戦国時代の九州は、豊後の大友氏、薩摩の島津氏、そして肥前の龍造寺氏という三つの巨大勢力が覇を競う、まさに「三国志」の様相を呈していた。この巨大な権力闘争の渦中で、自らの存続をかけて激動の時代を駆け抜けた数多の国人領主たちがいた。本稿で詳述する城親賢(じょう ちかまさ)もまた、そうした肥後の国人領主の一人である。彼の生涯は、大国の狭間で翻弄されながらも、必死に活路を見出そうとした中小領主の典型的な姿を我々に示してくれる。
城氏は、その出自を肥後国に長らく君臨した名族・菊池氏に持つ 1 。菊池氏は鎌倉時代から室町時代にかけて肥後守護として権勢を誇ったが、戦国期に入ると内紛や周辺勢力の台頭により衰退の一途をたどっていた 3 。城氏は、この菊池氏の庶流として、肥後国山鹿郡城村(現在の熊本県山鹿市菊鹿町)を本拠地とする国人豪族であった 4 。その由緒ある家系は、肥後国内において一定の権威と発言力を保証するものであり、単なる新興の土豪とは一線を画す存在であった。
城氏が肥後中央部における確固たる地位を築くに至ったのは、親賢の父である城親冬(じょう ちかふゆ)の代であった 5 。天文19年(1550年)、当時九州北部で最大勢力を誇っていた豊後の大友義鎮(後の宗麟)が、大友氏に反旗を翻した菊池義武の討伐に乗り出した際、親冬は大友方として参陣し、その戦功を認められた 5 。
この功績に対する恩賞として、大友氏は親冬に肥後国の心臓部ともいえる飽田郡・託麻郡の二郡を与え、戦略的要衝である隈本城(くまもとじょう)の城主とした 6 。これは、大友氏が肥後を間接統治する上で、信頼できる代官として城氏を配置するという明確な戦略的意図に基づいていた。これにより、城氏は菊池氏の旧臣から、大友氏の権威を背景に肥後中央部を支配する有力国人領主へと飛躍を遂げたのである。親冬は後年、家督を嫡男の親賢に譲って隠棲し、行西と号して徳栄寺を開いたと伝えられる 5 。
親賢が居城とした隈本城は、後に加藤清正が築城する壮麗な熊本城の前身にあたる中世の城郭である 8 。この城は、祇園社の門前町である古町と、藤崎八旛宮の門前町である新町の両方を掌握できる絶好の立地に築かれていた 7 。このことは、隈本城が単なる軍事拠点に留まらず、地域の商業・宗教の中心地を支配下に置く城であったことを示唆している。親賢の時代には、すでに近世熊本城下町の原型となる都市的空間が形成されつつあったのである 7 。
西暦 (和暦) |
城親賢の動向 |
九州の主要な出来事(大友・島津・龍造寺・豊臣) |
1550年 (天文19年) |
父・親冬が隈本城主となる。 |
大友義鎮、菊池義武を討伐し肥後への影響力を強める 5 。 |
1558-70年頃 (永禄年間) |
父・親冬から家督を相続し、隈本城主となる 5 。 |
大友氏、北部九州の覇権を巡り毛利氏と抗争。 |
1578年 (天正6年) |
大友氏から離反し、島津氏に与する 10 。 |
大友宗麟、耳川の戦いで島津義久に大敗 。大友氏の勢力が大きく後退 11 。 |
1580年 (天正8年) |
島津方として、阿蘇氏家臣・甲斐宗運と旦過瀬で戦うも敗退 4 。 |
島津氏が肥後南部へ、龍造寺氏が肥後北部へと侵攻を開始 11 。 |
1581年 (天正9年) |
北上する龍造寺隆信の軍事的圧力に屈し、従属する 10 。 |
龍造寺氏、肥後北部の国人衆を次々と支配下に置く 11 。 |
1582年1月23日 (天正9年12月29日) |
死去 10 。 |
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1587年 (天正15年) |
息子・久基が豊臣秀吉に隈本城を明け渡す 1 。 |
豊臣秀吉、九州平定を完了。佐々成政が肥後国主となる 15 。 |
1587年 (天正15年) |
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肥後国人一揆が勃発。城氏は大坂在住のため不参加 1 。 |
永禄年間(1558年~1570年)頃、城親賢は父・親冬から家督を継ぎ、隈本城主となった 5 。彼は父の路線を継承し、引き続き大友氏の配下として肥後における勢力の維持に努めた。当時の肥後は、旧菊池家臣団や阿蘇氏、南部の相良氏など、様々な国人勢力が割拠する複雑な地域であり、親賢の主な役割は、これらの勢力を牽制し、肥後における大友氏の支配体制を安定させることにあった。彼の立場は、大友氏という巨大な後ろ盾があって初めて成り立つものであり、その権力基盤は本質的に外部勢力に依存する脆弱なものであった。
