日本の戦国時代史は、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康といった天下人の物語を中心に語られることが多い。しかし、その壮大な歴史の裏には、彼ら大勢力の狭間で自らの存亡を賭けて激動の時代を生き抜いた無数の武将たちが存在する。近江国(現在の滋賀県)の国衆、堀秀村(ほり ひでむら)もまた、そのような人物の一人である。
堀秀村の名は、浅井氏の家臣から織田氏へ寝返り、後に豊臣氏に仕えたという断片的な経歴で知られるが、その生涯の全貌はこれまで十分に光が当てられてきたとは言い難い。彼は、近江という地政学的に極めて重要な「境目」の地に拠点を置く「国衆(くにしゅう)」、すなわち在地領主であった 1 。その立場は、常に強大な隣接勢力の動向に左右され、一瞬の判断が生死を分けるという過酷なものであった。秀村の生涯は、浅井、六角、京極といった諸勢力が角逐した中世的な権力構造から、織田・豊臣による中央集権的な支配体制へと移行する時代の縮図そのものである 3 。
本報告書は、堀秀村という一人の武将の生涯を、現存する文献史料のみならず、近年の目覚ましい成果を上げている考古学的知見、特にその居城であった鎌刃城(かまはじょう)の発掘調査結果を全面的に援用し、徹底的に再検証するものである 5 。これにより、単なる「裏切り者」という一面的な評価を超え、境目の国衆として自らの家と領地を守るためにいかなる戦略的判断を下し、乱世を駆け抜けたのか、その実像に迫ることを目的とする。
堀秀村の人物像を理解する上で、まずその出自と、彼が属した近江堀氏一族の背景を正確に把握することが不可欠である。特に、同時代に活躍した著名な武将・堀秀政の一族としばしば混同されるため、その関係性を明確に区別する必要がある。
堀秀村の生涯に関する基本情報を以下に要約する。複数の史料から確認される情報を総合し、その骨格を提示する 7 。
項目 |
詳細 |
生没年 |
弘治3年(1557年) – 慶長4年8月1日(1599年9月20日) 9 |
時代 |
戦国時代 – 安土桃山時代 9 |
氏族 |
堀氏(近江堀氏) 10 |
出自 |
近江国浅井郡堀村 10 |
別名 |
存村、元積(諱)、次郎、次郎左衛門尉(通称)、石見守、遠江守(官途名)、休斎(法名) 8 |
官位 |
従五位下石見守 9 |
主君 |
浅井長政 → 織田信長 → 浪人 → 羽柴秀吉 → 豊臣秀長 → 豊臣秀保 9 |
父 |
堀遠江守(秀基か) 9 |
養子 |
秀信 9 |
この略歴は、秀村が浅井、織田、豊臣という戦国後期から安土桃山時代にかけての中核的な権力者の下を渡り歩いた、まさに激動の生涯を送ったことを示している。
堀秀村が属した近江堀氏は、近江国浅井郡堀村(現在の滋賀県長浜市近郊)を発祥の地とする国衆である 10 。その系譜については、菅原道真を祖とする菅原氏の後裔とする説と、藤原利仁の流れを汲む斎藤氏の一族とする説の二つが伝えられている 10 。『寛政重修諸家譜』では後者の説が採用されているが、いずれにせよ古くから近江北部に根を張った一族であったことは間違いない 10 。
堀氏は、史料上、少なくとも15世紀半ばには鎌刃城主としてその名が見える。文明4年(1472年)には、城主「堀次郎左衛門」が京極氏の家臣に攻められた記録があり、これが鎌刃城の史料上の初見とされる 6 。その後も六角氏や浅井氏といった周辺勢力の興亡の中で、堀氏は鎌刃城を拠点にその勢力を維持し続けた 12 。
