堀直重は堀直政の四男。徳川秀忠に仕え、関ヶ原・大坂の陣で活躍。信濃須坂藩1.2万石の初代藩主となるも33歳で謎の死を遂げた。
堀直重は、戦国時代の終焉と江戸時代の幕開けという、日本の歴史上最も劇的な転換期を生きた武将である。彼は大大名・堀家の家老の四男という立場から身を起こし、自らの武功と的確な政治的判断によって一万石を超える大名へと駆け上がった。しかし、その栄光の頂点で突如として訪れた死は謎に包まれており、彼の生涯は成功と悲劇が交錯するドラマに満ちている。
本報告書では、堀直重の生涯を丹念に追うことで、徳川幕府成立期における個人の立身出世の一つの典型を明らかにするとともに、彼の成功と悲劇の背景にある時代の力学を解き明かす。ご依頼者が既にご存知の基本的な経歴を基点とし、その背後にある一族の文脈、徳川家との緊密な関係、兄たちが引き起こした本家改易事件との関わり、そして謎に満ちた最期まで、あらゆる角度から深く掘り下げ、その実像に迫ることを目的とする。
堀直重の生涯は、関ヶ原の戦い、越後福嶋騒動、大坂の陣といった重要な歴史的事件と密接に連動している。彼の個人的な経歴と時代の大きな出来事を時系列で対比することで、その生涯の全体像と歴史的文脈を俯瞰する。
和暦 |
西暦 |
年齢 |
堀直重の動向 |
関連する時代の出来事 |
天正12/13年 |
1584/1585年 |
1歳 |
堀直政の四男として越前北ノ庄にて誕生 1 。 |
豊臣秀吉、関白に就任。 |
慶長4年 |
1599年 |
15歳 |
父・直政の命により、徳川秀忠に証人(人質)として出仕 3 。 |
豊臣秀吉死去(前年)。前田利家死去。 |
慶長5年 |
1600年 |
16歳 |
関ヶ原の戦いにおいて、徳川秀忠に従い上杉景勝征討、第二次上田城攻めに参加 3 。 |
関ヶ原の戦い。 |
慶長5年以降 |
1601年以降 |
17歳~ |
関ヶ原の軍功により下総矢作に2,000石を与えられる 3 。 |
徳川家康、征夷大将軍に就任(1603年)。 |
慶長15年 |
1610年 |
26歳 |
信濃高井郡に6,000石を加増される 4 。 |
堀家本家が越後福嶋騒動により改易される。 |
慶長19年 |
1614年 |
30歳 |
大坂冬の陣に徳川秀忠軍として参陣 4 。 |
大坂冬の陣。 |
元和元年 |
1615年 |
31歳 |
大坂夏の陣に土井利勝隊として参陣。天王寺・岡山の戦いで武功を挙げる 4 。 |
大坂夏の陣、豊臣家滅亡。 |
元和元/2年 |
1615/1616年 |
31/32歳 |
大坂の陣の功により4,000石余を加増され、合計12,000石余の大名となる。信濃須坂藩を立藩 1 。 |
武家諸法度、禁中並公家諸法度が発布される。 |
元和2/3年 |
1616/1617年 |
33歳 |
下総香取の領地にて死去 1 。 |
徳川家康死去(1616年)。 |
※生没年については、天正12年(1584年)生・元和2年(1616年)没説 2 と、天正13年(1585年)生・元和3年(1617年)没説 1 が存在する。本報告書では、複数の資料で言及される享年33歳という点から、後者の説を主軸に記述を進める。
堀直重の生涯を理解するためには、まず彼が属した堀一族が、当代においていかなる存在であったかを知る必要がある。堀家の宗家当主であった堀秀政は、織田信長、豊臣秀吉に仕え、その卓越した軍才と政務能力から「名人久太郎」と称賛された当代随一の武将であった 5 。彼は信長の小姓から立身し、本能寺の変後の山崎の戦いや賤ヶ岳の戦いで武功を重ね、ついには越前北ノ庄18万石を領する大大名へと上り詰めた。
一方、直重の父である堀直政は、もとは尾張国奥田庄の土豪・奥田氏の出身であった 7 。直政は秀政の従兄弟にあたり、若い頃に二人は「どちらか先に出世した方が主君となり、もう一方はその家臣となって、共に家名を興そう」という誓いを交わしたと伝えられる 5 。この約束通り、先に信長の寵愛を得て出世した秀政に、年長であった直政は家臣として仕え、その忠勤と功績により秀吉から「堀」の姓を名乗ることを許された 5 。