城親賢の生涯を考察する上で、極めて重要な注意点がある。それは、同時代の大友氏の重臣に、全く同じ「親賢」という名を持つ田原親賢(たわら ちかかた、後の紹忍)という人物が存在することである 17 。この二人はしばしば混同されるが、その出自も立場も全く異なる。
田原親賢は、大友宗麟の正室・奈多夫人の兄(または弟)にあたる外戚であり、大友氏の家政と軍事の中枢を担った大物であった 17 。天正6年(1578年)の耳川の戦いにおいて大友軍の総大将を務めたのも、この田原親賢である 12 。一方、本稿の主題である城親賢は、あくまで肥後の一国人領主であり、その活動範囲は基本的に肥後国内に限られていた。
歴史資料において「親賢」の名が登場する際、それが大友氏全体の軍事行動や中枢の政治に関わる文脈であれば、それは田原親賢を指すものと考えて間違いない 19 。この混同は、肥後の一領主に過ぎなかった城親賢の具体的な事績を曖昧にし、彼の歴史的実像を覆い隠してきた一因とも言える。本稿では、この点を明確に区別し、隈本城主・城親賢の動向にのみ焦点を当てる。この歴史記述上の分離作業こそが、彼の生涯を正しく理解するための第一歩となる。
天正6年(1578年)、九州の勢力図を根底から覆す一大事件が起こる。日向国・耳川において、南九州の覇権を狙う島津義久の軍勢が、長年の宿敵であった大友宗麟の軍勢を撃破したのである 11 。この「耳川の戦い」における大友氏の壊滅的な敗北は、単なる一合戦の勝敗に留まらなかった。それは、九州北部を長らく支配してきた大友氏の軍事的権威の失墜を意味し、九州全土に巨大なパワーバランスの変動を引き起こした。
城親賢のような大友氏配下の国人領主にとって、この敗北は自らの存亡に直結する危機であった。これまで彼らの地位を保証してきた大友氏という「保護傘」が突如として消え去り、彼らは南から猛烈な勢いで北上してくる島津氏の脅威に直接晒されることになったのである 11 。
この新たな政治情勢を前に、親賢は自らの領地と一族の存続をかけた、極めて現実的な決断を下す。すなわち、もはや頼りにならない大友氏を見限り、新たな覇者である島津氏へと従属することであった 4 。これは単なる裏切り行為として片付けられるべきものではない。崩壊しつつある旧秩序に殉じるか、台頭する新秩序に身を投じるかという、戦国乱世の国人領主が常に直面した究極の選択であった。彼のこの転身は、島津氏からの支援もあって実現したものであり、生き残りのための冷静な戦略的判断であった 10 。
島津氏の傘下に入った親賢は、単に恭順の意を示すだけでなく、島津氏の肥後平定作戦に積極的に協力する。天正8年(1580年)、彼は島津の軍勢を自領の隈本城に招き入れ、共同で肥後国内の経略にあたった 10 。
この動きは、必然的に肥後国内の他の勢力との衝突を生んだ。特に、阿蘇氏の家臣団を率いて大友方として抵抗を続けていた知将・甲斐宗運との対立は避けられなかった。同年、親賢は同じく島津方に寝返った名和顕孝(なわ あきたか)と共に、白川の渡河点である旦過瀬(たんかのせ)において甲斐宗運の軍と激突した 21 。この戦いは、大友方の城主を救援しようとする甲斐宗運の軍勢に、親賢らが敗北するという結果に終わった 4 。この一戦は、親賢が島津方の一員として、かつての主家である大友氏の残存勢力と干戈を交えるという、彼の立場の変化を象徴する出来事であった。
親賢が南からの島津氏の圧力に対応している間にも、肥後北西部からは新たな脅威が迫っていた。「肥前の熊」と畏怖された猛将・龍造寺隆信が率いる勢力である 11 。耳川の戦いで大友氏が弱体化した好機を捉え、龍造寺氏は筑後・筑前から肥後北部へと破竹の勢いで進出を開始した 11 。
これにより、肥後国、とりわけその中央部に位置する親賢の隈本城は、南の島津と北の龍造寺という二大勢力の間に挟まれる、極めて危険な地政学的状況に置かれることになった。龍造寺氏は肥後北部の国人衆を次々と屈服させており、遠方の島津氏よりも、目前に迫る龍造寺氏の軍事的圧力は、親賢にとってより直接的かつ深刻な脅威となっていった 14 。
天正9年(1581年)、ついに龍造寺氏の圧力は限界に達した。島津氏の支援は、目前に迫る龍造寺の大軍を防ぐには間に合わなかった。親賢は、再び苦渋の決断を迫られる。彼は島津氏との同盟を事実上破棄し、龍造寺隆信に屈服した 10 。これは、遠方の強力な同盟よりも、間近に迫る脅威を回避することを優先した結果であり、小領主の悲哀を物語っている。
しかし、この最後の寝返りが彼の命運を救うことはなかった。龍造寺氏に従属して間もない天正9年12月29日(西暦1582年1月23日)、城親賢は死去した 10 。その死因について、合戦での戦死(討死)といった記録はなく、「死去」と記されていることから、度重なる政治的苦境による心労が重なった末の病死であった可能性が高いと考えられる 4 。