特筆すべきは、近江堀氏が使用した家紋である。その家紋は「三つ盛亀甲に唐花」であり、これは主君であった浅井氏の家紋と酷似している 10 。戦国時代において、主君が功績のあった家臣に自らの家紋やそれに近い意匠の紋を与えることは、特別な信頼関係の証であった。この事実は、堀氏が単なる浅井氏の支配下にある国衆というだけでなく、婚姻関係や長年にわたる同盟関係を通じて、浅井宗家と極めて密接な、いわば準一門ともいえる地位にあった可能性を示唆している。この深い結びつきがあったからこそ、後の織田信長への寝返りが、より劇的で重大な意味を持つことになるのである。
堀秀村を語る上で、最も注意すべき点は、織田信長、豊臣秀吉に仕え、越前北ノ庄18万石の大名にまでなった堀秀政(ほり ひでまさ)の一族との混同である。両者は同じ「堀」姓を名乗り、同時代に活躍したが、その出自と系統は全く異なる。
堀秀政は美濃国茜部(現在の岐阜市)の出身で、藤原北家利仁流斎藤氏の系統とされる 11 。彼は信長の小姓から身を起こし、吏僚としても武将としても卓越した能力を発揮して、信長、秀吉の天下統一事業で中心的な役割を担った 15 。
これに対し、本稿の主題である堀秀村は、前述の通り近江国浅井郡を本貫とする国衆であり、その系譜も菅原氏または別の藤原氏の系統とされ、秀政の美濃堀氏とは直接の血縁関係はない 10 。秀村が近江の在地領主として浅井氏に仕えていたのに対し、秀政は中央の織田政権の直臣としてキャリアをスタートさせており、その活動の舞台も立場も明確に異なっていた。この両者を明確に区別することが、堀秀村の生涯を正しく理解するための第一歩となる。
堀秀村は、浅井長政の家臣として歴史の表舞台に登場する。しかし、彼の価値は単なる一武将に留まらない。彼が居城とした鎌刃城の戦略的重要性、そして近年の考古学調査によって明らかになったその驚くべき先進性こそが、浅井家中における秀村の地位を再評価する鍵となる。
鎌刃城は、中山道を見下ろす標高384メートルの山頂に築かれた、近江国でも屈指の規模を誇る山城である 12 。その立地は、北近江の浅井氏と南近江の六角氏の勢力圏が接するまさに「境目」であり、両者の、さらには京極氏をも巻き込んだ攻防の最前線であり続けた 1 。
従来、鎌刃城は中世的な土づくりの城郭と考えられてきた。しかし、平成10年(1998年)から5年間にわたって行われた発掘調査は、その評価を根底から覆す画期的な発見をもたらした 6 。
第一に、城郭の主要部に大規模な石垣が多用されていたことである 5 。主郭の周囲は高さ3メートルにも及ぶ石垣で固められ、虎口(城の出入り口)も石積みで構築された堅固なものであった 6 。
第二に、城内の建物が全て掘立柱ではなく、礎石(そせき)の上に建てられていたことである 12 。これは恒久的で格式の高い建物が存在したことを示しており、鎌刃城が単なる臨時の砦ではなく、城主が居住する政治・軍事拠点として機能していたことを物語っている 18 。
そして最も衝撃的な発見は、半地下構造を持つ「大櫓(おおやぐら)」の跡が確認されたことである 6 。この大櫓は、後の天守の祖形とも考えられる先進的な建造物であり、鎌刃城が当時の最先端の築城技術を駆使して築かれていたことを明確に示している。
これらの発見は、日本の城郭史における通説に一石を投じるものであった。これまで、大規模な石垣や礎石建ちの建造物、そして天守に代表される近世城郭の技術は、天正4年(1576年)に築城が開始された織田信長の安土城に始まると考えられてきた 12 。しかし、その安土城築城より前の天正2年(1574年)頃には廃城となっていた鎌刃城が、すでにこれらの先進的な要素を備えていたことが証明されたのである 12 。これは、城郭技術の革新が信長一人の天才によるものではなく、各地の国衆たちの間でも試行錯誤され、発展していたことを示唆する。堀秀村は、そのような地域における軍事技術革新の最先端を担う、極めて重要な武将であったと再評価されなければならない。
