戦国時代の甲斐武田氏に、一人の異色の武将がいた。その名を多田三八郎という。彼は、武田信玄の家臣として武功を重ねた歴戦の勇士であると同時に、地獄の妖怪を退治したとされる伝説の英雄でもある。後世には「甲陽五名臣」の一人に数えられ、夜襲の采配は家中随一と評されるなど、その武名は広く知られている 1 。しかし、その生涯は史実と伝説が複雑に絡み合い、実像を捉えることは容易ではない。
本報告書は、この多田三八郎という人物について、現存する史料と伝承を徹底的に調査・分析し、その生涯の全貌を明らかにすることを目的とする。まず、錯綜する彼の呼称を整理し、その出自と武田家への仕官の経緯を追う。次に、信頼性の高い史料と軍記物語の双方から彼の武功を検証し、武田家臣団における彼の役割と地位を考察する。さらに、「甲陽五名臣」という枠組みの中で彼の特質を浮き彫りにし、彼の名を不朽のものとした「火車鬼退治」をはじめとする妖怪退治伝説が、なぜ生まれ、どのように語り継がれてきたのか、その歴史的・民俗学的背景を探る。最後に、彼の晩年と死、そして武田家滅亡後の子孫たちの動向を追い、史実の武将が伝説の英雄へと昇華していく過程を総括する。本報告を通じて、一人の武将の生涯を多角的に解明することで、武田家の軍事・社会構造、戦国武将の生存戦略、そして歴史が物語として記憶されるメカニズムの一端を照らし出すことを目指すものである。
多田三八郎の研究を進める上で、まず避けて通れないのが、彼の呼称に関する混乱である。複数の史料において、異なる通称や諱(いみな)で記録されており、これが彼の人物像を多層的にしている一因となっている。
最も広く知られているのは「三八郎(さんぱちろう)」という通称(仮名)であり、しばしば「三八(さんぱち)」と略して呼ばれる 2 。これは『甲陽軍鑑』をはじめとする多くの文献で見られる呼称である。
一方で、実名である諱については諸説ある。江戸時代後期の甲斐国の総合地誌『甲斐国志』では、彼の諱を「満頼(みつより)」としており、この「多田満頼」という名も広く浸透している 1 。しかしながら、この「満頼」という名は、同時代の古文書などの一次史料からは確認されておらず、後世に定着した呼称と考えられる 1 。
これに対し、江戸幕府が編纂した公式の系図集である『寛永諸家系図伝』や『寛政重修諸家譜』では、諱ははじめ「昌澄(まさずみ)」、のちに「昌利(まさとし)」であったと記録されている 1 。幕府の公式記録であることから、こちらの信憑性は比較的高いと見なされている。また、官位としては「淡路守(あわじのかみ)」を称したことが知られている 2 。
このように、多田三八郎は一人の人物でありながら、参照する史料によって異なる名で呼ばれている。本報告書では、最も一般的であり、特に伝説と強く結びついている「多田三八郎」を主たる呼称として用い、史実を論じる際など文脈に応じて「昌澄」や、広く知られた「満頼」の名を併記することとしたい。
表1:多田三八郎の呼称と諱の変遷
呼称・諱 |
典拠史料 |
史料の性質 |
備考 |
三八郎(三八) |
『甲陽軍鑑』など 2 |
軍記物語 |
最も広く知られる通称(仮名)。 |
満頼(みつより) |
『甲斐国志』 1 |
江戸時代の地誌 |
広く知られているが、一次史料での確認はできない。 |
昌澄(まさずみ) |
『寛永諸家系図伝』、『寛政重修諸家譜』 1 |
江戸幕府公式系図 |
幕府への提出資料に基づく公式記録。後に「昌利」と改名。 |
淡路守(あわじのかみ) |
各種史料 2 |
官途名 |
武士が称した官職名。 |
この呼称の多様性は、彼に関する情報が異なる出自を持つ複数の伝承や記録によって形成されたことを示唆している。軍記物語は勇ましい通称を、地誌は地域に根差した名を、そして幕府の公式記録は家の系譜を重んじる諱をそれぞれ採用した。この事実自体が、多田三八郎という人物が、多様な文脈の中で語り継がれてきた証左と言えるだろう。
