堀直次は、堀直寄の嫡男で村上藩世子。将軍家光から厚遇され、土井利勝の娘を正室に迎えるも、25歳で早世。その死と幼い嫡男の夭折により、村上堀家は断絶。堀直清と混同されがちだが、異なる運命を辿った。
日本の戦国時代から江戸時代初期にかけての武将、「堀直次」に関する調査依頼は、一見すると特定の個人を対象としているように見えます。依頼者が提示した「直政の子。秀治・忠俊親子に仕える。関ヶ原合戦では、上杉方の一揆勢と戦い、これを撃退した。父の死後家督を継いだが、僧を殺害した罪で改易された」という概要は、一人の武将の波乱に満ちた生涯を的確に要約しています。しかし、この人物像は、歴史史料を丹念に紐解くと、実は「堀直次(ほり なおつぐ)」ではなく、「 堀直清(ほり なおきよ) 」という名の武将のものであることが判明します 1 。
この人物誤認は、依頼者個人の勘違いに留まるものではなく、歴史的な背景を持つ根深い問題です。江戸幕府が編纂した公式の系譜集である『寛政重修諸家譜』において、越後福嶋騒動の中心人物を「直次」と記述しつつも、注釈として「(堀家の)呈譜に、直清に作る」と付記しており、当時から呼称の混乱が存在したことを示唆しています 2 。他の史料においても両者の名前が混同される例が見られ、この混乱が現代にまで影響を及ぼしているのです 4 。
したがって、本報告書は、この歴史的な誤認を解明することを第一の目的とします。その上で、依頼者が真に知りたいと望んでいる人物、すなわち「堀直清」の生涯を徹底的に詳述します。さらに、歴史上の記録を正確に期すため、彼としばしば混同される、実在の「堀直次」—堀直寄の子で、村上藩の世子であった人物—の生涯についても、同様に詳細な報告を行います。
この二人の「堀」姓の武将の生涯を対比的に検証することで、単なる個人史に留まらない、より大きな歴史的文脈が浮かび上がります。それは、豊臣政権下の大大名であった堀家が、徳川の世へと移行する中で、いかにして内紛に陥り、そして幕府の政治的意図によって解体されていったかの縮図です。また、激動の時代を生き抜くために、兄弟がそれぞれ異なる戦略を取り、結果として全く異なる運命を辿った様は、武家の存続の厳しさと複雑さを物語っています。
本報告書は、以下の構成を取ります。まず、読者の混乱を避けるため、堀一族の主要人物の関係性を明確にする系譜図を提示します。次いで、第一部で依頼者が関心を寄せる「堀直清」の生涯を、第二部で本来の「堀直次」の生涯を、それぞれ詳細に追跡します。これにより、二人の人物像を明確に区別し、堀一族の盛衰という大きな物語の中で、彼らが果たした役割と歴史的意義を明らかにすることを試みます。
本報告で言及される主要な人物の関係性は以下の通りです。この関係性を念頭に置くことで、以降の記述の理解が深まります。
人物名 |
よみ |
関係性・概要 |
堀 直政 |
ほり なおまさ |
堀家宗家(秀政・秀治・忠俊)の家老。本報告で中心となる直清・直寄の父 6 。 |
堀 直清 |
ほり なおきよ |
【本報告 第一部の主題】 直政の長男。三条城主。越後福嶋騒動の中心人物。僧侶殺害事件を起こし改易された 1 。 |
堀 直寄 |
ほり なおより |
直政の次男で直清の弟。兄と対立し、幕府に訴え出る。騒動後も独立大名として生き残り、村上藩祖となる 9 。 |
堀 忠俊 |
ほり ただとし |
堀家宗家の当主(堀秀治の子)。幼少のため直政・直清が後見した。お家騒動の責任を問われ改易された 1 。 |
堀 直次 |
ほり なおつぐ |
【本報告 第二部の主題】 直寄の長男。村上藩世子。父に先立ち早世。直清としばしば混同される 13 。 |
堀直清は、天正元年(1573年)、堀一族の重鎮である堀直政の長男として生を受けました 1 。父・直政は、堀家の宗家当主・堀秀政の従弟でありながら、その家老として絶大な権勢を誇り、「天下の陪臣」と称されるほどの人物でした 7 。直清は、その嫡男として、将来的に堀家の執政職を継承し、一族の中核を担うことが期待される立場にありました。彼は父と共に、宗家の当主である堀秀治、そしてその子・忠俊に仕えました 1 。