元亀年間(1570-1573)の争乱が始まる前夜、浅井家中における堀氏の立場は複雑なものであった。前述の通り、浅井氏と類似した家紋の使用は両家の密接な関係を示す一方、戦国時代の主従関係は常に流動的であった 10 。
浅井氏自身が、主家であった京極氏を凌駕して北近江の支配者となった「下剋上」の体現者であり、その過程は多くの国衆が目の当たりにしていた 20 。堀氏のような有力国衆にとって、浅井氏への忠誠は絶対的なものではなく、自家の利益と安全が保障される限りにおいて維持される、極めて現実的なものであったと考えられる。もともと堀家と浅井家は、同じく京極家に仕える同格の土豪であり、浅井氏が台頭して主君となった経緯から、秀村には絶対的な忠誠心はなかった可能性も指摘されている 22 。彼の忠誠心は、南近江の宿敵・六角氏の脅威から自領を守ってくれる浅井氏の力に結びついていたのであり、その力関係が揺らげば、新たな選択肢を模索するのは当然の帰結であった 13 。
元亀元年(1570年)、堀秀村は浅井長政を裏切り、織田信長に寝返るという生涯最大の決断を下す。この行動は、単なる個人的な裏切りではなく、近江の戦局を大きく左右する戦略的な意味を持っていた。しかし、その決断は彼に栄光と、そして予期せぬ失脚をもたらすことになる。
元亀元年4月、織田信長は越前の朝倉義景を攻めるが、同盟者であったはずの浅井長政の裏切りにより、背後を突かれる形で撤退を余儀なくされる(金ヶ崎の退き口) 24 。この絶体絶命の危機を脱した信長は、雪辱を果たすべく、わずか2ヶ月後の6月には浅井氏討伐の軍を再編成した。
この機を捉え、堀秀村は織田方への寝返りを決行する。この調略工作には、当時、信長の家臣であった木下秀吉(後の豊臣秀吉)の参謀・竹中半兵衛や、秀村の家臣であった樋口直房が深く関わったとされる 8 。秀村の寝返りにより、美濃と近江の国境に位置する要衝、長比城(たけくらべじょう)と刈安尾城(かりやすおじょう)が織田方の手に落ちた 4 。これは、信長にとって北近江への侵攻ルートを確保する上で、計り知れない戦略的価値を持つものであった 26 。
秀村の動機は、冷静な情勢分析に基づく生存戦略であったと考えられる。旧来の同盟者である朝倉氏と運命を共にする浅井氏の将来性よりも、破竹の勢いで天下統一へと突き進む織田信長の力に自らの未来を賭けたのである 22 。この決断は、当時まだ14歳前後であった秀村に代わり、家臣団、特に樋口直房が主導した可能性も指摘されている 18 。
織田方への帰順後、秀村は直ちに信長の軍事行動に加わった。浅井氏の本拠・小谷城(おだにじょう)攻めでは、先鋒として城下の町を焼き払うなど、その忠誠を具体的な行動で示した 28 。そして元亀元年6月28日、歴史的な姉川の合戦が勃発すると、秀村は信長本隊の先手として参戦している 22 。
しかし、その代償は大きかった。秀村の裏切りに激怒した浅井軍は、彼が姉川に出陣している隙を突いて鎌刃城を攻撃し、これを陥落させてしまう 7 。主君を裏切り、自らの居城まで失うという窮地に立たされた秀村であったが、姉川での織田・徳川連合軍の勝利が彼の運命を再び好転させる。信長は、秀村の「決死の奮戦」を高く評価し、戦後、彼を再び鎌刃城主の地位に戻したのである 7 。