秀政が小田原征伐の陣中で急逝すると、直政はその幼い嫡子・秀治を補佐し、堀家の家政を実質的に取り仕切った。その手腕は内外から高く評価され、上杉家の直江兼続、毛利家の小早川隆景と並び「天下の三陪臣」と称されるほどの器量人であった 5 。直重は、豊臣政権下で越後30万石を領する大大名家の、さらにその実権を掌握するほどの力量を持った父を持つ、まさに栄光の家系に生を受けたのである。
堀直重は、天正13年(1585年)、堀家が最も輝いていた時期に、その本拠地であった越前北ノ庄城(現在の福井県福井市)で、直政の四男として誕生した 1 。彼の運命が大きく動き出すのは、豊臣秀吉が死去した翌年の慶長4年(1599年)、15歳の時であった。
この年、父・直政は天下の情勢が徳川家康に傾きつつあることを鋭敏に察知し、堀家の将来を見据えた重大な決断を下す。それは、四男である直重を江戸に送り、家康の後継者である徳川秀忠に仕えさせるというものであった 3 。これは、堀家の徳川家に対する忠誠の証として差し出された、事実上の人質(資料では「証人」と表現される)に他ならなかった 3 。
この一手は、直重のその後の人生を決定づける極めて重要な意味を持っていた。四男という立場は、通常であれば家督相続の望みは薄く、将来が不透明な場合が多い。しかし、父・直政によるこの決断は、直重を一族の枠組みから解き放ち、新しい時代の覇者である徳川家の中枢に直接結びつけるものであった。慶長4年当時、豊臣政権内では家康と他の大老・奉行との対立が先鋭化しており、武力衝突は時間の問題と見られていた。越後に広大な領地を持つ堀家は、豊臣恩顧の大名でありながら、その領地は上杉景勝の旧領で一揆が頻発するなど、政治的に不安定な立場にあった 9 。直政は、来るべき徳川の時代を見越し、堀家本体の立場とは別に、いわば保険として、また将来への布石として、息子の一人を次期将軍・秀忠の側近くに送り込むという、先見の明に満ちた戦略的投資を行ったのである。この結果、直重は単なる人質ではなく、秀忠個人の側近という特別な地位を得ることになり、この個人的な繋がりこそが、後の関ヶ原や大坂の陣での恩賞、そして兄たちが引き起こした本家の騒動から彼を守る、決定的な生命線となった。
慶長5年(1600年)、徳川家康が会津の上杉景勝討伐の兵を挙げると、天下分け目の関ヶ原の戦いの火蓋が切られた。江戸で秀忠に仕えていた16歳の堀直重は、主君に従いこの討伐軍に参加する 3 。これが彼の初陣であったと推測される。
家康率いる東海道軍本隊とは別に、秀忠は3万8000の大軍を率いて中山道を進軍した。その途中、信濃上田城に籠る真田昌幸・幸村(信繁)父子を攻略するべく、城攻めを開始する。これが第二次上田城攻めである。直重もこの戦いに加わった 4 。しかし、秀忠軍はわずか2,500の兵で籠城する真田の巧みな戦術に翻弄され、多大な損害を出した挙句、攻略を断念せざるを得なかった。この足止めが原因で、秀忠軍は9月15日の関ヶ原本戦に間に合わないという、徳川家にとって痛恨の失態を演じることとなる。
軍事的には苦い経験であったが、この上田城での苦戦は、若き直重にとって重要な意味を持った。彼は主君である秀忠と苦難を共にし、その側近くで戦った。この経験は、二人の間の個人的な信頼関係をより一層強固なものにしたと考えられる。
関ヶ原の本戦には遅参した秀忠軍であったが、戦後、直重は「軍功」を認められ、破格の恩賞を与えられた。まず、下総国香取郡矢作(現在の千葉県香取市)に2,000石、そして慶長15年(1610年)には信濃国高井郡(現在の長野県須坂市周辺)に6,000石を加増され、合計8,000石を領する有力な旗本となった 1 。
上田城攻め自体は成功とは言えないため、この恩賞は、戦場での働き以上に、戦前から秀忠に近侍してきた直重の忠勤が総合的に評価された結果と見るべきであろう。特に、秀忠の側近として苦境を分かち合ったことが、将軍の覚えをめでたくしたことは想像に難くない。
