本報告は、戦国時代の末期から大坂の陣に至る激動の時代を生きた武将、塙直之(ばんなおゆき)の生涯、事績、そしてその人物像を、現存する史料に基づいて多角的に検証し、彼の実像と後世に与えた影響を明らかにすることを目的とする。
塙直之が生きた時代は、織田信長による天下統一事業が道半ばで途絶え、豊臣秀吉がその事業を継承し、そして徳川家康によって江戸幕府が開かれるという、まさに日本の歴史における一大転換期であった。この時代、武士の価値観や主従関係は大きく揺れ動き、旧来の枠組みに囚われない、実力主義と強い自己顕示欲を持つ武将たちが数多く登場した。塙直之もまた、そのような時代が生んだ異色の武将の一人と言えるだろう。彼の生涯を追うことは、時代の転換期における武士の多様な生き様と、個人の立身出世への渇望を浮き彫りにする。主家を転々とし、奉公構(ほうこうかまい)という武士社会からの追放宣告を受けながらも不屈の精神で再起を試み、最後は大坂の陣という歴史的大舞台でその名を轟かせた塙直之の姿は、現代の我々にも多くの示唆を与えてくれるであろう。
塙直之の生涯、特にその前半生は多くの謎に包まれており、出自や生年についても諸説が存在する。これらの情報は、彼の人物像を理解する上で基礎となるものである。
表1:塙直之の基本情報
項目 |
内容 |
主な典拠 |
本名・諱 |
直之(なおゆき)。直次(なおつぐ)、尚之(なおゆき)とも。 |
1 |
通称 |
団右衛門(だんえもん)、弾右衛門。最も広く知られる。 |
1 |
幼名・初名 |
長八(ちょうはち) |
1 |
号(出家後) |
鉄牛(てつぎゅう) |
1 |
生年 |
通説:永禄10年(1567年)<br>異説:弘治元年(1555年)頃(『土屋知貞私記』による推算) |
1 |
没年 |
元和元年(慶長20年)4月29日(1615年5月26日) |
1 |
享年 |
49歳(通説に基づく)<br>約60歳(『土屋知貞私記』による) |
1 |
主な主君 |
織田信長(説)、加藤嘉明、小早川秀秋、福島正則、豊臣秀頼 |
1 |
主要な戦い |
文禄・慶長の役、関ヶ原の戦い(間接的に関与)、大坂冬の陣(本町橋の夜襲)、大坂夏の陣(樫井の戦い) |
1 |
生年と出自に関する諸説
塙直之の生年については、一般的に永禄10年(1567年)とされ、元和元年(1615年)の大坂夏の陣で49歳で戦死したとされる 1 。しかしながら、『土屋知貞私記』という史料には、彼が大坂夏の陣で戦死した際の年齢を「六十歳くらい」であったと記されており、これを逆算すると弘治元年(1555年)頃の生まれとなる 5 。この10年以上の差異は、彼の初期の経歴に関する謎を一層深める要因となっている。
出自に関しても複数の説が存在し、定かではない。
一つは、遠江国横須賀(現在の静岡県掛川市)の出身とする説である 1。これは比較的多くの資料で見られる記述である。
二つ目は、尾張国葉栗(現在の愛知県一宮市)の出身とする説で 1、この説は織田信長の家臣であった塙(原田)直政の一族ではないかという推測と結びつけて語られることが多い 4。
三つ目の説として、『土屋知貞私記』には上総国養老(現在の千葉県大多喜町)の出身で、上総・下総の名門である千葉氏の流れを汲むと記されている 5。もしこの説が事実であれば、直之は確かな家柄の出身ということになる。
これらの出自に関する諸説の存在は、塙直之という人物の神秘性を高めるとともに、後世の講談や創作物において、彼の人物像が多様に脚色される素地を提供したと考えられる。出自が不明確であるほど、物語の作者は自由にその背景を設定し、英雄的、あるいは型破りな人物として描き出すことが容易になるからである。
初期の仕官
