麓に館(城井氏館)を構えて暮らし、戦時には谷の奥深くにある山城「城井ノ上城(きいのこじょう)」に立て籠もるという、防衛戦略に最適化された本拠地であった 9 。この難攻不落の地勢が、城井氏が戦国の世を生き抜く上での大きな支えとなり、同時に、後の豊臣政権との対立において悲劇の舞台ともなったのである。
豊前の地に確固たる基盤を築いた宇都宮氏は、その勢力を拡大する過程で、多くの一族が分家し、豊前各地に根を下ろした。宇佐、筑城、下毛、仲津、田川などの各郡に配された庶流は、それぞれ佐田氏、山田氏、野仲氏、西郷氏、友枝氏などを名乗り、豊前最大の武士団を形成していった 3 。
しかし、これらの庶流は、必ずしも本家である城井氏と一枚岩の団結を保っていたわけではない。特に、戦国時代に入ると、本家とは異なる独自の政治判断で行動する一族が現れる。後の時代、城井氏が滅亡へと向かう過程で、かつての同族である佐田氏や山田氏が、本家とは対立する大友氏の有力武将として歴史の表舞台に登場することは、一族内に潜在的な緊張関係と、各々が生き残りを賭けて選択を迫られる戦国時代の非情さを示している。この複雑な一族関係は、城井正房の時代の動向を理解する上で、極めて重要な伏線となる。
本章では、報告書の中心人物である城井正房の生涯に焦点を当てる。史料間に見られる情報の錯綜を整理・検証し、彼が生きた時代の具体的な出来事を詳述することで、その人物像を明らかにする。
城井正房の具体的な事績を追う前に、まず彼の一族内における位置付けを確定させる必要がある。諸史料における城井氏の系図には若干の混乱が見られ、特に悲劇の武将として知られる城井鎮房との関係を正確に把握することが重要となる。
複数の系図や記録によれば、城井鎮房は豊前宇都宮氏の16代当主とされる 2 。その父は15代当主の「長房(ながふさ)」、そして祖父が「正房(まさふさ)」であったと記されている 15 。一方で、城井長房の父を正房とする直接的な記述も存在する 16 。また、『紀井宇都宮系図』には、弘治三年(1557年)に80歳で没したとされる「城井左馬助正房」という人物が登場する 17 。
これらの情報を総合的に考察すると、次のような歴史像が浮かび上がる。城井鎮房が16代当主であり、ご依頼者が当初の情報として持っていた正房が14代当主であるという世代関係、そして弘治三年(1557年)に80歳で没したという記録を勘案すれば、正房を鎮房の祖父とする説が最も年代的に整合性が高い。長房は正房と鎮房の中間に位置する15代当主であり、史料によっては「兼綱(かねつな)」や「長輔(ながすけ)」とも呼ばれていたと推察される 15 。したがって、本報告書では、正房を鎮房の祖父、すなわち14代当主として論を進める。
表1:城井氏略系図(正房・長房・鎮房を中心に) |
【本家・城井氏】 |
14代 城井 正房 (まさふさ) |
↓ |
15代 城井 長房 (ながふさ) ※兼綱、長輔とも |
↓ |
16代 城井 鎮房 (しげふさ) |
↓ |
嫡男 城井 朝房 (ともふさ) |
↓ |
孫 宇都宮 朝末 (ともすえ) ※この系統が後に越前松平家に仕える |
【主要な庶流】 |
佐田氏 : 宇都宮氏の庶流。佐田隆居の代には大友氏の有力武将として活動。 |
山田氏 : 宇都宮氏の庶流。山田隆朝の代に城井正房と対立。 |
(出典: 2 を基に作成)
ご依頼者は、正房の概要として「一族の佐田俊景の攻撃を受けて敗北し降伏」したという情報を提示されている。この点について史料を精査すると、重要な年代的齟齬が明らかになる。
