下野国(現在の栃木県)に古くから君臨した名門・宇都宮氏。その長大な歴史の中でも、戦国時代は絶え間ない内紛と外部勢力の侵攻に晒された激動の時代であった。この主家の危機を、その比類なき武勇をもって支え抜いた一人の武将がいた。その名は多功長朝(たこう ながとも)。彼は後世の軍記物などで「宇都宮家中一の侍大将」と称され 1 、主家が存亡の縁に立たされるたびに、その最前線で獅子奮迅の働きを見せた。
しかし、その輝かしい武功とは裏腹に、多功長朝の生涯は、中央の著名な戦国大名たちの陰に隠れ、断片的な記録や伝承を通じて語られることが多い。本報告書は、これらの散逸した史料、すなわち『下野国誌』や『那須記』といった軍記物語、各種系図、そして近年の郷土史研究や学術論文を網羅的に検証し、多功長朝という武将の生涯を立体的に再構築することを目的とする。彼の出自と家系、主家の危機に際して見せた奮戦、そして「軍神」上杉謙信の侵攻を頓挫させた最大の武功である多功ヶ原の戦いの実態を多角的に分析し、その人物像と歴史的意義を明らかにすることを目指す。
表1:多功長朝 略年譜
西暦 |
和暦 |
年齢(数え) |
出来事 |
1485年 |
文明17年 |
1歳 |
多功建昌の子として誕生 1 。 |
1549年 |
天文18年 |
65歳 |
喜連川五月女坂の戦い 。宇都宮軍の先陣として奮戦するも、主君・宇都宮尚綱が討死し、宇都宮軍は敗北 1 。 |
(同年) |
(同年) |
65歳 |
宇都宮尚綱の死後、壬生綱房が宇都宮城を占拠。幼主・宇都宮広綱は芳賀高定に保護され真岡城へ退去 4 。 |
1557年 |
弘治3年 |
73歳 |
芳賀高定の尽力により、宇都宮広綱が宇都宮城を奪還 1 。 |
1558年 |
永禄元年 |
74歳 |
多功ヶ原の戦い 。長尾景虎(上杉謙信)の軍勢を多功城にて迎え撃ち、先鋒・佐野豊綱を討ち取り撃退する 1 。 |
(同年) |
永禄元年10月5日 |
74歳 |
死去。菩提寺である見性寺に葬られる 1 。 |
多功長朝の武勇と忠誠を理解するためには、まず彼が属した多功氏そのものの成り立ちと、下野国における役割を解明する必要がある。多功氏は、鎌倉時代中期に宇都宮氏から分かれた庶流であり、その創設には明確な軍事的・地政学的意図が存在した。
多功氏の祖は、宇都宮氏第5代当主・宇都宮頼綱の子である多功宗朝とされる 7 。諸系図において頼綱の四男や七男など異同はあるものの、頼綱の子であることは一致している 7 。宗朝は宝治2年(1248年)、宇都宮城の南方、現在の栃木県河内郡上三川町多功の地に城を築き、地名をもって多功氏を称したのがその起源である 8 。これにより多功氏は、宇都宮一門の中でも特に本家を軍事的に支える重要な役割を担うこととなった。
多功城が築かれた地政学的な位置は、多功氏の性格を決定づけた。宇都宮城の南方約12キロメートルに位置するこの城は 13 、歴史的に宇都宮氏の脅威となってきた南方の小山氏や、後の時代に関東の覇権を狙う後北条氏に対する最前線の防御拠点であった 11 。さらに、鎌倉街道や奥州街道といった当時の主要交通路を扼する要衝でもあり、その支配は宇都宮氏の領国経営において死活的に重要であった 13 。多功氏が掌握したこの地域は「西上条」と呼ばれ、同じく宇都宮氏の庶流である横田氏(後の上三川氏)が治めた「東上条」と共に、宇都宮領南部の二大支柱を形成していたのである 7 。
このように、多功氏の創設は単なる一族の分家ではなく、宇都宮氏の領国支配戦略における「南方防衛ラインの構築」という明確な軍事目的を持った戦略的配置であった。この創設時に課せられた役割こそが、代々の多功氏当主、特に長朝の代に至るまで、「武」を以て本家を支えるという家風、すなわち「侍大将」としてのアイデンティティを規定した根源的な要因であったと考えられる。彼らは政治闘争の中心に立つことよりも、まず第一に国境の守護者たることを宿命づけられていたのである。
