日本の戦国時代、関東に覇を唱えた後北条氏。その家中に、多目元忠(ため もとただ)という名の武将がいた。一般に彼は、三代当主・北条氏康の軍師として知られ、精鋭部隊「北条五色備」の一角である「黒備え」を率いたと語られる 1 。中でも、日本三大奇襲の一つに数えられる河越夜戦において、勝利に逸り深追いする主君・氏康の危機を察し、独断で退却の号令を発してその窮地を救ったという逸話は、彼の忠誠心と機知を象徴する物語として広く流布している 4 。
しかし、これらの華々しい人物像は、その多くが江戸時代に成立した軍記物、すなわち『北条記』や『関八州古戦録』といった二次史料に源流を持つ 6 。これらの書物は、歴史的事実を伝えつつも、読者の興味を引くための物語的脚色や、後世の価値観に基づいた人物評価が色濃く反映されている。多目元忠は、生没年すら詳らかでない謎多き人物であり 1 、その実像を理解するためには、こうした通説や伝説を鵜呑みにすることなく、史料を批判的に検証する視点が不可欠である。
本報告は、後北条氏の重臣・多目元忠という人物の実像に、可能な限り迫ることを目的とする。そのために、同時代に記録された一次史料、後世に編纂された軍記物や由緒書、そして彼の一族が菩提寺として創建した寺院に残る伝承といった、多角的かつ多様な情報を駆使する。
報告の構成として、まず第一部では、多目氏の出自と、後北条家臣団におけるその特殊な家格について論じる。次に第二部では、元忠の軍歴に焦点を当て、特に河越夜戦や北条五色備といった伝説的逸話の虚実を検証するとともに、史料によって裏付けられる確かな戦歴を明らかにする。そして第三部では、元忠の晩年と最期、そして後北条氏滅亡後の一族の行方と、その痕跡を今に伝える菩提寺について詳述する。この三部構成を通じて、史実と伝説の狭間に埋もれた一人の戦国武将の姿を、立体的に浮かび上がらせたい。
多目元忠という武将を理解する上で、彼の個人的な資質や武功以上に重要なのが、彼が属した「多目氏」そのものの出自と、後北条家臣団における家格である。彼の地位と役割の源泉は、この一族が後北条氏の草創期から築き上げてきた特別な関係性にこそ求められる。
多目氏、あるいは多米氏と記されるこの一族は、三河国八名郡多米(ため)郷、現在の愛知県豊橋市多米町をその発祥の地とする 9 。伝承によれば、その出自は桓武平氏の末裔である鷲尾氏に遡るとされ、故あって三河国多米郷に住み着き、地名をもって名字としたという 12 。この三河という出自は、後北条氏の家臣団の中では異色であり、彼らが関東に根を下ろすに至る経緯こそが、一族の運命を決定づけることになる。
多目氏が歴史の表舞台に登場するのは、戦国時代の幕開けを告げた梟雄、北条早雲(伊勢宗瑞)との出会いによる。元忠の父祖とされる多米元益(もとます)らは、早雲がまだ一介の素浪人として京にあり、やがて駿河へ下向する時代からの盟友、あるいは初期の家臣であったと伝えられている 9 。
この関係性を象徴するのが、『北条記』などに記された「一味神水(いちみしんすい)」の逸話である 9 。若き日の早雲は、大道寺氏、荒木氏、山中氏、荒川氏、在竹氏、そして多目氏という六人の同志と伊勢の地で出会い、神社の水を酌み交わして「この中の誰か一人が大名になったならば、他の六人はその家臣となって力を合わせ、天下を治めよう」と固く誓い合ったという。その後、早雲が伊豆を平定し、小田原を本拠として関東に雄飛すると、この誓いに従って六氏は彼の家老となり、後北条氏五代にわたる繁栄の礎を築いたとされる。