調査資料によれば、「佐田俊景」という人物が城井氏と争った記録は存在するものの、それは明応七年(1498年)の出来事として記されている 19 。この年は、正房が主に活躍した弘治年間(1555年-1558年)よりも半世紀以上も前のことである。したがって、ご依頼者が把握されていた情報は、正房の先代、あるいはそれ以前の当主の事績が、後世の口伝などで混同されて伝わった可能性が極めて高いと結論付けられる。
正房の時代において、佐田氏との関係は異なる様相を呈していた。佐田氏は城井氏の庶流でありながら、この頃には宇佐郡を拠点とし、大友氏の麾下で独立した国人領主として行動していた 13 。当主の佐田隆居は、後述する弘治三年の合戦において、城井正房と同じく大友方として参陣しており、両家が敵対したという記録は見られない 23 。このことから、正房の時代における城井氏と佐田氏の関係は、単純な本家と分家の主従関係ではなく、同じ大友氏の傘下で共闘することもあれば、それぞれが独自の利害で動く、より複雑なものであったことが窺える。
城井正房の生涯における最も重要な出来事は、弘治三年(1557年)に発生した豊前国内の争乱である。この争乱の根源には、北部九州の地政学的な大変動があった。
天文二十年(1551年)、周防国の戦国大名・大内義隆が家臣の陶晴賢の謀反によって自刃(大寧寺の変)。その後、大友宗麟の弟である大内義長が後継として擁立されるも、弘治三年(1557年)には、中国地方で台頭した毛利元就によって攻め滅ぼされた 25 。これにより、長年にわたって豊前国を実効支配してきた大内氏の権威は完全に失墜し、この地域に深刻な権力空白が生じたのである。
この機を逃さず、西からは毛利元就が、南からは豊後国の大友義鎮(後の宗麟)が、豊前・筑前両国への影響力拡大を狙い、激しく角逐を始めた 25 。豊前国の国人領主たちは、毛利方につくか、大友方につくかという、自らの存亡を賭けた重大な選択を迫られることになった。この地域紛争の背後には、大友・毛利という二大勢力の代理戦争という側面があったのである。
この混乱の中、毛利氏と通じたとされる上毛郡の国人領主・山田隆朝や、仲津郡の秋月文種らが、大友氏への反抗的な動きを活発化させた 17 。
そして弘治三年(1557年)五月十八日、山田安芸守隆朝は、仲八屋備前守英信らと結託し、大友方と目されていた城井左馬助正房の宅所へ押し寄せ、放火するという実力行使に出た 17 。これは、豊前国における大友・毛利の代理戦争が、具体的な武力衝突として表面化した瞬間であった。この時、正房は80歳という高齢であったとされ、すでに家督は息子の長房に譲っていた可能性も考えられるが、依然として一族の象徴的な存在として標的とされたものと見られる。
山田勢の突然の襲撃に対し、城井方はこれを果敢に防戦。山田方に戦死者15名、負傷者70余名という大きな損害を与え、撃退に成功した 17 。この戦いには、城井氏の同族である八屋衆なども加わって防戦したと記録されている 23 。
この事件は、大友義鎮に豊前への本格的な軍事介入を決意させる契機となった。義鎮は、重臣の田原親宏らを大将とする大軍を豊前に派遣。大友軍は山田隆朝の居城である山田城を攻略し、上毛郡一帯を制圧した。山田隆朝は戦いに敗れて山中へ逃亡し、最終的には毛利氏を頼って防長国へと亡命した 17 。
この一連の争乱において、城井正房は山田隆朝の攻撃を受けるという被害に遭いながらも、結果として大友方として行動し、大友氏の豊前支配確立に寄与する形となった。この戦いを通じて、城井氏は大内氏滅亡後の新たな秩序の中で、大友氏の麾下として生き残る道を選択したのである。
