日本の戦国時代、肥後国(現在の熊本県)にその名を刻んだ武将、城親基(じょう ちかもと)。一般に彼は「島津家臣。肥後隈本城主。親冬の次男。龍造寺軍を破るなど活躍したが、豊臣秀吉の九州征伐軍に降り、所領を安堵される。肥後国人一揆には関与しなかった」といった形で語られることがある。しかし、この簡潔な人物像は、一人の人間の生涯として見た場合、時間的な飛躍や矛盾を内包しており、複数の人物の事績が混同されている可能性が極めて高い。
本報告書の目的は、この歴史的混乱を解き明かすことにある。具体的には、城氏の最後の当主たち、すなわち父・城親冬(ちかふゆ)、兄・城親賢(ちかまさ)、そして本稿の主題である城親基、さらには親賢の子・城久基(ひさもと)という、しばしば同一視されてきた人物たちの生涯を個別に検証し、それぞれの歴史的役割を明確にすることである。この緻密な分析を通じてのみ、城親基という人物の真の姿と、彼が生きた時代の肥後国人・城一族の辿った運命を、正確に描き出すことが可能となる。
この混同の一因は、史料そのものが抱える課題にある。例えば、島津氏の家老・上井覚兼が記した第一級史料『上井覚兼日記』をはじめ、各種軍記物や系図において、名前の表記揺れ(例:親賢を「親政」と記す 1 、久基を「親政」と記す 2 )や、当主交代の正確な時期が不明瞭である点が見受けられる。これらの史料を丹念に比較検討し、最も蓋然性の高い歴史像を再構築することが、本報告書の中心的な課題となる。
まず、本報告全体の理解を助けるため、城氏の主要人物とその役割を以下に整理する。
人物名 (読み) |
間柄 |
主要な役割・事績 |
関連年代 |
城 親冬 (じょう ちかふゆ) |
父 |
大友氏の支援を得て隈本城主となる。城氏の肥後中央部支配の基礎を築く。 |
天文19年 (1550年) 頃 |
城 親賢 (じょう ちかまさ) |
親基の兄 |
家督を継ぎ、大友→島津→龍造寺と従属先を変えながら勢力維持を図る。龍造寺軍と戦い、敗北の末に死去。 |
天正9年 (1581年) 没 |
城 親基 (じょう ちかもと) |
本稿の主題 |
兄・親賢の時代を支え、一族が筑後に移された後、その地で死去。城氏宗家の最後の当主格。 |
文禄元年 (1593年) 没 |
城 久基 (じょう ひさもと) |
親賢の子 (親基の甥) |
豊臣秀吉の九州征伐に際し、隈本城を明け渡す。大坂への移住を命じられる。若死にし、城氏宗家断絶の直接的な原因となる。 |
天正15年 (1587年) 頃 |
この整理を基盤として、以下、肥後国人・城氏の興亡の歴史を詳細に追っていく。
城氏の歴史は、中世肥後国において絶大な権勢を誇った守護大名・菊池氏の支流として始まる 3 。鎌倉時代、菊池氏8代当主・菊池能隆の子である隆経を祖とすると伝えられている 3 。南北朝時代には、『太平記』や『菊池武士書状』にその名が見え、菊池武光に従って懐良親王を奉じ、九州各地の戦いで活躍した一族であった 3 。
室町時代に入ると、城氏は赤星氏、隈部氏と共に菊池氏の「三家老家」と称されるほどの地位を確立する 3 。これは、単なる家臣という立場を超え、主家の政治・軍事に深く関与する有力な国人領主であったことを示している。しかし、主家である菊池氏の勢力が衰退の一途を辿る中で、城氏は自らの存続をかけた独自の道を模索し始める。この主家の衰退期に培われた、自立的かつ現実的な政治判断力こそが、戦国後期の城氏の行動原理を理解する上で不可欠な要素となる。彼らは、衰えゆく主君の下で自らの軍事力と政治基盤を固めた、半ば独立した勢力であった。後に見られる大友、島津、龍造寺といった大勢力の間を渡り歩く彼らの行動は、単なる変節ではなく、菊池家臣時代から続く、生き残りをかけた現実主義的な戦略の延長線上にあったのである。