この故事に基づき、多目氏は後北条家の家臣団の中で「御由緒家(ごゆいしょけ)」あるいは「草創七手家老」と称される、別格の家柄として遇された 3 。この「御由緒家」という称号は、単なる古参の家臣という以上の意味を持つ。それは、後北条氏という大名家そのものの創業者の一員であるという、極めて高い権威と名誉の証であった。後述するように、多目元忠が数々の重要な役割を担った背景には、この絶対的な家格と、それに伴う主君からの深い信頼が存在した。一般的な武将の評価が個人の戦場での働きに左右されがちな中で、多目氏に関する記述が常にこの「御由緒家」という出自と不可分に語られる事実は、彼の地位が特定の戦功によって後から得られたものではなく、北条氏草創期からの忠誠と貢献によって保証された、世襲的な政治的資本に根差していたことを強く示唆している。
伝説や軍記物から一歩離れ、同時代の一次史料に目を転じると、多目氏のより具体的な姿が浮かび上がる。その最も重要なものが、永禄2年(1559年)に北条氏康の命で作成された家臣団の知行台帳、『小田原衆所領役帳』である 18 。
この信頼性の高い史料の中に、「多米」姓の人物が確かに記録されている。しかし、その名は軍記物で活躍する「多目周防守元忠」ではなく、「諸足軽衆」という部隊カテゴリーに属する「多米新左衛門(ため しんざえもん)」という人物である 9 。
『小田原衆所領役帳』によれば、多米新左衛門は複数の所領を有していた。その主なものは、武蔵国橘樹郡青木(現在の横浜市神奈川区青木町周辺)に148貫文、そして武蔵国松山筋石橋(現在の埼玉県東松山市石橋)に45貫文であった 9 。この合計200貫文弱という貫高は、後述する「五家老」クラスの重臣としては決して高いものではない。しかし、所領の場所は極めて示唆に富む。特に「武州青木」は、御由緒家の一角である山中氏が城代を務めた青木城の所在地であり、また後述する多目氏の菩提寺・豊顕寺が建立された地でもある 9 。このことから、青木の地が後北条氏の支配下において、多目一族の関東における重要な拠点であった可能性は極めて高い。
この『小田原衆所領役帳』の記述は、多目元忠の実像を探る上で根源的な問いを投げかける。すなわち、役帳に記された「多米新左衛門」と、軍記物で活躍する「多目周防守元忠」は同一人物なのか、それとも一族の別の人物なのかという問題である。この点については確たる証拠がなく、いくつかの仮説が考えられる。一つは、新左衛門と元忠は別人であるという説。もう一つは、新左衛門が後に出世し、あるいは家督を継承して「周防守元忠」を名乗るようになったという説である。
この人物同定の困難さは、特定の個人としての「元忠」を追うことの難しさを示している。むしろ、後北条家中で重要視されていたのは、個人の諱(いみな)以上に、「御由緒家・多目氏の当主が名乗る周防守」という家格と一体化した「役割」や「称号」そのものであったのかもしれない。「多目元忠」という名は、後世の軍記物作者が、その象徴的な役割を担う人物として特定の名前を当てはめ、固定化させた結果である可能性も否定できない。
多目元忠の名を不朽のものとしたのは、数々の戦場における活躍、とりわけ伝説として語り継がれる逸話の数々である。しかし、その華々しい軍功は、史実と創作とを慎重に見極める必要がある。
多目元忠の武名を最も高らしめたのが、天文15年(1546年)の河越夜戦における活躍である。『北条記』や『関八州古戦録』といった江戸時代の軍記物は、この戦いにおける彼の劇的な役割を生き生きと描いている 4 。
