最終更新日 2025-06-28

多胡辰敬

「多胡辰敬」の画像

戦国武将・多胡辰敬の実像――忠義と実利、伝説と史実の狭間で

序章:多胡辰敬とは何者か

導入:人口に膾炙した忠臣像

日本の戦国時代、数多の武将が歴史の舞台で興亡を繰り返した。その中にあって、多胡辰敬(たご ときたか)という名は、ある特定のイメージと共に語り継がれてきた。「尼子家の家臣であり、彼が著した『多胡辰敬家訓』の一節、『命は軽く、名は重く』はあまりにも有名である。そして、その言葉通りに主家への忠誠を貫き、討死を遂げた」――これが、一般に流布する多胡辰敬の人物像である 1 。この忠臣としての姿は、彼の評価の核心を成すと同時に、その複雑な実像を覆い隠すベールともなっている。

問題提起:伝説の裏に潜む謎

しかし、後世の軍記物語や伝承から一歩踏み込み、断片的に残された史料を丹念に読み解く時、その単純な忠臣像は揺らぎ始める。彼の生涯、とりわけその最期については矛盾した記述が存在し、主家である尼子家中を揺るがした大粛清事件「新宮党事件」との関わりにおいては、深刻な謎が横たわっている 4 。これらの事実は、彼が単なる一途な忠臣であったという物語に、深遠な問いを投げかける。

本報告書の目的

本報告書は、これらの謎を一つ一つ解き明かし、後世に形成された伝説と、史料から浮かび上がる史実とを比較検討することを通じて、多胡辰敬という一人の武将の多角的で深みのある実像に迫ることを目的とする。彼の波乱に満ちた生涯と、彼が後世に遺した類稀なる家訓の思想を分析することで、戦国という激動の時代を生きた地方武士の、よりリアルな生き様を浮き彫りにしたい。

第一章:出自と家系――文武両道の血脈

生没年の検証

多胡辰敬の生没年については、確たる一次史料に乏しく、いくつかの説が存在する 5 。生年に関しては、明応6年(1497年)とする説 6 と、明応3年(1494年)とする説 7 が並立している。一方で、没年については永禄5年(1562年)とする点で、多くの資料が一致を見せている 6 。これらの情報から、彼の活動期が16世紀中葉、戦国時代が最も激化した天文年間(1532-1555)から永禄年間(1558-1570)にかけてであったことは確実視できる。

多胡氏の淵源と一族

多胡氏のルーツは、上野国(現在の群馬県)の多胡荘に遡るとの伝承がある 2 。その祖先は京極氏に仕え、応仁の乱(1467-1477)で戦功を挙げたことにより、石見国邑智郡に所領を与えられて移住したとされる 2 。この伝承が事実であれば、多胡氏は単なる出雲の土着豪族ではなく、室町幕府の有力守護大名であった京極氏との繋がりを持ち、中央の政治動乱の中で地方へと根を下ろした一族ということになる。このような背景は、後に辰敬が示す高度な教養や実務能力の源泉を考える上で示唆に富む。

彼の父は多胡忠重(法名:悉休)あるいは多胡久秀とされ 2 、辰敬には正国、片寄重明という兄弟がいたことが記録されている 6

婚姻関係に見る政治的立場:新宮党との繋がり

多胡辰敬の政治的立場を理解する上で決定的に重要なのが、彼の婚姻関係である。辰敬の姉妹の一人は、尼子家最強と謳われた精鋭軍事集団「新宮党」の頭領であり、主君・尼子晴久の叔父にあたる尼子国久の正室となっていた 6 。これにより、辰敬は国久の義理の弟、そしてその子である尼子誠久にとっては叔父という、極めて密接な姻戚関係で結ばれていた。この関係は、多胡家が尼子家中において単なる一介の家臣ではなく、権力中枢の一翼を担う重要な地位にあったことを強く物語っている。しかし、皮肉にもこの強固な繋がりこそが、後の彼の運命に大きな影を落とすことになるのである。