戦国時代、菊池宗家は内部対立と、豊後の大友氏による介入によって急速に衰退した。この混乱の最中、城氏の当主であった城親冬は、大友宗麟の実兄でありながら菊池氏の家督を継いだ菊池義武と対立し、大友方として行動する道を選ぶ 5 。
天文19年(1550年)、親冬は大友義鎮(後の宗麟)が主導する菊池義武討伐戦に協力し、戦功を挙げた 6 。この功績に対する恩賞として、大友氏は親冬に対し、元々の本拠地であった山鹿郡城村 1 に代わり、肥後国の政治・経済の中心地であった隈本城(現在の熊本城の一部、古城地区)と、その周辺の肥沃な土地である飽田・託麻二郡の支配権を認めた 5 。
この隈本城への入城は、それまで同地を拠点としていた鹿子木(かのこぎ)氏の没落を決定づけるものであった 8 。鹿子木氏は菊池氏の重臣として長らくこの地を治めていたが、主家の内紛に巻き込まれ、最終的に大友氏の力によってその地位を追われたのである。一部の史料には、城親冬が鹿子木寂心(親員)の娘婿であったとの記述もあり 8 、婚姻関係を利用しつつも、最終的には大友氏という強大な後ろ盾を得て、実力で肥後の中心地を手中に収めたことがうかがえる。
こうして隈本城主となった親冬は、城氏の勢力を肥後中央部へと大きく拡大させ、一族の最盛期の礎を築いた。彼は永禄年間(1558年~1570年)頃に家督を嫡男の親賢に譲って隠棲し、後に出家して行西と号し、徳栄寺を開いたと伝えられている 6 。
父・親冬の隠居に伴い、その嫡男である城親賢が家督を相続し、隈本城主となった 1 。当初、親賢は父の代からの路線を継承し、豊後の大友氏への従属を続けた。しかし、彼の時代は九州の勢力図が目まぐるしく変動する激動期であり、城氏はその渦中で生き残りをかけた困難な舵取りを迫られることとなる。
転機となったのは、天正6年(1578年)に起きた耳川の戦いである。この戦いで、九州に覇を唱えていた大友宗麟の軍勢が、薩摩の島津義久に壊滅的な大敗を喫した 1 。この一戦を境に大友氏の権威は失墜し、九州におけるパワーバランスは劇的に変化した。この状況は、肥後の国人領主たちにとって、自らの立ち位置を再考する大きな契機となった。
親賢もまた、この機を逃さなかった。大友氏の衰退に乗じて肥後への圧力を強めてきた肥前の龍造寺隆信の脅威に対抗するため、親賢は長年続いた大友氏との従属関係を断ち切り、南の新興勢力である島津氏と手を結ぶという大胆な外交政策に転換した 1 。これは、肥後の国人たちが、大友、島津、龍造寺という三大勢力の狭間で、自らの領地と家名を保つために繰り広げた、典型的な生存戦略であった。親賢の生涯は、まさにこの戦国末期の国人領主が直面した苦悩と葛藤を凝縮したものであった。彼の度重なる所属先の変更は、不忠や気まぐれではなく、滅亡を避けるための必死の、そして極めて危険な政治的選択だったのである。
島津氏との同盟を選択した親賢は、天正8年(1580年)、島津軍を自領である隈本に招き入れ、肥後国内における反島津・親龍造寺勢力との戦いを本格化させた 5 。特に、阿蘇氏の重臣であり、肥後で随一の知将と謳われた甲斐宗運との間で行われた白川の旦過瀬(たんかのせ)での合戦は熾烈を極めたが、この戦いにおいて城・島津連合軍は敗北を喫している 11 。
