最終更新日 2025-07-10

塙直政

塙直政 ― 栄光と悲劇に彩られた織田政権の方面軍司令官

序論:忘れられた信長の重臣、塙直政

織田信長の家臣団には、羽柴秀吉、明智光秀、柴田勝家といった綺羅星の如き武将たちが名を連ねる。しかし、その中にあって、一時は彼らを凌ぐほどの勢威を誇りながらも、現代ではその名を知る者が少ない人物がいる。その筆頭こそ、本報告書が主題とする塙直政(ばん なおまさ)である 1 。彼は信長の親衛隊から身を起こし、畿内の中枢を担う方面軍司令官にまで上り詰めたが、石山本願寺との激戦の最中に命を落とし、その死は一族の没落へと直結した。

彼の生涯を追う上で、まず確定すべきはその呼称である。名字の読みについては、『寛政重修諸家譜』などの後世の編纂物では「はなわ」と訓が振られているが、同時代の一次史料に目を転じると異なる側面が見えてくる 2 。興福寺の僧侶による日記『多聞院日記』では「ハン」と記され、公家・山科言継の『言継卿記』では「伴」という当て字が用いられている 2 。これらの史料的価値から、歴史学者の谷口克広らが指摘するように、その読みは「ばん」であったと考えるのが最も妥当である 1

また、諱(いみな)についても「正勝(まさかつ)」や「重友(しげとも)」といった名が伝わるが、古文書や花押から確実に確認できるのは「正勝」と、本報告書で主として用いる「直政」である 2 。通称は九郎左衛門と称した 4 。このように、彼の基本的な情報である名前にすら複数の説が存在し、確定を見ていないという事実そのものが、彼の記録が後世に十分に伝わらなかった状況を象徴している。それは、彼の悲劇的なキャリアの結末が、一族の歴史を正しく後世に伝える主体そのものを失わせた直接的な結果であると解釈できるのである 1

本報告書では、これらの基礎的な考証を踏まえつつ、塙直政の出自から、織田家臣団内での栄達、武将として、また行政官僚としての活躍、そして方面軍司令官としての絶頂期、さらには石山合戦における悲劇的な最期と一族の流転までを、現存する史料に基づき時系列に沿って詳述する。その栄光と悲劇の生涯を丹念に追うことで、信長政権の持つ急進性と苛烈さ、そして歴史の表舞台から消えていった一人の武将の実像を立体的に描き出すことを目的とする。

第一章:出自と黎明期 ― 尾張の一領主から信長の赤母衣衆へ

塙直政の立身出世の背景には、彼自身の能力はもとより、その出自と信長との間に結ばれた二重の絆が大きく影響していた。尾張の一在地領主から、信長の側近中の側近へと駆け上がった彼の黎明期は、信長が自身の権力基盤をいかにして築き上げていったかを映す鏡でもある。

第一節:塙氏の系譜と尾張における基盤

後世に編纂された系図によれば、塙氏は平姓を称し、その祖先は常陸国塙村(はなわむら)に居住していたとされる 2 。その後、康安年間(1361年~1362年)に斯波氏に属して尾張国へ移り、春日井郡山田荘の大野木・能野といった地に根を下ろしたという 2 。直政の父とされる塙右近大夫の代には、同郡の比良村(ひらむら、現在の名古屋市西区比良)の出身で、大野木城(同区大野木)を拠点とする在地領主であった 1 。この大野木城は、永正年間(1504年~1521年)に父・右近によって築かれたと伝えられている 7 。すなわち、直政は織田信長と同じ尾張国に生まれ育った、地域に根差した武士であった。

第二節:信長との二重の絆 ― 姻戚関係と主従関係

直政が信長の家臣団の中で急速に頭角を現した要因の一つに、信長との極めて近い個人的関係が挙げられる。直政の妹は、俗名を直子、法名を明鏡院智勝尼といい、信長の側室となって、後に信長の庶長子とされる織田信正を産んでいる 2 。これにより、塙氏は尾張の有力商人から信長の義父となった生駒家宗の生駒氏などと同様に、信長の姻族という特別な地位を得た 2 。この血縁を通じた結びつきは、主従関係という枠組みを超えた強固な信頼の土台となり、直政が信長の側近として重用される上で、計り知れないほど有利に働いたことは想像に難くない 11

第三節:若き日の武功と赤母衣衆への抜擢

しかし、直政の出世は単なる縁故によるものではなかった。彼は信長の直属親衛隊である馬廻(うままわり)としてキャリアを開始すると、戦場において確かな武功を挙げることで、その実力を証明していく 2

