壬生綱雄は下野国の戦国武将。父・綱房の築いた権勢を継ぎ、後北条氏に接近して独立を図るも、叔父・周長との対立や小田原征伐により壬生氏は滅亡した。
日本の戦国時代、下野国(現在の栃木県)にその名を刻んだ武将、壬生綱雄(みぶ つなたけ)。彼の生涯は、一般に「主家である宇都宮氏からの独立を画策し、関東の覇者・後北条氏に接近したため、宇都宮方に与する叔父・周良(しゅうりょう、周長とも)によって鹿沼城に誘き出され、非業の死を遂げた悲劇の武将」として語られることが多い 1 。この劇的な逸話は、裏切りと復讐が渦巻く戦国乱世の縮図として、後世の人々の興味を惹きつけてきた。
しかし、この広く知られた綱雄像は、果たして歴史的な事実を正確に反映したものなのであろうか。現存する史料を丹念に紐解くと、彼の死をめぐっては、この暗殺説とは全く異なる説が存在することが浮かび上がってくる 2 。さらに、彼と対立したとされる叔父・周長の出自や立場にも不明な点が多く、一族内の対立の構図も単純なものではなかった可能性が示唆される。
本報告書は、この「壬生綱雄」という人物について、伝承の域に留まらない徹底的な調査に基づき、その実像に迫ることを目的とする。彼の生涯は、父・壬生綱房が一代で築き上げた「下克上」の遺産をいかに守るかという重圧、そして宇都宮氏と後北条氏という二大勢力の狭間で翻弄された、戦国期北関東の地域領主が抱えた苦悩そのものであった。綱雄の死をめぐる謎の解明を通じて、伝承の裏に隠された一族相克の真実と、時代の奔流に抗った一人の武将の生涯を多角的に検証していく。
壬生綱雄の生涯を理解するためには、まず彼が属した壬生氏そのものの成り立ちと、父・綱房がいかにして下野国に一大勢力を築き上げたのかを把握する必要がある。壬生氏の出自には複数の説が存在し、その背景には戦国武家としての権威を確立しようとする政治的な意図が見え隠れする。
下野壬生氏の起源については、主に三つの説が伝えられており、いずれも確証を得るには至っていない。
第一に、京都の公家を祖とする説である。これは、京都の下級公家であった小槻(おつき)氏の後裔である壬生胤業(たねなり)が、武芸を好み諸国を遍歴した末、寛正三年(1462年)に下野国都賀郡壬生に下向し、武家としての壬生氏を興したとするものである 4 。この説は、壬生氏が江戸時代以前に滅亡し、良質な史料が乏しい中で、最も伝統的に語られてきた家伝である 7 。
第二に、下野国の名族・宇都宮氏の支流とする説である。これは近年の研究で有力視されているもので、壬生氏は宇都宮氏の一族である横田氏の出身ではないかとされる 5 。この説は、壬生氏がその勃興期において宇都宮氏の重臣として活動していた事実と整合性が高く、より現実的な出自と考えられる。
第三に、古代氏族の後裔とする説である。これは、平安時代に天台宗の基礎を固めた高僧・慈覚大師円仁(じかくだいしえんにん)を生んだ、古代の壬生氏の後裔であるとするものである 6 。
これら複数の出自説が並立していること自体が、壬生氏の置かれた政治的立場を物語っている。戦国時代において、新興の武家が自らの正統性と権威を高めるために、より由緒ある家系に自らを結びつけることは常套手段であった。特に、後述する綱雄の父・綱房が主家である宇都宮氏を凌駕するほどの権勢を誇った時代には、主家とは異なる権威の源泉として、京都の公家(小槻氏)に系譜を繋げることが、その独立性を内外に示す上で極めて有効であったと考えられる 8 。壬生氏の系譜問題は、単なる記録の混乱ではなく、彼らの政治的野心と自己認識の変遷を映し出す鏡と言えよう。
壬生綱雄の生涯に最も大きな影響を与えた人物は、間違いなく父の壬生綱房(つなふさ、1479-1555)である。綱房は、権謀術数の限りを尽くして主家を乗っ取り、下野国に覇を唱えた、まさに「下克上」の体現者であった。