その後の経歴についても諸説あるが、初め織田信長に仕えたという説が見られる 1 。信長の死後、豊臣秀吉の部将であった加藤嘉明に仕えたとされるのが一般的である 1 。嘉明のもとでは徒小姓から身を起こし、鉄砲大将にまでなったという 4 。一方で、『土屋知貞私記』によれば、玉縄城(神奈川県鎌倉市)主であった北条綱成に仕え、天正18年(1590年)の小田原征伐で北条氏が滅亡した後に加藤嘉明の家臣になったとも伝えられている 5 。いずれにしても、最終的に加藤嘉明に仕えたことは確かなようである。
塙直之の武士としてのキャリアにおいて、加藤嘉明との関係は極めて重要であり、彼の栄光と挫折を象徴する期間であった。
朝鮮出兵(文禄・慶長の役)での活躍
加藤嘉明の家臣として、文禄・慶長の役(1592年~1598年)に従軍した直之は、水軍として参加し、敵の番船を捕獲するなど数々の武功を立てたとされる 1。この時、鉄砲組を預かる物頭(ものがしら)であったともいう 1。
『武功雑記』には、この朝鮮出兵における直之の有名な逸話が記されている。それによれば、嘉明が青地の絹に日の丸を描いた大きな旗指物を作成し、直之にこれを背負わせて戦わせたところ、大いに武功を挙げ、恩賞として350石を与えられたという 9。ただし、この逸話の史実性については疑問視する向きもある 9。
朝鮮出兵におけるこのような華々しい、特に「目立つ」形での活躍とその賞賛は、直之の自己顕示欲を強く刺激し、後の彼の行動様式、すなわち自らの名を上げることに執着する姿勢の原体験となった可能性が考えられる。成功体験は人の行動を強化するものであり、この時の経験が、後の自己PR戦略とも言える行動に繋がったのかもしれない。
関ヶ原の戦いにおける命令違反
慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いにおいて、直之は鉄砲大将を任されていたが、主君である加藤嘉明の命令に背いたとされる 1。その具体的な内容としては、嘉明の許可なく勝手に足軽を出撃させた 10、あるいは功を焦った直之自身が単独で槍を持って敵陣に突撃するという軍令違反(抜け駆け)を犯した 9 などと伝えられている。
この行為により、直之は嘉明から「将帥の職を勤め得べからず」(お前には大将の役目を務める能力がない)と厳しく叱責された 10。
加藤嘉明との確執と出奔
この命令違反を巡る嘉明との言い争いが、直之の加藤家出奔の直接的な原因となったとされる 9。また、以前からの処遇に対する不満も背景にあったという説もある 9。
『新東鑑』には異説として、嘉明が罪人の捕縛を直之と藪与左衛門に命じた際、藪与左衛門が忠実に任務を果たしたのに対し、直之は寒い日であったため悠然と火にあたって暖を取っていたという。結果、藪与左衛門は恩賞として1300石を得たのに対し、直之は豪胆さを賞されたものの1000石に留まった。この恩賞の差に不満を抱いた直之が出奔したとされている 10。
いずれにせよ、加藤家を去るに際し、直之は書院の大床に「遂不留江南野水 高飛天地一閑鴎」(小さな野の水に留まっているような私ではない、いずれカモメのように天地を高く飛び回るであろう)という漢詩を書き残したと伝えられている 4。このエピソードは、直之の不屈の精神と、武人らしからぬ詩才という多面性を示している。
奉公構(ほうこうかまい)
直之の出奔と漢詩に激怒した加藤嘉明は、彼に対して「奉公構」という措置を取った 1 。これは、対象者が他の大名に仕官することを禁じるという、武士社会における一種の追放宣告であり、直之のその後の浪人生活に極めて深刻な影響を与えることになった。奉公構は、武士にとって社会的な信用を失墜させ、キャリアを断絶させる厳しい処罰であった。この逆境が、彼の自己顕示欲や一発逆転への渇望をさらに強め、後の大坂の陣での大胆な行動へと繋がっていくことになる。
加藤嘉明による奉公構という厳しい処置は、塙直之の武士としての正規のキャリアに大きな打撃を与えた。しかし、彼はそれに屈することなく、新たな道を模索し続ける。
小早川秀秋への仕官
