堀越氏延は今川一門の武将。父貞基が花倉の乱で敗死後、氏延は今川氏真に反旗を翻し討死。しかし、その嫡流は江戸時代に吉良氏を継承し、高家旗本として存続した。
駿河・遠江に覇を唱えた戦国大名・今川氏。その広大な領国には、宗家と複雑な関係をたどり、動乱の時代に翻弄された一門が存在した。「遠江今川氏」とも称される堀越氏である。本報告書は、その一族の渦中に生きた武将、堀越氏延(ほりこし うじのぶ)に焦点を当て、その生涯と一族の運命を、現存する史料に基づき徹底的に解明することを目的とする。
従来、堀越氏延は「今川氏の家督争いである花倉の乱において玄広恵探を支持し、敗れて没落した人物」として語られることが多い。しかし、この通説は、実際にはその父である 堀越貞基(さだもと) 、法名**用山(ようざん)**の事績との混同が見られる 1 。本報告書では、まずこの父子の経歴を慎重に分離し、氏延自身の具体的な行動を再構築することから論を起こす。
氏延の最期についても、花倉の乱ではなく、それから約27年後の永禄六年(1563年)、主君である今川氏真に対して反乱を起こし、討伐されたとするのが、より正確な史実である可能性が高い 2 。この「遠州忩劇(えんしゅうそうげき)」と呼ばれる遠江国人衆の一斉蜂起の中で、氏延が下した決断の意味を深く考察する。さらに、「没落」という言葉が示唆する断絶のイメージとは異なり、堀越氏の嫡流が江戸時代に旗本として存続した事実を、『寛政重修諸家譜』などの信頼性の高い史料から明らかにする 4 。
本報告書は、以上の問題意識に基づき、一族の出自、父・貞基の時代、氏延の生涯、そして一族のその後という時系列に沿った構成で、通説の影に隠された一人の武将の実像に迫るものである。
西暦 |
元号 |
堀越氏の動向 |
今川・周辺勢力の動向 |
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1506 |
永正3 |
父・貞基、今川氏親の三河遠征に従軍 5 。 |
伊勢宗瑞(北条早雲)が三河へ侵攻。 |
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1536 |
天文5 |
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今川氏輝・彦五郎が急死。花倉の乱が勃発 6 。 |
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1537 |
天文6 |
父・貞基、恵探方に与し見付端城で挙兵。天野虎景に攻められ敗死 1 。 |
氏延 が家督を継ぐ。 |
義元、花倉の乱を制圧し家督相続 8 。 |
1560 |
永禄3 |
(雌伏期) |
桶狭間の戦いで今川義元が戦死。氏真が家督相続。 |
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1563 |
永禄6 |
氏延 、今川氏真に背き見付端城で挙兵(遠州忩劇)。小原鎮実に討伐され、戦死 2 。 |
遠江で飯尾連龍らが離反。今川領国の動揺が激化。 |
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江戸時代 |
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子孫の氏朝が吉良氏を継ぎ、旗本・蒔田氏として存続 4 。 |
徳川幕府成立。 |
堀越氏延の行動原理を理解するためには、まず彼が属した一族の成り立ちと、その特異な立場を把握する必要がある。
堀越氏は、清和源氏足利氏の一門であり、室町幕府の創設に功のあった今川氏の庶流にあたる 4 。その直接の祖は、南北朝時代に九州探題として武名と文名を馳せた