多胡辰敬の「文武両道」と「実用主義」を重んじる思想は、彼の出自と家系に深く根差していたと考えられる。伝承が示すように、京極氏という中央の名門守護に仕え、応仁の乱という全国的な動乱を経て地方に定着した家系であるならば、一族には中央の洗練された文化や政治力学への理解と、地方の在地領主として土地を治める実務的な統治能力の両方が求められたはずである 2 。辰敬自身も、尼子家中では行政官僚(奉行)としての役割を担う一方で 2 、軍事の最前線である刺賀岩山城の城主でもあった 2 。この「中央(京風文化)と地方(実務)」、「文(奉行職)と武(城主職)」という二重の経験こそが、彼が遺した家訓に見られる「連歌」や「花」といった教養(文)と、「手習学文」や「算用」といった実務能力(武家の実利)を同等に重視する、絶妙なバランス感覚を育んだのではないか。彼の家訓は、単なる個人的な信条の表明に留まらず、彼自身が生きてきたハイブリッドな環境を次世代が生き抜くための、極めて実践的な指針であったと解釈できる。

第二章:尼子氏の臣として――激動の生涯

尼子三代に仕えた官僚(奉行)として

多胡辰敬は、尼子氏の勢力を最大版図にまで拡大させた尼子経久、その跡を継いだ晴久、そして尼子氏最後の当主となった義久の三代にわたって仕えた古参の家臣であった 6 。彼のキャリアは、単なる武人としてだけではなく、優れた行政官僚(奉行)としての側面が際立っている。

天文9年(1540年)、主君・尼子晴久が安芸国の毛利元就を討つべく大軍を率いて侵攻した「吉田郡山城の戦い」に、辰敬も従軍している 2 。この戦いは尼子軍の大敗に終わり、尼子氏の勢力拡大路線における大きな転換点となった。辰敬もまた、その歴史的敗北の渦中にいたのである。

戦場での働き以上に彼の能力が発揮されたのは、領国経営の実務においてであった。天文12年(1543年)には、出雲の名刹・鰐淵寺の造営事業において奉行として中心的役割を担い、寺領に関する掟を定めて主君・晴久の命令を現地に伝達するという重要な任務を果たしている 6 。これは、彼が寺社勢力との複雑な交渉や、法規の制定・施行といった高度な行政能力を有していたことを示す具体的な証拠である。

石見国・刺賀岩山城主としての役割

天文12年(1543年)頃、辰敬はそのキャリアにおいて大きな転機を迎える。石見国(現在の島根県西部)の刺賀岩山城(さしかいわやまじょう)の城主に任命されたのである 2 。この城は、当時、尼子・大内・毛利の三大名が熾烈な争奪戦を繰り広げていた石見銀山の防衛ライン上に位置し、経済的にも軍事的にも極めて重要な拠点であった 10

さらに、刺賀は日本海に面した良港であり、尼子水軍の根拠地であると同時に、朝鮮半島や明との交易が行われる貿易港でもあった 6 。辰敬がこの地の統治を任されたという事実は、彼が陸上の軍事・行政だけでなく、水軍の統括や交易といった海に関わる経済活動にも通じていた可能性を強く示唆している。彼の配属は、石見銀山からもたらされる莫大な富を確保し、毛利・大内両氏の侵攻を食い止めるという、尼子氏の国家戦略における最重要課題の一環であった 10

文化人としての一面

多胡辰敬は、武辺一辺倒の武将ではなかった。天文23年(1554年)の元旦、尼子氏の本拠地である月山富田城内で、当代一流の連歌師であった宗養(そうよう)らを招いて盛大な連歌会が催された際、辰敬もこれに参加し、見事な歌を詠んだことが『多胡文書』に記録されている 6 。この事実は、彼が戦場や政庁での厳しい職務の傍ら、和歌や連歌といった高度な文芸に親しむ教養人であったことを証明する貴重な史料であり、彼の人物像に深みを与えている。