奉公構の身でありながら、直之はその武勇を評価され、関ヶ原の戦いで大きな役割を果たし、加藤嘉明よりも格上と目されていた小早川秀秋に召し抱えられることになった 1。知行1000石で鉄砲大将の役職を与えられたという 1。大名は常に有能な人材を求めており、秀秋は直之の武名と能力を評価したのだろう。また、奉公構の武将をあえて召し抱えることで、自らの威勢を示すという側面もあったかもしれない。
しかし、この仕官も長くは続かなかった。慶長7年(1602年)、小早川秀秋が若くして死去し、小早川家が改易となったため、直之は再び浪人の身となった 1。
福島正則への仕官
その後、直之は一時、徳川家康の四男である松平忠吉(尾張藩主、関ヶ原の戦いでは井伊直政と共に軍功を挙げた)に仕えたとされる 2。忠吉の死後、今度は「賤ヶ岳の七本槍」の一人として名高い勇将、福島正則に馬廻として召し抱えられ、1000石の知行を得た 1。
しかし、ここでも加藤嘉明の執拗な妨害が立ちはだかる。慶長14年(1609年)の名古屋城築城の際、嘉明が正則に対して直接抗議し、奉公構の遵守を強く迫ったため、福島正則もこれを無視できず、直之は罷免されてしまった 9。この出来事は、奉公構の効力が依然として強力であり、直之が正規の武士として仕官する道がいかに困難であったかを物語っている。これにより、彼は再び安定した地位を失い、より一層厳しい状況に追い込まれた。
主君を転々とした背景
塙直之がこのように主君を転々とした背景には、彼自身の気質に加え、当時の武士を取り巻く社会状況も影響している。戦国時代末期から江戸時代初期にかけては、実力主義が色濃く残る一方で、次第に主従関係の固定化が進む過渡期であった。直之のような牢人の中には、あえて主家を出奔し、自らの能力をより高く評価してくれる新たな仕官先を求める、現代でいう「フリー・エージェント」に近い存在もいた 5 。彼らは、主君との意見の衝突や待遇への不満があれば、主を変えることを厭わなかった。直之もまた、そのような気概を持った武士の一人であったと言えよう。
僧としての生活
度重なる仕官の失敗により、さすがの直之も将来を悲観したのか、あるいは再起の機会を窺うための一時的な潜伏であったのか、京都の妙心寺に身を寄せ、大竜和尚のもとで剃髪して仏門に入り、「鉄牛(てつぎゅう)」と号した 1。
洛中洛外で托鉢を行って糊口をしのいだとされるが、その際にも武士としての矜持を捨てきれなかったのか、刀脇差しを帯びた姿で托鉢を行い、檀家の不興を買ったという逸話も残っている 1。この行動は、彼の型破りで妥協しない性格をよく表している。この僧としての期間は、単なる隠遁生活ではなく、京都という情報が集まる地で、世の動きを注視し、次なる機会を待つための時間であった可能性も否定できない。
流浪の末、僧となっていた塙直之であったが、慶長19年(1614年)に大坂冬の陣が勃発すると、彼の武士としての魂は再び燃え上がった。これが彼の名を後世に刻む最後の、そして最大の舞台となる。
豊臣方への参加経緯
大坂冬の陣が始まると、直之は還俗した。当初は関東方(徳川方)に加わろうと考え、近江路へ向かったが、そこで徳川方の大軍勢を目の当たりにし、「これほどの大軍では、多少の功を挙げても十分な恩賞は期待できない。むしろ、兵力の劣る豊臣方で大功を立てれば、一躍大名になることも夢ではない」と考えを改め、大坂城へ引き返して豊臣方に参加することを決意したという 1。この判断には、彼の強い功名心と一発逆転への渇望が如実に表れている。
大坂城に入った直之は、集まった多くの浪人衆の一人として、大野治房の組に配属された 1。
大坂冬の陣 – 本町橋の夜襲
冬の陣も終盤に差し掛かり、豊臣方と徳川方の間で和議の交渉が進められていた頃、直之は戦功を立てる最後の機会と捉え、志願して夜襲の許可を得た。慶長19年11月17日(一説には12月17日 4)、直之は米田監物ら少数の兵を率いて、大坂城南東の本町橋付近に布陣していた徳川方の蜂須賀至鎮の陣(阿波徳島藩)に夜襲を敢行した 1。
