多久安順は龍造寺一門から鍋島氏へ権力移行を支えた佐賀藩の政治家。関ヶ原の戦いでの巧みな対応や龍造寺伯庵事件の解決で藩の礎を築き、有田焼の李参平を庇護した。
多久安順(たく やすとし)は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけて、肥前国(現在の佐賀県・長崎県の一部)の政治的安定に決定的な役割を果たした武将であり、政治家である。彼は、戦国大名龍造寺氏の血を引く一門衆でありながら、新興の支配者である鍋島氏の体制確立にその生涯を捧げた。その生涯は、旧主家への忠誠と新体制への現実的な協力という、一見矛盾する二つの要素を内包している。
安順は、龍造寺隆信の甥という血統的正統性 1 、鍋島直茂の婿という姻戚関係 1 、そして類稀なる政治交渉能力を駆使して、龍造寺氏から鍋島氏へという、日本近世史においても稀な権力移行を、内乱に発展させることなく完遂させた。彼は単なる一介の家老ではなく、旧秩序を解体し、新秩序を創造するという歴史の転換点において、最も困難な役割を担った「移行期の調停者」であり、「新体制の設計者」であったと言える。本報告書は、この複雑な立場にあった多久安順が、いかにして佐賀藩の礎を築き、自らの家(後多久家)の地位を確固たるものにしたかを、その生涯の軌跡を通じて詳細に解明することを目的とする。
西暦(和暦) |
安順の年齢(概算) |
出来事 |
関連人物・事項 |
1563/1566年 (永禄6/9年) |
0歳 |
龍造寺長信の長男として誕生。初名は龍造寺家久 1 。 |
父:龍造寺長信、伯父:龍造寺隆信 |
1592-1598年 (文禄元-慶長3年) |
27-36歳 |
文禄・慶長の役に従軍。鍋島直茂の配下として朝鮮へ渡る 1 。帰国時に陶工・李参平らを預かる 4 。 |
鍋島直茂、李参平 |
(時期不明) |
- |
鍋島直茂の次女・千鶴と婚姻 1 。 |
妻:千鶴、義父:鍋島直茂 |
1600年 (慶長5年) |
35/38歳 |
関ヶ原の戦い。主家は西軍に属するが、徳川家康へ米を送ったとされる 1 。 |
鍋島勝茂、徳川家康 |
1607年 (慶長12年) |
42/45歳 |
龍造寺宗家の高房が江戸で自刃し、宗家嫡流が断絶 5 。 |
龍造寺高房 |
1608年頃 (慶長13年頃) |
43/46歳 |
龍造寺姓を改め、所領の地名から「多久安順」と名乗る 7 。 |
- |
(慶長末年頃) |
- |
佐賀藩の藩政を統括する「請役(惣仕置)」に就任 9 。 |
鍋島勝茂 |
1615年 (元和元年) |
50/53歳 |
大坂夏の陣に参戦のため出航するも、既に落城していた 7 。 |
- |
1616年 (元和2年) |
51/54歳 |
安順の支援を受けた李参平が有田で泉山磁石を発見し、日本初の磁器生産を開始 11 。 |
李参平 |
1634年 (寛永11年) |
69/72歳 |
龍造寺伯庵が幕府に龍造寺家再興を提訴(龍造寺伯庵事件) 1 。 |
龍造寺伯庵 |
1635年 (寛永12年) |
70/73歳 |
安順が江戸へ赴き、幕府に対し鍋島氏の支配の正当性を主張。伯庵の訴えを退けさせる 1 。 |
土井利勝 |
1636年 (寛永13年) |
71/74歳 |
養嗣子・多久茂辰に家督を譲り隠居 7 。 |
多久茂辰 |
1637年 (寛永14年) |
72/75歳 |
島原の乱が勃発。鍋島直澄の後見役として兵350を率いて出陣 7 。 |
鍋島直澄 |
1641年 (寛永18年) |
76/79歳 |
10月26日、死去。殉死者11名を出す 1 。 |
- |