多田三八郎の武田家におけるキャリアは、他国から来た一介の牢人(浪人)として始まる。『甲陽軍鑑』によれば、彼は美濃国(現在の岐阜県南部)の出身であった 1 。武芸、特に弓矢の修行を志して諸国を巡り、甲斐国に至って武田信虎にその才を見出され、家臣として召し抱えられたという 1 。
この仕官の経緯は、当時の武田家の状況を色濃く反映している。信虎の時代、武田家は甲斐国内の統一を達成し、信濃をはじめとする国外へと勢力を拡大しようとしていた。そのためには、譜代の家臣だけでなく、新たな戦力となる人材を広く求める必要があった。信虎は武芸に秀でた者を甲斐国外からも積極的に登用する政策を採っており、多田三八郎もその一人であったと考えられる 10 。彼はその実力によって足軽大将という重要な地位を与えられ、武田家の軍事力の一翼を担うことになったのである。
実力でのし上がったとされる一方で、多田三八郎はその出自について、清和源氏の名門「多田源氏」の後裔を称していたと伝えられている 1 。
多田源氏とは、平安時代中期に摂津国多田庄(現在の兵庫県川西市)を本拠地とした源満仲を祖とする一族である 12 。満仲は、後の鎌倉幕府や室町幕府を開くことになる河内源氏の祖・源頼信の父であり、まさに武家源氏の源流ともいえる存在であった。そのため、「多田源氏」の血を引くことは、武士にとって非常に高い権威と家格を意味した 15 。
しかし、三八郎の系譜を具体的に検証すると、その信憑性には疑問符が付く。彼は源頼光の孫・多田頼綱の子孫である、あるいは源満仲の弟・源満季の子孫であるなど、いくつかの説が存在するものの、いずれも『尊卑分脈』のような信頼性の高い根本系図史料ではその流れを確認することができない 1 。この事実は、彼の多田源氏後裔という出自が、必ずしも客観的な事実に基づいたものではなく、戦国時代という流動的な社会の中で、自らの権威を高めるために「称された」ものである可能性を示唆している。
武田家自体が同じ清和源氏(河内源氏の新羅三郎義光流)の家系であるため 17 、三八郎が同族の名門である多田源氏を名乗ることは、主家との一体感を強調し、譜代の家臣たちの中で新参者としての立場を補強する上で、戦略的に有効であったと考えられる。
多田三八郎の出自に見られる「美濃出身の牢人」という実態と、「名門・多田源氏の後裔」という自称の二重構造は、単なる経歴の粉飾として片付けるべきではない。これは、戦国時代という実力主義と伝統的権威主義が複雑に交錯した社会を生き抜くための、極めて戦略的なアイデンティティ構築の一例として捉えることができる。
まず、彼が実力で信虎に登用されたという点は、武田家が家柄や出身地にとらわれず、有能な人材を積極的に活用する先進的な組織であったことを示している。しかし、一度家臣団に組み込まれ、足軽大将という部隊指揮官の地位に就いた以上、彼には実力だけでなく、部下を統率し、時には譜代の重臣たちと渡り合うための「格」も必要とされた。在地に基盤を持たない他国出身者である彼にとって、その弱点を補うための権威付けは不可欠であったろう。
ここで「多田源氏」という名跡が決定的な意味を持つ。主君である武田家と同じ清和源氏の、しかも本流に近い名門を称することは、主家との間に擬似的な同族関係を構築し、絶対的な忠誠心と自身の存在価値をアピールする上で、これ以上ないほど効果的な手段であった。それは、自らを単なる「雇われ武将」ではなく、「主家と血の源流を共にする、運命共同体の一員」として位置づける行為に他ならない。
この多田三八郎の事例は、彼個人の物語に留まるものではない。下剋上が常態化した戦国時代において、多くの武将が自らの系図を「創造」したり、名門の系譜に「接続」したりした。これは、古い権威が崩壊しつつある一方で、人々が依然として家格や血統といった伝統的な価値観に重きを置いていたという、時代の過渡的な特徴を象徴している。多田三八郎の出自は、実力でのし上がりながらも、伝統的権威を巧みに利用して自らの地位を確立しようとした、戦国武将のリアルな生存戦略を映し出す鏡なのである。