この夜襲において、直之隊は蜂須賀勢の油断を突き、その家臣である中村右近(あるいは中村重勝 4)を討ち取るなどの戦果を挙げた。特筆すべきは、この戦闘における直之の振る舞いである。彼は本町橋の上に床几(しょうぎ)を据えて悠然と腰を下ろし、采配を振るって部隊を指揮した。そして、夜襲が成功し引き上げる際には、「夜討ちの大将 塙団右衛門直之」と大書した木札を戦場にばら撒かせたのである 4。
この大胆不敵な行動とパフォーマンスは、彼の名を敵味方の双方に轟かせ、「夜討ちの塙」あるいは「夜討ちの大将」という異名と共に、後世の講談や軍記物語で彼のイメージを決定づける象徴的な出来事となった。これは、かつて加藤嘉明に「将帥の才なし」と酷評されたことに対する意趣返しであり、自らの将器を天下に誇示しようとする、直之ならではの自己プロデュースであったと言えよう。この木札をばら撒くという行為は、情報伝達手段の限られた当時において、極めて効果的な宣伝方法であり、彼の計算された戦略性と承認欲求の強さが表れている。
大坂夏の陣 – 樫井の戦いと最期
慶長20年(1615年)、和議は破れ、大坂夏の陣が勃発する。直之は豊臣方の部将の一人に任じられ、3000の兵を預かることとなった 4。緒戦となった紀州攻めでは、大野治房の指揮下に入り、和歌山城主浅野長晟(ながあきら)の軍勢と対峙することになる 1。
同年4月29日、豊臣軍は紀州から北上してくる浅野長晟の軍を迎撃するため、和泉国樫井(現在の大阪府泉佐野市樫井)へ進軍した。この樫井の戦いが、塙直之の最後の戦場となる。
直之は一番槍の功名を立てることに逸り、先陣を任されていた岡部大学(おかべだいがく、則綱とも)と功を競い合う形で突出した 1。岡部とは平素から折り合いが悪かったとも言われる。このため、大将である大野治房の本隊や、合流するはずであった和泉国の一揆勢との連携が全く取れないまま、少数の手勢で敵中に深く入り込みすぎてしまった。
対する浅野勢は、経験豊富な亀田市右衛門高綱や上田主水重安らが巧みな遅滞戦術を展開し、直之らを誘引。樫井の地で待ち伏せていた鉄砲隊による一斉射撃を浴びせた 4。
孤立無援となった直之隊は奮戦するも、衆寡敵せず、次々と討ち取られていく。直之自身も、浅野家臣の田子(多胡)助左衛門、亀田大隅、八木新左衛門、あるいは横井平左衛門(上田重安の家臣)らと激しく渡り合い、最後は額に矢を受け落馬したところを組み伏せられ、壮絶な討死を遂げたとされる 7。討ち取った人物については諸説ある。
この時、直之の僚友であった淡輪重政(たんのわしげまさ)は、直之の戦死を目の当たりにすると、憤然と敵中に斬り込み、後を追うように戦死した 7。
一方、総大将である大野治房は、この時、樫井から少し離れた願泉寺で食事を取っており、敗報を聞いて慌てて大坂城へ退却したという 10。
大坂方では、この戦いで生還した岡部大学に対し、勇将塙直之を見殺しにしたという批判が巻き起こり、岡部はこれを恥じて一時切腹を覚悟し、大坂城落城後は名を変えて隠棲したと伝えられている 10。
樫井での直之の死は、彼の性格的特徴である功名心と競争心、そして豊臣方浪人衆にありがちであった連携の稚拙さが複合的に作用した結果と言えるだろう。冬の陣での成功体験が、夏の陣でのさらなる功名心に火をつけ、岡部との競争意識が冷静な判断を曇らせ、突出という戦術的ミスを犯させたのかもしれない。彼の壮絶な最期は、個人の武勇だけでは戦局を覆すことのできない集団戦の厳しさと、戦国武将の生き様の一つの典型を我々に示している。
塙直之は、その波乱に満ちた生涯と数々の逸話から、極めて個性的で多面的な人物像が浮かび上がってくる。
性格的特徴の多面性
武勇と戦術家としての評価
塙直之の個人の武勇は非常に高かったと評価できる。しかし、大局的な戦術眼や軍勢を率いる将帥としての統率力については、疑問符が付く面もある。かつての主君加藤嘉明が下した「将帥の職を勤め得べからず」という評価 10 や、樫井の戦いにおける突出した挙句の敗死は、その傍証と言えるかもしれない。