その物語はこうである。北条綱成が籠城する河越城を、足利晴氏、上杉憲政、上杉朝定ら関東諸将の8万を超える大軍が包囲していた。これに対し、当主・北条氏康はわずか8千の兵を率いて救援に向かう。そして、油断しきった敵本陣への夜襲を敢行し、見事に成功させる。この奇襲により敵軍が混乱に陥る中、氏康は勢いに乗って敵を深追いし、かえって危険な状況に陥ってしまう。この主君の危機を冷静に見抜いたのが、別働隊を率いていた多目元忠であった。彼は、軍令に背く重罪を覚悟の上で、独断にて退き鐘(撤退を命じる鐘)を鳴らすよう命じた。この音を聞いた氏康は我に返り、全軍は秩序を保って撤退。結果として北条軍は大勝利を収め、戦後、氏康は元忠の軍令違反を咎めるどころか、その忠誠心と的確な判断を激賞し、感状と多大な褒美を与えたという 4 。
この逸話は、主君を救った忠臣の鑑として、後世に大きな感銘を与えた。しかし、その史実性には大きな疑問符が付く。河越夜戦について記した同時代の一次史料、例えば鶴岡八幡宮の供僧であった快元が記した日記『快元僧都記』には、天文15年4月に河越で合戦があり、難波田弾正をはじめとする武将が討死したという事実は記録されているものの、多目元忠の名は一切見出すことができない 22 。もし元忠が軍記物に描かれるような決定的な役割を果たしていたのであれば、何らかの形でその名が記録されていても不思議ではない。この一次史料の沈黙は、この有名な逸話が後世の創作である可能性を強く示唆している。そもそも、河越夜戦の規模や経過、夜戦の存在自体についても研究者の間で議論があり、軍記物の記述をそのまま史実と見なすことはできないのが現状である 6 。
では、なぜこのような逸話が生まれ、広く信じられるようになったのか。その背景には、戦乱が終息し泰平の世となった江戸時代の社会情勢と価値観の変化があると考えられる 25 。平和な時代において、過去の戦乱は講談や読み物といった娯楽の題材として消費されるようになった 27 。その中で、主君への絶対的な忠誠、自己の危険を顧みない諫言、機転といった儒教的な徳目は、武士の理想像として特に好まれた。多目元忠の逸話は、まさにこの「理想の忠臣」像に完璧に合致する。家格の高い譜代の重臣が、軍令違反という極刑のリスクを冒してまで主君を救うという物語は、江戸幕府の封建体制下における主従関係の理想を投影した、教訓的な意味合いを持つ創作として大いに享受されたのであろう。
河越夜戦の逸話と並び、多目元忠を象徴するのが「北条五色備(ごしきぞなえ)」の黒備え大将という役職である 21 。これは、北条氏康が天文20年(1551年)頃に編成したとされる、黄・赤・青・白・黒の五色で部隊を色分けした精鋭軍団のことである 29 。
この五色備に関する記述のほぼ唯一の典拠は、江戸時代に成立したとされる『小田原秘鑑』という書物である 30 。同書によれば、五色備は「五家老」と呼ばれる重臣たちがそれぞれ大将を務め、その構成は以下の通りであったとされる。
この中で、多目元忠は黒い武具や旗指物で統一された「黒備え」を率い、関東管領上杉氏から奪った上野国の拠点・平井城の守備を任されていたと記されている 30 。
しかし、この「五色備」の実在性についても、学術的には多くの議論がある。五つの備えのうち、北条綱成が用いた「地黄八幡(じきはちまん)」と呼ばれる黄色の旗指物は他の史料からもその存在が確認できる 30 。だが、その他の四色、とりわけ多目元忠の黒備えについては、『小田原秘鑑』以外にその存在を裏付ける確かな同時代史料は見つかっていない 30 。このことから、「五色備」という統一された軍団編成の概念自体が、武田信玄の赤備えなどに影響を受けた後世の創作、あるいは北条軍の一時期の編成や各武将の旗印が誇張されて伝わったものである可能性が指摘されている。