信長が弟・信勝(信行)と家督を争った弘治2年(1556年)8月の稲生の戦い、そして織田信安ら岩倉織田氏との間で繰り広げられた永禄元年(1558年)の浮野の戦いにおいて、直政は軍功を挙げた 2 。さらに、永禄3年(1560年)、信長の名を天下に轟かせた桶狭間の戦いにおいても、若干の首級を挙げる働きを見せている 2

これらの戦功が認められ、直政は永禄年間に信長のエリート親衛隊である「赤母衣衆(あかほろしゅう)」の一員に抜擢される 2 。母衣衆は、戦場において大将の背後で母衣(ほろ)を背負い、敵の矢を防ぐとともに、その目立つ姿で大将の存在を示す、まさに「走る旗印」であった。同時に、彼らは信長の命令を前線に伝える伝令や、諸将の働きを監視する監察官(目付)といった極めて重要な任務を担う、側近中の側近集団であった 13 。赤母衣衆には前田利家や佐々成政といった、後に織田軍団の中核を担う面々が名を連ねており、ここに選ばれたことは、直政が単なる一兵卒ではなく、将来の幹部候補生として信長から大きな期待を寄せられていたことを明確に示している。

直政のこうした初期のキャリアは、信長の権力基盤強化策と密接に連動している。信長は尾張統一の過程で、父・信秀以来の譜代の重臣たちとしばしば対立した経験から、旧来の門閥に囚われない人事政策を推し進めた 14 。彼は、生駒氏や塙氏のような新興の在地領主や、姻戚関係にある者を積極的に登用し、自身の意のままに動く直轄戦力(馬廻、母衣衆)を強化していったのである。直政は、姻戚関係という「信頼性」と、戦場での「実用性」を兼ね備えた、若き信長にとってまさに理想的な人材であった。彼の抜擢は、信長が自身の権力基盤をいかにして築き上げたかを物語る典型的な事例と言えよう。

第二章:信長の信頼を勝ち得た吏僚として

塙直政の非凡さは、戦場における武勇だけに留まらなかった。永禄11年(1568年)に信長が足利義昭を奉じて上洛し、その支配領域が尾張・美濃から畿内へと拡大すると、直政は武人としてだけでなく、優れた行政官僚(吏僚)としての才能を開花させる。彼のキャリアにおけるこの転換は、信長が求める家臣像が、単なる戦闘員から、軍事と統治の両面をこなせる複合的な能力を持つ人材へと変化していったことを示している。

第一節:武人から行政官僚へ ― 畿内での政務

信長の上洛以降、直政の名は合戦の記録よりも、むしろ行政文書の中に頻繁に現れるようになる 1 。彼は畿内の政務を担当する吏僚の一人として、織田政権の統治機構の一翼を担った。具体的には、着岸する船に対して指示を与える文書や、寺社領の所有権(安堵)や没収に関する処分を伝える文書を発給しており、彼の高い事務処理能力と、信長から広範な権限を委ねられていたことがうかがえる 1 。こうした吏僚としての経験は、彼が後に一国の統治を任されるための重要な布石となった。

第二節:蘭奢待切り取り奉行という大役

直政が信長から寄せられていた信頼の厚さを最も象徴的に示す出来事が、天正2年(1574年)3月の蘭奢待(らんじゃたい)切り取りにおける奉行就任である。

蘭奢待とは、奈良・東大寺の正倉院に収蔵されている天下第一の名香と謳われる香木である 16 。その名は、「蘭」の字に「東」、「奢」に「大」、「待」に「寺」の文字が隠されている雅称であり、歴代の権力者ですら容易に手にすることができない、まさに天皇を中心とする伝統的権威の象徴であった 16 。信長がこれを切り取るという行為は、自らの権威が旧来の権威を凌駕したことを天下に示す、極めて政治的なパフォーマンスであった。

この歴史的な一大事業において、直政は奉行(監督役・実行責任者)の一人として、柴田勝家、丹羽長秀、佐久間信盛、荒木村重、菅屋長頼といった、織田家中の宿老・重臣たちと肩を並べて任命された 11 。赤母衣衆出身の武将が、織田家を代表する最高幹部と並んでこの大役を担ったことは、彼が家中で確固たる地位を築いていたことを雄弁に物語っている。