城井正房の時代が終わり、その子・長房が家督を継いだ時期は、豊前宇都宮氏が新たな支配体制に適応していく過渡期にあたる。この時代は、孫である鎮房の悲劇へと繋がる重要な伏線が張られた時期でもあった。
弘治三年の合戦を経て、豊前国における毛利方の勢力は一掃され、この地域は大友宗麟の実質的な支配下に入った 2 。城井氏もまた、大友氏の麾下に入ることで、国人領主としてその存続を許された。
この服属関係を象徴するのが、長房の子、すなわち後の城井鎮房と大友家の関係である。鎮房は、元服に際して大友義鎮(宗麟)から「鎮」の一字を拝領し、「鎮房」と名乗った 2 。さらに、宗麟の妹(あるいは縁者)を正室として迎えている 2 。これは、城井氏が大友家中で単なる従属的な存在ではなく、婚姻関係を結ぶに値する有力な国人として、一定の地位と格式を認められていたことを示す重要な証左である。この時期、城井氏は大友氏の軍事行動にも動員され、周辺の反大友勢力との戦いに参加するなど、大友支配体制の一翼を担っていた。
一方で、城井長房は、豊前の一国人としての立場に安住していたわけではなかった。彼は、遠く離れた関東の本家である下野宇都宮氏で内紛が発生した際、これに積極的に介入し、その家督争いを調停して一族の存続に尽力したと伝えられている 2 。
この行動は、城井氏の自己認識を理解する上で極めて示唆に富む。彼らが鎌倉時代に豊前へ下向してから数百年が経過し、地理的にも遠く隔たっていたにもかかわらず、長房は依然として宇都宮一族全体の動向に強い関心を持ち、そこに影響力を行使しようとしたのである。これは、城井氏が単なる一地方豪族に成り下がっていたのではなく、鎌倉以来の名門としての高い矜持と、全国的な武家社会の中に張り巡らされた広範な情報網や人脈を維持していたことを物語っている。
この「名門としての自負」と、それゆえに育まれた「父祖伝来の地への強い固執」こそが、後の鎮房の時代に、豊臣秀吉という新たな中央集権権力と対峙した際、妥協を許さぬ徹底抗戦へと向かわせる精神的な基盤を形成したと考えられる。長房の時代の行動は、一見すると豊前の情勢とは直接関係ないように見えるが、実は城井氏のアイデンティティを再確認し、次代の悲劇を準備する重要な期間であったと言えるのである。
城井氏400年の歴史は、正房の孫にあたる16代当主・鎮房の代で、壮絶な終焉を迎える。これは、戦国時代の地方領主が、天下統一という巨大な歴史の奔流に飲み込まれていく象徴的な悲劇であった。
天正十四年(1586年)、天下統一の総仕上げとして、豊臣秀吉による九州平定が開始された。当時、九州では島津氏が勢力を拡大しており、大友氏から離反していた城井鎮房も、当初は島津方に与していた 6 。しかし、秀吉の大軍の前に島津氏が降伏すると、鎮房もまた秀吉に臣従の意を示した 32 。
九州平定後、秀吉は「九州国分(くにわけ)」と呼ばれる大規模な領地再編を行った。この時、鎮房に対し、父祖伝来の地である豊前国城井谷を没収し、代わりに伊予国今治(現在の愛媛県今治市)へ12万石という破格の加増を伴う転封(国替え)が命じられた 6 。
この命令は、鎮房にとって到底受け入れられるものではなかった。彼の抵抗は、単なる領地への執着心から生じたものではない。それは、鎌倉時代以来400年以上にわたり、一族が命を懸けて守り継いできた「一所懸命」の地を絶対視する旧来の武士の価値観と、全国の土地を自らの支配の道具と見なし、意のままに武将を再配置する豊臣政権という新しい中央集権体制の価値観との、宿命的な衝突であった。鎮房は朱印状を返上し、本領の安堵を願い出たが、秀吉はこれを頑として拒否した 6 。