島津の支援を得たものの、九州北部から肥後へ侵攻する龍造寺隆信の圧倒的な軍事力の前に、城氏の抵抗は次第に限界に達していった。「肥前の熊」と恐れられた隆信の圧力は凄まじく、親賢はついに抗しきれなくなる。天正9年(1581年)、親賢は龍造寺氏に屈服し、服属を誓う起請文を提出したことが確認されている 13 。この起請文は、城氏が龍造寺氏の軍門に下ったことを示す動かぬ証拠である。
龍造寺への屈服からわずか数ヶ月後、同年12月29日、城親賢はこの世を去った 1 。その死因について詳述する史料は残されていないが、大友、島津、龍造寺という三大勢力の間で翻弄され続けた心労による病死か、あるいは龍造寺氏の厳しい支配下における不慮の死であった可能性が推測される。彼の死は、中小国人領主が、いかに巧みな外交戦略を駆使しようとも、圧倒的な軍事力の差の前には最終的に屈せざるを得なかった戦国末期の非情な現実を物語っている。
城親賢は、激しい権力闘争を繰り広げた武将であると同時に、領地を経営する領主としての側面も持ち合わせていた。彼の治世下において、後の熊本城下町の原型が形成されたことは特筆に値する。
特に知られているのは、親賢が城下の住人であった友枝氏(能役者と伝わる)に対し、「子息の慰みになるような催し物」を企画するよう命じたという逸話である 14 。これに応えて城下で開かれた市が、現在まで続く熊本市の一大イベント「植木市」の起源になったとされている 1 。当時の市では、草花や植木の苗などが売買され、これが近代に入って大規模化したと考えられている。現在でも植木市の関係者が、毎年、親賢の墓所がある熊本市西区の岳林寺に参詣し、その成功を祈願していることは、彼の領主としての功績が今なお記憶されている証左であろう 14 。
この時代の隈本は、祇園社(現在の北岡神社)の門前町として発展した「古町」と、藤崎社(現在の藤崎台球場)の門前町である「新町」という二つの商業中心地が栄えていた 14 。城氏の隈本城は、これら二つの町を巧みに押さえることができる戦略的な要地に築かれており、城氏が地域の経済的中心をも掌握していたことがわかる 14 。親賢の治世は、加藤清正による近世熊本城下町の建設に先立つ、重要な基盤形成の時代であったと評価できる。
兄・城親賢の死後、家督はその子である冬基、後の城久基が継いだ 1 。彼が城氏の当主となった頃、九州の勢力図は再び劇的に塗り替えられることになる。
天正12年(1584年)、島原半島で勃発した沖田畷の戦いにおいて、龍造寺隆信が島津家久率いる島津・有馬連合軍に討ち取られるという大事件が起こった 15 。この敗戦により、肥後から筑前にかけて広大な勢力圏を築き上げていた龍造寺氏は急速に衰退。代わって島津氏が、大友氏を凌駕し、九州の覇権をほぼ手中に収めるに至った。この時点で、肥後国人であった城氏は、否応なく島津氏の強力な支配体制下に組み込まれることとなった 18 。
天正15年(1587年)、九州統一を目前にした島津氏の強大化を警戒した関白・豊臣秀吉は、20万とも30万ともいわれる空前の大軍を動員し、九州平定(九州征伐)を開始した 19 。秀吉軍は二手に分かれ、弟の秀長が率いる部隊は豊後から日向へ、秀吉本隊は筑前から肥後へと、破竹の勢いで進軍した 22 。
秀吉軍の圧倒的な軍事力の前に、島津方の諸城は次々と降伏、あるいは陥落していった。特に、堅城として知られた秋月氏の岩石城が、蒲生氏郷らの猛攻によりわずか一日で落城したという報は 22 、九州の国人たちに絶望的な戦力差を痛感させた。このような状況下で、抵抗は無意味な自滅行為に他ならなかった。
