最終更新日 2025-06-16

堅田元慶

「堅田元慶」の画像

毛利家宿老 堅田元慶 ― 輝元を支え、激動の時代を駆け抜けた生涯

序章:輝元出頭人、堅田元慶という存在

日本の歴史において、戦国時代から江戸時代初期への移行は、単なる政治体制の変革に留まらず、武士という身分のあり方そのものに根源的な変化を迫る激動の時代であった。この転換期を象徴する人物として、毛利家の宿老、堅田元慶(かただ もとよし)を挙げることができる。彼の生涯は、戦場での武功を第一とする「戦国武士」から、統治能力と主君への絶対的な忠誠を基盤とする「近世官僚」へと、武士に求められる理想像が如何に変遷したかを鮮やかに映し出している。

元慶は、毛利氏の譜代家臣である粟屋(あわや)氏の次男として生まれ、本来であれば家督を継ぐ立場にはなかった 1 。しかし、主君・毛利輝元の近習として早くからその才能を見出され、類稀な行政手腕と外交感覚、そして何よりも輝元個人への深い忠誠心によって、異例の出世を遂げる。知行を持たない身から一万石を超える大名級の領主へと駆け上がり、ついには長州藩(萩藩)において毛利一門に次ぐ家格である寄組筆頭の地位を確立する家の始祖となった 3

彼の経歴は、一個人の立身出世物語に留まらない。それは、毛利氏が豊臣政権、そして徳川幕藩体制という新たな中央集権の枠組みの中で生き残りを図るため、どのような人材を必要とし、重用したかの証左でもある。本報告書では、堅田元慶の出自から、輝元出頭人としての活躍、関ヶ原の戦いにおける苦悩、そして江戸での人質生活に至るまで、その生涯を徹底的に掘り下げ、彼が時代の要請にいかに応え、主家を支え続けたのかを明らかにする。

第一章:出自と毛利輝元への出仕 ― 飛躍の序章

堅田元慶の生涯の基盤を理解するためには、彼の出自と、主君・毛利輝元との固い信頼関係がいかにして築かれたかを探る必要がある。

元慶は永禄11年(1568年)、毛利氏の譜代家臣である粟屋元通(あわや もとみち)の次男として生を受けた 3 。母は江田元周(えだ もとちか)の娘である 3 。粟屋氏は清和源氏の流れを汲み、古くから毛利氏に仕えた家柄であった 8 。しかし、次男である元慶は家督相続の権利を持たず、その家臣としての出発点は、自身の知行を持たない「知行無し」の状態であった 3

彼の運命が大きく動き出すのは、元服前の若さで毛利輝元の近習(きんじゅう)、すなわち主君の身辺に仕える側近として召し出されたことに始まる 3 。これは、輝元が意図的に新しいタイプの為政者を育成しようとしたことの表れであったと考えられる。当時の大名家では、古くからの譜代家臣がそれぞれに勢力基盤を持ち、派閥を形成することが少なくなかった。これに対し、輝元は自らの個人的な信任のみを頼みとする、既存の勢力図に縛られない側近を求めたのである。元慶の「庶子」であり「知行無し」という立場は、一見すれば不利な条件であるが、逆に言えば、彼の立身と栄達が完全に主君・輝元の恩顧にかかっていることを意味した。これにより、他の有力家臣からは得難い、絶対的で個人的な忠誠心で結ばれた主従関係が育まれていった。

天正10年(1582年)、元慶は元服を迎え、当初は元勝(もとかつ)、後に元慶と名を改めた 3 。この主君との揺るぎない絆こそが、彼のその後の目覚ましい飛躍の原動力となったのである。

第二章:小早川隆景の寵臣 ―「堅田」姓の由来と三原城代

元慶の初期の経歴における極めて重要な転機は、毛利家の「両川」の一翼を担い、当代随一の智将と謳われた小早川隆景との出会いであった。この出来事は、彼の姓名、家紋、そして毛利家中における地位を決定づけることになる。

元服から間もない若さにもかかわらず、元慶の卓越した行政手腕は、実子のいなかった隆景の目に留まった。隆景は元慶を高く評価し、自らの養嗣子として迎え入れたいと申し出たのである 3 。これは、広大な小早川家の所領を継承することを意味する、破格の提案であった。