この一連の出来事は、直重のキャリアにおける決定的な転機となった。彼の主君はもはや越後の堀秀治ではなく、江戸の徳川秀忠であることが明確になった。関ヶ原の戦功による恩賞は徳川家から直接与えられたものであり、これにより彼の身分は堀家の一家臣から、徳川家の直臣(じきしん)へと完全に移行したのである。彼の経済的基盤と政治的立場は、越後の本家から完全に独立したものとなった。この「徳川直参」というアイデンティティの確立こそが、次に訪れる一族最大の危機から彼を救うことになる。関ヶ原の戦いは、直重が堀一族という古い枠組みから抜け出し、徳川幕府という新しい権力構造の中で、自らの足で立つための揺るぎない礎を築いた戦いであった。
関ヶ原の戦いを経て徳川の世が盤石になりつつあった頃、越後の堀家では巨大な火種が燻っていた。慶長11年(1606年)に宗家当主の堀秀治が31歳で急逝し、11歳の嫡男・忠俊が跡を継ぐ。さらに慶長13年(1608年)、後見人として絶大な影響力を誇った直重の父・直政が死去すると、抑えを失った家中の権力闘争が一気に表面化する 8 。
争いの中心にいたのは、直重の二人の兄であった。父・直政の家老職を継いだ長兄の堀直清(資料によっては直次)と、智勇に優れ、関ヶ原の際には越後国内の上杉遺民一揆を鎮圧するなど武功も高かった三兄の堀直寄である 6 。両者は若き当主・忠俊のもとで藩の実権を巡って激しく対立し、家臣団を二分する深刻な内紛へと発展した。
この御家騒動は「越後福嶋騒動」として知られ、その争いはついに駿府の徳川家康の元へ持ち込まれ、幕府の裁定を仰ぐ事態となる 9 。家康にとって、この騒動は豊臣恩顧の大大名であった堀家を取り潰す絶好の口実となった。慶長15年(1610年)、家康は厳しい裁定を下す。当主・堀忠俊は家中不取締を理由に改易(領地没収)、騒動の中心人物であった直清は追放、そして争いに勝った形の直寄でさえも、1万石の減封の上で信濃飯山4万石へ転封という処分を受けた 11 。これにより、かつて「名人久太郎」と謳われた秀政以来の名門・堀家の宗家は、30万石の領地を失い、事実上滅亡したのである。
一族を根底から揺るがしたこの大事件において、堀直重が何らかの形で関与したという記録は一切見当たらない 15 。騒動の中心地である越後から遠く離れた江戸で、彼は徳川秀忠の側近として仕え、自らの所領である下総と信濃を治める立場にあった。兄たちが一族内部の権力争いに明け暮れている間、直重はひたすらに徳川幕府という中央政権との関係構築に専念していたのである。
彼のこの立ち位置が、騒動からの連座という最悪の事態を回避させた。なぜ直重だけが生き残れたのか。それは偶然ではない。越後福嶋騒動は、本質的に豊臣大名であった堀家の内部における、旧来の家臣団の権力構造を巡る争いであった。幕府から見れば、直清や直寄は「家中の統制もできない厄介な家臣」であり、堀家改易の格好の理由となった。対照的に、直重は若年から忠勤に励む「将来有望な徳川の直臣」であった。彼の忠誠の対象は越後の堀家ではなく、江戸の幕府だったのである。
したがって、幕府が堀家本家を潰す一方で、直重の家を安堵したのは、極めて合理的かつ政治的な判断であった。彼は「堀一族」としてではなく、「徳川の臣・堀直重」として扱われたのだ。直重の成功は、彼の個人的な資質もさることながら、本家との「分離(デタッチメント)」という、父・直政の深謀遠慮と彼自身のキャリア選択によってもたらされた構造的なものであった。彼は、古い家の論理から自らを切り離し、新しい時代の権力構造に巧みに適応することで、一族の血脈を未来に繋ぐことに成功したのである。
本家の改易という一族の危機を乗り越えた直重にとって、徳川家による天下統一の総仕上げである大坂の陣(慶長19年-元和元年、1614-1615年)は、自らの存在価値を改めて証明し、家名を盤石にするための絶好の機会であった。
