日本の歴史上、戦国時代から江戸時代初期にかけては、社会が抜本的に変容を遂げた激動の時代であった。この時代を生きた武将たちの運命は、個人の武勇や才覚のみならず、主家の盛衰、血縁、そして天下の動静という巨大な潮流によって大きく左右された。本報告書が主題とする多賀秀種(たが ひでたね)は、まさにその激動の時代を象徴するような生涯を送った人物である。
彼は、織田信長の寵臣として「名人久太郎」の異名をとった堀秀政の弟として生を受けながら、近江の国人・多賀氏へ養子に入り、その家名を継いだ。兄の庇護下で武将として頭角を現し、兄の急逝後は豊臣秀長、そして豊臣秀吉の直臣として2万石を領する大名にまで昇り詰める。しかし、天下分け目の関ヶ原の戦いでは西軍に与して敗北し、全てを失い浪人の身となる。そこから彼は、不屈の精神と巧みな処世術をもって再起を果たし、最終的には加賀百万石と称された前田家に仕官し、子孫に確固たる地位を遺した。
本報告書は、多賀秀種の生誕から死没に至るまでの波乱に満ちた生涯を、史料に基づき多角的に検証するものである。堀一族の次男という出自から、多賀、堀、そして再び多賀へと変転する家名、主君の移り変わり、知行の増減、主要な合戦における動向、そして浪人生活から加賀藩士へと至る軌跡を詳細に追う。彼の生涯を解き明かすことは、戦国から近世へと移行する時代の武士、特に主家の盛衰や天下の動乱に翻弄されながらも、自らの活路を切り拓こうとした中小大名の生き様を具体的に理解するための、貴重な事例研究となるであろう。
まず、彼の生涯の全体像を把握するため、以下に略年表を示す。
【表1:多賀秀種 略年表】
西暦 |
和暦 |
年齢 |
主な出来事 |
出典 |
1565年 |
永禄8年 |
1歳 |
美濃国茜部村にて堀秀重の次男として誕生。幼名は源千代。 |
1 |
1580年 |
天正8年 |
16歳 |
近江の国人・多賀貞能の婿養子となる。 |
1 |
1582年 |
天正10年 |
18歳 |
養父・貞能が本能寺の変で明智光秀に与し失脚。兄・堀秀政に仕え2,000石を得る。 |
1 |
1584年 |
天正12年 |
20歳 |
小牧・長久手の戦いに兄・秀政の配下として従軍。 |
1 |
1585年 |
天正13年 |
21歳 |
兄・秀政の越前転封に従い、4,500石に加増。 |
1 |
1588年 |
天正16年 |
24歳 |
従五位下・出雲守に叙任される。 |
1 |
1590年 |
天正18年 |
26歳 |
小田原征伐に従軍中、兄・秀政が陣没。豊臣秀長の与力となり、大和国宇陀松山城主となる。 |
1 |
1595年 |
文禄4年 |
31歳 |
豊臣秀吉の直臣となり、大和国宇陀郡内で20,659石を安堵される。 |
1 |
1600年 |
慶長5年 |
36歳 |
関ヶ原の戦いで西軍に属し、大津城攻めで武功を挙げるも、敗戦により改易。甥・堀秀治を頼り越後へ。 |
1 |
1610年 |
慶長15年 |
46歳 |
堀氏が改易。京都にて赦免される。 |
1 |
1614年 |
慶長19年 |
50歳 |
大坂冬の陣に「処士」として出陣。 |
1 |
1615年 |
元和元年 |
51歳 |
加賀藩主・前田利常に6,000石で召し抱えられる。 |
1 |
1616年 |
元和2年 |
52歳 |
11月3日、死去。墓所は金沢の大乗寺。 |
1 |
多賀秀種の生涯を理解する上で、彼の出自である「堀氏」と、養子先である「多賀氏」という二つの家名は、その後の彼の運命を規定する重要な要素であった。堀一族の次男という立場が、彼のキャリアの出発点と、幾度となく訪れる危機からの再起を支える基盤となった。
秀種は、永禄8年(1565年)あるいは永禄11年(1567年)に、美濃国厚見郡茜部村(現在の岐阜市茜部)にて堀秀重の次男として生を受けた 1 。幼名は源千代と伝えられる 1 。