多田三八郎は、武田信虎・信玄(晴信)の二代にわたって「足軽大将」という重要な役職を務めた 1 。戦国時代の合戦が、かつての一騎打ち中心から大規模な集団戦へと移行する中で、槍、弓、そして後には鉄砲で武装した歩兵集団である足軽は、軍隊の中核をなす存在となっていた 19 。足軽大将は、この足軽部隊を直接指揮する司令官であり、その統率力は戦の勝敗を左右するほど重要であった 20 。
特に武田家においては、足軽大将は特異な位置を占めていた。甲斐国内の有力な国人領主からなる譜代家臣団とは別に、信玄は多田三八郎のような他国出身の牢人の中から優れた人材を積極的に登用し、主君直属の部隊を率いる足軽大将に任命した 8 。彼らは甲斐国内に自身の領地という基盤を持たないため、主君への依存度が高く、それゆえに忠誠心も厚い、まさに信玄の手足となって動く精鋭部隊であった。多田三八郎が具体的に何人の足軽・同心を預かっていたかについての記録は残っていないが 1 、彼が武田軍の機動力を支える重要な実戦指揮官であったことは間違いない。
後世の軍記物語や伝説によって華々しく彩られる多田三八郎の武功だが、同時代の信頼性の高い史料から確認できる彼の活動は、数は少ないながらも極めて重要な意味を持つ。
その筆頭が、天文16年(1547年)の「小田井原の戦い」である。これは、武田信玄が信濃佐久郡の志賀城を攻略した際に、城主・笠原清繁の救援要請に応じて出兵してきた関東管領・上杉憲政の軍勢と武田軍が激突した戦いである。この戦いにおいて、多田三八郎が板垣信方らと共に目覚ましい活躍を見せたことが、同時代の年代記である『勝山記(妙法寺記)』に明確に記録されている 1 。戦いの詳細によれば、武田軍は板垣信方らを迎撃部隊として派遣し、小田井原において上杉方の援軍を徹底的に撃破した 22 。そして、討ち取った敵兵3000の首級を志賀城の眼前に並べ立て、城兵の戦意を完全に打ち砕き、落城へと追い込んだという 24 。この苛烈な戦いにおける三八郎の功績は、彼の武名を確固たるものにしたと考えられる。
さらにその翌年、天文17年(1548年)には、信濃守護であった小笠原長時との一連の戦い(塩尻峠の戦いなど)においても武功を挙げ、信玄(当時は晴信)から直々に「感状」を授与されたことが確認されている 1 。感状は、主君が家臣の功績を公式に認めた証であり、武士にとって最高の栄誉である。これにより、彼の武勇が客観的な事実として武田家中に認められていたことが証明される。
江戸時代初期に成立した軍学書『甲陽軍鑑』は、多田三八郎の人物像をより具体的かつ英雄的に描き出しており、後世における彼のイメージ形成に決定的な影響を与えた。史料としての信憑性には慎重な検討を要するものの、彼がどのように記憶され、語り継がれたかを知る上で不可欠な文献である。
『甲陽軍鑑』は、三八郎を百戦錬磨の勇士として描写する。その象徴が、「生涯で29度の合戦に参加して29通の感状を得、全身に受けた傷は27ヶ所に及んだ」という有名な逸話である 1 。この数字の正確性はともかく、彼が数多の戦場で命を懸けて戦い、多大な功績を挙げた猛将であったことを端的に物語っている。
さらに『甲陽軍鑑』は、彼の特技として「夜襲」を挙げる。彼の夜間戦闘における指揮能力は「家中随一」と絶賛されており、他の追随を許さないものであったという 2 。具体的な戦例として、天文9年(1540年)に信虎が信濃佐久郡へ侵攻した際、三八郎が夜襲の采配を振るって武田軍を勝利に導いたと記されている 9 。
一次史料に残る断片的な記録と、『甲陽軍鑑』が描く英雄的な記述を比較検討することで、多田三八郎のよりリアルな武将像が浮かび上がってくる。彼は、伝説が語るような超人的な英雄というよりも、特定の戦術分野において高度な専門性を発揮した「スペシャリスト」、すなわち実務家としての側面が強かったのではないかと考えられる。
まず、『勝山記』や感状といった確実な史料は、彼が武田家の信濃平定事業という国家プロジェクトにおいて、実戦部隊の指揮官として確かに貢献し、結果を出したことを示している。これは彼の武将としての確かな実績である。