慶長19年(1614年)の大坂冬の陣では、直重はかつての上田城攻めと同様に、主君・徳川秀忠が率いる軍勢に属して参陣した 4 。翌元和元年(1615年)の夏の陣では、徳川政権の中枢を担う老中・土井利勝の配下として戦っている 3 。この配置は、彼が単なる一武将ではなく、幕府首脳から信頼される譜代格の将として扱われていたことを示唆している。
直重の武功が最も輝いたのは、夏の陣における最終決戦、天王寺・岡山の戦いであった。この戦いで、豊臣方の猛将・毛利勝永の部隊が徳川方に猛攻をかけ、徳川家康の本陣に迫る勢いを見せた。この時、徳川軍の先鋒の一翼を担っていた蜂須賀至鎮(阿波徳島藩主)の軍勢が毛利隊の凄まじい突撃によって崩され、あろうことか自軍の旗印を奪われるという、武門にとって最大の屈辱ともいえる事態に陥った。
徳川方が総力を挙げて反撃に転じる中、この危機的状況を打開すべく奮戦したのが堀直重であった。伝承によれば、彼は敵陣深くへと突撃し、敗走する敵兵を大坂城の城壁近くまで追撃し、ついに蜂須賀家の旗印を見事奪い返したとされる 4 。この目覚ましい働きは、彼の武将としての勇猛果敢さを示す逸話として語り継がれている。一説には、この功績を記念して、直重は蜂須賀家からその家紋である「卍紋」を自家の家紋に加えることを許されたともいう 4 。
大坂冬の陣・夏の陣における一連の功績は、幕府によって高く評価された。戦後、直重は信濃国高井郡内において4,000石(一説に4,053石)を加増される 1 。これにより、下総矢作の2,000石、信濃の既存の6,000石と合わせて、彼の所領は合計12,000石余りとなり、ついに一万石以上の領地を持つ諸侯(大名)の列に加わった。これが、信濃須坂藩の立藩である 1 。
父・直政の家臣の子として生まれ、兄たちが引き起こした騒動で本家が滅亡するという逆境を乗り越え、直重はわずか30代前半で、自らの力で大名へと駆け上がった。彼の人生は、徳川の天下が確立した新時代における、まさに立身出世の夢を体現したものであった。
須坂藩は、大名の分類上は外様大名とされる。しかし、その成立過程を詳細に見ると、極めて譜代大名に近い性格を帯びていたことがわかる。藩祖である直重は、関ヶ原以前から徳川秀忠に近侍し 3 、幕府の根幹を築いた関ヶ原と大坂の陣という二大決戦において、将軍直属の軍勢として戦功を挙げている 4 。実際に、須坂藩は後に幕府に対して譜代大名に準じる待遇を求めたこともあったと記録されている 18 。この制度上は外様でありながら、実質的には譜代に近いという特殊な立場こそが、江戸時代を通じて幕府との良好な関係を維持し、一度も転封(国替え)されることなく明治維新まで存続できた大きな要因の一つであったと考えられる。
大名となり、信濃須坂藩の初代藩主として、まさにこれから藩政の基礎を築こうという矢先、堀直重の人生はあまりにも突然に終わりを迎える。元和3年(1617年)6月17日(元和2年6月13日説あり)、彼は33歳という若さでこの世を去った 1 。
驚くべきことに、彼は自らが藩祖となった信濃須坂の領地に、生涯で一度も足を踏み入れることがなかった 19 。彼の最期の地は、もう一つの所領であった下総国香取郡矢作であった 3 。藩祖でありながら、自らの藩都を見ることなく世を去ったという事実は、彼の栄光に満ちたキャリアに悲劇的な影を落としている。公式な史料にその死因は明記されておらず、この沈黙が、彼の死を巡る様々な憶測を呼ぶ原因となっている。
直重の死に関して、彼の菩提寺の一つである千葉県香取市の日蓮宗・宗勝寺には、穏やかならぬ伝承が残されている 19 。この伝承は、彼の死が単なる病死ではなかった可能性を強く示唆するものである。
それによると、直重は下総の領地に滞在中、香取神宮の祭礼で奉納相撲を家臣と見物していた。その席で、彼は何らかの理由から香取神宮の神官と「争論」を起こしてしまう。そして、その帰り道、何者かによる闇討ちに遭い、殺害されたというのである 19 。