しかし、元慶はこの申し出を丁重に辞退する。この決断は、単なる謙遜ではなく、高度に政治的な意思表示であった。これを受け入れることは、彼の立場を輝元の直臣から、毛利本家とは別の有力分家の後継者へと変えてしまう。彼の辞退は、「私の主君はあくまで輝元公であり、私の運命は毛利本家と共にあります」という、輝元への絶対的な忠誠を内外に示す行為だったのである。

この深謀遠慮に満ちた忠誠心を、老練な隆景が理解しないはずはなかった。隆景は元慶の決断を認め、養子縁組に代わる措置として、彼に新たな姓を与える。これが「堅田」姓であり、当時元慶が領していた長門国美祢郡堅田の地名に由来するとされる 3 。さらに隆景は、自らの寵愛の証として小早川家の家紋である左三つ巴の使用を許し、そして何よりも重要なことに、天正13年(1585年)に自身が四国攻めの功により伊予国へ移封された後、それまでの本拠地であった戦略上の要衝・備後三原城の城代として、この城を元慶に預けたのである 3

この一連の出来事により、元慶は輝元と隆景という毛利家の二人の最高指導者から絶大な信頼を得ることに成功した。単なる輝元の側近から、毛利家全体の戦略を担う重要人物へと、その地位を飛躍的に高めた瞬間であった。

第三章:豊臣政権下の輝元出頭人 ― 中央政界での躍進

小早川隆景からの信任を得た元慶は、毛利氏が豊臣政権の傘下に入る中で、その活動の場を中国地方から中央政界へと大きく広げていく。彼は毛利家の内部統治者であると同時に、中央政府に対する外交官という、新たな時代の要請に応える不可欠な存在へと成長した。

天正16年(1588年)、輝元に従って上洛した際、元慶は豊臣秀吉からもその才を認められ、個人的な寵愛を受けた。秀吉は彼に豊臣姓を下賜し、従五位下・兵部少輔(ひょうぶのしょうゆう)に叙任した 3 。これは全国の大名に比肩する官位であり、彼が中央政界に華々しくデビューしたことを示している。

この後、元慶は輝元の意を体現する「出頭人(しゅっとうにん)」として、名実ともに毛利家の政務の中枢を担うようになる。慶長元年(1596年)頃からは、奉行として毛利家の公式な命令書である連署奉書に名を連ね、その権威を確立した 5

文禄・慶長の役(朝鮮出兵)においても、輝元に従い朝鮮半島へ渡海している 5 。この出兵準備中の天正20年(1592年)、博多にて元慶の家臣が豪商・神屋宗湛の関係者と乱闘騒ぎを起こす事件が発生した。秀吉の奉行衆が介入する大事になることを恐れた輝元は、迅速に元慶の家臣を処罰し、元慶自身を船で壱岐国へ避難させた 10 。この逸話は、元慶が常に権力の中枢近くにいたこと、そして輝元がいかに彼を保護し、重用していたかを物語っている。

元慶の躍進は、その知行高の驚異的な増加にも明確に表れている。以下の表は、天正19年(1591年)頃に作成された分限帳(ぶげんちょう)に見る元慶の所領である。

国名

郡名

石高(分限帳記載)

出典

安芸国

(詳細不明)

7438石9升(四カ国合計)

3

周防国

(詳細不明)

(同上)

3

長門国

(詳細不明)

(同上)

3

出雲国

(詳細不明)

(同上)

3

知行ゼロから出発した元慶が、わずか10年足らずで7438石(年貢高)の所領を得たことは、特筆に値する。研究によれば、これは実際の領地規模に換算すると1万石から1万2千石に相当すると考えられている 3 。さらに、関ヶ原の戦いの直前には、彼の知行は1万2296石と記録されており、その急成長ぶりがうかがえる 15

このように、堅田元慶は豊臣政権下において、毛利家の内部統治と中央政界との橋渡し役という、他に代えがたいハイブリッドな役割を担うことで、その地位を不動のものとしたのである。

