戦国時代から江戸時代初期という、日本史上類を見ない激動の時代を駆け抜けた人物は数多いますが、その中でも塙安友(ばん やすとも、1556-1629)ほど特異な生涯を送った人物は稀でしょう 1 。織田信長の重臣を父に持ち、自らも武将として戦場に立った彼は、人生の半ばでその剣を置き、江戸の市中で小児科医として第二の人生を歩み始めました。武士として生き、医師として死す。この二つの全く異なる人生は、戦乱の世の終焉と「徳川の泰平」という新たな時代の到来を、一人の人間の生き様を通して鮮やかに映し出しています。
ご依頼者が把握されている「織田家臣から佐々家、豊臣秀次と渡り歩き、関ヶ原合戦を経て江戸で小児科医となる」という経歴は、彼の人生の骨子を的確に捉えています 3 。しかし、その背後には、父の栄光と悲劇的な死、主君の相次ぐ没落、そして武士という生き方そのものへの深い葛藤がありました。
本報告書は、断片的に伝わる彼の経歴を丹念に繋ぎ合わせ、その生涯の全体像を再構築することを目的とします。特に、なぜ彼は武士の道を捨て、医師、それも小児科医という道を選んだのか。その決断に至るまでの心の軌跡と歴史的背景を深く掘り下げます。父の死、主家の滅亡という逆境を乗り越え、自らの手で新たな道を切り開き、さらには一族の再興までも成し遂げた塙安友。その生涯は、時代の奔流の中で「適応」と「再生」を成し遂げた、一人の人間の壮大な物語として、現代の我々に多くの示唆を与えてくれるに違いありません。
塙安友の人生を理解するためには、まず彼の出自と、その運命を大きく左右した父・塙直政の存在に光を当てる必要があります。安友の生涯は、父が築いた栄光の絶頂と、そのあまりにも突然な転落から幕を開けるのです。
塙氏は、尾張国春日井郡の大野木城(現在の名古屋市西区)を拠点とした一族で、安友の祖父は塙右近であったと伝えられています 4 。その子である塙直政(ばん なおまさ)は、織田信長に早くから仕え、その才能を認められて異例の出世を遂げた人物でした。
直政の姓の読みについては、『寛政重修諸家譜』では「はん」と記されているものの、『多聞院日記』や『言継卿記』といった一次史料から「ばん」と読むのが正しいとされています 6 。彼は信長の馬廻(側近警護役)からキャリアを始め、やがて信長の精鋭親衛隊である「赤母衣衆(あかほろしゅう)」の一員に抜擢されるなど、早くから信長の厚い信頼を得ていました 8 。
直政の能力は武勇に留まりませんでした。永禄11年(1568年)の信長上洛以降は、畿内の統治において優れた行政手腕を発揮し、吏僚としても重用されます 8 。天正3年(1575年)の長篠の戦いでは、佐々成政や前田利家らと共に鉄砲奉行の一人を務めるなど、軍事面でも重要な役割を担いました 8 。
文武両道にわたる活躍により、直政の地位は飛躍的に向上します。天正2年(1574年)には南山城の守護に、翌年には大和守護を兼務するよう命じられ、槇島城や多聞山城を居城としました 7 。この時期の彼は、明智光秀や羽柴秀吉をも凌ぐほどの権勢を誇り、織田家臣団の中でも屈指の重臣としてその名を轟かせたのです 8 。
しかし、その栄光はあまりにも突然に終わりを告げます。天正4年(1576年)、織田軍の宿敵であった石山本願寺との戦い(天王寺合戦)において、直政は主力部隊の指揮官として出陣しました。しかし、本願寺方の巧みな伏兵戦術にはまり、軍は壊乱。この激戦の中で、直政は伯父の塙安弘ら一族の多くと共に討死を遂げたのです 6 。
この敗北は織田軍全体を崩壊寸前にまで追い込む深刻なもので、信長自らが前線に駆けつけて負傷しながら指揮を執るほどの危機的状況でした 12 。激怒した信長の矛先は、亡き直政とその一族に向けられます。信長は敗戦の責任を問い、塙一族を厳しく処断しました。直政の腹心は罪人として捕らえられ、一族は信長から冷遇されることとなり、栄華を極めた塙家は一転して没落の道をたどることになったのです 4 。
この出来事は、当時21歳であった嫡男・安友の人生に決定的な影を落としました。父が築いた「絶頂期の栄光」からの「突然の転落」という経験は、単に後ろ盾を失ったという以上の意味を持ちました。それは、主君の意向一つで一族の運命が反転する武家社会の非情さと、権力のはかなさを骨身に染みて知るという、あまりにも過酷な原体験でした。この理不尽な権力による転落という経験こそが、安友の後の人生における慎重さや、特定の権力者に依存しない生き方を模索する、強い動機形成に繋がったと考えることができます。彼の波乱に満ちた人生は、まさにこの悲劇から始まったのです。
