堀内氏久は紀伊の旧大名堀内氏善の子。大坂夏の陣で千姫を救出し、その功績で徳川家旗本となる。一族の滅亡を救い、泰平の世の武士として幕府に仕え、武門の再生を成し遂げた。
慶長二十年(1615年)五月七日、大坂城は紅蓮の炎に包まれ、天を焦がしていた。豊臣家の栄華の象徴であった難攻不落の巨城は、徳川の大軍の前に音を立てて崩れ落ち、一つの時代が終焉を迎えようとしていた。城内は阿鼻叫喚の地獄と化し、豊臣方に与した武将たちは、死を覚悟するか、あるいは一縷の望みをかけて戦場をさまよっていた 1 。
この歴史的な混乱の渦中に、一人の武将がいた。堀内主水氏久(ほりうち もんど うじひさ)。関ヶ原の戦いで西軍に与して没落した紀伊の旧大名、堀内氏善の子である 2 。豊臣方として大坂城に籠城した彼にとって、落城は一族再興の夢が潰え、自らの死を意味するはずであった。しかし、燃え盛る櫓の陰で、彼の運命は劇的な転回を迎える。徳川家康の孫娘であり、将軍秀忠の息女、そして豊臣秀頼の正室である千姫との邂逅。それは、敗軍の将が遭遇した、まさに一世一代の好機であった 3 。
堀内氏久が千姫を護衛し、徳川の本陣へ送り届けたこの一つの行動は、単なる個人の武功に留まらなかった。それは、関ヶ原の敗戦以来、滅亡の淵にあった堀内一族全体の運命を劇的に好転させ、徳川の泰平の世における武門としての再生を勝ち取るための、決定的な転換点となったのである。本報告書は、この堀内氏久という一人の武将の生涯を徹底的に追跡し、歴史の巨大な転換点において、個人の機転と武功がいかにして一族の命運を切り拓いたかを解き明かすものである。彼の物語は、大局が完全に決したかに見えた混乱の最中にこそ、新たな秩序への「入場券」を得る最後の機会が潜んでいたことを示している。それは人道的な救出劇であると同時に、自らと一族の未来を賭けた、極めて戦略的な行動だったのである。
和暦(西暦) |
年齢 |
出来事 |
典拠 |
文禄4年(1595) |
1歳 |
紀伊新宮城主・堀内氏善の子として誕生。初名は氏定。 |
2 |
慶長5年(1600) |
6歳 |
関ヶ原の戦いで父・氏善が西軍に与し、戦後、堀内家は改易となる。 |
4 |
慶長5年以降 |
不明 |
紀伊国和歌山に入封した浅野幸長に仕える。 |
2 |
慶長19年(1614) |
20歳 |
大坂冬の陣。豊臣秀頼の招きに応じ、兄・行朝と共に大坂城に入城する。 |
2 |
慶長20年(1615) |
21歳 |
大坂夏の陣。5月7日の落城の際、千姫を救出し、徳川方に送り届ける。 |
3 |
元和元年(1615)以降 |
不明 |
千姫救出の功により、下総国内に500石を与えられ徳川家旗本となる。幕府の軍事職である大番に列せられる。 |
2 |
時期不詳 |
不明 |
京都の二条城の守衛(在番)を務める。 |
2 |
明暦3年(1657) |
63歳 |
8月20日、二条城在任中に京都にて死去。法名は理円。墓所は京都市北区の天寧寺。 |
2 |
堀内氏久の生涯を理解するためには、まず彼が属した堀内一族の特異な成り立ちと、その栄光の歴史を紐解く必要がある。堀内氏は、紀伊国新宮(現在の和歌山県新宮市)を本拠地とした国人領主であった 6 。彼らの力の源泉は、単なる土地支配に留まらなかった。一つは、熊野灘を縦横に駆ける「熊野水軍(海賊)」を率いる強力な軍事力であり、もう一つは、熊野三山の一つである熊野新宮の別当職を掌握することによる宗教的な権威と、熊野詣でからもたらされる経済力であった 7 。このように、武力、神威、財力を三位一体で掌握した堀内氏は、紀伊半島南部に一大勢力を築き上げたのである。