綱房は、宇都宮氏の家老・壬生綱重の子として生まれ、当初は主君・宇都宮成綱から「綱」の一字を与えられるなど、有力な家臣の一人に過ぎなかった 9 。父・綱重が鹿沼城、綱房が壬生城を拠点として勢力を蓄え 9 、永正十七年(1520年)の浄宝寺縄吊し合戦では那須氏の城を謀略で陥落させるなど、武将としての頭角を現していく 9 。
彼の野心が顕わになるのは、宇都宮家で内紛(大永の内訌)が発生してからである。綱房は主君・宇都宮忠綱を見限り、対立する芳賀氏らが擁立した宇都宮興綱に与した 9 。その後、興綱が成人し独自の動きを見せ始めると、今度は興綱とも対立。天文五年(1536年)には、かつて手を組んだ芳賀高経と共に興綱を自害に追い込んだ 9 。さらに、その芳賀高経が自身の権勢を脅かす存在となると、主君・宇都宮尚綱(興綱の後に擁立)に接近し、高経の謀反の噂を流すなどして、天文十年(1541年)にこれを滅ぼした 9 。
宇都宮家中の実力者を次々と排除した綱房を抑えられる者は、もはや誰もいなかった。そして天文十八年(1549年)、主君・宇都宮尚綱が喜連川五月女坂の戦いで那須氏に討たれると、綱房はこの千載一遇の好機を逃さなかった。混乱に乗じて主家の本拠である宇都宮城を占拠し、事実上の下野国主となったのである 9 。この時、綱房は嫡男である綱雄を壬生城に、弟の徳雪斎周長をそれまでの居城であった鹿沼城に配置し、自らの支配体制を固めた 10 。
しかし、その栄華は長くは続かなかった。天文二十四年(1555年)、宇都宮氏の旧臣・芳賀高定らの反攻が激しさを増す中、綱房は宇都宮城内で急死する。病死とも、芳賀高定による謀殺とも伝えられている 9 。
綱雄が父から引き継いだのは、広大な版図と絶大な権力だけではなかった。それは同時に、主家を裏切り、簒奪によって得られた権威であり、宇都宮旧臣たちの消えることのない憎悪という「負の遺産」でもあった。綱房の死からわずか2年で宇都宮城を奪還された事実 2 は、その支配がいかに不安定なものであったかを如実に物語っている。綱雄の治世は、父が残した巨大かつ危険な遺産を、いかにして守り、正当化するかという、極めて困難な課題から始まったのである。
人物名 |
読み |
続柄・関係 |
役職・立場 |
政治的立場 |
壬生綱重 |
みぶ つなしげ |
綱雄の祖父 |
壬生氏2代当主、鹿沼城主 |
宇都宮氏家臣 |
壬生綱房 |
みぶ つなふさ |
綱雄の父 |
壬生氏3代当主、壬生城主→宇都宮城主 |
宇都宮氏家臣→独立勢力 |
壬生綱雄 |
みぶ つなたけ |
当主 |
壬生氏4代当主、壬生城主→鹿沼城主 |
親後北条派、独立志向 |
徳雪斎周長 |
とくせっさい かねたけ |
綱雄の叔父(異説あり) |
鹿沼城主 |
親宇都宮派 |
座禅院昌膳 |
ざぜんいん しょうぜん |
綱雄の弟 |
日光山御留守居 |
綱房により討伐される |
壬生義雄 |
みぶ よしたけ |
綱雄の嫡男 |
壬生氏5代当主、壬生城主→鹿沼城主 |
親後北条派 |
父・綱房の急死により、壬生綱雄は突如として下野国に一大勢力を誇る大名の座に就いた。しかし、その前途は決して平坦なものではなかった。父が力で築き上げた支配は脆く、内外に多くの敵を抱えていたのである。
天文二十四年(1555年)、父・綱房の死を受けて家督を相続した綱雄は、直ちに困難な状況に直面する 2 。父の支配は、宇都宮旧臣たちの強い反発の上に成り立つ、いわば砂上の楼閣であった。芳賀高定に擁立された宇都宮氏の正統な後継者・宇都宮広綱は、常陸の佐竹義昭ら周辺大名の支援を得て、失地回復の機会を窺っていた 9 。
そして弘治三年(1557年)、宇都宮・佐竹連合軍の本格的な反攻が開始される。綱雄はこれに抗しきれず、父が簒奪した宇都宮城を明け渡し、壬生氏の伝統的な本拠地である鹿沼城へと退くことを余儀なくされた 2 。これにより、壬生氏はわずか数年で宇都宮領の支配権を失い、再び下野の一地方勢力へと押し戻された。