さらに注目すべきは、この儀式が執り行われた場所である。信長は自ら東大寺正倉院に赴くことはせず、蘭奢待を宝庫から運び出させ、当時、直政が城主を務めていた大和国の多聞山城(たもんやまじょう)でこれを切り取らせた 19 。この事実は、直政の役割が単なる奉行の一人ではなかったことを示唆している。信長は、朝廷や寺社といった伝統的権威の象徴である蘭奢待を、自らの新興勢力の代表である直政の居城で切り取るという演出を通じて、「旧時代の権威は、我が配下(直政)の支配する地へ呼びつけ、我が意のままになる」という強烈な政治的メッセージを発信したのである。つまり、塙直政は、この壮大な政治劇における重要な舞台装置そのものであり、信長の新しい支配体制を体現する存在として、内外に強く印象付けられたのであった。


表1:塙直政 年表

年代(西暦)

主要な出来事

備考・典拠

生年不詳

尾張国春日井郡比良村にて誕生

父は塙右近大夫 2

弘治2年(1556)

稲生の戦いに参陣し、軍功を挙げる

信長の馬廻として活躍 2

永禄元年(1558)

浮野の戦いに参陣し、軍功を挙げる

2

永禄3年(1560)

桶狭間の戦いに参陣し、首級を挙げる

2

永禄年間(-1570)

赤母衣衆に抜擢される

信長のエリート親衛隊の一員となる 2

永禄11年(1568)

信長の上洛に従い、畿内政務を担当

吏僚としてのキャリアを開始 1

天正元年(1573)

山城国・槇島城主となる

足利義昭追放後、南山城の支配を任される 2

天正2年(1574)

蘭奢待切り取りの奉行を務める

居城の多聞山城にて儀式を執り行う 11

天正3年(1575)3月

大和守護に任命され、多聞山城主を兼務

筒井順慶、松永久秀らを与力とする 21

天正3年(1575)5月

長篠の戦いに参陣

鉄砲奉行の一人として鉄砲隊を指揮 6

天正3年(1575)7月

「原田」姓を下賜され、備中守に任官

「原田備中守直政」と称す。明智・丹羽らと同格の重臣となる 2

天正3年(1575)8月

越前一向一揆討伐に参陣

4

天正4年(1576)5月3日

石山合戦(天王寺の戦い)にて戦死

摂津国三津寺にて、本願寺勢の攻撃を受け一族と共に討死 2

天正4年(1576)5月以降

一族が没落

敗戦の責任を問われ、信長の怒りを買う 1


第三章:南山城・大和守護 ― 方面軍司令官としての栄光

吏僚としての実績と信長の厚い信任を背景に、塙直政の地位は飛躍的に向上していく。彼はついに、畿内の中枢である南山城と大和国を束ねる方面軍司令官へと昇り詰め、その栄光は頂点に達する。この抜擢は、直政個人の栄達であると同時に、織田信長が構想した新たな領国支配体制「方面軍団制」の初期モデルであり、織田政権の統治戦略を理解する上で極めて重要な意味を持つ。

第一節:畿内中枢の支配者へ

天正元年(1573年)、信長が対立した室町幕府第15代将軍・足利義昭を京都から追放すると、その直後、直政は義昭が籠城した南山城の槇島城主に任命された 2 。これは、反信長勢力の温床となりかねない京周辺の要衝を、最も信頼する側近に委ねたことを意味する。さらに、直政は松永久秀が築いた大和国の名城・多聞山城の城主も兼務することになり、京と奈良を結ぶ政治・軍事の要衝を一手におさえることになった 21

そして天正3年(1575年)3月、直政は正式に大和守護に任命される 21 。信長直属の馬廻・母衣衆出身の武将が、方面軍司令官として一国の守護にまで上り詰めたのは、これが初めての事例であった 21 。彼の出世は、まさに織田家臣団における「下剋上」を体現するものであり、その異例の抜擢は、家中の誰もが目を見張るものであっただろう。

第二節:織田政権の畿内統治構造

直政が大和守護として構築した支配体制は、信長の先進的な統治構想を色濃く反映している。彼の支配下には、大和国に深く根を張る有力国人である筒井順慶や、かつては信長と敵対した梟雄・松永久秀までもが、与力(配下武将)として組み込まれた 21