さらに、多目元忠が氏康の「軍師」であった、あるいは北条綱成や北条綱高といった勇将たちに軍学を指南したという評価も存在する 3 。しかし、これもまた、主に近現代の歴史小説やゲームなどを通じて広まったイメージであり、史料的な裏付けは乏しい。そもそも「軍師」という独立した役職は、戦国時代の大名家には公式には存在しなかった。江戸時代に入り、太平の世で兵法や軍学が学問として隆盛する中で、過去の戦国武将たちがその知将としての側面に光を当てられ、後付けで「軍師」という役割に当てはめられていったというのが実情に近い 34 。
このように、史料的裏付けの乏しい元忠が、河越夜戦の英雄、黒備えの大将、そして軍師といった数多くの伝説の中心に据えられているのは、彼が「御由緒家」という後北条家の歴史の根幹に関わる存在であったからに他ならない。後世の軍記物作者が後北条氏の栄光の物語を構成する際、その草創期から存在する譜代の重臣は、様々なエピソードを肉付けする上で格好の「結節点」となったのである。北条家の強さの象徴である「五色備」を語るには、その一角に由緒ある重臣を配置するのが物語として自然であり、氏康の賢明さを際立たせるには、それを機転で支える忠臣が必要となる。多目元忠は、その家格の高さゆえに、これらの物語的な要請に応えるための「配役」として最適だったのである。
伝説や創作のベールを剥がしたとき、多目元忠の武将としての確かな活動を示す史料が一つ存在する。それは、天正10年(1582年)における上野国吾妻郡への出兵記録である 35 。
この戦いは、同年に起きた本能寺の変で織田信長が横死し、旧武田領を巡って徳川・北条・上杉の三者が激しく争った「天正壬午の乱」の過程で発生したものである 36 。北条氏は、武田旧領の中でも特に上野国の沼田領確保を戦略目標に掲げ、軍事行動を起こした。
この時、北条軍の部隊を率いる大将の一人として「多目周防守」の名が史料に現れる。彼は冨永主膳ら約5000の兵を指揮し、真田氏方の国衆であった大戸入道が守る大戸城を攻撃した。この緒戦において多目元忠の軍は勝利を収め、一度は大戸城を陥落させることに成功している 35 。これは、彼が単なる伝説上の人物ではなく、実際に一軍の指揮を任されるほどの地位と能力を持った武将であったことを証明する貴重な記録である。
しかし、多目軍の勝利は長くは続かなかった。この報を受けた真田昌幸は、すぐさま嫡男の真田信幸(後の信之)に迎撃を命じた。当時まだ若武者であった信幸は、寡兵ながらも巧みな戦術を展開する。偽りの敗走で北条軍を誘い込み、伏兵をもってこれを強襲するという、真田家得意の計略の前に、多目元忠が率いる北条軍は完敗を喫し、手に入れたばかりの大戸城を奪い返されてしまった 35 。
この大戸城での敗戦は、多目元忠に関する最も確実な軍歴の一つであり、極めて重要な意味を持つ。それは、軍記物が作り上げた「百戦錬磨の名軍師」「常勝の英雄」といったイメージとは全く異なる、現実の指揮官としての等身大の姿を我々に提示するからである。彼は確かに後北条家の大将であったが、常に勝利を収めていたわけではなく、当時、日の出の勢いであった真田軍の優れた戦術の前に手痛い敗北を喫している。この史実は、元忠を神格化された伝説上の人物から、成功も失敗も経験する生身の戦国武将へと引き戻す。彼の歴史的評価は、伝説上の華々しい勝利に求めるのではなく、後北条家の「御由緒家」当主として、関東の重要な方面軍の指揮を任されるほどの重責を担っていたという「事実」そのものにこそ、求められるべきであろう。
多目元忠の生涯の終わり、そして彼が仕えた後北条氏の滅亡は、一族に過酷な運命をもたらした。その最期は記録が錯綜し、確たることは不明であるが、断片的な伝承は、戦国大名に殉じた一譜代家臣団の壮絶な姿を物語っている。
天正18年(1590年)、天下統一を目指す豊臣秀吉の大軍が関東に押し寄せた「小田原征伐」において、多目元忠がどのような最期を遂げたのか、それを明確に示す単一の史料は存在しない。彼の死は、生年と同様に謎に包まれており、複数の説が伝わっている 1 。