最大の試練:新宮党粛清事件(天文23年、1554年)との関わり

順風満帆に見えた辰敬のキャリアを根底から揺るがす大事件が、天文23年(1554年)に勃発する。主君・尼子晴久が、尼子家中で絶大な武力を誇りながらも増長し、宗家の権威を脅かす存在となっていた叔父・尼子国久とその一族(新宮党)を、謀略によって粛清したのである 9

前述の通り、辰敬は国久の義弟であり、新宮党とは血縁的にも極めて近い関係にあった 6 。この事件は、彼にとって主君への忠誠と、義理の一族への情愛との間で引き裂かれる、まさに絶体絶命の危機であったに違いない。ある史料は、辰敬がこの未曾有の内紛に「深く係わった」と記し、事件後、彼は尼子氏本流から距離を置くようになった可能性を指摘している 4 。この記述は極めて重要である。もしこれが事実ならば、彼は単に主君・晴久の命令に盲従したのではなく、粛清の実行や事後処理において何らかの重要な役割を担ったか、あるいは事件を機にその政治的立場が微妙なものとなり、疎んじられるようになったことを示唆する。これは、彼の「忠誠」の内実を問い直す上で、避けては通れない論点である。

新宮党の粛清事件は、多胡辰敬の生死観、特に彼の代名詞ともいえる「命は軽く、名は重く」という思想の形成に、決定的かつ深刻な影響を与えた可能性が極めて高い。彼が家訓を著したのは天文13年(1544年)頃とされ、これは粛清事件(天文23年、1554年)の約10年前のことである 7 。執筆当初、この言葉は武士としての理想的な心構えや、一般的な精神論として記されたのかもしれない。しかし、粛清事件において、彼は義兄である尼子国久や、甥の尼子誠久ら、血の繋がりの深い一族が主君の命令一つで無慈悲に滅ぼされるという、凄惨極まりない現実を目の当たりにした。まさに「家」や「名」を存続させるためには、個人の「命」がいかに容易く、そして非情に切り捨てられるかを骨身に染みて痛感したはずである。この未曾有の悲劇を生き延びた辰敬にとって、「名」(一門の名誉を守り、家名を後世に伝えること)を「重く」するためには、時には冷徹な判断を下し、肉親の「命」すら「軽く」扱わなければならないという、戦国乱世の非情な論理を、身をもって体験した。したがって、粛清事件以降、彼にとって「命は軽く、名は重く」という言葉は、もはや単なる教訓や理想論ではなく、自らの一族が体験した悲劇に裏打ちされた、極めて重い意味を持つ実存的な信条へと昇華されたと考えられる。彼がその後も尼子氏に仕え続けたとすれば、その忠誠は、この悲劇を乗り越えた上での、極めて覚悟の据わったものであったと推察されるのである。

第三章:『多胡辰敬家訓』――戦国武士の理想と実用主義

多胡辰敬の名を不朽のものとしているのが、彼が遺した『多胡辰敬家訓』(または『多胡家家訓』)である。この家訓は、戦国時代の武士の生き方や価値観を知る上で、第一級の史料と評価されている。

家訓の成立と構成

本家訓は、天文13年(1544年)頃に成立したとみられている 7 。若年の武士たちを対象に、辰敬自身の豊富な経験に基づき、武士として身につけるべき心得や技術を具体的に説いた教訓書である。その構成は全17箇条からなり、内容は武芸や学問といった基本的な素養から、実務能力、さらには芸事や礼儀作法といった教養に至るまで、武士の生活のあらゆる側面に及んでいる 1

【表1:多胡辰敬家訓十七箇条一覧】

家訓の全体像を把握するため、以下にその17箇条を一覧化し、簡単な分析を加える。この一覧は、辰敬の思想がいかに多岐にわたり、かつ実用性を重視していたかを示している。