この一族を戦国大名として飛躍させたのが、氏久の父、堀内安房守氏善(1549-1615)であった 7 。氏善は、織田信長の勢力が紀伊に及ぶとこれに属し、信長の死後は逸早く羽柴秀吉に従うことで、その地位を盤石なものとした 9 。天正十三年(1585年)の秀吉による紀州征伐では、当初抵抗を見せたものの最終的には降伏し、本領である2万7千石を安堵された 4 。この石高は実質的には5万から6万石に達したともいわれ、紀伊南部における支配を秀吉から公認された形となった 7 。その後、氏善は文禄・慶長の役において熊野水軍を率いて朝鮮半島へ渡海し、水軍の将として活躍した 4 。秀吉の死に際しては、遺物として名刀「村正」を拝領するほど、豊臣政権下で確固たる地位を築いていた 9 。また、同じく水軍の将として名を馳せた九鬼嘉隆の養女を正室に迎えており 5 、水軍勢力同士の連携によって、その勢力をさらに強固なものにしようという戦略も見て取れる。
堀内氏の権力構造は、中央の織田・豊臣政権に従属しつつも、熊野という地理的・宗教的に隔絶された地域に根差した、半ば独立王国としての性格を色濃く帯びていた。この「中央への従属」と「地域での自立性」という二面性こそが、彼らの栄光の源泉であった。しかし、それは同時に、天下の趨勢を見極める上での脆弱性をも内包していた。彼らの地域的な強さと自負が、結果として中央政局に対する大局観を曇らせ、来るべき天下分け目の戦いにおいて、一族の運命を左右する判断ミスを誘発する一因となったのである。
慶長五年(1600年)、豊臣秀吉の死後に顕在化した徳川家康と石田三成の対立は、ついに天下分け目の関ヶ原の戦いへと発展した。この国家的な動乱において、各大名は自らの家門の存続を賭けて、東軍につくか西軍につくかの重大な選択を迫られた。堀内氏善は、西軍を選択する。この決断の背景には、石田三成からの牟婁郡8万石という破格の条件での勧誘があったことに加え、義父である九鬼嘉隆が西軍に与したことが大きく影響していた 8 。
氏善は約350人の軍勢を率いて伊勢国へと侵攻したが、関ヶ原の本戦における西軍主力の呆気ない敗北の報に接すると、戦線を離脱 9 。時すでに遅く、本拠地である新宮城は、東軍に与した和歌山城主・桑山一晴によって攻め落とされ、大名としての堀内家はここに没落した 4 。
戦後、堀内氏善は捕らえられ、肥後熊本藩主・加藤清正に預けられることとなった 4 。西軍への加担が消極的であったと判断されたためか、後に罪を許され、清正から2,000石の知行を与えられて宇土城の城代などを務めたとされる 8 。しかし、その最期については、慶長十四年(1609年)に配所で没したとする説 4 と、大坂の陣が終結した直後の慶長二十年(1615年)に熊本で病死したとする説 8 があり、判然としない。いずれにせよ、かつて熊野に覇を唱えた大名家の当主としては、寂しい晩年であったことは想像に難くない。
この一族の没落は、氏久をはじめとする次代の若者たちに重い十字架を背負わせることになった。「改易された大名の子」という立場は、彼らを浪人の身へと突き落とし、旧領回復という悲願を胸に、先の見えない苦難の道を歩ませることになるのである。
堀内氏久は、文禄四年(1595年)、栄華を極めつつあった堀内氏善の子として生を受けた 2 。通称は主水(もんど)、初名は氏定(うじさだ)と伝わる 2 。母は志摩の海将・九鬼嘉隆の養女であった 2 。彼がわずか6歳の時に関ヶ原の戦いが勃発し、堀内家は改易の憂き目に遭う。輝かしい未来が約束されていたはずの彼の人生は、幼くして暗転した。