直清の名が歴史の表舞台に明確に現れるのは、慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いにおいてです。天下分け目のこの戦役で、堀家は徳川家康率いる東軍に与しました 1 。堀家の戦略的役割は、本拠地である越後から会津の上杉景勝を牽制し、その南下を阻止することにありました 15 。これに対し、上杉家の宰相・直江兼続は、越後国内に残留していた旧上杉家臣や堀家の統治に不満を持つ在地勢力を扇動し、一斉蜂起させることで堀家の背後を脅かす策に出ます 15 。これが「上杉遺民一揆」として知られる越後での戦乱です。
この危機的状況において、直清は武将としての力量を遺憾なく発揮します。当時、父・直政に代わって三条城の城主代行を務めていた直清は、一揆勢の鎮圧において中心的な役割を果たしました 1 。同年8月4日、上杉方は地元の農民を装って三条城に大規模な攻撃を仕掛けますが、直清はこれを冷静に指揮し、多数の敵を討ち取って撃退することに成功します 1 。さらに9月8日には、越後の国境である加茂山に布陣していた一揆勢と会津からの援軍に対し、城から打って出て敵将を討ち取るという戦果を挙げました。この功績は高く評価され、後に徳川秀忠から直々に感状を賜っています 1 。
興味深いことに、この越後での戦いでは、弟の直寄もまた坂戸城を拠点に奮戦していました。直寄は一揆勢に攻略された下倉城を即座に奪還するなど、兄に劣らぬ武功を挙げており、彼もまた家康と秀忠から感状を受けています 10 。兄弟がそれぞれに武功を立て、徳川家からの評価を得たこの経験は、彼らの自負心を高めると同時に、後の家中の主導権を巡る熾烈な対立の萌芽を内包していたと言えるでしょう。
関ヶ原の戦いを経て安堵された堀家の平穏は、長くは続きませんでした。慶長13年(1608年)、一族の屋台骨であった堀直政が死去すると、その強力な統制力を失った堀家内部で、権力闘争の火種が燻り始めます 7 。争いの中心にいたのが、直政の息子たち、すなわち嫡男の直清と次男の直寄でした。
父の死後、直清は三条5万石の遺領と、幼い宗家当主・堀忠俊の後見人としての執政職を継承しました 1 。一方、直寄もまた坂戸城主として5万石を領する実力者であり、両者は藩政の主導権を巡って激しく対立します 11 。兄弟の不仲の原因については、父・直政が豊臣家への人質として苦労した直寄ではなく、嫡男の直清に家督と主要な遺産を譲ったことへの不満があったとする説も伝えられています 11 。
感情的な対立は、やがて藩全体を巻き込むお家騒動、世に言う「越後福嶋騒動」へと発展します。慶長14年(1609年)、執政としての権限を握る直清は、当主・忠俊を通じて、弟・直寄を堀家から追放するという強硬手段に打って出ました 1 。これに不服を抱いた直寄は、もはや藩内での解決は不可能と判断し、江戸や駿府の幕閣、そして大御所・徳川家康に直接裁定を求めるという、最終手段に訴えます 1 。
この幕府による審問の過程で、直清の運命を決定づける一つの事件が白日の下に晒されます。それが「僧侶殺害事件」です。直清は自身の領地である三条において、浄土宗と日蓮宗の僧侶を招集し、宗教論争(宗論)を行わせていました 1 。問題はその後です。彼は、この宗論に敗れた浄土宗の僧侶十名を、見せしめとして処刑するという凶行に及んでいたのです 1 。当時、三条には日蓮宗の拠点である本成寺が存在し 22 、浄土宗の寺院も活動しており 24 、両宗派間の緊張関係が背景にあった可能性はありますが、領主による一方的な処刑は常軌を逸したものでした。
この報告を受けた家康は、熱心な浄土宗の信者であったこともあり、激怒したと伝えられています 5 。慶長15年(1610年)、家康自らが下した裁定は、堀家にとって破滅的なものでした。
まず、宗家当主の堀忠俊が「家中取締不十分」の責任を問われ、越後45万石の所領を全て没収(改易)され、陸奥磐城平藩の鳥居忠政預かりの身となります 1。事件の直接の原因を作った直清もまた、所領を没収の上、出羽山形藩主・最上義光への配流(お預け)を命じられました 1。そして、訴え出た側の直寄も、家中の混乱を招いた責任は免れず、1万石の減封と信濃飯山藩への転封という懲罰的処分を受けました 3。