一方で、『甲陽軍鑑』が彼に与えた「夜襲の名手」という評価は、単なる勇猛さの賛美に留まらない、具体的な専門技能の指摘である。足軽部隊は、個々の武勇よりも、規律の取れた集団行動がその真価を発揮する。特に、敵の意表を突く夜襲や奇襲といった作戦においては、指揮官の冷静な状況判断と卓越した統率力が勝敗に直結する。このような高度な戦術能力を彼が有していたと、『甲陽軍鑑』は伝えているのである。
この二つの情報は、矛盾なく結びつく。一次史料が示す「小田井原での活躍」や「小笠原戦での武功」は、まさに彼が「夜襲の名手」としての能力を発揮した結果であった可能性が高い。彼は、武田軍団という巨大な軍事組織の中で、足軽部隊の運用、とりわけ奇襲戦術の立案と実行という、ニッチでありながら極めて重要な役割を担った専門技能官僚(テクノクラート)だったのではないか。そして、「29の感状と27の傷」という伝説的な逸話は、彼がこうした危険かつ困難な任務を、その生涯を通じて数多く、そして忠実に遂行してきた輝かしいキャリアを、後世の人々が分かりやすく、そしてより英雄的に表現した結果であると解釈することができるだろう。
多田三八郎の評価を語る上で欠かせないのが、「甲陽五名臣(こうようごめいしん)」、あるいは「武田の五名臣」という呼称である。これは後世、特に『甲陽軍鑑』などを通じて定着したもので、多田三八郎は以下の四名の武将と共に、武田家初期を支えた名将として数えられている 1 。
この「五名臣」という括りは、武田信玄の晩年から勝頼の時代にかけて活躍した馬場信春、内藤昌豊、山県昌景、高坂昌信からなる「武田四天王」とは時代も構成員の性格も異なり、江戸時代以降に武田家の歴史を物語る中で形成されたものである 34 。
甲陽五名臣を構成する五人には、極めて重要な共通点が存在する。それは、彼らが全員、甲斐国外の出身者(牢人)であり、その実力によって武田家に登用され、足軽大将として活躍した点である 28 。山本勘助のみが信玄(晴信)の代からの仕官であるが、他の四名は信虎の代から二代にわたって武田家に忠誠を尽くした 28 。
この事実は、武田信玄の家臣団統治戦略を理解する上で非常に示唆に富んでいる。信玄は、甲斐国内に根を張る譜代の国人領主たちという伝統的な権力基盤を尊重しつつも、それとは別に、自身の意のままに動かすことのできる直属の軍事力を強く欲していた。在地に利害関係を持たない他国出身者たちは、その忠誠の対象が主君である信玄個人に集中しやすいため、この直轄部隊の指揮官としてまさにうってつけの人材であった。五名臣の存在は、武田家が血縁や地縁に縛られない実力主義を導入し、先進的な軍事組織を構築していたことの証左に他ならない。
五名臣という同じグループに属しながらも、個々の武将はそれぞれ異なる個性と評価を与えられている。その中で多田三八郎の特質を比較によって浮かび上がらせることができる。
原虎胤と小幡虎盛は、それぞれ「鬼美濃」「鬼虎」という勇ましい異名が示す通り、戦場での個人的な武勇や猛将としての側面が強く強調されている。横田高松は、武勇のみならず智略にも長けた将として評価されている。そして山本勘助は、直接的な戦闘指揮官としてよりも、軍師、あるいは築城家といった特殊な専門技能によって信玄に重用された、異能の士である。
これら四名に対し、多田三八郎は独特の位置を占める。彼は「夜襲の名手」という、極めて具体的な戦術的特技によって評価されている。これは、個人の武勇や大局的な戦略眼とは異なる、特定の戦況下での部隊運用能力という専門性である。さらに、彼には後述する「妖怪退治」という、他の四名臣には見られない超自然的、あるいは神秘的な伝説が付与されている。彼の人物像は、純粋な武勇や知謀といった現実的な能力の評価に加え、人知を超えた力を制する者という、ある種の神聖性を帯びている点が際立った特徴と言えるだろう。
「甲陽五名臣」という呼称とそれにまつわる物語は、単なる名将たちのリスト以上の意味を持っている。それは、武田信玄の卓越した人材登用戦略とその成功を象身する、一種の「ブランド」として機能したと考えられる。