今川貞世(さだよ) 、法名**了俊(りょうしゅん)**である 4 。了俊は、その功績にもかかわらず中央政界での権力闘争に敗れて失脚し、遠江・駿河半国守護の地位に甘んじることとなった。さらに応永の乱(1399年)に際して幕府への反意を疑われ、その懲罰として遠江国堀越郷(現在の静岡県袋井市)を所領として与えられた 4 。この時、宗家との区別のためか、今川姓を名乗ることを禁じられ、「堀越」を称したのが、遠江堀越氏の起源とされる 4 。
この出自は、堀越氏の性格を決定づける重要な要素となった。彼らは単なる一在地領主ではなく、今川一門の中でも傑出した人物である了俊を祖に持つ「遠江今川氏」とも呼ばれる別格の家系であった 4 。この高い矜持と、駿河今川宗家に対する潜在的な対抗意識は、宗家が領国支配を強化しようとする際に、必然的に摩擦を生む土壌となったと考えられる。彼らの歴史は、名門の庶流が抱える栄光と苦悩の物語でもあった。
了俊から数えて五代目にあたる堀越貞延(さだのぶ)の代に、一族は二つの流れに分かれる。文明七年(1475年)、貞延が遠江支配を巡る斯波氏との戦いで戦死すると、その長男・一秀(かずひで)は駿河国の瀬名郷(現在の静岡市葵区)を与えられて 瀬名氏 の祖となった 4 。一方、次男の
貞基(さだもと) 、すなわち氏延の父が、本拠地である堀越郷を継承し、 堀越氏 の家名を存続させたのである 10 。
この分流は、両家のその後の運命を大きく左右した。瀬名氏は、今川氏親の家督相続を支援するなど、積極的に宗家との関係を深め、駿河今川氏の家臣団の中枢に組み込まれていった 4 。後に徳川家康の正室となる築山殿(瀬名姫)がこの瀬名氏の出身であることは、その密接な関係を象徴している 12 。対照的に、堀越氏は遠江の在地領主としての性格を強く保持し続けた。これは、同じ祖を持ちながらも、一方は宗主との一体化による安定を、もう一方は在地での自立性を志向するという、戦国期における国人領主の異なる生存戦略の現れであった。堀越氏が選んだ道は、独立性を保つ一方で、宗家の支配強化の波に直接晒されるリスクを伴うものであった。
コード スニペット
graph TD;
A[今川了俊<br>(遠江今川氏祖)] --> B(...数代...);
B --> C[堀越貞延];
C --> D[瀬名一秀<br>(瀬名氏祖)];
C --> E[堀越貞基(用山)];
D --> F[瀬名氏貞];
F --> G[築山殿<br>(徳川家康室)];
H(北条氏綱) --> I[山木大方];
I -- 婚姻 --> E;
E --> J[<b>堀越氏延</b>];
J --> K[堀越氏直];
K --> L(...);
L --> M[堀越氏朝<br>(吉良氏継承・蒔田氏祖)];
歴史上、「堀越」の名を持つ勢力として、伊豆国堀越(現在の静岡県伊豆の国市)を本拠とした「堀越公方」が存在する。これは室町幕府8代将軍・足利義政の弟である政知を祖とする足利将軍家の一派であり、関東統治のために派遣されたものの、伊豆に留まらざるを得なかった存在である 13 。この堀越公方は、延徳三年(1491年)から明応二年(1493年)頃にかけて、伊勢宗瑞(北条早雲)によって滅ぼされており 13 、今川了俊を祖とする遠江の堀越氏とは、本拠地の名称が類似するだけで、血縁関係は一切ない。両者を混同しないことは、当時の政治情勢を正確に理解する上で不可欠である。
堀越氏延の生涯は、その父・貞基が築いた政治的遺産と、複雑な姻戚関係の上に成り立っていた。
堀越氏延は、堀越貞基(用山)の子として生を受けた 16 。通称を六郎と称した 16 。父・貞基は、永正三年(1506年)に今川氏親の重臣であった伊勢宗瑞(後の北条早雲)が三河へ遠征した際、「遠州衆」の一員として従軍した記録が残っており、この時点では今川宗家に従属する有力な国人領主として活動していたことが確認できる 5 。