この一連の出来事は、単なる兄弟喧嘩や一領主の暴走が招いた悲劇としてのみ捉えるべきではありません。豊臣恩顧の有力外様大名であった堀家を、幕府が解体する絶好の口実として利用した側面が色濃く見られます。特に、北陸の雄・前田家を牽制する戦略的要衝である越後から堀家を排除し、より信頼の置ける親藩・譜代大名を配置したいという徳川家の政治的思惑があったことは、多くの史料が指摘するところです 5 。直清の僧侶殺害は、その思惑を実現するための、またとない大義名分を家康に与えてしまったのです。戦国時代の気風が抜けきらなかった直清は、新時代の支配者である家康の個人的信条が持つ政治的な重みを理解できず、自らの権威を過信した結果、一族全体を破滅へと導く致命的な失策を犯したと言えるでしょう。
改易処分を受けた堀直清は、大名の地位を剥奪され、「御預人(おあずけにん)」として出羽山形藩主・最上義光のもとへと送られました 1 。御預人とは、幕府の命令により他の大名家が身柄を預かり、監視・軟禁下に置く刑罰であり、厳重な監視下での生活を余儀なくされました 25 。
しかし、直清の流人生活は、予期せぬ形で転機を迎えます。彼を預かっていた最上家が、元和8年(1622年)、義光死後の後継者問題を巡る内紛(最上騒動)を理由に、幕府から改易を命じられてしまったのです 27 。庇護者であった大名家そのものが取り潰されるという異例の事態に、直清がその後どのような処遇を受けたのか、史料は明確に記していません。幕府によって新たな預け先が定められたと考えられますが、その詳細は不明です。
波乱の生涯を送った直清は、寛永18年(1641年)にその生涯を終えました 1 。彼自身の没落は決定的でしたが、その血脈が完全に途絶えることはありませんでした。残された息子たちは、それぞれが新たな道を模索する必要に迫られます。
次男の直浄(なおきよ、または直倫とも)は、父とは対立した叔父・堀直寄を頼り、その家臣として村上藩に仕えました。後に直寄の家系が断絶すると、越後新発田藩の溝口家に仕官しています 1 。他の息子たちも同様に、溝口家や、信濃で存続していた別の堀一族の家臣となるなど、かつての一族の縁故を頼って武士としての命脈を保ちました 1 。父・直清が失った大名の地位を取り戻すことは叶いませんでしたが、その子孫たちは、小藩の家臣という形で堀の名を後世に伝えていったのです。
第一部で詳述した堀直清としばしば混同される人物、それが本章の主題である「堀直次」です。彼は、慶長19年(1614年)、堀直寄の嫡男として駿府で誕生しました 13 。当初は直大(なおひろ)と名乗っていました 13 。
彼の出自は、直清とは対照的に、幸運に満ちたものでした。父・直寄は、兄との骨肉の争いを経て、結果的に徳川幕府の信頼を勝ち取り、独立大名としての地位を確立した人物です 4 。直次が生まれた当時、直寄は信濃飯山藩4万石の藩主であり、徳川家康の側近として仕えていました 3 。
直次は、まさに上昇気流に乗る大名家の嫡男として成長しました。父・直寄は大坂冬の陣・夏の陣での戦功を評価され、元和2年(1616年)には越後蔵王堂(長岡)8万石、さらに元和4年(1618年)には越後村上10万石へと加増・転封を重ねていきます 30 。
この堀家の隆盛は、嫡男である直次への幕府の厚遇にも表れています。寛永6年(1629年)、大御所・徳川秀忠が江戸の堀邸を訪問した際、直次は直々に来国光作の刀を拝領しました。翌寛永7年(1630年)には、三代将軍・徳川家光が同じく堀邸を訪れ、再び来国光の刀を授けています 13 。これは、将軍家が堀家の後継者である直次に大きな期待を寄せ、その将来を嘱望していることを示す、極めて名誉な出来事でした。
10万石の大藩の世子として、直次の縁組は重要な政治的意味合いを持っていました。彼は、当時幕府の最高権力者の一人であり、大老も務めた土井利勝の娘を正室として迎えます 13 。この婚姻は、譜代の重鎮である土井家との間に強力な縁戚関係を築くものであり、村上藩堀家の幕府内における地位を盤石にするための、極めて戦略的な一手でした。