多功氏は、祖・宗朝から長朝に至るまで、約250年以上にわたり多功の地を治め続けた。その系譜は、宗朝の子・朝継から、朝経、景宗、宗秀、満朝と続き、長朝の父である建昌へと受け継がれていった 7 。そして、長朝の武勇は息子の房朝、さらに孫の綱継へと継承されていく 1 。この一貫した家系の存在は、多功氏が約350年間にわたり多功城主として地域の支配を継続し、宇都宮氏の有力な支えであり続けたことを示している 8 。
多功長朝自身の生没年については、複数の史料から文明17年(1485年)に生まれ、永禄元年10月5日(1558年11月14日)に74歳で没したとされている 1 。彼の生涯は、まさに戦国時代の最も激しい動乱期と重なっている。官位は、祖の宗朝以来、一族が称した石見守であった 1 。
家族構成に目を向けると、父は多功建昌 1 。そして、長朝の武功を語る上で欠かせないのが、息子の多功房朝(房興とも)の存在である。房朝は父と共に数々の合戦に出陣し、喜連川五月女坂の戦いや多功ヶ原の戦いで勇名を馳せ、父の没後も後北条氏との戦いで多功城を守り抜くなど、父譲りの猛将であった 3 。長朝の武勇が個人的な資質に留まらず、次代へと確かに継承されていたことは、多功氏が「武門の家」としての伝統を確立していたことを物語っている。
表2:多功氏 略系図(宗朝から綱賀まで)
代 |
当主名 |
続柄・備考 |
祖 |
多功宗朝 |
宇都宮頼綱の子。多功氏の祖 7 。 |
2代 |
多功家朝 |
宗朝の長子 7 。 |
3代 |
多功朝継 |
宗朝の次男。兄・家朝から家督を継承 7 。 |
4代 |
多功朝経 |
朝継の子 7 。 |
5代 |
多功景宗 |
朝経の子 7 。 |
6代 |
多功宗秀 |
景宗の子 7 。 |
7代 |
多功満朝 |
宗秀の子 7 。 |
... |
... |
(中略) |
- |
多功建昌 |
長朝の父 1 。 |
- |
多功長朝 |
本報告書の主題。宇都宮家中一の侍大将 1 。 |
- |
多功房朝 |
長朝の子。父と共に奮戦した猛将 22 。 |
- |
多功秀朝 |
房朝の子 7 。 |
- |
多功綱継 |
房朝の子、秀朝の弟。兄に子がなく家督を継承。父祖同様に武勇で知られた 2 。 |
- |
多功綱朝 |
綱継の子 7 。 |
- |
多功綱賀 |
綱朝の子。宇都宮氏改易時の当主 7 。 |
多功長朝の名が歴史の表舞台で輝きを放つのは、主家である宇都宮氏が存亡の危機に瀕した二つの大きな出来事においてであった。彼の武功は、常に主家の苦境と共鳴していた。
天文18年(1549年)9月17日、宇都宮氏の歴史における大きな悲劇の一つが発生した。当主・宇都宮尚綱が、長年の宿敵であった那須氏の当主・那須高資を討つべく、2,000から2,500の兵を率いて那須領の喜連川五月女坂(現在の栃木県さくら市)へ侵攻したのである 3 。
この戦において、当時65歳の老将であった多功長朝は、息子の房朝と共に宇都宮軍の先陣という重責を担った 1 。宇都宮軍は兵力で那須軍を圧倒しており、当初は優勢に戦を進めていた 24 。しかし、那須高資が仕掛けた巧みな奇襲、あるいは伏兵によって戦況は一変する 25 。混乱する戦況の中、長朝親子は奮戦し、「大功を挙げた」と記録されるほどの働きを見せた 1 。だが、彼らの局地的な戦術的成功も、戦略的な大局を覆すには至らなかった。総大将である宇都宮尚綱が、高台で指揮を執っていたところを那須家臣・鮎ケ瀬弥五郎実光に弓で射抜かれ、討死するという致命的な事態が発生したのである 24 。