項目名

概要と分析

関連史料

1

手習学文

家訓の冒頭で最も重要視される項目。読み書きができない者は物事の道理を弁えず、犬にも劣るとまで断じ、学問の必要性を厳しく説く。これは戦国武士にとって実務能力が不可欠となった時代背景を反映している。

15

2

武士の基本的な武芸(弓馬の道)の代表として挙げられ、その修練を奨励している。

1

3

算用

領地の経営や財政管理、さらには物事の道理や因果関係を理解する上で不可欠な能力として、学問に次いで重視。実務能力の高さを求める辰敬の思想が色濃く表れている。

16

4

乗馬

弓術と並ぶ、武士の必須技能。

1

5

医師

医術の心得は、自身や家族、家臣の命を救うために非常に実用的な知識であると説く。

1

6

連歌

高度な教養として嗜むべきであるが、本業である武士の道を忘れるほど深入りすることは戒めている。

1

7

包丁

料理の腕前は、客をもてなす際や、社交の場で重要な役割を果たす実用的な技術と位置づけられている。

1

8

乱舞

酒宴の席での舞は嗜み程度には良いが、それに心を奪われ、本分を疎かにしてはならないと釘を刺す。

5

9

蹴鞠

当時の武士階級における重要な教養、社交術の一つとして挙げられている。

1

10

日常の礼儀作法は、円滑な人間関係を築く上での基本であると説く。

1

11

細工

手先の器用さは、武具の修理や日常生活の様々な場面で役立つ実用的なスキルとして評価されている。

1

12

華道の心得もまた、精神を豊かにする教養として推奨されている。

1

13

兵法

武士の存在意義の根幹をなすものであり、その重要性は言うまでもない。

1

14

相撲

武芸の一環であり、心身を鍛えるためのものとして奨励される。

1

15

盤上の遊

囲碁や将棋は、単なる娯楽ではなく、戦略的思考や大局観を養うための訓練と見なされている。

1

16

鷹狩りは、武士の高尚な娯楽であると同時に、野外での活動を通じて武芸の訓練にも繋がるものとされた。

1

17

容儀

身だしなみを整えることは、他者からの評価を左右し、自己の威厳を保つ上で重要であると説く。

1

思想的特徴①:徹底した実用主義と合理主義

『多胡辰敬家訓』を貫く最も顕著な思想は、「人の用にたつ」人間になることを目指す、徹底した実用主義である 1 。特に、家訓の第一条に「手習学文」、第三条に「算用」を掲げ、これを極めて重視している点が特徴的である。「学文なき人は理非をもわきまえがたし」 15 、「算用を知らぬ者は人の費えも知らず」 16 と述べ、読み書きや計算の能力がなければ、物事の道理を理解することも、領地や家計を管理することもできないと断じている。これは、戦国時代が単なる個人の武勇だけでなく、検地、徴税、法整備、外交交渉といった高度な行政能力を武士に求め始めた時代の変化を、辰敬が鋭敏に感じ取っていたことの証左である 17

思想的特徴②:「命は軽く、名は重く」という生死観

この家訓の中で、実用主義と並んで彼の精神性を象徴するのが、「命は軽く、名は重く」という一節である 1 。これは、個人の物理的な生命(命)よりも、武士としての名誉、家名、そして後世からの評価(名)こそが真に価値あるものだとする、峻厳な価値観を示している。戦場での働きや主君への忠節においては、死を恐れることなく己の責務を全うすることを求める、武士道精神の精髄ともいえる思想である 22 。先に考察したように、この言葉は新宮党粛清という一族の悲劇を経験した彼にとって、極めて切実で重い意味を持っていたに違いない。