父・直政の死と一族の没落という逆境の中、塙安友は自らの力で道を切り開くことを余儀なくされました。彼の武将としての半生は、激動する天下の情勢の中で、安住の地を求めて主君を渡り歩く、まさに流転の連続でした。
父の死後、安友は織田家臣として山城国の槇島城を守ったとされています 2 。槇島城はかつて父が守護として管轄した南山城にあり、足利義昭が信長に反旗を翻した因縁の城でもありました 14 。しかし、安友の城主としての立場は、極めて不安定なものであったようです。史料によれば、直政が戦死してからわずか2年後の天正6年(1578年)には、井戸良弘という人物が槇島城主に任じられています 15 。
これは、安友の城主としての期間が、長くとも2年程度の極めて短いものであったことを示唆しています。父が築いた広大な所領や重要な拠点を継承することは許されず、実権の乏しい城に一時的に配置された後、すぐにその地位を別人に奪われたという事実は、織田政権内における塙家の凋落ぶりと、若き安友の無力さを如実に物語っています。この経験は、彼が織田家に見切りをつけ、本能寺の変後に新たな道を模索する一因となったことでしょう。
天正10年(1582年)の本能寺の変で信長が倒れると、安友は織田家を離れ、新たな主君を求めます。彼が次に仕えたのは、越中の大名・佐々成政でした 2 。成政は父・直政のかつての同僚であり、その縁を頼ったものと考えられます。しかし、ご存知の通り、成政は後に豊臣秀吉と対立して没落し、切腹を命じられるという悲劇的な末路を辿ります 17 。
安友の主君選びは、時代の権力の中枢を見極めようとする戦略的な動きでしたが、不運にも仕えた主君が次々と政治的に失脚していくという結果に見舞われます。成政の没落後、安友は天下人となった豊臣秀吉に仕え、その甥であり後継者と目されていた関白・豊臣秀次に附属させられました 1 。秀次への仕官は、天下の趨勢に従った賢明な判断に見えましたが、この選択が彼の武士人生における最大の試練を呼び込むことになります。この、仕える先がことごとく不幸に見舞われるという経験は、特定の主君に生涯を捧げるという武士の価値観そのものに、彼が疑念を抱くきっかけとなったことは想像に難くありません。
文禄4年(1595年)、豊臣政権を揺るがす大事件が起こります。「秀次事件」です。秀吉に謀反の疑いをかけられた関白・秀次は高野山で切腹させられ、その妻子や木村重茲、前野長康といった多くの近臣たちも粛清されるという、凄惨な事件でした 19 。
秀次に附属していた安友も、当然その渦中にいました。しかし、彼はこの粛清の嵐を奇跡的に生き延び、浪人となる道を選びます 1 。彼がなぜ生き延びることができたのか。その理由は、彼が秀次の側近や中核的な家臣ではなかったからだと推察されます。史料に見える「附属させられ」という表現は 2 、秀吉の命令による形式的な配置であり、秀次との個人的な結びつきが比較的弱かったことを示唆します。粛清されたのは、秀次の家老や側近といった中枢の人物が中心であり 19 、多数配属された武将の一人に過ぎなかった安友は、粛清の対象から外れたのでしょう。
この「権力の中枢との絶妙な距離感」が、皮肉にも彼の命を救いました。しかし、自らの主君と同僚たちが理不尽な理由で次々と死に追いやられていく様を目の当たりにした精神的衝撃は計り知れません。この事件は、武士社会の非情さと権力闘争の恐ろしさを彼に痛感させ、武士としてのキャリアに完全に見切りをつける、決定的な体験となった可能性が極めて高いと考えられます。
秀次事件の後、浪人となった安友ですが、再び仕官の道を見つけます。彼が仕えたのは田中吉政でした 2 。吉政もまた、かつて秀次付きの武将であったことから 23 、旧知の間柄であったのかもしれません。
そして慶長5年(1600年)、天下分け目の関ヶ原の戦いが勃発します。主君・田中吉政は徳川家康率いる東軍に与し、安友もその一員として参戦しました 3 。これが、記録に残る彼の最後の武将としての活動となります。この戦いを最後に、安友は武士としての人生に終止符を打ち、全く新しい道を歩み始めるのです。
表1:塙安友 年表
西暦 |
和暦 |
年齢 |
出来事 |
関連する主君・人物 |
1556年 |
弘治2年 |
0歳 |
尾張国にて、塙直政の子として誕生 1 。 |
塙直政 |
1576年 |
天正4年 |
21歳 |
父・直政が天王寺合戦で戦死。塙家が没落する 6 。 |