大将を失った宇都宮軍は統制を失い、総崩れとなって敗走した。この一戦は、多功長朝の武功が必ずしも主家の勝利に結びつかないという、戦国武将の悲哀を象徴する出来事であった。一個人の武勇や一部隊の奮戦が、総大将の喪失というたった一つの戦略的失敗によって無に帰してしまう。この敗北は、単なる一合戦の負けに留まらず、当主一人を失うだけで組織全体が機能不全に陥るという、宇都宮氏の指揮系統の構造的な脆弱性を白日の下に晒すこととなった。そして、この権力の空白が、次なる内乱の火種となる。
喜連川五月女坂での尚綱の戦死は、宇都宮家中に深刻な権力闘争を引き起こした。残された嫡男・伊勢寿丸(後の宇都宮広綱)はわずか5歳の幼児であった 4 。この権力の空白を好機と捉えたのが、宇都宮家の宿老であった壬生綱房である。彼はかねてより野心を抱いており、この機に乗じて宇都宮城を占拠し、事実上の下克上を果たした 4 。綱房は、かつて宇都宮尚綱に討たれた芳賀高経の遺児・高照を傀儡の当主として宇都宮城に迎え入れ、自らが実権を握ることで宇都宮領の支配を正当化しようと試みた 5 。
この主家簒奪という未曾有の危機に際し、敢然と立ち向かったのがもう一人の重臣・芳賀高定であった。彼は正統な後継者である幼い広綱を保護すると、自身の居城である真岡城へと落ち延びた 4 。高定はここを拠点として、謀略を駆使して尚綱の仇である那須高資や、壬生氏の傀儡である芳賀高照を次々と排除し、主家再興のための布石を着実に打っていった 4 。そして弘治3年(1557年)、高定は常陸の佐竹義昭や相模の後北条氏康といった外部勢力の支援を取り付けることに成功し、ついに壬生氏を宇都宮城から追放。尚綱の死から8年の歳月を経て、広綱を宇都宮城に帰還させたのである 1 。
この約8年間にわたる宇都宮城失陥期において、多功長朝の具体的な動向を直接示す一次史料は乏しい。しかし、彼の立場と後の行動から、その動静を推測することは可能である。史料によれば、長朝は壬生綱房とは政治的に対立する立場にあったとされ 35 、壬生氏が支配する宇都宮城に従ったとは考え難い。彼は多功城という独立性の高い軍事拠点を保持しており、芳賀高定が真岡城で広綱を保護していたように、長朝もまた多功城に拠って反壬生・親宇都宮本家の姿勢を堅持していた可能性が極めて高い。
この時期の下野国は、壬生氏が支配する「宇都宮城ブロック」と、芳賀・多功氏らが支える「正統後継者(広綱)ブロック」に事実上分裂していたと見なせる。その中で長朝は、芳賀高定が「政」と「謀」で主家再興を画策する間、宇都宮領南方の最前線で「武」の力をもって壬生氏やそれに与する勢力からの圧力を食い止めるという、極めて重要な役割を担っていたと考えられる。彼の軍事的な存在がなければ、高定の再興計画は頓挫していた可能性も否定できない。長朝は、記録には残らずとも、主家再興の陰の立役者であったと言えよう。
宇都宮広綱が宇都宮城に帰還し、主家が再興された矢先、宇都宮氏にとって最大の試練が訪れる。越後の「龍」長尾景虎(後の上杉謙信)による関東侵攻である。この国家存亡の危機において、多功長朝はその生涯で最も輝かしい武功を挙げることとなる。
永禄元年(1558年)、宇都宮広綱が宇都宮城に復帰した直後の不安定な時期を狙い、長尾景虎は関東への本格的な軍事介入を開始した 6 。景虎は会津の蘆名氏と連携し、当主が若年で家臣団も安定していない宇都宮氏を格好の標的と定めたのである 6 。
景虎の戦略は周到であった。宇都宮領へ直接侵攻する前に、まずは周辺勢力を制圧し、外堀を埋めていった。南方の小山氏当主・小山高朝を戦わずして降伏させ、次いで宇都宮氏から離反していた壬生綱雄が拠る壬生城を攻め落とした 6 。こうして宇都宮氏を孤立させた上で、満を持して宇都宮領南方の最大の要である多功城へと軍を進めた。これは、本城である宇都宮城を直接攻撃する前に、その最も強力な支城を無力化し、防衛網を破壊しようという、極めて合理的な戦略であった 36 。