一方で、大坂冬の陣における本町橋の夜襲では、少数の兵を率いて効果的な奇襲を成功させており、局地戦における指揮能力や戦術的センスは高かったとも評価できる 4。
彼の戦術は、集団を統率して勝利に導くというよりも、自らの武勇と名を最大限に戦場でアピールすることに特化していたのではないだろうか。組織的な戦闘が重視される時代において、それは時に命取りになる両刃の剣であったが、彼自身は集団を率いる「大将」としての資質よりも、戦場で華々しく輝く「一番星」であることを目指した武士であったのかもしれない。
関連人物との関係性
家族
塙直之の家族に関する記録は乏しい。
妻については、可部屋桜井(かべやさくらい)氏であったとされている 10。一部資料 21 に「黒川円允の娘」との記述が見られるが、これは塙姓の別の人物に関する情報か、あるいは情報が錯綜している可能性も考えられるため、ここでは可部屋桜井氏説を主とする。
子については、桜井平兵衛直胤(さくらいへいべえなおたね)という人物がいたという伝承がある 10。また、山県昌景の子である山県昌重が「塙直之の附家老、大坂夏の陣で戦死」したという記録もあり 22、直之に実子がいなかったか、あるいは昌重が直之の娘婿であった可能性なども考えられるが、直之自身の直接の子に関する確かな情報は少ない。
兄弟の有無については、明確な記述は見当たらない 6。
家族に関する情報が少ないのは、彼が主家を転々とし、最終的に大坂の陣で豊臣方として敗死したという不安定な生涯を送ったことを反映しているのかもしれない。戦乱の世にあって、特に敗軍の将となった者の家族に関する記録は散逸しやすい傾向にある。
塙直之の生涯や人物像は、同時代の記録や後世の軍記物、さらには創作物を通じて、様々に語り継がれてきた。
関連史料における記述と史料的価値
これらの史料に見られる記述の差異は、塙直之の生涯が単純なものではなく、多角的な解釈を許すものであったこと、そして後世の語り手がそれぞれの視点や意図をもって彼を描こうとしたことを示唆している。史料批判を通じて、より実像に近い姿を浮かび上がらせる努力が求められる。
墓所(大阪府泉佐野市南中樫井)
塙直之の墓は、彼が最期を遂げた大坂夏の陣・樫井の戦いの戦没地に建立されている。同じくこの戦いで戦死した僚友・淡輪重政の墓と隣接して存在している 10。
墓を建立したのは、紀州藩士の小笠原作右衛門という人物である。直之の17回忌にあたる元和17年(寛永8年、1631年または1632年)に、その武勇を讃えて建てられたと伝えられている 5。現在の墓は、石柵に囲まれた中に高さ約2メートルの五輪石塔が安置されている 26。
特筆すべきは、紀州藩は樫井の戦いで直之と敵対した浅野長晟が藩主を務めていた藩であり、その家臣である小笠原氏が、敵方であった豊臣方の武将である直之の墓を建立したという事実である。これは、直之の武勇が敵味方の垣根を越えて高く評価されていた証左である可能性や、あるいは小笠原個人と直之、もしくはその関係者との間に何らかの知られざる交流や縁があった可能性を示唆しており、戦国武士の価値観や人間関係の複雑さを垣間見せる興味深いエピソードである。
可部屋集成館(島根県奥出雲町)所蔵の甲冑・旗差物
島根県奥出雲町にある可部屋集成館には、「塙団右衛門」が所用したとされる甲冑一領と数本の旗差物が所蔵されていると伝えられている 10 。これらの遺品は、直之の武将としての姿を具体的に伝える貴重なものであるが、その詳細な由来や写真については、現時点での調査資料からは確認できなかった。
講談や創作物における塙直之像
塙直之の波乱に満ちた生涯と強烈な個性は、江戸時代以降の講談や軍記物語、さらには近代の歴史小説において格好の題材となった。