これは、信長が畿内という重要地域において、譜代の重臣を送り込むのではなく、自らが抜擢した腹心の将(直政)を司令官とし、その下に既存の在地勢力を再編・統合するという、新しい形の支配システムを構築しようとしていたことを示唆している 27 。このシステムは、方面軍司令官に大幅な裁量権を与えつつ、現地の複雑な利害関係を巧みに利用して統治の安定化を図るものであり、後の織田政権の全国展開における統治モデルの原型となった。直政の南畿内方面軍は、後の柴田勝家が率いる北陸方面軍、明智光秀の丹波方面軍、羽柴秀吉の中国方面軍などに先駆けて形成された、まさに方面軍団制のプロトタイプ(試作型)だったのである。

第三節:「原田」姓下賜と重臣への仲間入り

直政の栄光を決定的なものにしたのが、天正3年(1575年)7月の賜姓任官であった。信長は朝廷に奏請し、直政に九州の名族である「原田」の姓と、「備中守(びっちゅうのかみ)」の受領名を下賜させた 1 。これ以降、彼は公式に「原田備中守直政」と名乗ることになる。

特筆すべきは、この賜姓任官が直政単独で行われたものではないという点である。同じ日、明智光秀は「惟任(これとう)」姓と日向守、丹羽長秀は「惟住(これずみ)」姓と長秀の名を賜っている 11 。これは、塙直政が、織田家中で柴田勝家に次ぐ地位にあった丹羽長秀や、急速に台頭していた明智光秀と、完全に同格の重臣として公に認められたことを意味していた 24 。尾張の一領主の子として生まれた男が、信長の天下布武事業の中核を担う最高幹部の一員として、その名を天下に示した瞬間であった。

第四章:天王寺の悲劇 ― 石山合戦における最期

栄華を極めた塙直政であったが、その運命は絶頂期からわずか1年足らずで暗転する。彼の命運を尽きさせたのは、織田信長が生涯で最も長く、そして最も苦しめられた敵、石山本願寺であった。天王寺の地で繰り広げられた激戦は、直政の生涯に悲劇的な幕を下ろすとともに、織田軍に宗教勢力との戦争の恐ろしさを骨の髄まで知らしめることとなる。

第一節:石山本願寺包囲網

天正4年(1576年)、信長は各地の反抗勢力を次々と平定し、満を持して石山本願寺との全面対決に乗り出した。本願寺は、上町台地の先端に位置する天然の要害であり、全国に広がる門徒たちの宗教的情熱と経済力を背景に、織田政権にとって最大の障害となっていた 28

この本願寺を包囲するため、信長は大規模な軍を動員した。方面軍司令官である塙直政は、明智光秀、荒木村重らと共にその中核を担い、本願寺の南方に位置する軍事上の最重要拠点・天王寺砦に入った 29 。彼の任務は、本願寺を南から圧迫し、その兵站線を断つことであった。

第二節:三津寺攻撃と戦闘の経過

信長は、本願寺が紀伊国の雑賀衆や西国の毛利氏から海上を通じて兵糧や弾薬の補給を受けていることを問題視した。そこで、この海上補給路を遮断すべく、大坂湾に通じる木津の砦を攻略するよう直政に命じた 29

この命令を受け、直政は和泉・根来・山城・大和の兵を率い、三好康長を先鋒として、本願寺の出城の一つである三津寺(みつでら、現在の大阪市中央区心斎橋周辺)の砦へ攻撃を開始した 2 。しかし、そこで彼らを待ち受けていたのは、織田方の想定をはるかに超える本願寺勢の強固な抵抗であった。本願寺側は1万を超える大軍を動員し、数千丁ともいわれる鉄砲を狭い地域に集中配備して、織田軍を迎え撃ったのである 33

第三節:敗因と壮絶な最期

『信長公記』の記述によれば、直政は敵の兵力と火力を侮っていたとされる 33 。長篠の戦いで武田の騎馬軍団を鉄砲で粉砕した織田軍の自信が、逆に油断を生んだのかもしれない。

戦闘が始まると、本願寺勢の猛烈な鉄砲射撃の前に、先鋒の三好康長隊はたちまち崩壊し、敗走した 25 。後続の直政隊は踏みとどまって奮戦するも、本願寺西方の楼岸砦から出撃してきた増援部隊に側面と背後を突かれ、逆包囲される形となった 33

混乱の中、直政は討死を遂げた。天正4年5月3日、享年は不明である。この戦いでは、直政だけでなく、彼の弟とされる塙小七郎、叔父とされる塙安弘ら、一族の主だった者たちも共に命を落としたと伝えられており、塙一族にとってまさに壊滅的な敗北であった 2