多胡辰敬の家訓は、同時代の他の武家家訓と比較して、その先進性が際立っている。北条早雲の『早雲寺殿廿一箇条』や武田信繁の家訓などが、主君への奉公や一族の団結といった精神論、あるいは道徳的な訓戒に重点を置く傾向があるのに対し 19 、多胡辰敬の家訓は、具体的なスキルセットの習得を体系的に説く、いわば「キャリア開発マニュアル」としての側面を色濃く持つ。これは、現代のビジネスシーンで語られる「ハードスキル」(読み書き、計算、専門知識)と「ソフトスキル」(躾、容儀、連歌=コミュニケーション能力)の双方の重要性を、400年以上前に見抜いていたに等しい。彼が城主を務めた刺賀が、尼子氏の重要な貿易港であった事実を考慮すると 6 、彼が日常的に接していたのは、武力のみに頼る武士だけではなく、交渉力、契約書を正確に読み解く読解力、そして収支を厳密に計算する能力を持つ商人や、海外からの使者であった可能性が高い。こうした経験を通じて、彼はこれからの乱世を生き抜く武士には、旧来の武勇に加えて、こうした実務能力が絶対に不可欠であると確信したのだろう。彼の家訓は、武士という身分が単なる「戦闘員」から、領地や組織を経営する「統治者・マネージャー」へと変貌していく時代の過渡期のリアリティを、見事に捉えたものであったと高く評価できる。

第四章:最期の戦いと死――忠臣伝説と史実の狭間

多胡辰敬の生涯のクライマックスとして、そして彼の評価を決定づけたのが、その最期である。しかし、この部分こそ、伝説と史実が最も複雑に絡み合う、謎に満ちた領域となっている。

通説:岩山城での壮絶な自刃

永禄5年(1562年)、中国地方の覇権を狙う毛利元就が、本格的な石見国侵攻を開始した。その矛先は、尼子方の重要拠点である刺賀岩山城にも向けられた。城主・多胡辰敬は、圧倒的な毛利軍を相手に城に籠もり、奮戦を続けた。しかし衆寡敵せず、ついに城は落城。辰敬は、潔く自刃して果てた――これが、広く知られた通説である 2 。この壮絶な最期は、彼が家訓で説いた「命は軽く、名は重く」という武士道精神を、自らの命をもって体現した、忠臣としての理想的な死として、後世に語り継がれることとなった。

異説と史料批判:本当に籠城戦はあったのか?

この感動的な物語は、しかし、史実として確定するには多くの疑問点が残されている。近年の研究や一部史料の批判的検討は、この通説に根本的な疑義を呈している。

第一に、辰敬の居城に関する混乱が見られる。ある伝承では、辰敬はもともと邑智郡中野の余勢城主であったが、後に刺賀岩山城に移ったとされる。しかし、信頼性の高い史料では余勢城に多胡氏が在城したことは確認できず、城将は「田子時隆」という同音の別人であった可能性が指摘されている 4 。これは、後世に人物の混同が生じた可能性を示唆しており、伝承の信憑性を揺るがす。

第二に、そしてより決定的なのは、刺賀岩山城をめぐる大規模な攻防戦の記録が、信頼性の高い一次史料、特に敵方であった毛利氏側の記録にほとんど見当たらないという点である 4 。毛利氏の動向を詳細に伝える『吉川家文書』などの古文書群にも、多胡辰敬が守る岩山城をめぐる激戦や、その落城に関する具体的な記述は確認しがたい 27 。もし通説通りの壮絶な籠城戦があったとすれば、戦勝者である毛利方の記録に何らかの形で言及があってしかるべきだが、その形跡は希薄である。

これらの点から、多胡辰敬の最期として語られる物語は、後世に彼の高潔な家訓の精神と結びつけられ、創出、あるいは大幅に脚色された「物語」である可能性を否定できない。

死をめぐる謎の真相

さらに、新宮党粛清事件(1554年)の後、辰敬が尼子氏本流から距離を置いていたという説 4 を考慮に入れるならば、毛利氏侵攻時(1562年)の彼の政治的立場は極めて不明確であったと言わざるを得ない。彼が尼子軍の主力武将として、毛利軍と真正面から戦う立場にあったのかという、物語の前提自体が揺らいでくる。彼の死が、必ずしも華々しい籠城戦の末の自刃ではなかった可能性も、冷静に視野に入れる必要がある。