氏久の出自、特に兄弟関係については史料によって記述が異なり、錯綜している。兄として、後に大坂の陣で共に戦うことになる新宮行朝(しんぐう ゆきとも、初名:堀内氏弘)の存在が挙げられる 2 。しかし、一部の史料では、行朝を氏善の弟(氏久の叔父)とする説や、逆に氏久を行朝の甥とする説も見られ、一族の正確な系譜を完全に復元することは困難である 2 。しかし、江戸幕府が編纂した公式の系譜集である『寛政重修諸家譜』には、氏弘(行朝)を氏久の兄として記す記述があり 13 、本報告ではこの関係性を主軸として考察を進める。
大名家としての地位を失った後、氏久は紀伊国和歌山に入封した新たな領主、浅野幸長に仕官した 2 。これは、かつての支配者一族が持つ地域の情報や人脈、あるいは個人の武芸を新領主が評価し、家臣団に組み込むという、戦国から近世への移行期においてしばしば見られた事例である。しかし、一介の家臣という立場は、かつて数万石を領した大名家の誇りを持つ若者にとって、雌伏の時でしかなかった。彼は、一族の再興を夢見ながら、静かに時代の変化を見つめていたのである。
慶長十九年(1614年)、方広寺鐘銘事件をきっかけに徳川家と豊臣家の関係が決定的に決裂し、大坂冬の陣が勃発した。豊臣家は、全国の浪人衆に呼びかけ、兵力の増強を図った。この呼びかけは、関ヶ原の戦いで敗れ、所領を失った多くの武士たちにとって、雪辱を果たし、失われたものを取り戻すための最後の機会と映った。
堀内氏久と兄の行朝も、この豊臣秀頼からの招きに応じた。氏久は仕えていた浅野家を出奔し、兄と共に大坂城へと馳せ参じたのである 2 。彼らの行動は、単に旧主豊臣家への忠義心からだけではなかった。その最大の動機は、豊臣方としてこの戦に勝利し、かつての所領を取り戻すという「旧領回復」の悲願にあった 10 。浅野家での安定した生活を捨ててまで、彼らはこの危険な賭けに出た。それは、一介の家臣として生涯を終えるのではなく、大名・堀内家の栄光を再びその手に掴むための、一発逆転を狙った極めて現実的な政治的・軍事的決断であった。
大坂城において、兄の行朝は三百人ほどの兵を率い、大野治房の寄騎として活躍した 10 。氏久もまた、兄と行動を共にし、豊臣軍の一員として徳川の大軍と対峙した 2 。彼らにとって大坂の陣は、失われた誇りと領地を取り戻すための、最後の、そして唯一の戦場だったのである。
慶長二十年(1615年)五月七日、大坂夏の陣は豊臣方の敗北で決着し、大坂城は炎上、落城の時を迎えた。城内が混乱を極める中、堀内氏久の運命を決定づける出来事が起こる。彼は、炎の中から脱出しようとしていた千姫の一行と遭遇したのである 1 。千姫は徳川家康の最愛の孫娘であり、時の将軍・徳川秀忠の長女。彼女の身の安全は、徳川方にとって最優先事項であった 14 。
氏久はこの千載一遇の好機を逃さなかった。彼は千姫を護衛し、徳川軍の陣中へと送り届ける決断を下す。この時、彼が引き渡し相手として目指したのは、徳川軍の武将、坂崎出羽守直盛(さかざき でわのかみ なおもり)の陣であった 5 。氏久は坂崎と面識があったとされ、これが極めて重要な意味を持つことになる。
千姫救出劇を巡っては、従来、坂崎直盛がその最大の功労者とされてきた。彼はその功を盾に千姫との婚姻を望んだが、千姫自身がこれを拒絶。望みが絶たれた直盛は千姫の輿入れ行列を襲撃しようと計画するも、事前に露見し、幕府によって討たれた、というのが「千姫事件」として知られる逸話である 15 。
しかし、近年の研究では、この通説に修正が加えられている。実際に炎上する城内から千姫を直接保護し、安全な場所まで送り届けたのは、豊臣方の武将であった堀内氏久であり、彼は千姫を坂崎直盛の陣に引き渡した、という説が有力視されているのである 16 。この説に基づけば、坂崎の功績はあくまで「引き渡しを受けて本陣まで届けた」仲介役であり、最も危険で困難な「敵中からの救出」という核心部分を成し遂げたのは、紛れもなく堀内氏久であったことになる。