秀吉の国分けにより、城井氏の旧領を含む豊前六郡は、秀吉の軍師であった黒田孝高(如水)・長政親子の所領とされた 6 。国替えを拒否する鎮房の鎮圧は、必然的に新領主である黒田氏の役目となった。
鎮房はついに決起し、天正十五年(1587年)10月、一度は明け渡した城井谷城を急襲して奪回。天険の要害に立て籠もり、豊臣軍を迎え撃つ構えを見せた 32 。豊前最大の国人領主である城井氏の蜂起に呼応する形で、豊前各地で国人一揆が同時多発的に発生し、事態は豊前全土を巻き込む争乱へと発展した 33 。
黒田長政は早速、軍勢を率いて城井谷に攻め込んだが、地の利を完璧に把握した鎮房の巧みなゲリラ戦術の前に大苦戦を強いられ、命からがら敗走するという手痛い敗北を喫した 6 。城井谷の天然の要塞は、黒田軍の力攻めを寄せ付けなかったのである。
城井谷城の攻略に苦戦した黒田孝高は、武力による鎮圧を諦め、非情な謀略へと舵を切る。まず、鎮房の本領安堵を認め、さらに鎮房の13歳になる娘・鶴姫を長政の嫁に迎えるという破格の条件を提示して和議を申し入れた 6 。名門黒田家との縁組という提案に、鎮房はこの和議を受け入れた。
しかし、これは全て鎮房を油断させるための罠であった。天正十六年(1588年)四月、孝高は肥後国で起こった一揆の鎮圧を名目に、鎮房の嫡男・朝房を伴って出陣し、鎮房を城井谷から引き離した 32 。その隙を突き、黒田長政は和睦の祝宴と称して執拗に鎮房を中津城へと招いた。
中津城へ向かった鎮房は、長政の計略により、供の家臣団を城下の合元寺に留め置かれ、わずかな供回りのみで入城させられた。そして、城内の酒宴の席で、鎮房は待ち伏せていた黒田家の家臣らによってだまし討ちに遭い、壮絶な最期を遂げた 6 。
この謀略は、城井一族を根絶やしにするための周到なものであった。鎮房暗殺の合図と共に、合元寺にいた家臣団も黒田勢の襲撃を受け、激戦の末に全員が討ち死にした。この時の凄惨な戦いで寺の壁が血に染まったことから、合元寺は後に「赤壁寺(あかかべでら)」と呼ばれるようになったと伝わる 2 。さらに、城井谷に残っていた鎮房の父・長房も黒田勢に攻められて殺害され、肥後に出陣していた嫡男・朝房も、孝高と加藤清正の手によって暗殺された 14 。和睦の証として黒田家に差し出されていた鶴姫もまた、中津の千本松河原で侍女らと共に磔に処せられるという、あまりにも無慈悲な結末を迎えた 2 。こうして、鎌倉時代から400年続いた豊前の名門・城井氏は、謀略によって一族ことごとく誅殺され、大名としての歴史に幕を閉じたのである。
天正の謀略によって大名としての城井氏は滅亡したが、その血脈と記憶は、祟りや文化の形で後世に色濃く残り、人々の心に刻まれ続けた。
黒田氏による徹底した一族殲滅の中、城井氏の血脈は奇跡的に保たれた。鎮房の嫡男・朝房の妻(竜子)が当時懐妊しており、黒田勢が館に攻め寄せた際、忠義な家臣の手引きによって辛くも逃げ延びることに成功したのである 2 。彼女は無事に男子を出産し、その子は「宇都宮朝末(ともすえ)」と名付けられた。
この朝末の子孫は、後に徳川の世になると越前松平家に召し抱えられ、藩士として武家の家名を存続させた 2 。また、鎮房の弟である弥次郎という人物が島津家に仕官し、薩摩の地で子孫を残したという伝承もある 2 。これにより、豊前宇都宮氏の血統は、形を変えながらも現代まで受け継がれることとなった。