親賢の没年については、天正9年(1581年)説が複数の歴史事典や人名辞典で採用されており、最も信頼性が高い 4 。一方で、熊本市西区の地域資料には天正7年(1579年)に亡くなったとする記述も存在する 13 。しかし、天正8年(1580年)に彼が旦過瀬の戦いに参加している記録があることから、天正7年説は信憑性に乏しい。龍造寺氏の肥後侵攻が本格化し、親賢がそれに屈服した直後という、天正9年末の死去という時系列が、彼の生涯の文脈に最も合致すると言えよう。
城親賢の生涯は、戦乱と権謀術数に彩られたものであったが、彼が後世に残した最も永続的な遺産は、軍事や政治の分野にはなかった。彼は、今日まで440年以上にわたって続く熊本の春の風物詩、「くまもと春の植木市」の創始者として、今なお市民に記憶されている 24 。
江戸時代の見聞録『肥後見聞雑記』によれば、この市の起源は、親賢が病床に伏した我が子を慰めるために、「何か珍しい催しをせよ」と城下の新町に命じたことに始まるとされる 26 。これに応じた町人たちが、子供の玩具である木の獅子頭や雉などを並べて市を開いたのが始まりであり、これが時代を経て、草花や植木を商う現在の「植木市」へと発展したと伝えられている 27 。一人の武将の、父としての子を想う優しさが、数世紀にわたる文化的な伝統を生み出したのである。
城親賢の墓は、熊本市西区島崎にある曹洞宗の寺院・岳林寺(がくりんじ)に現存する 13 。彼は天正9年(1581年)、死の直前にこの寺を再興したとされており、寺院との深い関わりが窺える 28 。
植木市の創始者としての功績を称え、現在でも毎年1月下旬の植木市開催に先立ち、岳林寺にある彼の墓前では、市の関係者らによって成功を祈願する祭礼が執り行われている 7 。彼の政治的・軍事的な苦闘の記憶は薄れても、地域文化の礎を築いた慈父としての姿は、今なお人々の敬意を集めている。
親賢の死後、家督は嫡男の城久基(じょう ひさもと、または冬基)が継いだ 4 。久基が隈本城主であった天正15年(1587年)、天下統一を目前にした豊臣秀吉が、島津氏を討伐すべく九州へ大軍を率いて侵攻した(九州平定) 15 。当時、城氏は龍造寺氏の衰退後に再び島津氏に従属しており、久基の名にある「久」の一字は島津義久から与えられたものだった 31 。
秀吉の大軍の前に島津氏が降伏すると、久基は賢明にも抵抗することなく隈本城を明け渡し、秀吉が新たに肥後国主として任命した佐々成政に引き渡した 1 。秀吉は、地方の有力国人の力を削ぐため、久基を所領から引き離し、大坂に住まわせるという処置をとった 1 。
この強制移住は、城氏から見れば先祖伝来の地を失う屈辱的な措置であったが、結果的に一族の命運を救うことになった。肥後に入部した佐々成政が強引な検地を推し進めた結果、これに反発した肥後の国人衆が一斉に蜂起する「肥後国人一揆」が勃発したのである 16 。この一揆に参加した隈部氏をはじめとする多くの国人領主は、豊臣軍によって徹底的に鎮圧され、族滅の憂き目に遭った 33 。しかし、当主の久基が大坂にいたため、城氏はこの反乱に加担することなく、改易・処罰を免れることができた 1 。
こうして一揆の嵐を乗り越えた城氏であったが、当主の久基が大坂で若くして死去したため、隈本城主としての城氏の嫡流は断絶した 1 。しかし、一族の全てが途絶えたわけではなく、傍流の家系は生き残り、後に肥後に入部した細川氏に仕え、肥後藩士として存続した 1 。戦国領主としての城氏は滅びたが、その血脈は近世武士として新たな時代を生き抜いたのである。
城親賢の生涯は、戦国時代の英雄譚に語られるような華々しいものではない。しかし、彼の生き様は、大友、島津、龍造寺という巨大勢力の狭間で、自らの家と領地の存続という、より現実的で切実な課題に直面し続けた国人領主の姿を浮き彫りにする。
彼の度重なる主家の変更は、単なる変節や不忠義として断じることはできない。それは、絶対的な庇護者が存在しない弱肉強食の世界で、生き残るために取りうる唯一の現実的な選択肢であった。彼の苦悩に満ちた政治的キャリアは、最終的に嫡流の断絶という形で幕を閉じた。しかし皮肉なことに、我が子を想う一個人の情愛から生まれた「植木市」という文化的な遺産は、彼の名を400年以上にわたって熊本の地に刻み続けている。
城親賢の物語は、天下統一という壮大な歴史の潮流の陰で、無数の国人領主たちが経験したであろう、より人間的なスケールでの葛藤と生存戦略を我々に教えてくれる。彼は、戦国乱世という巨大な嵐をいかに乗り切るかという、当時の武士階級の大多数が共有していたであろう普遍的な肖像を、今に伝えているのである。