氏久の行動の巧みさは、単に千姫を救ったことだけに留まらない。引き渡し相手として、面識のある「坂崎直盛」という名の通った武将を選んだ点にこそ、彼の冷静な判断力と戦略性が表れている。無名の兵卒に引き渡していては、その功績が誰のものか曖昧になり、最悪の場合、手柄を横取りされたり、あるいは豊臣方の間者と疑われて殺されたりする危険性すらあった。名の通った坂崎を介することで、氏久は自らの身元と状況を正確に伝え、その功績が確実に幕府中枢、そして最高権力者である家康の耳に届くことを確実にしたのである。結果として、功績の扱いを巡って幕府と対立し悲劇的な末路を辿った坂崎直盛とは対照的に、堀内氏久は純粋な功労者として評価され、一族再興への道を切り拓くことに成功した。この鮮やかな対比は、時代の転換期における的確な状況判断と立ち回りの巧拙が、文字通り生死を分けたことを物語っている。
堀内氏久による千姫救出の功績は、徳川方にとって計り知れない価値があった。最愛の孫娘が無事に戻ったことを、家康は大いに喜んだと伝えられている 14 。落城後、氏久は家康に拝謁を許され、大坂方に与した敵将であったにもかかわらず、その罪は完全に赦免された 2 。
恩賞は赦免に留まらなかった。戦後、氏久はこの功績により、下総国(現在の千葉県北部など)に500石の知行地を与えられ、将軍・徳川秀忠に直属する家臣、すなわち旗本として召し抱えられるという破格の待遇を受けた 2 。関ヶ原で没落し、大坂の陣では敵として戦った武将が、その功績一つで徳川幕府の直参家臣団の中枢に組み入れられたのである。
さらに、この恩恵は氏久一人に限定されなかった。最大の恩恵を受けたのは、兄の新宮行朝であった 2 。大坂方として奮戦し、落城後に捕縛され、本来であれば死罪は免れないはずであった行朝は、ひとえに弟・氏久の功績によって命を救われた 10 。彼は赦免された後、伊勢国津藩の藩主・藤堂高虎に仕える道が開かれ、武士としての生涯を全うすることができたのである 9 。堀内氏久のたった一度の機転は、文字通り一族を滅亡の淵から救い上げたのであった。
徳川の旗本となった堀内氏久の後半生は、戦乱の世で武功を立てる武士から、泰平の世の秩序を維持する武官へと、その役割を大きく変えていく。
旗本として召し抱えられた氏久は、まず幕府の常備軍の中核をなす「大番(おおばん)」に任じられた 2 。大番は、書院番や小姓組などと共に「五番方」と総称される精鋭部隊の一つであり、江戸城の警護や市中の巡回、そして有事の際の先鋒隊としての役割を担う、格式ある役職であった 19 。老中の支配下に置かれ、馬上での勤務が許されるなど、数ある旗本の役職の中でも特に武門の名誉を重んじるものとされていた 19 。氏久がこの職に任じられたことは、彼の武士としての能力が徳川幕府によって高く評価されたことを示している。
その後、氏久は京都に赴き、二条城の守衛(在番)を務めた 2 。二条城は、天皇と朝廷を監視し、西国大名を牽制するという、幕府にとって政治的に極めて重要な拠点であった。その警備を任されるということは、幕府から深い信頼を得ていたことの証左に他ならない 22 。二条城に在番する大番の旗本たちは、単なる城の警備だけでなく、幕府から朝廷への使者や、京都周辺の社寺における普請の監督役など、多岐にわたる公務を担った 22 。
堀内氏久の旗本としてのキャリアパスは、彼がもはや単に「功績によって救われた元敵将」ではなく、徳川幕府の新たな秩序を支える信頼できる「武官」として、完全に体制内に組み込まれたことを明確に示している。彼の生涯は、戦国の動乱を生き抜き、泰平の世の礎を築くという、武士の役割そのものが変質していく時代を象徴していると言えよう。