第四章:関ヶ原の戦い ― 総大将代理としての苦悩と役割

慶長5年(1600年)、天下分け目の関ヶ原の戦いが勃発すると、堅田元慶は彼のキャリアにおいて最も困難な局面に立たされる。西軍の総大将に祭り上げられた主君・輝元が大坂城に留まったため、元慶もまた戦場に赴くことなく、輝元の代理として大坂城から戦局を指揮するという、苦悩に満ちた役割を担うことになった。

この年、元慶は組頭(くみがしら)および大和守(やまとのかみ)に任じられており、名実ともに輝元の側近筆頭であった 16 。彼の役割は、大坂城から各戦線へ輝元の指示を伝え、戦略を調整することにあった。しかし、その指揮は困難を極めた。

決戦のわずか2日前、9月13日付で元慶が発した書状が現存する。これは、大津城の攻略に手間取る毛利家臣・清水景治を「世上の物沙汰、是非に及ばず候。無念至極に候(世間の評判は言うまでもなく、全くもって残念至極である)」と厳しい言葉で叱咤激励する内容である 5 。この書状からは、大坂城の司令部が前線の戦況に苛立ち、自軍の評判と戦局の遅れに強い危機感を抱いていたことが痛いほど伝わってくる。司令部と前線との断絶、そして西軍全体の足並みの乱れを象徴する史料と言えよう。

さらに、西軍内部の不協和音は、戦前の些細な、しかし象徴的な事件にも表れていた。ある逸話によれば、輝元は元慶に、かつて小早川隆景が用いた馬印(うまじるし、大将の旗指物)を持たせて行軍させた。これを目撃した隆景の養子・小早川秀秋(豊臣家から送り込まれた養子)は激怒し、自らの家臣に命じて元慶の行列からその馬印を奪い取らせたという 5 。これは単なる小競り合いではない。隆景の後継者として元慶をこそ相応しいと考えていた輝元ら毛利首脳部と、政治的に後継者となった秀秋との間に横たわる、根深い確執と不信感が公然と表出した事件であった。この亀裂が、後の関ヶ原における秀秋の裏切りと、吉川広家の内通による毛利本軍の不戦という、西軍にとって致命的な結果に繋がる遠因となったことは想像に難くない。

元慶は、このような内部崩壊の渦中で、総大将代理として孤立無援の戦いを強いられていたのである。

第五章:関ヶ原後 ― 江戸における二十年の証人生活

関ヶ原の戦いにおける西軍の敗北は、毛利氏を存亡の危機に陥れ、堅田元慶の運命をも一変させた。彼の人生の最終章は、江戸における二十年間にわたる「証人」生活である。しかしこれは、単なる虜囚の歳月ではなかった。それは、徳川幕府という新たな支配者の下で、毛利家の存続と名誉を懸けた、長く困難な外交任務の始まりであった。

戦後、徳川家康は当初、元慶を首謀者の一人である安国寺恵瓊と同罪とみなし、厳罰に処すことを考えていた。しかし、井伊直政や本多正信らの取りなしにより、元慶は死罪を免れる 5 。その代わり、慶長6年(1601年)、毛利家の跡継ぎである毛利秀就(当時7歳)が江戸へ向かう際に随行し、「証人」として江戸に留まることを命じられた。これは、毛利家の忠誠を監視するための人質であると同時に、幕府との交渉を担う外交官としての役割を意味していた 5

元慶の江戸での生活は、毛利家のための不断の外交活動そのものであった。彼は幕府の重鎮、特に本多正信らと親密な関係を築くことに心血を注いだ。正信が鷹狩りに出かけた先にまで贈り物を届けるなど、その配慮は細心のものだったという 5 。主君・輝元は元慶の「気短な」性格を心配したが、彼は見事にこの大役を果たし、幕府と、外様大名の筆頭格として常に監視下にあった長州藩との間の緩衝材として機能した。