多久安順の人物像を理解するためには、まず彼が「龍造寺家久」として生きた前半生を検証する必要がある。彼の人間形成の背景には、肥前国を席巻した龍造寺家の権勢と、その中で彼が置かれた特異な立場があった。
多久安順は、永禄6年(1563年)あるいは永禄9年(1566年)に、龍造寺長信の嫡男として誕生した 1 。初名を「家久」といい、紛れもなく龍造寺一門の正統な一員であった 1 。
彼の父・長信は、「肥前の熊」と畏怖された戦国大名・龍造寺隆信の実弟であり、兄の覇業を軍事面で支えた中核的な武将であった 2 。長信は、兄・隆信の勢力拡大に伴い、在地領主であった前多久氏を制圧した後、その本拠地であった梶峰城主となり、多久地方の支配を確立した 2 。これが、後の安順の領地、そして「後多久家」の直接的な淵源となる。
また、安順の母は、龍造寺氏がかつて滅ぼした小田政光の娘であった 2 。これは、支配地域における旧勢力との融和を図るための典型的な政略結婚であり、安順が複雑な政治的背景を持つ家庭に生まれたことを示している。
このように、安順は龍造寺宗家の直系近親である「水ヶ江龍造寺氏」の嫡男という「血の正統性」と、父・長信が実力で獲得した多久という「地の支配権」の両方を継承する立場にあった。この二重性は、彼のアイデンティティの根幹をなし、後の政治的キャリアにおいて、彼が「龍造寺一門の代表」として、かつ「鍋島体制下の有力領主」として振る舞うことを可能にする力の源泉となった。
龍造寺家久(後の安順)にとって、豊臣秀吉が命じた文禄・慶長の役への参加は、武将としての経験を積む場であると同時に、彼の後半生に決定的な影響を与える二つの重要な要素をもたらした転機であった。
彼は、龍造寺家の実権を掌握しつつあった鍋島直茂に従い、朝鮮へ出兵した 1 。記録によれば、当初病のために出陣が遅れたものの、手勢八百余騎を率いて伊万里津から出航し、現地で鍋島軍に合流している 4 。この従軍を通じて、家久と鍋島直茂との主従、あるいは協力関係は、実戦の場でより強固なものになったと推察される。
そして、この戦争が彼にもたらしたもう一つの重要な出会いが、陶工・李参平との邂逅である。慶長3年(1598年)の役からの引き揚げの際、鍋島直茂が日本に連れてきた多くの朝鮮人技術者の中に李参平はいた。家久は、この李参平らを預かることになったのである 1 。この時点では、戦利品として獲得した技術者を管理するという実務的な側面が強かったかもしれない。しかし、この偶然の割り当てが、結果的に世界的な磁器である伊万里焼(有田焼)の誕生へと繋がっていく 17 。家久が単なる武骨な武将ではなく、新しい技術や文化の価値を見抜き、将来の領地経営に活かそうとする先見の明を持っていた可能性が示唆される。
安順の行動原理を理解する上で、彼を取り巻く複雑な血縁・姻戚関係の把握は不可欠である。以下の系図は、彼が肥前国の支配者一族のネットワークにおいて、いかに中心的な結節点に位置していたかを示している。
Mermaidによる関係図
注:実線は血縁、破線は養子縁組を示す。安順の姉妹(後藤茂富の母)の氏名は史料で確認できないため省略。
この系図が示す通り、安順は龍造寺隆信の甥であると同時に、鍋島直茂の婿でもあった 1 。この二重の立場は、龍造寺家と鍋島家という二大権力間の緩衝材、あるいは橋渡し役として、彼に比類なき影響力を与えた。彼の政治的キャリアは、この人的ネットワークに深く根差していたのである。
龍造寺宗家の権威が沖田畷の戦いでの隆信の戦死以降、急速に衰退する一方、家臣であった鍋島氏が実権を掌握していく。この激動の権力移行期に、安順は卓越した政治感覚で自らの立場を確立し、新体制の中核を担う存在へと変貌を遂げた。
慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いは、鍋島家にとって存亡の危機であった。藩主・鍋島勝茂は、豊臣政権下での立場から石田三成方の西軍に与し、伏見城攻撃などに参加した 7 。本戦での西軍の敗北は、鍋島家の改易・取り潰しに直結しかねない絶体絶命の状況であった。
この危機的状況下で、安順(当時はまだ家久)は、驚くべき政治的嗅覚と危機管理能力を発揮したとされる。一説には、彼は主家が西軍に属しながらも、水面下で東軍を率いる徳川家康に大量の米を送っていたと伝えられている 1 。この逸話の真偽は更なる検証を要するものの、鍋島家が戦後処理において、西軍の主力大名でありながら35万7千石の所領を安堵されるという破格の扱いを受けた背景に、こうした巧みな外交工作があった可能性を強く示唆している。
彼の行動は、旧来の主君個人への盲目的な忠誠ではなく、龍造寺・鍋島家臣団、ひいては肥前国という共同体全体の存続を最優先する、より高次の「忠誠」の現れであった。彼は、領国の未来を、もはや実権を失った龍造寺宗家ではなく、新たな時代の覇者である徳川家康に認められた鍋島氏に託すという、冷徹かつ現実的な判断を下したのである。
関ヶ原の戦いを乗り越え、鍋島氏による肥前支配が既成事実化していく中で、安順は自らの立場を明確にするための重大な決断を下す。それが、龍造寺姓から多久姓への改姓であった。
慶長13年(1608年)頃、鍋島氏による支配体制が確固たるものとなったのを見計らい、彼は主筋にあたる龍造寺姓を名乗ることを遠慮し、自らの所領の地名である「多久」を新たな姓とした 7 。そして名を「安順」、通称を「長門守」と改め、「多久長門守安順」となった 1 。
この改姓は、単なる名称の変更ではない。それは、旧主・龍造寺宗家への追慕と遠慮、そして新たな主君・鍋島氏への完全な帰順を内外に宣言する、極めて重い政治的パフォーマンスであった。龍造寺宗家の正統な後継者であった龍造寺高房が江戸で不遇の末に自刃し 5 、龍造寺家の権威が完全に失墜した状況下で、一門の最有力者である安順がその姓を捨てることは、鍋島支配の正統性を追認する強力なメッセージとなった。これは、自らが龍造寺宗家を継承する意志がないことを明確にすることで、鍋島勝茂の猜疑心を払拭し、絶対的な信頼関係を築くための布石でもあった。
改姓によって鍋島体制への忠誠を明確に示した安順は、藩主・鍋島勝茂の絶対的な信任を得て、佐賀藩の政治の中枢を担うことになる。彼は、藩主を補佐し藩政のすべてを統括する筆頭家老職である「請役(うけやく)」に就任した 9 。
この「請役」という役職は、当初「惣仕置(そうしおき)」や「惣心遣(そうこころづかい)」などと呼ばれていたが、安順がその初代として絶大な権限を振るったことで、その重要性が確立された 10 。事実上、安順の存在そのものが、この役職を定義したと言っても過言ではない。鍋島勝茂は、龍造寺一門の長老格であり、自らの義兄でもある安順を藩政のトップに据えることで、他の龍造寺旧臣の不満を抑え、円滑な権力移譲を完成させようとした。安順は、その政治手腕と人間性によって、まさに鍋島体制の安定化装置として機能したのである。
その権威を裏付けるように、安順は多久邑主として二万一千七百石余という広大な知行を与えられていた 15 。これは佐賀藩の家臣団の中でも群を抜く石高であり、彼の藩内における強大な政治的・経済的影響力を物語っている。
安順の政治家としてのキャリアの頂点であり、その真価が最も発揮されたのが、寛永年間に発生した「龍造寺伯庵事件」である。これは、佐賀藩の存亡をかけた最大の危機であり、安順はこの暗闘を見事に制することで、鍋島支配を盤石なものとした。