貞基が拠点としたのは、遠江国の政治的中心地であった見付(現在の磐田市)に築かれた 見付端城 (みつけはしじょう)であった 1 。見付は古代より遠江国府が置かれた地であり 18 、その中心に城を構えることは、単なる軍事拠点の確保以上の意味を持っていた。それは遠江一国に対する象徴的な権威を示すものであり、他の国人衆に対して優位に立つための重要な基盤であった。今川宗家にとって、遠江支配の要である見付を抑えることは最重要課題であり、その地に拠る堀越氏の存在は、常に注視すべき対象であったことは想像に難くない。
氏延の出自を語る上で決定的に重要なのは、その母が相模の戦国大名・ 北条氏綱の娘 である 山木大方 (やまきのおおかた)であったという事実である 16 。これにより、氏延は今川義元の従兄弟であると同時に、後北条氏三代当主・氏康の甥という、極めて高貴な血筋を引くことになった 20 。
この婚姻は、今川氏が定めた分国法『今川仮名目録』において、家臣が許可なく他国と縁組を結ぶことを厳しく禁じていることから 21 、今川宗家の公認のもとに行われた高度な政略結婚であったことは間違いない。この関係は、堀越氏にとって両刃の剣であった。今川一門でありながら、隣国の大大名・後北条氏という強力な外戚を持つことは、今川家中における堀越氏の地位を著しく高めた。宗家も、後北条氏との関係を考慮すれば、堀越氏を軽々しく扱うことはできなかったはずである。しかし、それは同時に、宗家から見れば、堀越氏が潜在的に後北条氏と結託して自立、あるいは反逆する可能性を秘めた危険な存在と映ったであろう。この複雑で緊張をはらんだ立場こそが、後の花倉の乱における父・貞基の不可解とも思える決断を理解する鍵となる。
天文五年(1536年)、今川宗家に突如として訪れた家督断絶の危機は、堀越氏の運命を大きく揺るがす転換点となった。
天文五年三月、今川氏九代当主・氏輝とその弟・彦五郎が同日に急死するという異常事態が発生し、今川家は後継者を同時に失った 6 。家督を巡り、氏輝の庶兄で僧籍にあった**玄広恵探(げんこうえたん)
と、同じく僧籍にあった五男の 栴岳承芳(せんがくしょうほう、後の今川義元)**が対立し、家中を二分する内乱「花倉の乱」が勃発した 8 。
玄広恵探は、母方の外戚である福島氏らの支持を得て、花倉城(静岡県藤枝市)で挙兵した。特に福島氏は遠江の高天神城を拠点とする有力国人であり、恵探派は遠江に強い支持基盤を持っていた 23 。一方、義元は筆頭家老の太原雪斎らの奔走により、相模の後北条氏や甲斐の武田氏といった大国の支持を取り付けることに成功した 8 。
この存亡を賭けた争いの中、見付端城主・**堀越貞基(用山)**は、玄広恵探方に与して挙兵するという重大な決断を下す 1 。この選択は、一見すると不可解である。なぜなら、義元方は自らの姻戚である後北条氏が支援しており、それに従うのが自然な流れに見えるからだ。
この決断の背景には、複数の要因が複雑に絡み合っていたと推測される。第一に、駿河宗家による支配強化を嫌い、同じ遠江の有力国人・福島氏が担ぐ恵探が勝利した方が、遠江における自らの自立性を維持できると判断した可能性である。これは、乱が単なる家督争いではなく、駿河勢力対遠江勢力という地域間対立の側面を帯びていたことを示唆している 23 。第二に、遠江今川氏の末裔として、また後北条氏の外戚としての高いプライドに見合うだけの待遇を、氏親・氏輝政権下で得られていなかったという不満があったのかもしれない。貞基の行動は、これらの要因が絡み合った末の、一族の将来を賭けた政治的賭けであったと言えよう。