直政の敗北は、単なる個人的な油断や戦術ミスに起因するものではない。それは、織田軍全体が、これまで経験してきた武士同士の合戦とは全く異なる、「宗教勢力との戦争」の特異性と困難さに対する認識が甘かったことの現れであった。石山本願寺は、単なる城砦ではなく、宗教的情熱によって強固に結束した門徒たちの共同体であり、雑賀衆のような傭兵的性格の強いプロの鉄砲集団を擁する、高度な軍事組織でもあった 34 。直政の死は、信長にこの新しいタイプの戦争の恐ろしさを痛感させた、最初の大きな犠牲であった。この手痛い経験こそが、後の信長による一向一揆に対する根切り(殲滅戦)や、毛利水軍に対抗するための九鬼嘉隆による鉄甲船の開発といった、より徹底的で革新的な戦術への転換を促す契機となったのである。

第五章:死後の評価と一族の行方

塙直政の戦死は、一人の有能な司令官を失ったというだけに留まらず、織田軍全体に大きな衝撃を与え、彼の率いた一族の運命を奈落の底へと突き落とした。信長の苛烈な対応と、それに続く時代の変化の中で、塙一族は歴史の表舞台から姿を消していく。その流転の様は、信長政権の持つ厳格な実力主義の光と影を浮き彫りにしている。

第一節:信長の怒りと一族の没落

直政の部隊が壊滅したことにより、本願寺勢は勢いに乗って天王寺砦に殺到した。砦を守っていた明智光秀や佐久間信栄らは瞬く間に包囲され、絶体絶命の窮地に陥った 24 。報告を受けた信長は、京都から僅かな手勢を引き連れて自ら救援に駆けつけ、足に鉄砲傷を負いながらも陣頭指揮を執って敵を撃退するという、まさに危機一髪の状況であった 29

信長は、この敗戦と、自らを危険に晒した責任を、死んだ直政とその一族に厳しく問い質した。信長は直政の腹心らを罪人として捕縛するなど、戦死した将の一族に対しては異例ともいえる過酷な措置を取ったのである 1 。さらに、直政の後任として大和の新支配者となった筒井順慶も、旧主である塙一族の残党に厳しい対応を取り、その所領を没収した 1 。これにより、栄華を誇った塙家は後継者を失い、事実上、歴史からその姿を消すことになった。

この直政一族への過酷な処遇は、信長政権における「失敗の非寛容性」と、見せしめによる組織統制の現れであった。直政の後任として本願寺攻めの総司令官となった佐久間信盛は、直政が積極的に攻めて失敗したのを見て、今度は徹底した籠城策、すなわち消極策に転じた 40 。これは、直政への処遇が、他の家臣に対する「無謀な戦いを仕掛けて失敗すればこうなる」という強烈な警告として機能したことを示している。信長は、方面軍司令官という大きな権限を与える一方で、結果責任を極めて厳しく問うことで、巨大化する家臣団を統制しようとした。直政の悲劇は、この信長流マネジメントの冷徹な合理性の犠牲となった側面を持っていたのである。


表2:織田家中の主要方面軍司令官との比較

氏名

出自

主要任務・担当方面

最高位・官位

信長からの処遇

最終的な結末

塙(原田)直政

尾張在地領主(新参)

南山城・大和方面軍

大和守護、備中守

蘭奢待奉行、原田姓下賜など厚遇されるも、敗戦により一族が断罪される

天正4年、石山合戦で戦死 2

佐久間信盛

尾張譜代家老

畿内(対本願寺)方面軍

織田家筆頭家老、右衛門尉

長年の功績で重用されるが、戦功の無さを理由に19ヶ条の折檻状を突きつけられ追放

天正10年、高野山にて病死 40

明智光秀

美濃斎藤家臣(外様)

丹波・近江方面軍

日向守、惟任姓

畿内統治、方面軍司令官として重用されるが、信長の叱責を度々受ける

天正10年、本能寺の変を起こし、山崎の戦いで敗死 24

柴田勝家

尾張譜代家老

北陸方面軍

織田家宿老、修理亮

筆頭家老に次ぐ地位で重用され、北陸平定を任される

天正11年、賤ヶ岳の戦いで秀吉に敗れ自害 14


第二節:息子・安友の転身 ― 武士から医師へ

父の悲劇的な死と一族の没落を目の当たりにした直政の子・塙安友(やすとも)は、波乱の人生を歩むこととなる。彼は父の死後、一時、佐々成政や豊臣秀吉に仕えた後、武士としての道を捨て、江戸で小児科医になったと伝えられている 8 。諱を宗悦(そうえつ)と改めた安友は、父の旧領・大野木村の屋敷跡に福昌寺を建立したともいう 6