彼の生活は厳格な監禁ではなかった。幕府の許可を得て少なくとも10回は国元へ一時帰国し、治療のために熱海温泉へ赴くことも許されていた 5 。慶長15年(1610年)には、故郷山口の瑠璃光寺の住職を招き、江戸に同名の寺院を建立している 3 。また、政治的な役割を果たしながらも、家臣に命じて長崎で家屋敷を経営させるなど、驚くべき現実的な才覚も見せている。唐船が入港すると家賃が上がると記した書状からは、彼の抜け目のない資産管理能力がうかがえる 5

関ヶ原の後、堅田家の知行は六千石程度に削減されたが、元慶が江戸に詰めている間は、軍役や普請役が免除されるという配慮がなされた 5 。慶長14年(1609年)には、妻(益田元祥の娘)と子供たちを江戸へ呼び寄せるよう命じられ、人質としての立場がより明確になった 5

この二十年にわたる江戸での生活は、毛利家が徳川の世で生き残るための、最も重要な外交の最前線であった。元慶の存在そのものが、毛利家の忠誠の証だったのである。

第六章:終焉と堅田家のその後 ― 後世への遺産

二十年近くに及ぶ江戸での生活は、堅田元慶の心身を確実に蝕んでいた。元和6年(1620年)頃に病を発し、輝元は再三にわたり彼の帰国許可を幕府に願い出たが、ついに叶うことはなかった 5 。元和8年(1622年)9月27日、元慶は江戸の屋敷でその波乱に満ちた生涯を閉じた。享年55であった 3

彼の遺骸は、故郷である周防国湯野(現在の山口県周南市)の菩提寺・性梅院にある堅田家墓所と、彼自身が江戸に建立した瑠璃光寺(東京都港区)に分骨されたと伝えられる 12 。江戸の瑠璃光寺に残る墓石には「芸州住(げいしゅうじゅう)」、すなわち「安芸国に住まう者」と刻まれている 5 。生涯の最後の二十年を江戸で過ごし、そこで客死したにもかかわらず、彼の自己認識が最後まで毛利家の本拠・安芸国の住人のままであったことを示す、胸を打つ言葉である。

元慶の死後、彼の嫡男・就政(なりまさ)をはじめとする家族は、翌元和9年(1623年)にようやく帰国を許された 5 。主君・輝元は、元慶の多大な功績と忠誠に報いるため、その遺族を厚遇した。元慶の長女を毛利一門の毛利元法に嫁がせ、堅田家が藩内で確固たる地位を築けるよう配慮したのである 5

その結果、堅田家は周防国湯野などを知行地とし、長州藩において毛利一門、永代家老に次ぐ「寄組筆頭」という最高の家格を与えられた 2 。この高い地位は、幕末の明治維新に至るまで二百数十年にわたって維持された。山口県文書館や東京大学史料編纂所に現存する膨大な「堅田家文書」は、彼らが藩政においていかに重要な存在であったかを物語っている 2

堅田元慶の最大の功績は、輝元との個人的な信頼関係によって得た一代の権勢を、江戸時代の厳格な身分制度の中で、子孫が継承可能な「制度的な家格」へと見事に転換させたことであった。彼の生涯を懸けた奉公は、二百五十年以上にわたる一族の繁栄という形で結実したのである。

終章:堅田元慶の歴史的評価

堅田元慶の生涯を総括する時、彼は単なる忠臣や有能な武将という言葉だけでは捉えきれない、時代の転換点を体現した人物であったことがわかる。

第一に、元慶は戦国乱世の価値観から近世の官僚的秩序へと移行する中で、武士に求められる能力の変化を象徴している。彼の価値は、戦場での武勇よりも、むしろ卓越した行政能力、主君の意図を汲み取る政治感覚、そして中央政界を渡り歩く外交手腕にあった。彼は、毛利氏という巨大な地方権力が、豊臣、徳川という中央集権体制に適応し、生き残るために不可欠な「官僚的家臣」の先駆的モデルであった。

第二に、彼のキャリアの全ては、主君・毛利輝元との極めて個人的で深い信頼関係の上に成り立っていた。輝元にとって元慶は、単なる家臣ではなく、腹心であり、代理人であり、そして最後には毛利家の命運を託した外交上の盾であった。この主従の絆の強さこそが、彼を庶子という不利な立場から、毛利家中枢へと押し上げた原動力であった。