事件の根源は、龍造寺宗家の悲劇的な断絶にあった。龍造寺隆信の孫・高房は、鍋島氏に実権を奪われ、江戸で名目上の国主として不遇の日々を送っていた。これに絶望した高房は、慶長12年(1607年)、江戸屋敷で妻を刺殺した後に自刃するという壮絶な最期を遂げた 5 。父・政家も後を追うように亡くなり、龍造寺宗家の嫡流は断絶した。
この悲劇は、「忠臣鍋島氏による主家簒奪」という物語性を帯び、佐賀の民衆の間に深く刻まれた。後に、高房の怨念が化け猫に乗り移って鍋島家に祟りをなすという「鍋島化け猫騒動」として講談や歌舞伎の題材となり、広く知られることになる 12 。
この燻る怨念の火種の中から、一人の人物が現れる。高房の庶子(隠し子)であった龍造寺伯庵(はくあん)、またの名を季明(すえあき)である 1 。彼は成長すると、亡き父の遺志を継ぎ、龍造寺家の再興を掲げて幕府への働きかけを開始した。
寛永11年(1634年)、三代将軍・徳川家光が上洛した機会を捉え、伯庵は行動を起こす。彼は「佐賀藩領35万7千石は、本来龍造寺氏のものである。家臣であった鍋島氏がこれを不当に占有しており、正統な後継者である自分に返還されるべきである」と、幕府に訴え出たのである 1 。
この直訴は、佐賀藩に激震を走らせた 13 。当時は、些細なきっかけで大名が改易・減封されることが頻発した時代であり、幕府の裁定次第では、鍋島家が藩主の座を追われる可能性は決して低くなかった。藩主・鍋島勝茂は深刻な危機感を抱き、藩の総力を挙げてこの難局に対応する必要に迫られた。
この国家的な危機に際し、佐賀藩を代表して江戸へ赴き、幕府との交渉にあたったのが、老練の政治家・多久安順であった 1 。彼は、老中・土井利勝らの聴取に対し、歴史に残る見事な弁明を展開する。
安順の論法は、単に伯庵の主張を否定するものではなかった。彼は、敵の土俵である「血統の正統性」にあえて乗り、その論理を逆転させるという、極めて高度な交渉術を用いた。彼の主張の要点は、以下の二点に集約される 1 。
この主張は、幕府を論理的な袋小路に追い込んだ。もし幕府が伯庵の訴えを認め、「血統」を理由に鍋島氏を罰するのであれば、それ以上に正統性の高い安順の存在を無視することはできない。そして、その安順自身が、鍋島氏の支配を全面的に支持しているのである。幕府が血統論を振りかざせば、自らの論理で自らを縛るという矛盾に陥る。
この仮定戦略は見事に功を奏した。幕府は、この問題をこれ以上深追いすることの不利益を悟り、最終的に伯庵の訴えを退けた 1 。これにより、鍋島氏による佐賀藩支配の正当性は、徳川幕府という最高権威によって法的に追認され、ここに「鍋島佐賀藩」は完成した。安順のこの働きは、まさに佐賀藩の「建国の総仕上げ」であり、彼の政治家としての生涯の集大成であった。
龍造寺伯庵事件という最大の危機を乗り越えた後、安順は隠居の身となりながらも、佐賀藩の重鎮として、そして一人の文化のパトロンとして、その晩年を過ごした。彼が後世に残した遺産は、政治的なものに留まらない。
寛永13年(1636年)、安順は養嗣子・多久茂辰に家督を譲り、隠居した 7 。しかし、彼の武人としての魂は、まだ燃え尽きてはいなかった。
翌年の寛永14年(1637年)、キリシタン一揆である島原の乱が勃発すると、70歳を超えた老齢にもかかわらず、安順は再び甲冑を身にまとう。彼は、藩主・勝茂の五男で、一軍を率いた若き将・鍋島直澄の後見役として、兵350人を率いて出陣したのである 7 。
この老将の出陣は、単に武勇を示すだけでなく、極めて象徴的な意味を持っていた。龍造寺一門の長老格である安順が、鍋島一門の若き将を後見するという構図は、龍造寺と鍋島が完全に一体となり、徳川幕府の秩序を守るために戦うという姿勢を内外に強く示すものであった。これは、彼の生涯をかけた藩内融和の総仕上げとも言える行動であった。