彼のこの転身は、個人的な決断であると同時に、戦国乱世が終わり、泰平の世へと向かう時代の大きな転換を象徴している。武力によって身を立て、そして武力によって滅びた父の姿は、安友に武士という生き方の儚さを教えたのかもしれない。彼が選んだのは、剣ではなく知識と医術によって人の命を救い、身を立てるという新しい生き方であった。

第三節:塙団右衛門との関係

戦国末期、大坂の陣において「夜討ちの大将 塙団右衛門」と自ら名乗りを上げ、その豪勇と奇行で名を馳せた塙団右衛門(直之)は、直政の一族出身とする説が根強く存在する 3 。両者の直接的な系譜関係を証明する確たる史料はないものの、直政の旧領・大野木城跡に建つ福昌寺の墓地には、団右衛門の生母の墓があると伝えられており、両者が同族であった可能性は極めて高い 6 。もしそうであるならば、団右衛門の豊臣方への加担は、かつて信長によって没落させられた一族の再興を賭けた戦いであったという、ドラマチックな解釈も可能となる。

第四節:墓所と伝承

塙直政の尾張国における本拠地であった大野木城は、現在、曹洞宗の寺院・福昌寺(名古屋市西区大野木)となっている 6 。この寺の境内が城跡であり、直政の墓所もここにあるとされている 2 。彼に与えられた戒名は「前備州太守従五位下大玄全功禅定門」と伝わり、かつて備中守として大和一国を治めた彼の栄光の日々を静かに今に伝えている 2

結論:塙直政の歴史的再評価

塙直政の生涯は、織田信長という巨大な恒星の引力に捉えられ、目映い光を放ちながら駆け巡り、そして燃え尽きていった惑星の軌跡に似ている。彼は尾張の一領主から身を起こし、信長の姻族という強みを活かしつつも、戦場での武功と統治者としての非凡な能力によってその信頼を勝ち得た。赤母衣衆への抜擢、蘭奢待奉行という大役、そして方面軍司令官への昇進という彼のキャリアは、信長政権の持つダイナミックな人事登用と、身分に囚われない実力主義をまさに象徴するものであった 1

しかし、その栄光は常に死と隣り合わせの危険を伴っていた。彼の生涯は、信長の下で与えられる千載一遇のチャンスと、それに伴う極めて高いリスクを同時に示している。天王寺での悲劇的な戦死と、それに続く一族の没落は、信長政権の非情なまでの結果責任主義と、巨大化する組織を統制するための苛烈な規律の現れであった。

彼の功績が現代に十分に伝わっていない理由は、複合的である。第一に、石山合戦という天下の趨勢を左右する戦いの中で、志半ばにして命を落としたこと。第二に、その敗戦の責任を問われ、信長の怒りによって一族が断罪され、家が事実上断絶してしまったこと。そして第三に、家の断絶に伴い、その功績を後世に伝えるべき公式な記録や家伝が散逸してしまったことである 1

塙直政のような、歴史の表舞台から消えていった人物の生涯を丹念に追跡することは、勝者の視点から描かれた歴史だけでは見えてこない、戦国という時代の多面的な様相と、そこに生きた人々のリアルな姿を理解する上で、極めて重要な意義を持つ。彼の栄光と悲劇に彩られた生涯は、織田信長という人物の革新性と冷徹さ、そして彼が築こうとした政権の本質を、より深く我々に示してくれるのである。

引用文献

  1. 「塙直政(原田直政)」出世したのに!苗字すら正しく読んでもらえない? | 戦国ヒストリー https://sengoku-his.com/725
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  3. 塙直政 (ばん なおまさ) | げむおた街道をゆく https://ameblo.jp/tetu522/entry-12033284842.html
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  5. 塙直政- 维基百科,自由的百科全书 https://zh.wikipedia.org/zh-cn/%E5%A1%99%E7%9B%B4%E6%94%BF
  6. 名古屋市西区大野木城址は織田信長に仕えた原田直政(塙直政)の居城跡 https://sengokushiseki.com/?p=9352
  7. 【C-AC138】大野木城跡 https://www.his-trip.info/siseki/entry899.html
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