しかし、この賭けは失敗に終わる。天文六年(1537年)四月、義元は遠江の鎮圧に着手し、犬居城主の天野宮内右衛門虎景に命じて見付端城を攻撃させた 1 。伝承によれば、貞基は家老の茨木弾正に近隣の城へ援軍を求めさせたが間に合わず、城は猛攻の末に炎上、落城した 1 。この戦いで貞基は討死、あるいは敗北後に自害したとされ、堀越氏の当主の座は、子である氏延へと引き継がれることとなった 1 。
父・貞基の敗死後、若き当主となった氏延は、一族の故地である堀越郷(袋井市)へ落ち延びたとされる 1 。この敗北により、堀越氏の勢力は大きく削がれはしたものの 26 、家そのものが「滅亡」したわけではなかった。近年の研究では、氏延が後に見付城主として再び歴史の表舞台に登場することから、家の断絶はなかったと考えられている 3 。父の反逆という重い十字架を背負いながらも、氏延は一族再興の機会を窺うことになる。
父の死後、堀越氏延は、今川義元が築き上げた強固な支配体制の中で、息を潜めて生きることを余儀なくされた。
花倉の乱を制した今川義元は、領国支配の集権化を強力に推し進めた。特に、自らに敵対した遠江の国人衆に対しては厳しい統制策を敷いた。天文二十二年(1553年)に義元が制定した『今川仮名目録追加21条』は、父・氏親が定めた分国法をさらに強化するものであり、家臣団の自立性を削ぎ、宗家の権力を高めることを目的としていた 21 。
中でも「他国との婚姻の禁止」を定めた条項は、後北条氏と直接的な姻戚関係を持つ堀越氏のような存在を強く意識したものであったと考えられる 21 。父・貞基の反乱は赦免されたとみられるが、氏延の行動は常に義元の監視下に置かれ、その権力は大幅に制限されていたであろう。彼がこの時期、歴史の表舞台からほとんど姿を消しているのは、義元の強力な支配体制下で、いかなる目立った活動も許されなかった「雌伏の時代」であったことを物語っている。
花倉の乱(1537年)から桶狭間の戦い(1560年)に至るまでの約20年間、堀越氏延に関する具体的な動向を示す史料は極めて乏しい。この間、彼が見付城主の地位に復帰していた可能性は考えられる。義元が遠江支配を安定させる過程で、反乱者の子であっても旧来の有力国人である堀越氏を再び見付に置くことで、他の国人衆を牽制するという高等な政治判断を下した可能性もある。しかし、仮にそうであったとしても、それはあくまで義元の掌中でのことであり、かつて父・貞基が有していたような自立性は完全に失われていたに違いない。この長い沈黙の期間は、氏延にとって屈辱と忍耐の日々であったと想像される。
永禄三年(1560年)、今川義元の死は、氏延に雌伏の時を終わらせる契機を与えた。
桶狭間の戦いで今川義元が織田信長に討たれるという衝撃的な事件は、今川氏の権威を根底から揺るがした。家督を継いだ今川氏真の時代、領国、特に西方の三河と遠江で支配の綻びが急速に顕在化する 2 。徳川家康が三河で独立し、さらに遠江への進出を窺う中で、遠江の国人衆は今川氏を見限るか、あるいは忠誠を尽くすかという、存亡を賭けた選択を迫られた。この一連の混乱と離反の動きは「遠州忩劇」と呼ばれ、今川領国の解体過程を象徴する出来事であった。
この混乱の最中、永禄六年(1563年)、遠江見付城主・ 堀越氏延は、ついに今川氏真に反旗を翻した 2 。父・貞基の反乱から27年、氏延は再び一族の命運を賭けた戦いに身を投じたのである。
その動機は、複合的なものであったと考えられる。第一に、義元という強力な当主の死と氏真政権の弱体化は、父の代からの悲願であった「堀越氏の自立」を果たす絶好の機会と映ったであろう。第二に、この時期、曳馬城主の飯尾連龍や井伊谷の井伊直親など、他の遠江国人衆も徳川家康と内通して今川氏から離反する動きを見せており 27 、氏延の反乱もこうした地域全体の大きな潮流の一部であった可能性が高い。家康との何らかの連携があったことも十分に考えられる。また、一部の史料には武田信玄に従ったとする記述もあり 5 、今川氏に代わる新たな庇護者を求めて多方面に活路を見出そうとしていたのかもしれない。