父・秀重は美濃の斎藤道三、次いで織田信長に仕えた武将であった 7 。そして、秀種の兄こそ、信長の側近として小姓から取り立てられ、その卓越した武勇と行政手腕から「名人久太郎」と称賛された堀秀政である 8 。秀政は、信長の死後も豊臣秀吉の下で重用され、最終的には越前北ノ庄18万石を領する大名にまで出世した 9 。秀種は、この織田・豊臣政権下で最も輝かしい成功を収めた武将の一人を実兄に持つという、極めて恵まれた環境に生まれたのである。
秀種の人生における最初の転機は、天正8年(1580年)、近江国の国人であった多賀貞能(たが さだよし)の婿養子となったことであった 1 。多賀氏は、近江犬上郡の多賀大社の社家を起源に持ち、後に武家化した一族である 11 。養父となる貞能は、当初、北近江の浅井長政に仕えていたが、後に織田信長に寝返り、その家臣となっていた 3 。
貞能には後継者となる男子がいなかったため、信長政権下で急速に台頭していた堀秀政の弟である秀種に娘を嫁がせ、家を継がせることを望んだ 1 。この養子縁組は、双方にとって戦略的な意味合いを持つものであった。多賀氏にとっては、信長の寵臣である堀氏との姻戚関係を結ぶことで、織田政権内での立場を安定させ、家名を安泰にする狙いがあった。一方、堀氏にとっても、近江の有力国人である多賀氏と結びつくことは、同地における影響力を拡大するための足掛かりとなり得た。これは、個人の意思以上に「家」と「家」の利害が優先された、戦国時代典型の政略的な結合であったと言えよう。
しかし、この縁組によって約束されたかに見えた秀種の未来は、わずか2年後の天正10年(1582年)に起こった本能寺の変によって大きく揺らぐことになる。養父・貞能は、この歴史的な政変に際して明智光秀に与し、山崎の戦いにも参陣した 1 。結果、羽柴秀吉が勝利すると、貞能は所領を没収され、失脚する 1 。
この時、貞能が死罪を免れた背景には、実兄・堀秀政との縁故があったとする説が有力である 4 。秀種が両家の橋渡し役となり、兄に助命を嘆願した可能性は十分に考えられる。養家の没落という危機に直面しながらも、秀種自身は路頭に迷うことはなかった。彼は実家である堀家に戻り、近江佐和山城主となっていた兄・秀政に仕官し、2,000石の知行を与えられた 1 。これは、彼が「堀秀政の弟」という強力な血縁的背景を持っていたからこそ可能な、異例の厚遇であった。
この時期の秀種は、自身の立場を巡って複雑な状況にあったことが、その名前の変遷から窺える。天正10年8月の文書では、兄・秀政との連署で「多賀源千代政勝」と署名しており、多賀氏を名乗っていたことが確認できる 13 。しかし、その後、兄の家臣団に組み込まれる過程で「多賀源介」、そして「堀源介」へと名乗りを変えている 13 。一度は多賀家を継ぐ身でありながら、その道が絶たれた後、堀一族の武将としての立場を明確にしていく。この姓の変遷は、彼が自身のアイデンティティと公的な立場を模索していた時期の証左と言えるだろう。養父の政治的判断ミスという外的要因によってキャリアの再出発を余儀なくされたこの経験は、彼のその後の人生において、個人の立場がいかに血縁や人間関係に支えられているかを痛感させるものであったに違いない。
兄・堀秀政の家臣として再出発した秀種は、その卓越した能力と堀一族という出自を背景に、豊臣政権下で目覚ましい飛躍を遂げる。兄の与力から独立大名へ、そして豊臣家の直臣へと、その地位を確実に高めていった。
秀種は、兄・秀政の軍団において、単なる一武将ではなく中核を担う存在として活躍した。天正12年(1584年)の小牧・長久手の戦いでは、秀政が率いる第三陣の一員として従軍している 5 。翌天正13年(1585年)、秀政が秀吉から越前北ノ庄18万石を与えられると、秀種もそれに従って越前国内に4,500石を拝領し、翌14年(1586年)には8,000石余りへと加増された 1 。また、秀政が各地を転戦する間は、父・秀重と共に近江佐和山城の城代を務めるなど、一族の留守を預かる重責も担っていた 8 。