織田信長 |
1576-78年頃 |
天正4-6年頃 |
21-23歳 |
山城国槇島城主を務めるが、不安定な立場に置かれる 2 。 |
織田信長 |
1582年以降 |
天正10年以降 |
27歳以降 |
本能寺の変後、佐々成政に仕える 2 。 |
佐々成政 |
1587年以降 |
天正15年以降 |
32歳以降 |
成政の没落後か、豊臣秀吉に仕え、豊臣秀次に附属させられる 1 。 |
豊臣秀吉、豊臣秀次 |
1595年 |
文禄4年 |
40歳 |
豊臣秀次事件。主君・秀次が自刃。連座を免れ浪人となる 1 。 |
豊臣秀吉 |
1595年以降 |
文禄4年以降 |
40歳以降 |
浪人の後、田中吉政に仕える 2 。 |
田中吉政 |
1600年 |
慶長5年 |
45歳 |
関ヶ原の戦いに東軍(田中吉政隊)として参加。武士としての最後の活動となる 16 。 |
徳川家康、田中吉政 |
1600年以降 |
慶長5年以降 |
45歳以降 |
江戸に移り、剃髪して道閑(宗悦)と号し、小児科医を開業する 1 。 |
- |
1629年 |
寛永6年 |
74歳 |
江戸にて死去。享年74 1 。 |
- |
関ヶ原の戦いを最後に武士の世界から姿を消した塙安友は、江戸の地で全く新しい人生を始めました。彼は髪を剃り、「道閑(どうかん)」あるいは「宗悦(そうえつ)」と号し、小児科医として開業したのです 1 。武将から医師へ。この劇的な転身の背景には、時代の大きな変化と、彼自身の深い思索がありました。
安友が剣を置いた背景には、複数の要因が複雑に絡み合っていたと考えられます。第一に、関ヶ原の戦いを経て世は泰平に向かい、多くの武士がその存在意義を失い、新たな生き方を模索せざるを得ない時代でした。武士がその身分を捨て、僧侶や学者、そして医師になる例も決して珍しくはありませんでした 24 。
第二に、安友自身の個人的な経験です。父の理不尽な死、そして佐々成政、豊臣秀次と、仕えた主君が相次いで悲劇的な末路を辿ったこと。武家社会の非情さと、一つの家に全てを賭けることの危うさを痛感した彼にとって、武家奉公はもはや魅力的な選択肢ではなかったはずです。
第三に、医師という職業の持つ専門性です。一度身につければ、主君の意向や政治闘争に人生を左右されることなく、自らの腕一本で身を立てることができます。これは、権力に翻弄され続けた安友にとって、何よりも魅力的に映ったことでしょう。彼が選んだ「道閑」という号は、「静かな道」を意味し、争乱に満ちた武士の道との決別と、穏やかな医の道への強い意志を象徴しているかのようです 1 。
では、なぜ彼は数ある診療科の中から「小児科」を選んだのでしょうか。ここにも、彼の戦略的な思考と個人的な動機が垣間見えます。当時、医学の世界では曲直瀬道三らが中国の最新医学を導入し、医学の体系化と専門分化が進み始めていました 26 。小児科もまた、専門分野として確立されつつあったのです 28 。乳幼児の死亡率が非常に高かった当時、小児医療に対する社会的な需要は極めて高く、専門医は引く手あまたでした。需要が見込める分野で確実に身を立てるという、現実的な判断があったと考えられます。
さらに、彼が友治、頼安、宗安という三人の息子の父親であったことも、この選択に大きな影響を与えたのではないでしょうか 2 。自らの手で三人の子を育てた経験が、子供たちの健やかな成長を願う気持ちと、それを助ける小児医療への深い関心に繋がったと考えるのは、非常に自然な推論です。
安友の医師としてのキャリアは、大きな成功を収めたようです。彼は「小児科医として知られた」 1 、「名医とされた」 4 と記録されており、その腕前が高く評価されていたことがうかがえます。後には「官医」であったとも伝えられており 4 、また、三男の宗安が四代将軍・徳川家綱に仕えていることからも 2 、幕府とも何らかの繋がりを持つ、高名な医師であった可能性が示唆されます。
彼がどのような医学(古方、後世方など)を学び、誰に師事したのかを具体的に示す史料は現存していません。これは今後の研究課題ですが、武将として培われたであろう鋭い観察眼、冷静な判断力、そして人の心を掴む対話能力が、医師としての成功に大いに貢献したことは間違いありません。戦場で人の生死を目の当たりにしてきた経験が、人の命を救うという新たな使命において、彼の大きな力となったのです。寛永6年(1629年)、安友は74歳でその波乱に満ちた生涯を閉じました 1 。