秀吉本隊が肥後に迫ると、隈本城主であった城久基は、賢明にも抵抗を選択しなかった。彼は戦わずして城を明け渡し、秀吉に恭順の意を示したのである 3 。この無血開城は、臆病さの表れではなく、一族の存続を最優先する合理的な政治判断であった。島津本家ですら抗しきれない巨大な権力に対し、その一配下に過ぎない城氏が刃向かうことは、一族の完全な滅亡を意味したからである。秀吉の政策が、早期に降伏した者には寛大な処置を下す傾向にあったことも、久基の決断を後押ししたであろう。
秀吉自身もこの隈本城に4月16日から三日間滞在し 23 、その堅固な造りを高く評価したと伝えられている 25 。大村由己の『九州御動座記』には「此所は肥後の府中なり、城十郎太郎(久基)と云者相踏候、数年相拵たる名城なり」と記されており、城氏が長年にわたり築き上げてきた隈本城が、天下人の目にも留まる名城であったことがわかる 26 。
降伏した城久基に対し、秀吉は肥後国内に800町(約800ヘクタール)の所領を安堵(あんど)するという朱印状を与えた 14 。これは旧来の所領に比べれば大幅な削減ではあったが、一族の家名と知行地の存続が公式に認められたことを意味した。
しかし、この安堵には極めて重要な政治的条件が付されていた。当主である久基は、先祖代々の本拠地である隈本を離れ、政権の中枢である大坂に居住することを厳命されたのである 3 。これは、秀吉が全国の有力国人領主を統制するために用いた巧みな政策の一環であった。
この「政治的斬首」ともいえる方策は、国人領主の力の源泉を根底から断ち切るものであった。国人の権力は、領地との深いつながりと、そこに住まう家臣団との個人的な主従関係に支えられている。秀吉は、領主本人を領地から物理的に引き離すことで、この封建的な絆を断絶させ、国人が在地で独自の軍事・政治行動を起こす能力を事実上無力化したのである。領主は実質的な人質となり、その領地は新しい支配者の監督下に置かれることになった。この政策こそが、後に勃発する肥後国人一揆に城氏が関与できなかった直接的な理由であり、秀吉による周到な支配体制構築の一端を示すものであった。
九州平定後、豊臣秀吉は肥後一国を織田信長旧臣の歴戦の武将、佐々成政に与え、城氏から明け渡された隈本城をその居城と定めた 22 。秀吉は、肥後の国人たちの気性の荒さと独立性の高さを理解しており、成政に対しては入国後3年間は検地を強行せず、穏便な統治を心がけるよう指示していた 29 。
しかし、成政は自らの手で早急に領国支配を確立しようと焦るあまり、この秀吉の命令を無視。入国後わずか数ヶ月で、強引に太閤検地を断行した 30 。これは、肥後の国人たちにとって、自らの領主権を根本から否定されるに等しい行為であった。彼らは九州平定の際に秀吉から直接、本領安堵の朱印状を受け取っており、自分たちの土地の支配権は保証されたものと信じていたからである 32 。
成政の検地強行に対し、国人衆は激しく反発した。中でも肥後北部で最大の勢力を誇った隈部親永・親安親子は、これを領主権への不当な侵害であるとして真っ向から抵抗し、居城に立てこもった 28 。成政がこれを武力で鎮圧しようとすると、それに呼応するように肥後各地の国人たちが一斉に蜂起。ここに、肥後の中世を終わらせる最後の大規模な反乱、「肥後国人一揆」が勃発したのである 32 。
肥後全土を揺るがしたこの大一揆に、かつて隈本城主であった城氏は参加していない 3 。その理由は明白であった。前章で詳述した通り、当主の城久基は大坂に在住を命じられており、一族の政治的・軍事的中心である肥後の領地と家臣団から完全に切り離されていたからである。在地に根差した国人領主としての力を秀吉によって事前に奪われていた城氏には、もはや一揆を主導する能力も、それに加担する意思も存在しなかった。