特に、大坂冬の陣における本町橋の夜襲と「夜討ちの大将」の異名、そして夏の陣・樫井の戦いでの勇猛な最期は、彼の英雄的イメージを決定づけるエピソードとして繰り返し語られている 10。
また、江戸時代後期の文久2年(1862年)に麻疹(はしか)が流行した際には、『痳疹まじなひの弁』と題された錦絵(はしか絵)が版行された。この錦絵には、「鉄牛」と名乗る勇猛無双の武士(直之の出家後の号)が麻疹の疫神を退治する姿が描かれ、「立春大吉鉄牛和尚宿」と書いた札を門口に貼れば麻疹にかからないという俗信と共に、庶民の間で広く受容された 10。これは、直之が単なる武将としてだけでなく、厄災から人々を守る英雄的な存在としても認識されていたことを示している。
近代においては、歴史小説家の司馬遼太郎が短編小説『言い触らし団右衛門』の中で、直之を自己宣伝に長けたユニークな人物として描き出し、その生き様が現代社会にも通じるものとして再評価されるきっかけを作った 11。作中で語られる「さむらいとは、自分の命をモトデに名を売る稼業じゃ。名さえ売れれば、命のモトデがたとえ無うなっても、存分にそろばんが合う」という言葉は、直之の生涯を象徴するものとして引用されることが多い。
塙直之の史実における行動自体が非常にドラマチックであり、自己顕示的な側面が強かったため、講談や創作物で脚色されやすく、また庶民に受け入れられやすいキャラクターとして定着したと言える。彼が生涯を通じて追い求めた「名を売る」という意志は、皮肉にも死後、これらの創作物を通じて見事に達成されたと言えるのかもしれない。
歴史研究における評価とその変遷
塙直之に関する学術的な歴史研究の評価の変遷については、提供された資料からは詳細を把握することは難しい 34 。田村紘一氏による「塙団右衛門直之の子孫」といった個別の研究は存在するものの 35 、彼の人物像や事績に関する総合的な歴史的評価がどのように変遷してきたかを追うには、さらなる専門的な調査が必要となるであろう。一般的には、講談や小説などで形成された人物像が先行し、実証的な歴史研究がそれにどのようにアプローチし、史実と創作の境界を明らかにしてきたかという点が、今後の研究課題の一つと言える。
塙直之の生涯は、出自の謎に始まり、加藤嘉明との確執による奉公構、流浪の生活、そして大坂の陣という最後の檜舞台での華々しい活躍と壮絶な最期に至るまで、まさに波乱万丈という言葉がふさわしいものであった。彼の行動の根底には、一貫して自らの「名を上げること」への強い執着が見て取れる。
彼の生き様は、戦国乱世から江戸初期へと移行する時代の過渡期における、武士の一つの典型を示している。旧来の主従観に必ずしも囚われず、自らの才覚と武勇を頼りに立身出世を目指したその姿は、忠義や滅私奉公といった従来の武士道とは異なる、より個人的で実利を追求する側面を浮き彫りにする。彼は、安定した仕官よりも、自らの能力を最大限に発揮し、評価される場を求めて主君を転々とした。その意味で、彼は時代の変化が生んだ「新しいタイプ」の武士であったと言えるかもしれない。
塙直之が後世に語り継がれる理由は、その波乱に満ちた生涯と、自己顕示欲の強さから生まれた数々の派手な逸話が、講談や創作の格好の題材となった点にある。特に「夜討ちの大将」というキャッチーな異名と、本町橋での木札をばら撒くというパフォーマンスは、人々の記憶に強く残りやすいものであった。彼の死に様もまた、悲劇的な英雄として語られるに足るものであった。
最終的に、塙直之は単なる勇猛な武将というだけでなく、自己の存在証明を「名を残すこと」に求め続けた、極めて人間臭い人物であったと結論付けられる。彼の生き様は、戦国という時代のダイナミズムと、そこに生きた個人の野心、葛藤、そして矜持を鮮やかに映し出している。その強烈な個性とドラマチックな生涯ゆえに、史実と伝説が混ざり合いながらも、彼は今日まで多くの人々に記憶され、語り継がれる存在となったのである。