これらの戦いと関連して、悲劇的な逸話も伝えられている。山中城か西牧城での敗報が、一族の拠点であった青木城に届くと、元忠の子とされる「左近」は、もはやこれまでと覚悟を決め、城に火を放ち、家臣らと共に自刃して果てたという 37 。
元忠個人の最期に関する記録がこれほどまでに錯綜している事実は、後北条氏が滅亡するという未曾有の敗戦の中で、多くの家臣団が各地の戦線で討死・離散し、個々の武将の正確な動向を記録する余裕がなかった当時の混乱ぶりを物語っている。特に多目氏のように、西牧城の「長宗」、山中城の「長定」など、一族が北条領の各防衛拠点に分散して配置されていた場合、それぞれが別の場所で最期を遂げ、その情報が断片的にしか後世に伝わらなかった可能性は高い。異なる名前と官途名が登場することは、多目一族が複数の有力な武将を擁し、後北条氏の広大な領国を防衛する体制の中で、重要な役割を分担していたことの証左でもある。多目元忠個人の最期が不明確であること自体が、巨大な戦国大名・後北条氏の終焉と、それに殉じた一譜代家臣団の過酷な運命を、何よりも雄弁に象徴していると言えよう。
文献史料の上では霞がかった存在である多目氏だが、その一族が関東の地に確かに根を下ろし、生きた証を今に伝える場所がある。それが、彼らの菩提寺である法照山豊顕寺(ぶげんじ)である。
豊顕寺は、かつて多目氏の所領であった武蔵国橘樹郡青木、現在の横浜市神奈川区三ツ沢西町に位置する法華宗の寺院である 9 。同寺に残る寺伝によれば、その創建は永正12年(1515年)に遡る。多目一族の多米元興(もとおき)が、父・元益の菩提を弔うため、まず故郷の三河国多米郷に本顕寺という寺を建立した。その後、元興は後北条氏の家臣として青木城主となり、隠棲の地であった三ツ沢にこの寺を移転させ、名を豊顕寺と改めたとされている 10 。
この寺伝に登場する開基「多米元興」と、軍記物の英雄「多目元忠」との関係性は、残念ながら明確ではない。同一人物とする説、あるいは親子や兄弟といった近親者とする説などが考えられるが、それを裏付ける確かな史料はない 11 。興味深いことに、豊顕寺の寺伝では元興の子の名を「長宗」としており 41 、これは前述の西牧城で討死したとされる人物の名と一致する。このことから、寺伝の元興と長宗、そして軍記物の元忠は、多目家の家督を継承した一族の系譜を形成している可能性が考えられる。
豊顕寺の境内、本堂の脇手には、今もなお多目氏代々の墓所と伝えられる四基の宝篋印塔(ほうきょういんとう)が、静かにたたずんでいる 11 。風雪に耐え、苔むしたその姿は、長い年月を物語る。これらの墓が具体的に誰を祀ったものであるかを示す碑文などは確認できず、元忠個人の墓であるかを特定することはできない 43 。しかし、この墓所は、後北条氏の重臣として関東に勢力を築いた多目一族の歴史を、現代に物理的な形で伝える、極めて貴重な遺産であることに疑いの余地はない。
文献史料上の多目元忠は、名前や功績が錯綜し、実像が掴みにくい存在である。しかし、豊顕寺という寺院とそこに残る墓所は、多目「一族」がこの地に関東における確固たる拠点を築き、栄え、そして弔われたという、動かぬ事実を我々に示している。寺伝に残る「元興」や「長宗」といった名前は、文献史料の断片的な記述と符合する点があり、両者を相互に補完しあうことで、元忠という個人史を超えた「多目一族」の歴史的連続性が浮かび上がってくる。伝説は個人(元忠)を英雄に仕立て上げるが、物理的な遺産は一族(多目氏)の確かな存在を証明する。この対比こそが、多目元忠という人物を、そして彼が生きた時代を理解する上で不可欠な視点なのである。