この宇都宮城からの撤退をもって、綱雄を父・綱房に劣る力量不足の武将と評価するのは早計であろう。当時の宇都宮広綱の背後には、関東有数の大名である佐竹氏が控えており、その連合軍の軍事力は、壬生氏が単独で対抗できる規模を遥かに超えていた。むしろ、この圧倒的な劣勢を認識した上で、宇都宮城という象徴的な拠点を失いながらも、鹿沼・壬生という核心的な領土を保持して撤退できたことは、綱雄の現実的な判断能力を示すものとも考えられる。彼の真価は、この敗北からいかにして勢力を立て直し、独立を維持しようとしたか、その後の戦略に見出すべきである。
宇都宮城を失い、主家との関係が破綻した綱雄にとって、もはや宇都宮氏の家臣として生きる道はなかった。彼が選択したのは、主家からの完全な独立であり、その実現のために、当時、破竹の勢いで関東に勢力を拡大していた相模の後北条氏との連携を強化する道であった 2 。
この綱雄の親北条路線は、極めて合理的な外交戦略であった。宇都宮氏は伝統的に常陸の佐竹氏と、後には越後の上杉謙信とも同盟関係にあり、反北条連合の中核をなしていた。綱雄が後北条氏と結ぶことは、宇都宮氏の背後を脅かす強力な牽制となり、壬生氏の存続と独立を保障する上で最も有効な手段だったのである。
これにより、壬生氏は北関東における複雑な勢力図の中で、明確な立ち位置を占めることになった。すなわち、宇都宮・佐竹・上杉らを中心とする「反北条連合」に対し、後北条氏に与する「親北条連合」の重要な一角を担う存在となったのである。しかし、この選択は同時に、壬生氏一族の内部に深刻な亀裂を生じさせる原因ともなった。
壬生綱雄の独立志向が鮮明になるにつれて、一族内部からその方針に公然と異を唱える人物が現れる。通説では綱雄の叔父とされる、徳雪斎周長(とくせっさい かねたけ)その人である。両者の対立は、単なる政策論争に留まらず、壬生氏の支配権をめぐる深刻な権力闘争へと発展していく。
徳雪斎周長は、壬生氏の歴史において極めて重要でありながら、多くの謎に包まれた人物である。
通説によれば、周長は綱雄の祖父・綱重の次男であり、父・綱房の弟、すなわち綱雄の叔父にあたる 12 。名は周良とも記される。兄・綱房が宇都宮城を占拠した際には、その拠点であった鹿沼城を任されるなど、当初は兄に協力して壬生氏の勢力拡大に貢献した 10 。しかし、綱房の死後、甥の綱雄が親北条路線を明確にすると、周長は一貫して旧主家である宇都宮氏への従属を主張し、綱雄と対立した 13 。彼は宇都宮広綱の意向を代行する形で、佐竹氏や小山氏との外交交渉を担当し、反北条連合の形成に奔走したことが史料から確認できる 13 。
しかし、この周長が本当に壬生一族であったかについては、近年、有力な疑問が呈されている。一部の研究では、「周長が壬生姓を名乗った確証がない」「後世に編纂された系図に名が見えるのみで、同時代の史料では確認できない」といった点が指摘されている 3 。この説に立てば、周長は壬生一族ではなく、宇都宮氏が自らの影響力を保持するために壬生氏の拠点である鹿沼に送り込んだ、宇都宮配下の有力武将であった可能性も浮上する。
この「叔父」という関係性の有無は、綱雄と周長の対立の性質を理解する上で決定的に重要である。もし周長が叔父であれば、この争いは壬生一族内部の路線対立と、家督をめぐる後継者争いという側面が強い。しかし、もし彼が壬生一族ではない外部の武将であったとすれば、対立の構図は大きく変わる。それは、壬生氏の正統な当主である綱雄と、その勢力圏(特に鹿沼と、それに付随する日光山の支配権)を切り崩そうとする宇都宮氏が送り込んだ代理人(周長)との、地域支配権をめぐる闘争であったと解釈できるからである。いずれにせよ、両者の対立が単なる個人的な確執ではなく、北関東の覇権をめぐる宇都宮・後北条の代理戦争という側面を色濃く帯びていたことは間違いない。