この伝承は、単なる地域のゴシップとして片付けることはできない。新領主としてその地に乗り込んできた武士階級の支配者(直重)と、古くからその土地に根を張り、絶大な影響力を持つ宗教的権威(香取神宮)との間に、領地の支配権や権益を巡る深刻な対立があった可能性を示唆している。奉納相撲での争いは、その根深い対立が表面化する単なるきっかけに過ぎなかったのかもしれない。
この闇討ち説を裏付けるかのように、直重の墓は、彼が立藩した信濃須坂ではなく、事件の舞台とされる千葉県香取市に存在する。彼の遺体は、主君の死を悼んで後を追い殉死した二人の家臣と共に、同市内の曹洞宗・新福寺に手厚く埋葬された 1 。新福寺に残る直重の石塔は、元和期前半の様式を完全に備えた貴重なものであり、死後まもなく建立されたものと推測されている 1 。
また、直重自身が開基となって建立した宗勝寺には、彼の供養塔と位牌、そして肖像画が今なお残されている 19 。宗勝寺では、現在でも彼の命日である6月13日には追善法要が営まれ、その死が地域史の中で記憶され続けている 19 。
堀直重の謎に満ちた死は、個人の悲劇であると同時に、徳川幕府による全国支配が確立していく過程で生じた「軋轢」を象徴する事件として捉えることができる。大坂の陣が終結し、武力による天下統一は完成したが、それは全国の隅々まで幕府の権威が抵抗なく浸透したことを意味するものではなかった。各地には、香取神宮のような古来の寺社勢力や在地領主など、独自の権益を持つ勢力が厳然として存在した。幕府から派遣された新しい領主による検地や諸役の賦課は、これらの在地勢力の権益を直接的に脅かすものであり、しばしば深刻な対立を引き起こした。直重の「闇討ち」伝承は、こうした中央の新権力と地方の旧権威との衝突が、最も暴力的な形で現れた一例であった可能性がある。彼の死は、江戸という「泰平の世」が、決して無抵抗に受け入れられたわけではなく、その黎明期において、地方レベルでは血を伴うほどの緊張と対立が存在したことを物語る、貴重な歴史の証言と言えるだろう。
堀直重自身は、藩主として領国経営に腕を振るうことなく、志半ばで世を去った。しかし、彼が命がけで築いた大名としての地位は、長男の堀直升へと確かに受け継がれた。父の死後、家督を相続した直升は、元和3年(1617年)に初めて須坂の地に入部し、藩庁となる須坂陣屋を建設して本格的な藩政を開始した 22 。これが須坂藩の事実上の始まりである。
直升は、父の遺領である12,000石余のうち、2,000石を弟たち(直昭、直久、直房)に分与(分知)した 22 。これにより、須坂藩は1万石の藩としてその規模を確立し、以後、この堀家は江戸時代を通じて一度の改易も転封もなく、14代にわたって須坂の地を治め、明治維新を迎えることとなる 7 。特に幕末には、蘭学に通じ、幕府の若年寄を務めるなど開明的な思想で知られた名君・堀直虎を輩出しており、その血脈は時代の変革期において再び重要な役割を果たした 26 。直重が自らの武功と忠勤で築き上げた礎が、その後250年以上にわたる一族の安泰を支えたことは疑いようのない事実である。
堀直重の生涯は、わずか33年という短いものであった。しかし、その凝縮された時間の中には、先見の明に優れた父の深謀、若き主君への揺るぎない忠勤、戦場で示した武勇、兄たちが引き起こした御家騒動からの巧みな自立、そして新時代における権力移行の困難さといった、時代のあらゆる要素が詰まっている。
彼は、豊臣大名の家臣の子という出自から、徳川幕府の直参大名へと、時代の大きなうねりを見事に乗りこなし、自らの家を興した。本家が内紛によって歴史から姿を消す中で、分家である彼の家系が存続し、後世に名を残したという事実は、戦国から江戸への移行期における武家の「生存戦略」の一つの理想形を示していると言えよう。
その謎めいた死は、彼の成功物語に悲劇的な結末をもたらすが、それすらもまた、新しい「泰平の世」が到来する際の産みの苦しみを我々に伝えてくれる。堀直重は、単なる信濃の一地方藩の藩祖という評価に留まらない。豊臣から徳川へという権力の移行期を象徴し、その光と影の両面を体現した重要な人物として、改めて歴史の中に位置づけられるべき武将である。