泰平の世の武官として勤めを果たした堀内氏久は、明暦三年(1657年)八月二十日、二条城の守衛として在任中であった京都の地で、その生涯を閉じた。享年六十三であった 2 。法名は理円と贈られた 2 。
彼の墓所は、京都府京都市北区に現存する曹洞宗の寺院、萬松山天寧寺にある 2 。天寧寺は、もとは会津にあった寺院が移転してきたと伝えられ、江戸時代初期の茶人として名高い金森宗和の墓があることでも知られる歴史ある寺院である 23 。
氏久の私生活については、妻は長谷川氏の娘であったと記録されている 2 。子には氏衡(うじひら)、氏成、氏勝の三人がおり、家督は長男の氏衡が継承した 2 。こうして堀内主水家は旗本として存続し、その家系は幕府の公式記録である『寛政重修諸家譜』にも記されることとなり、武門としての血脈を幕末まで伝えた 2 。
氏久一人の功績は、彼自身の家系だけでなく、堀内一族全体の再生へと繋がった。前述の通り、兄の行朝は津藩藤堂家に仕え、弟の有馬氏時は紀州徳川家に、同じく弟の堀内氏治は父と共に加藤清正に預けられた後、最終的に藤堂家に仕えるなど、兄弟たちは徳川体制下の有力な譜代・親藩大名家にそれぞれ根を張ることに成功した 4 。さらに、赤穂事件の際に細川家に預けられた赤穂浪士の様子を詳細に記録した『堀内伝右衛門覚書』の著者である堀内伝右衛門も、この堀内一族の子孫であると伝えられている 9 。堀内氏久の行動は、多様な形で一族が生き残るための、まさに礎石となったのである。
氏名(通称) |
氏久との関係 |
大坂の陣後の動向 |
典拠 |
新宮 行朝 (左馬助、氏弘) |
兄(叔父説等あり) |
大坂城に籠城。戦後捕縛されるも、氏久の功により赦免。伊勢・津藩の藤堂高虎に仕える。 |
9 |
堀内 氏久 (主水、氏定) |
本人 |
大坂城に籠城。千姫救出の功により、徳川家旗本(500石)となる。 |
2 |
有馬 氏時 (主膳) |
弟 |
紀州徳川家に仕える。 |
9 |
堀内 氏治 (右衛門兵衛) |
弟 |
父・氏善と共に加藤清正に預けられた後、浪人を経て藤堂家に仕える(1500石)。 |
4 |
重朝、道慶、氏清 |
弟 |
詳細は不明な点も多いが、一族が多方面で存続を図ったことがうかがえる。 |
4 |
堀内氏久の生涯は、戦国の敗者が、時代の大きな転換点において、個人の機転、武功、そして時運を的確に捉えることで、泰平の世における確固たる地位へと劇的な転身を遂げた、象徴的な事例である。関ヶ原の戦いで没落し、大坂の陣では滅びゆく豊臣方に与するという、二度にわたって歴史の敗者側に立った彼が、最終的に徳川幕府の旗本として家名を再興し得たのは、ひとえに大坂城落城の混乱の中で成し遂げた千姫救出という、ただ一つの功績によるものであった。
彼の行動の歴史的意義は、彼個人の立身出世に留まらない。その功績は、死罪を待つ身であった兄・行朝の命を救い、他の兄弟たちが有力大名家に仕官する道を開くなど、没落した堀内一族全体の「再興の礎」となった。一族は、幕府直参の旗本家、津藩の重臣、紀州藩の藩士といった形で血脈を分散させ、ある種のポートフォリオ戦略によって、武門としての存続を確実なものとした。これは、氏久の功績がなければ決して成し得なかったことであろう。
堀内氏久の物語はまた、徳川幕府初期の秩序形成過程における、ある種の柔軟性と実利主義をも示している。敵方であったとしても、幕府にとって有益な「功」さえ立てれば、過去を問わず受け入れ、体制に組み込むという現実的な側面が、そこにはあった。堀内氏久は、自らの武勇と冷静な判断力によって、一族を滅亡の淵から救い出し、新たな時代の秩序の中に確固たる居場所を築き上げた。彼の生涯は、まさに乱世の終焉と泰平の到来を、その身をもって体現した武将であったと言えるだろう。