『甲陽軍鑑』は、武田家の軍法や武士としての理想的な生き方を後世に伝えることを主たる目的の一つとして編纂された軍学書である 36 。その中で、なぜこの五人が「名人五人」として特別に取り上げられたのか。その背景には、彼らの存在が武田家の理念を体現する格好のモデルケースであったから、という編纂者の意図が透けて見える。
彼らの物語が発するメッセージは明確である。「武田家においては、出身や家柄は問われない。たとえ他国から来た素性の知れぬ牢人であっても、武勇や技能に秀でていさえすれば、正当に評価され、足軽大将という重職に就き、名誉と栄光を手にすることができる」というものである。これは、実力でのし上がりたいと願う全国の武士たちにとって、極めて魅力的なサクセスストーリーであったに違いない。五名臣の存在は、武田家の求心力を高め、有能な人材を惹きつけるための、強力な広告塔として機能したのである。
したがって、「甲陽五名臣」とは、歴史的な事実であると同時に、江戸時代に理想化され、再構築された「武田家臣団」像の重要な一部であったと言える。それは、信玄の先進的なリーダーシップと、彼が築き上げた組織の強さを後世に伝えるための、巧みな物語装置(ナラティブ・デバイス)であった。多田三八郎は、そのユニークなキャラクター性をもって、このブランドの重要な構成要素となり、武田家を代表する名将の一人として、長く語り継がれることになったのである。
多田三八郎の名を不朽のものとした最大の要因は、彼の武功そのものよりも、むしろ彼にまつわる超自然的な伝説にある。特に、信濃の虚空蔵山で妖怪「火車鬼」を退治したという逸話は、彼の人物像に神秘的な輝きを与えている。
この最も有名な伝説は、主に江戸時代後期の地誌『甲斐国志』によって広く知られることとなった 1 。
物語の舞台は、信濃国小県郡塩尻村(現在の長野県上田市塩尻)にそびえる虚空蔵山。三八郎がこの山頂に築かれた砦の守備を任されていたある夜のことだった。美しい月夜であったが、にわかに暗雲が立ち込め、激しい風雨が吹き荒れた。異変を感じた三八郎が物見櫓から辺りを見渡していると、その刹那、何者か得体の知れぬものが彼の髻(もとどり)を強く掴み、宙へと引きずり上げようとした。しかし、剛の者である三八郎は全く動じることなく、腰の太刀を抜き放つや、自らの髻を掴むその手を一閃のもとに斬り落とした。すると、荒れ狂っていた嵐は嘘のように静まり、空は元の月夜に戻った。後には、天から斬り落とされた鷲の足のようなものが残されていたという。これが地獄の妖怪「火車鬼」の腕であったと伝えられている 39 。また、地元ではこの怪物を「クハジャ」と呼んだともされる 39 。
この伝説の中心にいる妖怪「火車」は、日本の民俗や仏教思想を理解する上で非常に興味深い存在である。本来、「火車(ひのくるま)」とは仏教において、生前に悪逆非道の限りを尽くした罪人が死んだ際に、地獄から迎えに来る炎に包まれた車を指す言葉であった 40 。この仏教的な概念が、時代を経る中で民衆の想像力と結びつき、葬儀の場や墓場から死体を奪い去る具体的な妖怪「火車(かしゃ)」として姿かたちを持つようになったのである 40 。
さらに、この火車の正体は、年老いた猫が化けた「猫又」であるという伝承が全国に広く分布している 39 。古来、猫は神秘的な動物と見なされ、死体に近づくと死者が蘇る、あるいは死を穢すといった俗信が存在した。こうした死と猫を結びつける観念が、死体を奪う火車のイメージと融合したと考えられる 41 。したがって、火車は単なる恐ろしい怪物というだけでなく、「悪行に対する死後の懲罰」や「不浄な死」といった、強い道徳的・宗教的な教訓を象徴する妖怪であった 43 。
『甲斐国志』は、この火車鬼退治の伝説と非常によく似た構造を持つ、もう一つの妖怪退治譚を記録している 1 。