では、なぜ「忠臣としての死」という物語がこれほどまでに広く受け入れられたのだろうか。その背景には、二つの大きな要因が考えられる。一つは、彼が遺した『多胡辰敬家訓』という卓越した著作の存在である。その実用性と高い精神性は、特に武士道が理想化された江戸時代において、武士たちの理想的な教訓書として高く評価されたであろう 3 。このような優れた家訓を遺した人物には、それにふさわしい劇的な最期が期待される。物語は、その期待に応える形で形成されていったのではないか。

もう一つの要因は、彼の血筋が、近世大名である津和野藩亀井家という名門に繋がったという事実である。辰敬の娘は湯永綱に嫁ぎ、その間に生まれた子、すなわち辰敬の孫にあたる亀井茲矩(これのり)は、尼子再興軍での活躍を経て豊臣秀吉、徳川家康に仕え、最終的に石見津和野藩の藩祖となった 6 。江戸時代、大名家にとって、その家の由緒や先祖の武功を顕彰することは、家の権威を保つ上で極めて重要であった。亀井家にとって、その外祖父にあたる多胡辰敬が、優れた家訓を残し、かつ主君のために壮絶な死を遂げた「理想の武士」であったという物語は、自家の権威を高める上で非常に好都合であった。後代の軍記物である『石見外記』や『元就記』などが彼の忠臣ぶりを強調して伝えるのは 2 、こうした背景と無関係ではないだろう。

結論として、多胡辰敬の最期に関する史実が曖昧であるからこそ、その空白を埋める形で、彼の優れた家訓の精神と、彼に連なる子孫(亀井家)の権威が、「忠臣・多胡辰敬」という英雄譚を遡及的に構築していったと推察される。これは、歴史上の人物像が、その人物自身の功績だけでなく、後世の政治的・文化的要請によっていかに形成されていくかを示す、格好の事例と言えるだろう。

終章:後世への遺産

多胡辰敬の生涯は永禄5年(1562年)に幕を閉じたが、彼が遺したものは、その死後も長く影響を与え続けた。

子孫たちの繁栄

辰敬の直接的な遺産は、その血脈を通じて後世に受け継がれた。彼の孫にあたる亀井茲矩は、戦国末期から江戸初期にかけての激動の時代を巧みに生き抜き、因幡鹿野城主を経て、石見津和野藩4万3千石の初代藩主となった 29 。これにより、多胡辰敬の血は近世大名家へと繋がったのである。

さらに、辰敬の直系の子孫もまた、この津和野藩亀井家に仕え、筆頭家老職を代々世襲する名門として、明治維新に至るまで家名を保ち続けた 29 。これは、辰敬が家訓で説いた「人の用にたつ」という実用的な生き方が、結果として家名を永続させ、一族を繁栄に導いたことを象徴している。

ゆかりの地と文化財

多胡辰敬の記憶は、彼が活動した地に今なお残されている。

  • 刺賀岩山城跡 : 彼が城主を務めた山城の跡は、島根県大田市久手町刺鹿に現存しており、戦国時代の石見銀山周辺の緊迫した情勢を今に伝えている 4
  • 円光寺 : 大田市久手町にある曹洞宗の寺院で、辰敬が自ら開基(創建にあたって土地や資金を寄進した人物)となって建立した 3 。寺には多胡家の菩提寺として位牌が祀られている 35
  • 絹本著色多胡辰敬像 : 円光寺が所蔵する辰敬の肖像画であり、彼の風貌を伝える唯一の貴重な資料である。その歴史的・美術的価値から島根県の有形文化財に指定されており 3 、島根県立古代出雲歴史博物館などで特別公開されることもある 41
  • 墓所 : 円光寺の境内には「多胡辰敬累代の墓」と記された石碑が存在するが、これが辰敬本人の墓であるかについては真偽不明であり、確たる墓所の特定は困難な状況である 35