塙安友は、医師として多くの子供たちの命を救っただけでなく、一族の未来にも確かな礎を築きました。彼が後世に遺したものは、息子たちの人生と、故郷の地に眠る墓所が静かに物語っています。
医師として成功を収めた安友ですが、彼は同時に、没落した塙家を再興させるという大きな目標を胸に抱いていました。その戦略は、彼にいた三人の息子、友治、頼安、宗安の仕官先に見事に表れています 2 。
この息子たちの仕官先は、単なる偶然とは考えられません。旧主家との縁故を重んじる「義理」、有力な外様大名という「安定」、そして天下人である徳川将軍家という「権威」。この三方面に巧みに家系を配置したことは、安友による深謀遠慮の「リスク分散戦略」であったと見ることができます。かつて、織田家という一つの権力に依存したがために、父の死と共に一族が没落するという悲劇を経験した彼が、その教訓を活かし、いずれか一つの家が断絶・改易といった事態に陥っても、塙家の血脈が確実に生き残るように図ったのです。これは、自らが経験した悲劇を二度と繰り返させまいとする父としての強い意志の表れであり、彼の武将時代に培われた戦略的思考が、家族の安泰という形で結実したことを示しています。
表2:塙安友とその一族
世代 |
氏名 |
続柄 |
生没年 |
主な経歴 |
祖父 |
塙右近 |
安友の祖父 |
不明 |
尾張国大野木城を築城したとされる 5 。 |
父 |
塙直政 |
安友の父 |
生年不詳-1576年 |
織田家重臣。南山城・大和守護。天王寺合戦で戦死 8 。 |
本人 |
塙安友 |
- |
1556年-1629年 |
武将から小児科医に転身。号は道閑、宗悦 1 。 |
子 |
塙友治 |
安友の長男 |
不明 |
田中吉政に仕える 2 。 |
子 |
塙頼安 |
安友の次男 |
不明 |
広島藩主・浅野光晟に仕える 2 。 |
子 |
塙宗安 |
安友の三男 |
不明 |
江戸幕府4代将軍・徳川家綱に仕える 2 。 |
安友(宗悦)の墓は、一族の故地である名古屋市西区大野木の福昌寺にあります 4 。この寺は、かつて塙氏の居城であった大野木城の跡地に建てられたとされ、安友にとって所縁の深い場所です 5 。
興味深いのは、その墓碑の傍らに立つ「いい伝え」と記された碑です。そこには、安友が生まれる遥か以前の出来事である明応地震(1498年)を予言して里人を救ったことや、福昌寺を開基した(1509年)ことなど、明らかに時代が合わない内容が刻まれています 4 。
これらの伝承は、もちろん史実ではありません。しかし、これを単なる「間違い」として片付けてしまうのではなく、なぜこのような伝承が生まれたのかを考えることで、安友という人物が後世にどのように記憶されていたかが見えてきます。これは、後世の人々が「名医・塙宗悦」という人物を深く尊敬するあまり、その存在を半ば神格化し、一族の祖先をより偉大な存在として顕彰しようとした結果生まれたものと考えられます。医師としての卓越した知識や先見性が、やがて「災害を予知する超能力」にまで昇華されて語り継がれたのでしょう。この時代錯誤な伝承は、史実ではないからこそ、彼が後世の人々からいかに敬愛されていたかを示す、何より雄弁な証拠と言えるのです。
「塙」という姓を持つ著名な人物は歴史上他にも存在するため、しばしば混同されることがあります。ここで、塙安友とは別人であることを明確にしておきます。
塙安友の生涯を振り返ると、それは父の死による「没落」、主君を転々とする「流転」、そして秀次事件という「断絶の危機」という、幾多もの苦難の連続でした。しかし、彼はその逆境に屈することなく、医師への転身という大胆な自己変革によって自らの人生を「再生」させ、さらには息子たちの巧みな配置によって一族の「再興」を成し遂げました。
彼の人生は、単に運命に翻弄されただけの物語ではありません。危機的状況において常に冷静に活路を見出し、武士という過去のアイデンティティに固執することなく、新たな時代の価値観である「専門技術」を身につけて未来を切り開いた、驚くべき「適応力」と「戦略性」を備えた人物の物語です。
戦国乱世の終焉から徳川泰平の世へ。この巨大な社会変革期を、塙安友は驚くべき柔軟性としなやかさで生き抜きました。彼の生き様は、変化の激しい時代において、過去の成功体験や旧来の価値観にとらわれず、自らを変革し続けることの重要性を、現代に生きる我々にも力強く示唆しています。剣を置いたその手で、彼は自らの人生と一族の未来、そして多くの子供たちの命を救ったのです。