だが、戦いはまだ終わらなかった。翌元亀2年(1571年)5月、浅井井規(あざいいのり)率いる浅井軍が再び鎌刃城に攻め寄せた。この危機に際し、横山城に駐屯していた木下秀吉が迅速に援軍を派遣したことで、秀村は辛うじて城を守り抜くことに成功した 12 。この一連の攻防は、秀村の武将としての粘り強さと、織田軍の新たな連携体制が機能し始めていたことを示している。
幾多の戦功を挙げ、織田家臣としての地位を固めたかに見えた秀村であったが、天正2年(1574年)、突如として信長から改易(かいえき)、すなわち領地没収の処分を受ける 6 。さらに、彼の誇る先進的な要塞であった鎌刃城は、二度と使われることがないように徹底的に破壊(破城)された 12 。
この不可解な処分の理由については、いくつかの説が存在する。一つは、家老の樋口直房が逃亡した責任を問われたというものである 22 。これは直接的な口実としては考えられるが、秀村の功績を考えると、それだけが理由とは考えにくい。
より本質的な理由は、信長の統一政権構築の過程そのものにあったと見るべきであろう。天正元年(1573年)に浅井氏が滅亡すると、信長は北近江三郡を羽柴秀吉に与え、長浜城を築かせて新たな支配拠点とした 18 。この新しい統治体制において、鎌刃城という強力な城を持つ堀秀村のような独立性の高い在地領主(国衆)は、もはや戦略的に不要であるばかりか、将来的な不安要素と見なされた可能性が高い 6 。
信長は、佐久間信盛のような長年の宿老でさえ、その働きが不十分と見なせば容赦なく追放するなど、極めて合理主義的かつ非情な家臣団統制を行ったことで知られる 31 。秀村の改易も、この信長の国家構想の一環として理解することができる。すなわち、織田方への寝返りという役割を終えた国衆を整理し、方面軍司令官である秀吉の下に一元的な支配体制を確立するための、冷徹な政治的・軍事的判断だったのである。秀村の失脚は、彼個人の失敗というよりも、旧来の国衆が淘汰され、中央集権的な支配体制へと移行していく時代の大きな流れを象徴する出来事であった。
織田信長によって理不尽ともいえる改易処分を受けた堀秀村であったが、彼の武将としての人生はそこで終わらなかった。浪人生活を経て、彼は豊臣政権下で再起の機会を掴む。その過程は、信長の時代とは異なる豊臣政権の人材登用の方針と、秀村自身の適応能力を物語っている。
天正2年(1574年)に改易された後、秀村はしばらくの間、浪人として雌伏の時を過ごした 9 。やがて彼は豊臣秀吉に仕えることになるが、その具体的な経緯や時期は必ずしも明確ではない。『武功夜話』には秀吉の家臣として1,000石の知行を得ていたとの記述もあるが、より確実な史料が示すのは、秀吉の実弟であり、豊臣政権の「大番頭」ともいうべき豊臣秀長(とよとみ ひでなが)に仕えたという事実である 9 。
秀村が秀吉本人ではなく、秀長に仕えたという点は極めて重要である。秀長は、兄・秀吉の天下統一事業において、軍事面のみならず、内政・外交の調整役として政権の安定に不可欠な役割を果たした人物であった 33 。温厚篤実な人柄で知られ、彼の麾下には、藤堂高虎をはじめとする多種多様な経歴を持つ武将たちが集い、その能力を存分に発揮していた 36 。
信長が旧来の勢力を破壊・整理することで中央集権化を進めたのに対し、秀吉や秀長は、敵対した勢力や改易された大名家の者であっても、有能な人材であれば積極的に登用し、自らの政権基盤の強化に活用した 38 。秀長が100万石を超える広大な領地を統治するためには、鎌刃城主として在地支配の経験が豊富な秀村のような人物は、まさに得がたい人材であったはずである 33 。秀村の後半生は、戦国武将が新たな統一政権下で、官僚的な能力をも併せ持つ「武士」へと変貌していく姿を映し出している。