圧倒的な軍事力で迫る長尾景虎に対し、宇都宮方は多功城を最終防衛線と定めた。城主・多功長朝が率いる多功勢に、主家からの援軍を加えた約2,000の兵力が城に集結し、迎え撃つ態勢を整えた 6 。一方、長尾軍の先鋒は、下野の有力国人である佐野氏が務めた 6 。
永禄元年5月29日(1558年6月15日)、両軍は多功城下の多功ヶ原で激突した 6 。この戦いで、74歳の老将・多功長朝の采配が冴え渡る。宇都宮軍は劣勢を覆す奮戦を見せ、敵の先鋒大将であった佐野小太郎(佐野豊綱本人、あるいはその嫡男とする説がある)を討ち取るという大金星を挙げたのである 6 。
先鋒軍が壊滅し、その大将まで討ち取られるという予想外の大損害を受けた景虎は、これ以上の戦闘は不利と判断。宇都宮城攻略を断念し、全軍に撤退を命じた 6 。この勝利は、宇都宮城を奪還したばかりの宇都宮広綱政権の基盤を固め、その後の宇都宮氏の存続を決定づける、まさに値千金の勝利であった。
表3:多功ヶ原の戦い 両軍の主要武将
軍 |
指揮官・主要武将 |
備考 |
宇都宮軍 |
多功長朝 (総大将)、多功房朝、児山兼朝†、簗朝光、簗吉朝、石崎通季†、野沢保辰†、高木道重†、上野祐朝、木田淡路守 |
多功城を拠点に防戦。†は戦死者を示す 1 。 |
長尾・佐野連合軍 |
長尾景虎 (総大将)、 佐野豊綱 (先鋒大将)† |
景虎は本隊を率い、佐野氏が先鋒を務めた 6 。 |
この戦いは、宇都宮氏の一門や家臣団が総力を挙げて臨んだ防衛戦であった。表に示したように、宇都宮方からは児山兼朝をはじめとする多くの将兵が犠牲となっており、勝利の裏にあった多大な代償が戦いの激しさを物語っている 6 。それはまさに、薄氷の上で掴んだ勝利であった。
多功ヶ原での劇的な勝利を飾る逸話として、『下野国誌』などの後代に編纂された軍記物語には、多功長朝らが敗走する上杉軍を上野国白井城(現在の群馬県渋川市)まで追撃し、岩槻城主・太田資正の仲介によって和睦した、という勇壮な物語が記されている 1 。
しかし、近年の郷土史研究においては、この追撃戦が後世の脚色である可能性が指摘されている 5 。その根拠として、多功ヶ原の戦いで宇都宮軍が多くの将兵を失うという甚大な被害を被ったこと 6 、そして当時の宇都宮氏の兵力では、強大な長尾(上杉)軍を敵地深くまで追撃する余力があったとは考えにくい、という点が挙げられる。
では、なぜ史実の可能性が低い「追撃」という伝承が生まれたのか。多功ヶ原の戦いは、壬生氏の内乱によって弱体化していた宇都宮氏が、当時すでに関東にその名を轟かせていた「軍神」上杉謙信の侵攻を撃退した、という類稀なる大勝利であった。この劇的な勝利は、後世の人々にとって語り継ぐべき英雄譚の格好の題材となった。単に「撃退した」という史実だけでは物語としてのカタルシスが弱いため、より能動的で勇壮な「敵地深くまで追撃した」というエピソードが付加され、長朝の武功がさらに英雄化されていったと考えられる。この伝承の存在自体が、多功長朝という武将が、後世の下野国の人々にとってどれほど誇らしい「守護者」として記憶されていたかを示す、何よりの証左と言えるだろう。
多功長朝の生涯は、二つの大きな戦いを通じて、彼の武将としての資質と主家への忠誠心を浮き彫りにした。ここでは、彼の人物像を多角的に評価し、その死後、彼が遺したものが何であったかを探る。
多功長朝に与えられた「宇都宮家中一の侍大将」という評価は、単なる勇猛さだけではなく、主家の危機において常に最前線に立ち、敵の侵攻を食い止めた具体的な実績に裏打ちされている 1 。彼の存在は、まさしく宇都宮氏の存続に不可欠な「武の支柱」であった。