こちらの舞台は、甲斐国、甲府の湯村温泉(現在の山梨県甲府市)に近い天目山である。通称の「三八」として登場する彼は、山中でやはり何者かに頭を掴まれる。彼はこれも難なく斬り払うが、落ちてきたのは8尺(約2.4メートル)もの巨大な翼であった。話はここで終わらない。後日、翼を斬られた怪物が人間の法師の姿に化け、湯村の温泉で傷を癒しているところを三八が発見する。正体を見破られたと知った法師は、三八が斬りかかるや、ひらりと空へ飛び去っていったという。翼を持ち、法師に化けるという特徴から、この怪物の正体は天狗であったと解釈されている 39 。
これらの妖怪退治伝説は、単に多田三八郎という武将の個人的な武勇を称えるための物語としてのみ生まれたわけではない。伝説が生まれた背景、特にその「舞台」となった場所の地理的・政治的な意味を考察すると、より深い歴史的な意図が浮かび上がってくる。これらの伝説は、武田氏による「信濃平定」という歴史的事業を正当化し、神聖化するための、極めて象徴的な物語として機能した可能性が高い。
まず、二つの伝説は「人知を超えた異形の者(妖怪)に襲われるが、英雄は全く動じず、逆にその身体の一部を斬り落として撃退する」という、英雄譚の典型的な構造を共有している。重要なのは、その事件が起きた場所である。
火車鬼退治の舞台となった信濃の虚空蔵山は、武田氏が村上義清をはじめとする信濃の国衆と長年にわたり激しい覇権争いを繰り広げた、まさに信濃攻略の最前線であった 44 。同時に、この山は古くから地域の人々の山岳信仰の対象でもあった 46 。一方、火車鬼という妖怪は、仏教的世界観における秩序を乱す「混沌」の象徴である。
この構図を読み解くと、象徴的な解釈が可能となる。すなわち、「武田家の家臣である多田三八郎が、信濃の霊的な中心地(虚空蔵山)に潜む混沌の象徴(火車鬼)を武力で制圧する」という物語は、「武田氏という新たな支配者(秩序)が、土着の抵抗勢力が存在する信濃(混沌)を平定する」という歴史的現実を、神話的なレベルで描き直したメタファー(隠喩)として捉えることができるのである。
この解釈に立てば、妖怪退治伝説は、武田氏の信濃支配が単なる軍事的な侵略ではなく、その土地に巣食う邪悪なものを祓い、平和と秩序をもたらす「聖なる事業」であったと意味づけるための、一種のプロパガンダとして機能したと考えられる。そして、その神聖な事業の実行者たる「聖戦士」の役に、多田三八郎が選ばれた。彼が実際に信濃攻略の最前線で戦ったという史実、そして甲斐と信濃の国境地帯を守るという地理的な役割が、彼をこの伝説の主人公として据える上で、最もふさわしい人物たらしめたのであろう。
数々の合戦場を駆け抜け、妖怪すらも退治したと伝えられる多田三八郎であったが、その最期は戦場での華々しいものではなかった。
永禄4年(1561年)、武田信玄と上杉謙信が雌雄を決した第四次川中島の戦いの頃には、彼はすでに病の床にあり、自らが出陣することは叶わなかった。代わりに息子を代理として参陣させたと記録されている 1 。これは、彼の武将としてのキャリアが、この時期にはすでに終焉に近づいていたことを示している。そして、その2年後となる永禄6年(1563年)12月22日、彼は病によってその生涯を閉じた 1 。法名は宗樊(そうはん)と伝えられている 1 。
多田三八郎の晩年と死、そしてその一族を語る上で重要なのが、彼の本拠地であった城と、菩提寺である。
彼の居城は、長野県諏訪郡富士見町に位置する「先達城(せんだつじょう)」であったとされる 1 。この城は甲斐国と信濃国の国境にあり、武田家が諏訪郡、さらには信濃全域へと進出する上で、極めて重要な前線基地としての役割を担っていた 49 。三八郎はこの城を与えられ、国境の守備という重責を担っていたのである 48 。
そして、この先達城の跡地に建つのが、曹洞宗の寺院「鳳凰山 常昌寺(じょうしょうじ)」である。この寺は多田氏の菩提寺とされており、三八郎の墓所もこの寺にあると伝えられている 1 。