この肥後国人一揆は、単なる検地反対闘争ではなかった。それは、中世以来の伝統であった、土地と固く結びついた在地領主による分権的な封建支配体制と、豊臣政権が目指す中央集権的で官僚的な統治体制との、最後の、そして最も激しい衝突であった。国人たちは、先祖代々受け継いできた土地への権利、すなわち「知行権」を守るために戦った。一方、秀吉の代理人である佐々成政は、全ての土地と人民を天下人の下に一元的に管理する、近世的な支配秩序を確立しようとした。
この戦いは、肥後における中世の終わりを告げる弔鐘であった。秀吉は一揆の報に激怒し、鎮圧軍を派遣して徹底的に弾圧 34 。一揆を主導した隈部氏をはじめとする国人領主たちはことごとく処刑され、その所領は没収された 30 。そして、その跡には加藤清正や小西行長といった、秀吉に絶対の忠誠を誓う豊臣系大名が配置された 36 。城氏がこの「中世の最後の戦い」の舞台から強制的に退場させられていたという事実は、彼らが一足先に近世的な支配体制の中に組み込まれ、在地領主としての生命を絶たれていたことを象徴している。
一揆の勢いは成政の予想をはるかに超え、彼の軍勢は隈本城に籠城を余儀なくされるなど、独力での鎮圧は完全に失敗した 30 。事態を重く見た秀吉は、小早川隆景や立花宗茂をはじめとする西日本の諸大名に鎮圧を命じ、大規模な討伐軍が肥後へと派遣された 30 。
圧倒的な兵力の前に一揆勢は次々と打ち破られ、約半年にわたる抵抗の末、天正15年(1587年)末には完全に鎮圧された 34 。隈部一族をはじめ、一揆に参加した国人の多くは捕らえられ、処刑された 4 。
秀吉は、この大乱の原因を作った佐々成政の責任を厳しく問い、天正16年(1588年)閏5月、摂津尼崎において切腹を命じた 28 。そして、空席となった肥後国は、北半国を加藤清正に、南半国を小西行長に分割して与えられ、豊臣政権の強力な支配下に置かれることとなった 35 。これにより、肥後における中世的な国人割拠の時代は完全に終焉を迎え、近世大名による新たな統治が始まったのである。
兄・城親賢が当主であった時代、城親基は弟として一族を支える重要な立場にあったと推察される。しかし、彼の具体的な活動を直接的に示す史料は乏しく、その動向の多くは断片的な情報から推測するほかない。彼は、兄が繰り広げた大友、島津、龍造寺との間の激しい権力闘争と外交交渉の舞台裏で、一族の結束を固める役割を担っていたと考えられる。
肥後国人一揆という大動乱の後、豊臣秀吉は城氏の処遇を決定した。一揆に加担しなかったことから改易は免れたものの、先祖代々の地である肥後の所領は没収され、代わりに筑後国(現在の福岡県南部)に新たな知行地が与えられた 14 。これは、一揆不参加への配慮という側面と、肥後から旧来の有力国人を排除し、豊臣政権の支配を盤石にするという政策的意図が両立した結果であった。
この移封は、城氏の地位が根本的に変化したことを意味する。かつては独立した国人領主であった彼らが、今や豊臣政権の巨大なピラミッドの一角に組み込まれたのである。一部の史料によれば、城久基は筑前国を領した小早川隆景の与力(配下の指揮官)として、筑前国内に所領を与えられたとも記録されている 38 。これは、城氏がもはや自立した大名ではなく、豊臣直系の大名の指揮下に入る一武将へとその地位を落としたことを明確に示している。