彼の重要性は、宇都宮家中の序列からも窺い知ることができる。ある史料によれば、宇都宮俊綱(尚綱)時代の評定において、長朝は芳賀高経や壬生綱房といった権勢を誇る宿老たちと並んで重臣の席を占め、時には彼らと対立してでも意見を述べる「積極派」として描写されている 35 。これは、彼が単なる一軍事指揮官に留まらず、宇都宮宗家を直接支える重鎮として、家中の意思決定にも深く関与していたことを示唆している。
戦国時代の主従関係は、裏切りや下克上が常であった。特に宇都宮家中は、芳賀氏や壬生氏の専横に見られるように内紛が絶えなかった 27 。その中にあって、多功長朝が主家を裏切ったという記録は一切見当たらない。彼の行動は、一貫して宇都宮本家の利益に沿うものであった。しかし、彼は盲従的な家臣ではなかった。評定では自身の意見を主張し、多功城という独立した軍事拠点を背景に、他の権臣とは異なる独自の立場を保持していた。彼の忠誠は、単なる主家への従属というよりも、宇都宮一門全体の守護者としての強い自負心に根差していたと考えられる。この「自立した忠臣」という二面性こそが、多功長朝の人物像の核心と言えるだろう。
永禄元年(1558年)に長朝がこの世を去った後も、多功氏の武門としての役割は続いた。子の房朝、そして孫の綱継が多功城主として家督を継ぎ、特に関東の覇権を狙う後北条氏による度重なる下野侵攻を、その最前線で何度も撃退した 11 。彼らは父祖の武勇を受け継ぎ、宇都宮氏の防衛に多大な貢献を果たしたのである。
しかし、その運命は常に主家と共にあった。慶長2年(1597年)、豊臣秀吉による宇都宮氏の突然の改易に伴い、多功氏もまた所領を没収され、約350年続いた多功城の歴史も幕を閉じた 8 。まさに主家と運命を共にしたのである。その後、一族の一部は伊予今治藩の松平氏に仕官したと伝えられている 7 。
彼ら多功氏代々の菩提寺は、多功城の南に位置する曹洞宗の星宮山見性寺(栃木県河内郡上三川町多功)である 9 。この寺は、多功氏の祖・宗朝が建立に関わったとされ 48 、その境内には長朝、房朝を含む多功家累代の墓所が今も残されている 1 。宇都宮特産の大谷石で造られた14基の五輪塔は 48 、長年の風雨により文字の判読は困難となっているが 9 、かつてこの地を治め、主家のために戦い抜いた武門の栄枯盛衰を静かに現代に伝えている。
多功長朝の生涯は、まさしく主家・宇都宮氏の存亡と軌を一にするものであった。彼は、主君の戦死とそれに続く内紛、そして外部からの強大な軍事的圧力という、二度にわたる絶体絶命の危機において、その武勇と不屈の精神で防波堤となり、宇都宮氏の滅亡を防いだ。
彼の功績は、単なる一合戦の勝利に留まるものではない。喜連川五月女坂の戦いでは、総崩れとなる軍の中で最後まで奮戦し、宇都宮城失陥期には南方の軍事拠点を固守して主家再興の基盤を支え、そして多功ヶ原の戦いでは、当時最強と謳われた上杉謙信の野望を打ち砕いた。彼は、不安定な情勢の中で主家を支え続けた「静かなる守護者」であり、その存在なくして宇都宮広綱時代の安定はあり得なかったと言っても過言ではない。
彼が主君から賜った感状などの一次史料は現存が確認されておらず、その具体的な武功の詳細は、後世に編纂された『下野国誌』や『那須記』といった軍記物語に頼る部分が大きい。しかし、これらの書物や地域の伝承の中に、「宇都宮家中一の侍大将」としてその名が繰り返し刻まれ続けていること自体が、彼の武功がいかに際立っていたかの何よりの証左である。多功長朝は、戦国期下野国の歴史を語る上で、決して忘れることのできない、真の武人であったと結論付けられる。