豊臣秀長の配下としての堀秀村の具体的な活動として記録に残っているのが、天正16年(1588年)の紀伊国桐部谷(きりべだに)における一揆の鎮圧である 28 。この戦いで秀村は、池田秀雄らと共に秀長の指揮下で戦っており、秀長軍団の現役の武将として活動していたことが確認できる 28 。
天正19年(1591年)に秀長が亡くなると、その養子である秀保に引き続き仕えたものと推測される。秀村の最期は、関ヶ原の合戦の前年である慶長4年(1599年)8月1日であった 9 。享年43。その波乱に満ちた生涯は、天下分け目の大戦を目前にして静かに幕を閉じた。
堀秀村の生涯を俯瞰するとき、一人の境目の国衆が、いかにして激動の時代を生き抜いたか、その生存戦略と人間像が浮かび上がってくる。また、彼の家がその後どうなったのか、その血脈の行方も探る。
堀秀村は、天下統一を目指すような野心家ではなかった。彼の行動原理は一貫して、自らの家と領地を守り抜くという、国衆としての極めて現実的なものであった。
彼が、当時の最先端技術の粋を集めた鎌刃城を拠点としていたことは、彼自身、あるいは彼を支えた家臣団が、軍事技術や領国経営において高い能力を有していたことを示している。浅井氏から織田氏への寝返りは、単なる背信行為ではなく、変化する勢力図を冷静に見極め、より強大な力に自らの未来を託すという、計算された戦略的決断であった。
信長による突然の改易という最大の危機に直面しても、彼は歴史から完全に姿を消すことなく、豊臣政権という新たな舞台で再起を果たした。これは、彼の武将としての能力だけでなく、新しい支配体制に適応していく柔軟性と粘り強さを持っていたことの証左である。堀秀村は、戦国乱世を生き抜くために必要とされた、現実主義、先見性、そして不屈の精神を兼ね備えた武将であったと評価できる。
史料によれば、堀秀村に実子はいなかったとされ、養子として秀信(ひでのぶ)を迎えている 9 。この秀信は、同じく戦国武将であった新庄直頼(しんじょう なおより)の三男であったことが確認されている 42 。戦国時代、家名の断絶を避けるために他家から養子を迎えることは広く行われており、秀村もまた、自らの家系を後世に残すためにこの手段を選んだのである。
この養子・秀信がその後どのような人生を歩んだのか、そして秀村の家系(近江堀氏)が江戸時代以降どのように存続したのかについては、現存する史料からは詳らかにできない 11 。また、秀村自身の墓所の所在地も、現在のところ不明である 17 。彼の人生の終着点と、その後の家の運命は、なおも歴史の中に埋もれている。
堀秀村の生涯は、浅井氏の有力家臣としての栄光、織田氏への寝返りという大きな賭け、そしてその後の理不尽な失脚と、豊臣政権下での見事な再起という、まさに波瀾万丈の物語である。彼は、歴史の主役として語られることは少ないが、その生き様は戦国という時代の本質を我々に教えてくれる。
近年の考古学的発見は、彼が単なる地方の小領主ではなく、先進的な軍事技術を誇る要塞の主であったことを明らかにした。これは、歴史が「勝者」や「中心」の視点からだけでなく、堀秀村のような「境目」に生きた人々の視点から再検討されるべきであることを示している。彼の決断、忠誠、そして裏切りは、すべてが自らの家と領民を守るための必死の選択であった。
信長によって一度は全てを奪われながらも、時代の変化に適応し、新たな政権下で再びその存在価値を示した秀村の姿は、逆境における人間の強靭さと適応能力の証左でもある。彼の物語は、天下人たちの華々しい功績の陰で、数多の国衆たちが繰り広げた知られざる苦闘と戦略の歴史に光を当て、戦国時代をより深く、多角的に理解するための貴重な鍵を我々に提供してくれるのである。