後北条氏と結び、独立大名としての道を歩もうとする綱雄。宇都宮氏との協調を維持し、佐竹・上杉連合の一員として生き残りを図ろうとする周長。両者の外交方針は、もはや相容れるものではなかった 2 。
対立は外交路線に留まらなかった。周長は宇都宮氏の後ろ盾を得て、綱雄の拠点である鹿沼城に居座り、壬生氏が伝統的に影響力を持っていた聖地・日光山の支配にまで乗り出した 13 。これは、壬生氏当主である綱雄の権威と支配権に対する公然たる挑戦であった。この深刻な対立は、壬生氏の家臣団をも親綱雄派と親周長派に二分させ、一族を内戦の瀬戸際へと追い込んでいったのである 11 。
一族を二分した対立の末、壬生綱雄は志半ばでその生涯を終える。しかし、その死の具体的な時期と状況については、全く異なる二つの説が伝えられており、今なお歴史上の謎となっている。
壬生綱雄の最期として最も広く知られているのが、天正四年(1576年)の暗殺説である。
この説によれば、叔父・徳雪斎周長は主家・宇都宮氏の重臣である芳賀高定と共謀し、甥である綱雄の殺害を計画。天正四年二月二十五日、周長は綱雄を鹿沼城内にある天満宮(現在の今宮神社とみられる)に招き寄せ、そこで謀殺したとされる 1 。独立を焦るあまり、親宇都宮派の叔父の罠に嵌った悲劇の武将、というドラマチックな綱雄像は、この説に基づいている。この暗殺事件の後、周長は鹿沼城主となり、壬生氏の実権を掌握したと伝えられる 15 。
一方で、この通説とは大きく異なる記録も存在する。壬生氏の菩提寺であったとされる常楽寺の過去帳(『常楽寺過去帳』)には、壬生綱雄が永禄五年(1562年)五月に死去したと明確に記されているのである 2 。
この史料の記述を重視するならば、綱雄は天正四年の暗殺事件よりも14年も前に、何らかの原因で亡くなっていたことになる。この場合、天正四年の暗殺説は、後世の軍記物などが創作した物語か、あるいは別の事件と混同されたものである可能性が高くなる 3 。実際に、一部の研究では、この永禄五年死去説を支持し、暗殺説を否定する見解が示されている 3 。
なぜ、一人の武将の死について、これほど矛盾した二つの説が生まれたのか。この謎を解く鍵は、綱雄死後の壬生氏内部の権力闘争と、その勝者によって形成された歴史叙述にあると考えられる。
両説を比較すると、天正四年暗殺説は物語性が高く、後代の編纂物に多く見られるのに対し、永禄五年死去説は一次史料に近い寺院の過去帳に記録されているという違いがある。ここに、一つの仮説を立てることが可能である。
すなわち、史実としては、綱雄は永禄五年(1562年)に病死などの自然な形で亡くなったのではないか。彼の死後、親宇都宮派の周長が壬生氏の実権を掌握し、綱雄の嫡男でまだ若年であった義雄は、壬生城に逼塞し、不遇の時を過ごすことを余儀なくされた 3 。
そして歳月が流れ、天正四年(1576年)。成長した義雄は、父の旧臣らを結集して蜂起し、壬生氏の実権を簒奪していた周長を討ち果たして、権力を奪還した 4 。この「義雄による周長打倒」という史実が、義雄の行動を正当化し、劇的に演出する過程で、後世に「父の仇討ち」という物語へと昇華された。そして、その物語を成立させるための前提として、「周長による父・綱雄の暗殺」という筋書きが創作され、流布していった。このように考えることで、二つの矛盾する没年説の存在を合理的に説明することができる。
綱雄の死の真相がどちらであったにせよ、彼の死が一族内の深刻な対立の末に訪れた悲劇であったことは間違いない。その死をめぐる情報の混乱自体が、当時の壬生氏が置かれていた権力闘争の激しさを物語っているのである。
説の名称 |
没年 |
根拠とされる主な史料 |
概要 |
研究上の課題・考察 |
天正四年暗殺説 |
天正4年 (1576年) |
『下野国誌』など後代の編纂物、各種軍記物、通説 |