輝かしい未来が約束されているかに見えた直次でしたが、その人生はあまりにも短いものでした。寛永15年(1638年)7月17日、彼は父・直寄に先立ち、25歳という若さでこの世を去ってしまいます 10 。死因に関する具体的な記録は残されていませんが、この早すぎる死は、彼の家系にとって致命的な打撃となりました。
彼は死に際し、土井利勝の娘である正室との間に、幼い嫡男・直定(なおさだ)と一人の娘を残していました 13 。
嫡男・直次の早世という悲劇に見舞われた父・直寄も、そのわずか1年後の寛永16年(1639年)に後を追うように亡くなります 10 。これにより、村上10万石の広大な藩の命運は、直次の遺児であり、直寄の孫にあたる堀直定の双肩にかかることになりました。しかし、この時、直定はわずか4歳の幼児でした 13 。
幼君・直定の家督相続に際し、幕府の裁可のもと、所領の分割が行われました。直定の叔父、すなわち直次の弟にあたる堀直時(なおとき)に3万石が分与され、彼は新たに村松藩を立藩します 13 。これは、幼い当主を支える一族への配慮であると同時に、本家の石高を減らし、その力を削ぐという幕府の一般的な政策の一環でもありました。
そして、堀家にとっての最後の悲劇が訪れます。寛永19年(1642年)、藩主であった直定が、わずか7歳で夭折してしまったのです 13 。彼には当然ながら跡を継ぐ子はおらず、これにより、かつて堀直寄が兄との確執の末に築き上げた村上藩堀家は、後継者不在を理由に「無嗣断絶(むしだんぜつ)」と見なされました 35 。その結果、10万石の所領は幕府に没収され、この家系は完全に断絶するに至りました。
この一連の出来事は、江戸時代初期における大名家の存続がいかに脆弱な基盤の上に成り立っていたかを象徴しています。父・直寄は、徳川家への忠誠を尽くし 4 、戦場で武功を立て 10 、幕閣の重鎮と縁戚関係を結ぶ 13 など、当時の武家社会で成功するために必要なあらゆる政治的努力を積み重ねました。彼の家は、安泰であるかのように見えました。しかし、嫡男・直次の早世と、孫・直定の夭折という、人の力ではどうすることもできない「生物学的な偶然」によって、その全ての政治的成果は水泡に帰したのです。後継者不在による改易という幕府の制度は非情であり、いかに将軍家に忠実で、将来を嘱望された大名家であっても、わずか数年の間に個人の不幸が積み重なることで、歴史の舞台から姿を消しうるという厳然たる事実を、堀直次の短い生涯とその後の顛末は示しています。
本報告書で詳述した堀直清と堀直次の生涯は、同じ堀一族に属しながら、全く対照的な運命を辿りました。直清の人生は、戦国時代の気風を引きずった武将が、徳川の新しい秩序に適応できずに自滅していく様を描き出しています。彼の物語は、激しい権力闘争、致命的な政治判断の誤り、そして一族の没落という、旧時代の終焉を象徴する劇的なものでした。一方で、直次の人生は、新時代のエリートとして輝かしい未来を約束されながらも、個人の早世という悲劇によって、その家系が脆くも崩れ去る様を示しています。彼の物語は、徳川体制下で確立された大名家が、政治的な安定とは裏腹に、いかに生物学的な存続の危うさを内包していたかを物語っています。
豊臣秀吉によって越後の支配を任された堀家が、関ヶ原を経て徳川の世に適応しようとする過程で、まず直清と直寄の兄弟対立という内紛によって宗家が解体され、次にその争いを生き延びた直寄の家系が、世子・直次の早世という不運によって断絶に至る—この一連の流れは、戦国時代から江戸時代初期への移行期における大名家の動態を理解するための、絶好の事例研究と言えます。
最終的に、堀一族の盛衰は、17世紀初頭の日本で大名家が生き残るために必要とされた要素を浮き彫りにします。それは、徳川の新しい権力構造を的確に理解する「政治的知見」、将軍家への揺るぎない「忠誠心」、そして何よりも、安定した跡継ぎを確保するという「幸運」でした。堀直政の家系は、その二つの分家において、最終的にこれらの要素のいずれかを満たすことができず、わずか二世代のうちに栄華と没落の双方を経験することになりました。
そして、直清と直次という二人の人物を巡る歴史的な名前の混乱は、単なる史料上の誤記に留まりません。それは、この複雑に絡み合った運命を辿った一族の、激動と悲劇の物語を象明する、一つの象徴的な出来事として記憶されるべきでしょう。