そして最後に、彼の人生は、知行を持たない次男坊から始まり、激動の時代を駆け抜け、ついには藩の重臣筆頭の家の始祖として死を迎えるという、見事な立身出世の物語である。しかしそれは、私利私欲によるものではなく、一貫して主家への奉公という目的のために捧げられた生涯であった。特に関ヶ原後の二十年に及ぶ江戸での証人生活は、彼の忠誠心の究極的な発露であり、この自己犠牲的な任務が、毛利家の安泰と、彼自身の家の永続的な名誉を勝ち取ったのである。

堅田元慶は、毛利氏が最大の危機を乗り越え、新たな時代に適応する上で、まさに縁の下の力持ちとして決定的な役割を果たした人物として、歴史に記憶されるべきである。

引用文献

  1. 堅田元慶(カタダモトヨシ)|戦国のすべて https://sgns.jp/addon/dictionary.php?action_detail=view&type=1&dictionary_no=2980&bflag=1
  2. 堅田家文書(一般郷土伝来) - 所蔵文書検索 – 山口県文書館 http://archives.pref.yamaguchi.lg.jp/msearch/cls_search.php?op=search&id=1281
  3. 堅田元慶とは? わかりやすく解説 - Weblio辞書 https://www.weblio.jp/content/%E5%A0%85%E7%94%B0%E5%85%83%E6%85%B6
  4. 階層検索 - 山口県文書館 http://archives.pref.yamaguchi.lg.jp/msearch/cls_search.php?op=search&id=301684
  5. 毛 利 家 臣 堅 田 元 慶 の 生 涯 と 堅 田 家 伝 来 小 早 川 家 文 書 https://www.hi.u-tokyo.ac.jp/publication/kiyo/21/kiyo0021-miyazaki.pdf
  6. 毛利輝元の家臣 - 歴史の目的をめぐって https://rekimoku.xsrv.jp/2-zinbutu-35-mouri-terumoto-kashin.html
  7. 開田孫六 - 大河ドラマ+時代劇 登場人物配役事典 https://haiyaku.web.fc2.com/ka.htm
  8. 堅田元慶(かただもとよし)事績 資料(2023 7) by M.M https://www.c-able.ne.jp/~sve47288/kaizenji/katada01.pdf
  9. 粟屋氏 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B2%9F%E5%B1%8B%E6%B0%8F
  10. 輝元出頭人としてとは? わかりやすく解説 - Weblio辞書 https://www.weblio.jp/content/%E8%BC%9D%E5%85%83%E5%87%BA%E9%A0%AD%E4%BA%BA%E3%81%A8%E3%81%97%E3%81%A6
  11. 堅田 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A0%85%E7%94%B0
  12. 堅田家墓所 - 山口県 周南市 日常をときほぐす観光 https://visit-shunan.com/katadayabosho/
  13. 戦国・織豊期の朝廷政治 - 機関リポジトリ HERMES-IR https://hermes-ir.lib.hit-u.ac.jp/rs/bitstream/10086/9279/1/HNkeizai0003301710.pdf
  14. 天下統一期年譜 1597年 http://www.cyoueirou.com/_house/nenpyo/syokuho/syokuho31.htm
  15. 輝元公御代分限帳』の記載内容についての紹介 http://repo.beppu-u.ac.jp/modules/xoonips/download.php?file_id=9491
  16. 堅田元慶 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A0%85%E7%94%B0%E5%85%83%E6%85%B6
  17. 山口県文書館における堅田元慶関係史料の調査・撮影、及び毛利家文庫「遠用物」(近世前期)の調査・撮影 syoho43-saiho - 東京大学史料編纂所 https://www.hi.u-tokyo.ac.jp/publication/syoho/43/saiho_43_75.html
  18. 江戸での証人生活とは? わかりやすく解説 - Weblio辞書 https://www.weblio.jp/content/%E6%B1%9F%E6%88%B8%E3%81%A7%E3%81%AE%E8%A8%BC%E4%BA%BA%E7%94%9F%E6%B4%BB
  19. 毛利氏関連史跡ガイド~周南編~ http://rinrin.saiin.net/~azero/mouri/shunan.html