城氏が新たに移り住んだ筑後国は、天正20年(文禄元年、1592年)に始まる文禄・慶長の役(朝鮮出兵)において、兵員と兵站を供給する最前線基地の一つであった。名護屋城(佐賀県唐津市)への諸大名の参集、そして朝鮮半島への渡海という、未曾有の国家事業が目前に迫っていた。筑後柳川城主の立花宗茂や、後に筑後一国を領する田中吉政といった大名たちは、秀吉の命令により極めて重い軍役を課せられていた 39 。
筑後に新たな領地を得た城氏も、この国難から逃れることはできなかった。彼らもまた、新たな領主として軍役を負担する責務を負っていたはずである。この頃、大坂住まいを命じられていた若き当主・城久基は既に亡くなっていたとされ 3 、叔父である城親基が事実上の一族の指導者として、この困難な局面に対応していたと考えられる。
しかし、彼の最期は戦場の華々しいものではなかった。文禄元年(1593年)、城親基は移封先の筑後の地で静かにその生涯を閉じた 14 。その死は、一族が故郷を追われ、新たな支配者の下で、先の見えない戦役の重圧に耐えていた、まさにその渦中での出来事であった。
この城親基の死は、一つの時代の終わりを静かに、しかし明確に告げている。それは、戦国の荒波を乗り越えてきた一国人領主の家系が、武力ではなく、より大きな政治的・官僚的な力によってその基盤を解体され、歴史の表舞台から静かに消えていく過程の最終章であった。龍造寺と戦った兄・親賢の武勇、秀吉に降伏した甥・久基の決断とは対照的に、親基の死は、戦国武士の時代の終焉が必ずしも劇的な戦闘によるものではなかったことを象徴している。多くは城氏のように、移封され、権力を削がれ、そして新しい時代の奔流の中で静かにその歴史を終えていったのである。
肥後国人・城氏の歴史は、肥後の名門守護・菊池氏の有力家臣としての勃興に始まり、主家の衰退に乗じて自立した国人領主へと成長し、大友・龍造寺・島津という九州の三大勢力が繰り広げる激しい覇権争いの狭間を、巧みな外交と武力で綱渡りのように生き抜いた、戦国時代の権力闘争の縮図であった。彼らの行動は、自らの家名と領地を守るために、いかなる勢力とも結び、また離反も辞さない、当時の国人領主の現実的な生存戦略を体現していた。
しかし、その長年培われた生存の術も、豊臣秀吉という未曾有の全国統一権力の巨大な波の前には無力であった。隈本城の無血開城、当主・城久基の大坂移住命令、そして肥後国人一揆後の筑後への移封という一連の出来事は、城氏が中世的な在地領主としての力の源泉、すなわち土地と家臣団との固い結びつきを、段階的かつ巧みに解体されていく過程そのものであった。彼らは、秀吉の築いた新たな近世的秩序の中に、その鋭い牙を抜かれた形で組み込まれていったのである。
本報告書が明らかにしたように、当初の問いであった「城親基」という人物像は、複数の人物の事績が凝縮された、歴史的混同の産物であった。龍造寺軍と死闘を繰り広げたのは兄の城親賢であり、秀吉に降伏し隈本城を明け渡したのは甥の城久基であった。そして、本稿の主題である城親基は、兄の武勇と苦闘を支え、甥の代で一族が故郷を失うという激動を見届け、そして自らは移封先の筑後国で、一族の宗家としての歴史に静かに幕を引くという、まさに時代の過渡期の悲哀を一身に背負った人物であった。
城氏の宗家は、親基の死をもって事実上断絶した。しかし、彼らの物語はそれで完全に終わったわけではない。傍流の一族はその後も生き延び、江戸時代には肥後熊本藩の新たな支配者となった細川氏の家臣として仕え、武士としての家名を後世に伝えたことが確認されている 3 。これは、戦国乱世を生き抜いた武家の「家」の存続がいかに多様な形をとりえたかを示す一例であり、城一族の血脈が、形を変えながらも歴史の中に受け継がれていったことを示唆している。