氏真は、この反乱に対し、家臣の**小原鎮実(おはら しげざね)**に氏延の討伐を命じた 2 。小原鎮実は三河吉田城代などを歴任した今川氏の重臣である 28 。この戦いの詳細な経過を記した史料は乏しいが、結果は明白であった。『浜松市史』などの記録によれば、氏延は小原鎮実に攻められ、
殺害された 2 。見付端城もこの頃に焼失したと伝えられており 1 、堀越氏延の波乱に満ちた生涯は、父と同じく宗家への反乱とその敗北という形で、悲劇的な幕を閉じたのである。
二度にわたる当主の反乱と死。これにより堀越氏は領地を失い、在地領主としての歴史に終止符を打った。しかし、一族の血脈は、驚くべき形で生き延びていく。
氏延の死後、その子・**氏直(うじなお)**は、家臣に守られて諸井村(現在の袋井市)に落ち延び、後に徳川家康に出仕したという伝承が残っている 5 。また、氏延の系統とは別に、堀越氏の一族(定吉・定次親子)が徳川家臣の菅沼定利に属し、その子孫が江戸時代に旗本として存続した家系も確認できる 30 。これらの事実は、堀越氏が多様な形で徳川の世を生き抜いたことを示している。
最も注目すべきは、氏延の嫡流のその後である。氏延の孫にあたる 氏朝(うじとも)の代に、一族は大きな転機を迎える。氏朝は、足利氏の名門であり、三河に勢力を持っていた関東吉良氏 の家名を継承したのである 4 。
この吉良氏は、後に 蒔田(まいた)氏 と改姓し、江戸幕府において将軍に直接仕え、儀式典礼などを司る 高家旗本 という名誉ある地位を得て存続した。この事実は、江戸幕府が編纂した公式な系譜集である**『寛政重修諸家譜』**に明確に記されており、極めて信頼性が高い 4 。
領地と当主を失い、通常であれば歴史から姿を消す状況下で、堀越氏の嫡流は「今川一門」「了俊の末裔」という血統の価値を最大限に活用した。名門・吉良氏の後継者として迎えられたことは、戦国末期から江戸初期にかけて、武力や経済力だけでなく「家格」や「血統」が依然として重要な社会的価値を持っていたことを示す好例である。結果として、堀越氏の嫡流は、遠江の在地領主から江戸幕府の中央官僚へと鮮やかな転身を遂げ、新しい時代に巧みに適応した。これは、戦乱の世を生き抜いた一族の、したたかで計算された究極の生存戦略であったと言えよう。
堀越氏延の生涯は、父・貞基の代から続く今川宗家との根深い対立構造に規定され、自らの代でその緊張関係が破局に至った悲劇であった。その人生は、父の反乱後の長い「雌伏の時代」と、今川氏の衰退という好機に乗じた「最後の反乱」という、二つの対照的な局面から成り立っている。通説で語られる「花倉の乱での没落」は父・貞基の事績であり、氏延自身は、今川家の黄昏時に最後の抵抗を試み、そして散った武将であった。
氏延と堀越一族の物語は、戦国大名の領国支配下における有力国人、特に一門衆の複雑な立場を象徴している。彼らは、宗家への忠誠と、自領の安堵および一族の自立という、時に相克する要求の間で常に揺れ動いていた。堀越氏の事例は、その緊張が破綻した時、いかに悲劇的な結末を迎えるかを示す。しかし同時に、武力で敗れてもなお、一族がその高貴な血脈と家格を頼りに新たな秩序の中で生き残る道を探ったという、戦国から近世への移行期のリアルな様相を我々に伝えてくれる。断片的な史料を丹念に繋ぎ合わせることで、通説の影に埋もれた一人の武将の実像と、その一族のダイナミックな運命を再構築することができるのである。