叔父・徳雪斎周長と芳賀高定の共謀により、鹿沼城内の天満宮にて謀殺されたとされる 1 。 |
同時代の一次史料に乏しく、物語性が強い。後世の創作、あるいは子の義雄による周長討伐の事実が「父の仇討ち」として脚色された過程で生まれた可能性が指摘される。 |
永禄五年死去説 |
永禄5年 (1562年) |
『常楽寺過去帳』 |
死因は不明ながら、この年に死去したと記録されている 2 。 |
死因が不明である点、またこの説を採る場合、永禄五年から天正四年に至るまでの14年間の壬生氏の動向(周長が実権を掌握していた時期)を再構築する必要がある。 |
綱雄の死、そしてそれに続く一族の内紛は、壬生氏の運命を大きく左右した。当主の座を継いだ嫡男・義雄は、父の路線を継承し、戦国乱世を生き抜こうと奮闘するが、その先には滅亡という過酷な結末が待ち受けていた。
天正四年(1576年)、壬生綱雄の子・義雄(よしたけ)は、壬生氏の実権を掌握していた徳雪斎周長に対し、反旗を翻した。義雄は周長の籠る壬生城(あるいは鹿沼城)を攻め、激戦の末にこれを討ち取ることに成功する 12 。これが通説に言う「父の仇討ち」である。
この勝利により、義雄は名実ともに壬生氏の当主となった。彼は父・綱雄の遺志を継ぎ、親後北条氏の立場を鮮明にする。そして、それまでの本拠地であった壬生城から、父が拠点とした鹿沼城へと移り、宇都宮氏への対決姿勢を一層強めていった 4 。ここに、壬生氏は義雄のもとで再び結束し、北関東の親北条方勢力の有力な一員として、宇都宮氏や佐竹氏との激しい抗争に身を投じていくこととなる 11 。
義雄の時代、壬生氏は後北条氏の強力な与力大名として、その勢威を保った。記録によれば、壬生・鹿沼・日光山を合わせた壬生氏の軍事力は1,500騎に達し、北関東においては中堅の大名として確固たる地位を築いていた 16 。
しかし、その運命は、彼らが運命を共にした後北条氏の没落と共に尽きることになる。天正十八年(1590年)、天下統一を目指す豊臣秀吉が、関東の後北条氏を討伐するために大軍を発した(小田原征伐)。宇都宮氏や佐竹氏など、北関東の多くの大名が豊臣方に参陣する中、義雄は後北条氏への義理を貫き、小田原城に籠城して豊臣軍を迎え撃つ道を選んだ 4 。
圧倒的な物量の前に、関東の覇者であった後北条氏もなすすべなく、同年七月、小田原城は開城。そして、城の明け渡しから間もなく、壬生義雄は陣中にて病死したと伝えられる 4 。義雄には男子の跡継ぎがいなかったため、ここに戦国大名としての壬生氏は、五代約130年の歴史に幕を下ろし、滅亡した 7 。
下野の風雲児、壬生綱雄。彼の生涯は、父・綱房が一代で築き上げた下克上の権勢を、関東の激動の中でいかにして維持し、発展させるかという、苦闘の連続であった。
彼が選択した親後北条路線は、宇都宮氏からの完全な独立を達成するための、当時の状況下では最も現実的かつ合理的な戦略であった。しかし、その選択は結果的に、壬生氏の運命を後北条氏と一蓮托生のものとし、最終的な滅亡へと繋がった。
綱雄の死をめぐる二つの説と、叔父・徳雪斎周長との深刻な対立は、単なる一族の内紛に留まらない。それは、巨大勢力の狭間で生き残りを図る地域領主が必然的に抱え込んだ内部矛盾、すなわち、独立への野心と旧来の主従関係の間に揺れ動く葛藤を象徴している。
最終的に、綱雄は「裏切られた悲劇の武将」という伝承の中にその名を刻まれた。しかし、本報告書で検証した通り、その実像はより複雑である。彼は、時代の奔流の中で、自らの家と領民を守るために必死に舵を取り続けた、一人の苦悩する戦国武将であった。彼の選択、苦闘、そして謎に満ちた最期は、戦国時代という過酷な時代、特に大国の思惑が複雑に絡み合う北関東の地域史を理解する上で、欠かすことのできない重要な一事例として、今後も研究されるべき価値を持つものである。