しかし、この常昌寺には一つの謎が存在する。境内の墓地には、天保年間に長篠の戦場跡から移してきたと伝わる墓碑があり、そこには「三州長篠戦合天正三年五月四日夜 陣中右淡地(淡路)三八郎常政(つねまさ)」と刻まれているのである 52 。天正3年(1575年)の長篠の戦いで戦死したというこの「多田常政」は、永禄6年(1563年)に病死した三八郎(満頼/昌澄)とは明らかに別人である。この「常政」が一体誰なのかについては、三八郎の子息であるという説(『甲陽軍鑑』に見える長男・昌治か)、あるいは三八郎本人と後世に混同されたという説などがあり、未だに確定的な見解は得られていない 49 。この墓碑の謎は、次項で述べる一族の動向の複雑さと深く連関している。
天正10年(1582年)の武田家滅亡後、多田三八郎の一族がどのような運命を辿ったのかについては、参照する史料によって記述が大きく異なり、非常に錯綜した様相を呈している。
江戸幕府の公式系図である『寛永諸家系図伝』や『寛政重修諸家譜』によれば、三八郎(昌澄)には長男・新八郎昌治(正春)、次男・八右衛門昌頼、三男・治部右衛門昌俊(満俊)という三人の息子がいたとされる 1 。このうち、長男の昌治は元亀元年(1570年)に病死したが、その子である多田正吉(昌吉)が後に徳川家康に仕え、その家系は江戸幕府の旗本として存続したと記されている 1 。『寛政重修諸家譜』には、昌澄を祖とする多田氏が旗本として九家記載されており、中には徳川家の奥医師となった系統もいたと伝わる 7 。
一方で、『甲陽軍鑑』や『甲斐国志』といった軍記物や地誌の記述は、これとは異なる一族の歴史を伝えている。これらの史料によれば、長男の昌治とその子である新蔵昌勝は、天正3年(1575年)の長篠の戦いで討死したとされる 1 。これは、前述した常昌寺の墓碑に刻まれた「常政」の伝承と符合する可能性がある。また、三男の昌俊については、武田家を出奔して相模の後北条氏に仕え戦死したという説と、武田家滅亡の際に殉死したという説の両方が伝えられている 1 。そして、この昌俊の子である昌綱が、武田家滅亡後に徳川氏に仕官し、尾張徳川家の守役という要職に就き、その子孫が旗本になった、とも記されている 1 。
このように、誰がいつ亡くなり、誰が徳川家に仕えて家名を存続させたのかについて、記録は大きく食い違っているのである。
表2:多田三八郎の子孫に関する記録の比較
人物(続柄) |
『甲陽軍鑑』 / 『甲斐国志』の記述 |
『寛永諸家系図伝』 / 『寛政重修諸家譜』の記述 |
備考 |
長男・昌治(新八郎) |
天正3年(1575年)長篠の戦いで戦死 1 |
元亀元年(1570年)病死 1 |
没年・死因が全く異なる。 |
三男・昌俊(治部右衛門) |
後北条氏に仕え戦死、または武田家滅亡時に殉死 1 |
徳川家に仕えた子孫の父として記載 1 |
武田家滅亡後の動向に大きな相違がある。 |
孫・正吉(昌吉) |
(昌治の子・昌勝は長篠で戦死) |
(昌治の子)徳川家康に仕え旗本となる 1 |
旗本家の祖とされるが、『甲陽軍鑑』の記述と矛盾。 |
孫・昌綱 |
(昌俊の子)徳川家に仕え、尾張徳川家の守役となる 1 |
(昌俊の子)徳川義直(尾張藩祖)の家臣となる 1 |
徳川家に仕えた点は共通するが、その経緯のニュアンスが異なる。 |
多田三八郎の子孫に関する記録の食い違いや、常昌寺の墓碑の謎は、単なる伝承の混乱や史料の誤記として片付けるべきではない。むしろ、この「混乱」そのものが、より大きな歴史の物語を我々に語りかけている。それは、武田家という巨大な庇護者を失った家臣団の一族が、徳川が支配する新たな時代の中でいかにして生き残り、自らの家の歴史とアイデンティティを再構築しようとしたか、という苦闘の痕跡なのである。
武田家が滅亡した天正10年(1582年)から、江戸幕府が『寛政重修諸家譜』を完成させた文化9年(1812年)までには、230年以上の歳月が流れている 55 。この間、徳川幕府は支配体制を盤石にするため、大名や旗本といった家臣たちの家系を公式に記録し、管理する必要があった。