安順の功績の中で、文化史・経済史的に最も重要なものの一つが、有田焼の誕生を支援したことである。彼の先見性と寛大な支援がなければ、日本初の磁器生産は始まらなかった可能性が高い。
文禄・慶長の役の後、安順は陶工・李参平を預かり、自らの領地である多久で窯を築かせ、作陶を試みさせた 4 。しかし、多久の土では、李参平が目指す純白の磁器を作ることはできなかった 23 。
困窮した李参平は、安順に対し、より良い原料(陶石)を探すため、多久領の外へ出て探索活動を行う許可を願い出た。当時、領地を越えた自由な移動は厳しく制限されており、これは異例の願いであった。しかし、安順は李参平の技術と情熱を信じ、これを許可したのである 23 。
この類稀な支援を得た李参平は、探索の末に有田の泉山で白磁の原料として最適な陶石を発見。元和2年(1616年)、ついに日本で初めて磁器の産業的生産に成功した 1 。安順の政治的安定がもたらした経済的余裕と、文化・産業に対する深い理解がなければ、この歴史的な偉業は成し遂げられなかったであろう。彼の功績は、政治の安定こそが文化振興の土壌となることを示す好例である。
安順は、自らが創始した多久家(後多久氏)を、佐賀藩の中で永続する家として確立させることにも注力した。当初養子とした甥の後藤茂富が勘気に触れて廃嫡されると、その子、すなわち安順から見れば大甥にあたる茂辰を改めて養子とし、家督を継がせた 24 。この慎重な後継者選びにより、後多久家の血筋は安定し、佐賀藩の「御親類同格」という最高の家格を得て、代々家老職を勤め、幕末まで繁栄した 25 。
後多久家は、4代当主・多久茂文が学問所である東原庠舎や多久聖廟を建立するなど 25 、多久の地を文教の中心地としても発展させた。これは、始祖である安順が築いた政治的・経済的基盤があったからこそ可能になったことである。
寛永18年(1641年)10月26日、安順は76歳(あるいは79歳)でその波乱に満ちた生涯を閉じた 1 。彼の死に際しては、11名もの家臣が殉死(追腹)したと伝えられている 7 。幕府が殉死を禁じる方向に動いていたこの時代において、これほど多くの家臣が自らの命を捧げたという事実は、安順が単に恐れられる権力者ではなく、家臣から深く敬愛され、共に死ぬことを名誉と感じさせるほどの、強い求心力と人間的魅力を持った人物であったことを雄弁に物語っている。
多久安順は、龍造寺から鍋島へという、地方史において稀に見る大規模な権力移行を、深刻な内乱に発展させることなく平和裏に完遂させた、卓越した政治家であった。彼の生涯を俯瞰するとき、その多面的な人物像が浮かび上がる。彼は、戦国の荒波を生き抜いた「武将」の顔、新時代の藩体制を設計・運営した「官僚」の顔、そして有田焼の誕生を支援した「文化のパトロン」の顔を併せ持っていた。
彼の歴史における最大の功績は、疑いなく龍造寺伯庵事件の解決にある。この事件において彼は、自らが持つ龍造寺一門としての血統的権威を、旧主家再興のためではなく、新興の鍋島体制を盤石にするために用いるという離れ業を演じた。これにより、佐賀藩の法的・政治的基盤は確立され、その後の三百年にわたる安定の礎が築かれた。
多久安順は、旧時代の秩序を解体し、新時代の秩序を創造するという、歴史の転換点において最も困難な役割を、その知略と胆力、そして人間的魅力によって果たした稀代の人物である。彼の存在なくして、今日の佐賀の歴史は語れない。彼は、単なる一地方の家老としてではなく、近世日本の形成期における重要な政治家の一人として、再評価されるべきである。