総括:多胡辰敬が現代に問いかけるもの

多胡辰敬の生涯を詳細に検証する時、我々は「忠臣」という単純なレッテルでは到底語り尽くせない、一人の人間の複雑な実像に突き当たる。彼は、主君への忠誠、血縁一族への情愛、そして自らの家名をいかにして存続させるかという現実的な課題の間で、常に厳しい選択を迫られた戦国武将であった。

彼が遺した『多胡辰敬家訓』は、単なる精神論に留まらない、戦国乱世を生き抜くための実践的な知恵の結晶である。その徹底した合理性と実用主義は、組織の中で生きる現代の我々にとっても多くの示唆を与えてくれる。

理想(名は重く)を掲げながらも、現実(人の用にたつ)から目を逸らさず、その狭間で葛藤しながらも自らの信念を貫き、結果として家名を未来へと繋いだ多胡辰敬。彼の生き様は、不安定で先の見えない時代における個人の在り方、そして理想と現実のバランスをいかに取るべきかを考える上で、今なお貴重な示唆を与え続けているのである。

引用文献

  1. 多胡家家訓 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%9A%E8%83%A1%E5%AE%B6%E5%AE%B6%E8%A8%93
  2. 多胡辰敬 - BIGLOBE http://www7a.biglobe.ne.jp/echigoya/jin/TakoTokitaka.html
  3. 多胡辰敬 - 清治の花便り - エキサイトブログ https://tombee.exblog.jp/18087706/
  4. まだまだわからん石見銀山 第111話 多胡辰敬 https://iwami-gg.jugem.jp/?eid=4069
  5. 武家手猿楽の系譜 : 能が武士の芸能になるまで - CORE https://core.ac.uk/download/223195794.pdf
  6. 多胡辰敬 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%9A%E8%83%A1%E8%BE%B0%E6%95%AC
  7. 多胡辰敬家訓(たこときたかかくん)とは? 意味や使い方 - コトバンク https://kotobank.jp/word/%E5%A4%9A%E8%83%A1%E8%BE%B0%E6%95%AC%E5%AE%B6%E8%A8%93-93170
  8. 6話 新宮党 - 尼子の姫 https://ncode.syosetu.com/n9558dg/6/
  9. 尼子国久 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%BC%E5%AD%90%E5%9B%BD%E4%B9%85
  10. 尼子晴久 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%BC%E5%AD%90%E6%99%B4%E4%B9%85
  11. 多胡辰敬(たこ ときたか)という人物をしっていますか - 大田市小中学校教育サイト https://www.ohda.ed.jp/schools/es/kute_es/kute_es_shoukai/6831
  12. 刺賀長信 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%88%BA%E8%B3%80%E9%95%B7%E4%BF%A1
  13. 忍原崩れ - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BF%8D%E5%8E%9F%E5%B4%A9%E3%82%8C
  14. 新宮党 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%B0%E5%AE%AE%E5%85%9A
  15. 石見銀山 - 大田市 https://www.city.oda.lg.jp/files/original/20250207171358971b020842c.pdf
  16. 慧子 https://www.ritsumei.ac.jp/acd/cg/lt/jl/ronkyuoa/AN0025722X-038_019.pdf
  17. 序章古代东亚世界中的中日关系 https://www.mofa.go.jp/mofaj/files/100512963.pdf
  18. 多胡辰敬(たごたつのり)とは? 意味や使い方 - コトバンク https://kotobank.jp/word/%E5%A4%9A%E8%83%A1%E8%BE%B0%E6%95%AC-1361277
  19. 武家家訓に見る武家精神 https://rikkyo.repo.nii.ac.jp/record/2001221/files/AA11649321_23_05.pdf
  20. 日々、是天命ー邨橋智樹のブログ » 戦国時代の教育 http://astokone.jp/tomokiblog/education/1850/
  21. 戦国武将の学び/ホームメイト - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/tips/96783/