本報告では、後北条氏の重臣・多目元忠について、通説や伝説を検証し、多角的な史料からその実像に迫ることを試みた。以下に、本報告の分析から導き出される結論を、比較表と共に示す。
史料・伝承名 |
成立年代 |
史料的性質 |
多目元忠(一族)に関する主要な記述内容 |
考察・評価 |
『小田原衆所領役帳』 |
永禄2年 (1559) |
一次史料(分限帳) |
「諸足軽衆 多米新左衛門」として武州青木等に所領を持つ 9 。 |
最も信頼性の高い記録。ただし「元忠」の名はない。家臣団内での具体的な地位と所領を示す。 |
『快元僧都記』 |
天文年間 (1532-55) |
一次史料(日記) |
河越夜戦の記述はあるが、多目元忠の名は見られない 22 。 |
元忠の河越夜戦での決定的役割を否定する強力な状況証拠。 |
天正10年の書状等 |
天正10年 (1582) |
一次史料 |
大戸城攻めの大将「多目周防守」として登場し、真田軍に敗れる 35 。 |
伝説ではない、確実な軍事行動を示す唯一無二の史料。 |
『北条記』 |
江戸時代初期 |
二次史料(軍記物) |
河越夜戦で氏康を救う逸話、御由緒家としての出自などが詳細に描かれる 9 。 |
伝説形成の中核。物語性が強く、史実性は慎重な検討が必要。 |
『関八州古戦録』 |
江戸時代中期 |
二次史料(軍記物) |
『北条記』と同様の河越夜戦の逸話などを記載 6 。 |
『北条記』系統の伝説を補強・流布させた書物。 |
『小田原秘鑑』 |
江戸時代 |
二次史料(由緒書) |
「北条五色備」の黒備え大将として「多米周防守元忠」の名を挙げる 30 。 |
五色備に関するほぼ唯一の典拠。史料的価値には議論がある。 |
豊顕寺 寺伝・縁起 |
不明(江戸期以降) |
伝承・寺社縁起 |
開基は「多米元興」。その子は「長宗」。元興は青木城主であった 11 。 |
一族の関東での動向や系譜を推測する上で重要。文献史料を補完する。 |
上記の分析を総括すると、多目元忠の実像は次のように再構築される。彼は、後北条氏の始祖・北条早雲の時代から仕えた特別な家格「御由緒家」の当主として、家臣団の中で重きをなした実在の武将であった。その地位と信頼は世襲的なものであり、天正年間には上野方面の軍団指揮を任されるなど、軍事面においても重要な役割を担っていた。しかし、その確かな軍歴は、真田軍に敗北を喫するなど、必ずしも華々しいものばかりではなかった。
一方で、「氏康の軍師」「河越夜戦の英雄」「黒備えの大将」といった、今日広く知られる彼のイメージは、信頼性の高い同時代史料からは裏付けられず、その多くが江戸時代に成立した軍記物の中で創られた「理想の忠臣」像である可能性が極めて高い。泰平の世の読者が求める武勇伝や教訓的な物語の主人公として、由緒ある譜代の重臣であった多目元忠は、格好の題材とされたのである。
多目元忠という一人の武将を巡る研究は、単に個人の伝記を追う作業に留まらない。それは、戦国大名の家臣団がどのように構成され、家格や譜代の忠誠が如何に重要視されたかを探る手掛かりとなる。また、同時代の一次史料と後世の軍記物との間に横たわる乖離を検証することは、史料批判の重要性を改めて我々に教えてくれる。
そして何よりも、多目元忠の事例は、一つの歴史的事実が、時代を経てどのように記憶され、脚色され、物語として消費されていくかという「歴史の享受史」を考察するための、非常に興味深く、示唆に富んだケーススタディであると言える。史実の多目元忠と、伝説の多目元忠。その両者を丹念に読み解くことによって、我々は戦国時代という時代の多層的な姿を、より深く理解することができるのである。