鎮房一族の悲劇的な死は、勝者である黒田家に長く暗い影を落とすことになった。鎮房の謀殺後、黒田氏の居城となった中津城では鎮房の亡霊が出没するという噂が絶えず、黒田長政は恐怖に苛まれたという 2 。
謀略を主導した父・孝高も、戦国の世とはいえ、勇将であった鎮房をだまし討ちにしたことを深く悔いたとされる。その霊を鎮め、祟りを恐れた孝高は、中津城内、そして後に関ヶ原の戦いの功で移封された福岡城内にも「城井神社」を創建し、鎮房の霊を「城井大明神」として手厚く祀った 2 。しかし、その後も江戸時代に発生したお家騒動「黒田騒動」や、明治維新直前の藩主の罷免、さらには城井氏謀殺に加担した加藤清正の家の改易までもが、すべて鎮房の祟りではないかと噂された 2 。城井谷の住民たちも鎮房を慕い、その命日には城跡に集まって野ばらを地に刺し、黒田家を呪い続けたという伝承が、福澤諭吉によって伝えられている 2 。
城井氏の滅亡は、単に一つの武家が滅んだだけでなく、貴重な文化の断絶をも意味した。城井氏には、神功皇后の伝説にまで遡るとされる「艾蓬(がいほう)の射法」という弓の秘儀が、代々当主のみに一子相伝で受け継がれていた 2 。これは吉凶を占い、邪気を払う神聖な儀式であったが、鎮房一族の死と共に永遠に失われた。後に朝鮮出兵に際し、故事に倣ってこの儀式を行おうとした豊臣秀吉は、その断絶を知り、自らの命令が招いた結果を深く悔やんだと伝えられている 2 。
また、鎮房個人の嗜好も、地域の文化に影響を与えていた。当時流行していた抹茶を好まず、煎茶を愛飲した鎮房は、城下の住民にも茶の栽培を積極的に奨励したとされる 2 。その名残は、現在のみやこ町犀川地区の名産品「帆柱茶」として今に伝わっており、悲劇の武将が遺したささやかな文化の痕跡として、地域の人々に親しまれている 2 。
本報告書を通じて、城井正房の生涯とその時代背景を多角的に検証してきた。その歴史的評価を以下に総括する。
城井正房は、孫である鎮房のような、悲劇の英雄として劇的に語られる人物ではない。彼の名は史料の錯綜の中に埋もれがちであり、その具体的な行動を追うことは容易ではない。しかし、彼は紛れもなく、北部九州の勢力図が根底から覆る歴史の転換点において、一族の舵取りを担った重要な人物であった。
正房が生きた弘治年間は、長らく豊前を支配した大内氏が滅亡し、その遺領をめぐって大友氏と毛利氏が激しく争う、まさに激動の時代であった。この権力の空白期に、正房は毛利方についた同族の山田隆朝から襲撃を受けながらも、これを退け、結果として大友氏の傘下に入ることで一族の存続を図った。彼のこの選択は、一時的に城井氏の安泰を保つことには成功したが、同時に、より大きな中央政権の波に直接晒され、翻弄される運命を決定づける一因ともなった。
正房の時代の選択がなければ、孫・鎮房が豊臣秀吉の「国替え」命令に直面することも、新領主・黒田氏と対峙することもなかったかもしれない。彼の生涯は、戦国時代の地方国人領主が、いかに巨大な権力構造の変化の中で、自らの存亡を賭けた厳しい選択を迫られていたかを示す好例である。
結論として、城井正房は、一族の歴史における最後の安定期を築き、同時に悲劇的な終焉への道を準備した、過渡期の領主として評価されるべきである。彼の存在と彼が生きた時代の複雑な政治力学を理解することなくして、城井鎮房の悲劇の歴史的意味を完全に把握することはできない。正房の生涯を丹念に追う作業は、華々しい英雄譚の陰に隠れた、戦国という時代の深層を照らし出す上で、不可欠な考察であると言えるだろう。