旗本として幕府に仕えることになった多田氏の子孫たちにとって、自らの家の由緒を幕府に提出する際、先祖の輝かしい武功、とりわけ武田家臣の中でも名高い多田三八郎との直接的な繋がりを証明することは、家の格を保ち、幕府内での地位を確保する上で極めて重要であった。例えば、「長篠の戦いで徳川軍と戦って討死した」という経歴は、武勇の証として、「早くから徳川家康公に仕えた」という経歴は、忠誠の証として、それぞれ家の由緒を飾る上で有利に働いたであろう。
この状況を鑑みると、一つの推論が成り立つ。すなわち、三八郎の長男の系統や三男の系統など、武田家滅亡後に別々の道を歩んだ複数の多田一族が、それぞれに自家の正当性を主張する家系図を幕府に提出した結果、複数の、そして時には相互に矛盾する「公式の歴史」が生まれてしまったのではないか。常昌寺の墓碑もまた、そうした子孫の誰かが先祖供養と自家の権威付けのために建立し、その伝承が時代を経るうちに、偉大な祖先である三八郎本人のものと混同されていった可能性が考えられる。
したがって、この記録の「混乱」は、決して価値の低いものではない。それは、戦国という動乱の時代から江戸という安定の時代へと移行する中で、多くの武士の「家」が、いかにして存続の道を模索し、新たな支配者の下で自らのアイデンティティを形成していったかという、歴史のダイナミズムを示す第一級の史料なのである。
本報告書を通じて、多田三八郎という人物が、二つの異なる顔を持つ存在であることが明らかになった。
一つは、「史実の武将・多田昌澄」としての顔である。彼は美濃国から来た牢人でありながら、その実力をもって武田信虎・信玄の二代に仕え、足軽大将の地位を得た。特に武田家の信濃平定事業においては、小田井原の戦いなどで具体的な武功を挙げ、主君から感状を与えられるなど、戦術的な手腕に長けた有能な実務家であった。彼の生涯は、家柄によらず実力ある者を登用した武田家の人材戦略を体現するものであった。
もう一つは、「伝説の英雄・多田三八郎」としての顔である。こちらは、『甲陽軍鑑』に描かれる「夜襲の名手」「27の傷を持つ勇士」といった英雄像に始まり、ついには信濃の虚空蔵山で地獄の妖怪「火車鬼」を退治するという、超自然的な力をも備えた存在へと昇華される。この英雄像は、武田氏の信濃支配を正当化・神聖化する物語として、また、民衆の想像力の中で育まれ、語り継がれてきたものである。
この史実の武将と伝説の英雄という二つの像の間には、決して小さくない乖離が存在する。そして、その間隙を埋め、彼を英雄へと押し上げる上で決定的な役割を果たしたのが、『甲陽軍鑑』に代表される軍記物語であった。史実の断片を核としながら、そこに英雄的な逸話や超自然的な物語を織り交ぜることで、一人の武将は民衆の記憶に残る不滅のヒーローへと変貌を遂げたのである。
多田三八郎の物語は、戦国時代を語る上で欠かすことのできない魅力的なコンテンツとして、後世に多大な影響を与え続けてきた。江戸時代には、武田二十四将の一人として浮世絵や講談の題材となり、多くの人々に親しまれた 56 。そして現代においても、彼の名は歴史小説やシミュレーションゲームなどに登場し、新たな世代のファンを獲得している 58 。
特に、彼の代名詞ともいえる妖怪退治の伝説は、単なる荒唐無稽な作り話としてではなく、それを生み出した時代の精神性を映す鏡として捉えるべきである。そこには、当時の人々の自然や異界に対する畏怖の念、仏教的な因果応報の思想、そして信濃平定という歴史的事件に対する象徴的な解釈が、重層的に込められている。この伝説は、我々が忘れかけている、歴史と物語が未分化であった時代の豊かな文化遺産なのである。
結論として、多田三八郎という一人の人物の生涯を深く探求する作業は、単に歴史的事実を確定させることに留まらない。それは、史実がいかにして記憶され、取捨選択され、そして物語として語り継がれていくのかという、歴史と記憶、そしてナラティブ(物語り)の相互関係を考察する上で、極めて示唆に富む格好の事例である。史実と伝説の狭間に立つ武将、多田三八郎。彼の存在は、歴史を学ぶことの奥深さと、物語が持つ力の強さを、現代の我々に改めて教えてくれるのである。