  22. 中世武士の生死観(5) Shojikan of Bushi in the Middle Ages (5) https://gssc.dld.nihon-u.ac.jp/wp-content/uploads/journal/pdf10/10-061-072-Oyama.pdf
  23. 楠木正成 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A5%A0%E6%9C%A8%E6%AD%A3%E6%88%90
  24. 自殺 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%87%AA%E6%AE%BA
  25. 武家家訓・遺訓集成 - CiNii Research - 国立情報学研究所 https://cir.nii.ac.jp/crid/1920020909712517248
  26. 三好長治の新加制式 - 徳島県立図書館 https://library.bunmori.tokushima.jp/digital/webkiyou/06/0611.htm
  27. 戦国期大名毛利氏の地域支配に関する研究 - CORE https://core.ac.uk/download/222935241.pdf
  28. 吉川家文書 - 島根県 https://www.pref.shimane.lg.jp/life/bunka/bunkazai/event/kodai/tyuseisiryo.data/kikkawa_shimane.XLSX
  29. 尼子氏 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%BC%E5%AD%90%E6%B0%8F
  30. まだまだわからん石見銀山 第110話 湯氏とは https://iwami-gg.jugem.jp/?eid=4065
  31. 多胡真蔭 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%9A%E8%83%A1%E7%9C%9F%E8%94%AD
  32. 旧津和野藩家老多胡家表門・番所土塀 - 島根観光ナビ https://www.kankou-shimane.com/destination/20701
  33. 観光スポット|【公式】山口県観光/旅行サイト おいでませ山口へ https://yamaguchi-tourism.jp/spot/index_42_2_____0______.html
  34. 石見城跡(竜嵓山・竜巌山) 島根県大田市 https://houshizaki.sakura.ne.jp/iwamijyouato.htm
  35. 郷土史勉強会①*岩山城 - 清治の花便り https://tombee.exblog.jp/13741580/
  36. 遺跡詳細表示 - 島根県遺跡データベース https://iseki.shimane-u.ac.jp/search_detail.php?target=site&org_target=site&subtarget=literature&id=7437&search_kbn=site&page=1&act=&sitename=%E6%B8%A9%E6%B9%AF%E5%9F%8E&sitekana=
  37. 絹本著色多胡辰敬像 - 島根まるごとミュージアム - 島根大学 http://museum-database.shimane-u.ac.jp/marugoto/574
  38. 平成 年月 日 (月) - 島根県 https://www.pref.shimane.lg.jp/admin/pref/info/kenpou/200705.data/1876.pdf
  39. 大田市文化財保存活用地域計画策定委員会を設置し https://www.city.oda.lg.jp/files/original/202304181312378528f6be617.pdf
  40. 島根の文化財 https://www.pref.shimane.lg.jp/bunkazai/index.data/taiko.pdf
  41. Newsletter of the Iwami-Ginzan Silver Mine Site - 島根県 https://www.pref.shimane.lg.jp/life/bunka/bunkazai/ginzan/old/pamphlet/official_record.data/newsletter12.pdf
  42. 企画展「戦国大名 尼子氏の興亡」展示品一覧 - 島根県立古代出雲歴史博物館 http://www.izm.ed.jp/tenpu/amako-tenjigae.pdf
  43. 多胡辰敬(たこ ときたか)という人物をしっていますか - 大田市小中学校教育サイト https://www.ohda.ed.jp/schools/es/kute_es/kute_es_topics/6831
  44. 武家手猿楽の系譜 : 能が武士の芸能になる まで https://hosei.ecats-library.jp/da/repository/00008748/12_nou_36_miyamoto.pdf