この頃の堀家における秀種の重要性は、金沢市立図書館所蔵の『堀家定書』に残された軍役構成に関する史料から具体的に読み取ることができる 13 。秀種は「多賀源介」あるいは「堀源介」として、一つの部隊を率いる「組頭」の地位にあった。彼が率いた組の具体的な軍役は以下の通りである。
【表2:堀源介(秀種)組の軍役構成表(推定)】
組頭・人持衆 |
騎馬 |
鉄砲 |
長柄 |
幟 |
備考 |
堀源介(秀種) |
10騎 |
20挺 |
20筋 |
3本 |
馬印あり |
久徳左近助 |
5騎 |
10挺 |
10筋 |
2本 |
馬印あり |
早川六左衛門尉 |
3騎 |
5挺 |
5筋 |
1本 |
- |
堀七郎兵衛 |
3騎 |
5挺 |
5筋 |
1本 |
- |
大津傳十郎 |
3騎 |
5挺 |
5筋 |
1本 |
- |
種田与次 |
- |
5挺 |
5筋 |
1本 |
- |
土肥与兵衛 |
- |
5挺 |
5筋 |
1本 |
- |
堀金左衛門 |
- |
5挺 |
5筋 |
1本 |
- |
合計 |
24騎 |
60挺 |
60筋 |
11本 |
- |
注:『堀家定書』に残る複数の史料 13 を基に再構成。人数や装備数は推定を含む。
この表は、秀種が単独で10騎の騎馬武者と20挺の鉄砲を動員する能力を持つ、有力な武将であったことを示している。
天正16年(1588年)4月13日、秀種は従五位下・出雲守に叙任される 1 。この際、公文書である口宣案には「中原秀家」と記されている 13 。堀氏の本来の姓は藤原氏とされるため、ここで多賀氏の姓である「中原」を名乗ったことは、彼が兄の家臣でありながらも、多賀家の後継者としての意識を保持し続けていたことを示唆しており、興味深い。
秀種のキャリアにおける最大の転機は、天正18年(1590年)に訪れた。天下統一の総仕上げである小田原征伐に従軍中、兄・秀政が陣中にて病死したのである 2 。最大の庇護者を失うという絶体絶命の危機であったが、秀種は驚くべき速さでこの事態に対応する。彼は即座に、豊臣秀吉の弟であり、政権の重鎮であった大和大納言・豊臣秀長の軍団に組み入れられ、その与力となった 1 。
この迅速な転身は、秀種個人の政治的判断力もさることながら、「名人久太郎」と謳われた堀秀政の弟という、豊臣政権内における「堀一族」の信用の高さが背景にあったと考えられる。秀吉としても、功臣の弟を冷遇することはできなかったであろう。
結果として、兄の死は、秀種を一介の家臣から、秀長の与力という立場ではあるが、一城の主へと押し上げるきっかけとなった。戦後、彼は大和国宇陀松山城主に任じられ、独立した大名としての第一歩を踏み出す 1 。現在の宇陀松山城跡からは、多賀氏の家紋(片喰紋)が入った鬼瓦が発掘されており、彼が城主であった時代に大規模な改修が行われたことが考古学的にも裏付けられている 15 。
その後、秀種の新たな主君となった豊臣秀長が天正19年(1591年)に、その後を継いだ養子の秀保も文禄4年(1595年)に相次いで死去すると、大和豊臣家は断絶する 1 。これにより、秀種は豊臣秀吉の直臣、いわゆる大坂蔵入地の代官を兼ねる大名として再編された。
彼は豊臣家直臣大名としての役務も着実にこなし、文禄3年(1594年)には、政権の新たな拠点である伏見城の普請(建設工事)を分担している 1 。そして文禄4年(1595年)9月21日、秀吉から正式に大和国宇陀郡内において20,659石の知行を安堵する朱印状を与えられた 1 。これにより、秀種は名実ともに2万石級の大名としての地位を確立したのである。兄の家臣としてキャリアを再スタートさせてからわずか13年で、彼は自身の力と時勢を巧みに利用し、豊臣政権下の大名として確固たる地位を築き上げた。
【表3:多賀秀種 知行変遷表】
年代(西暦) |
主君 |
石高 |
主な領地・役職 |
1582年 |
堀秀政 |
2,000石 |
近江国内 |
1585年 |
堀秀政 |
4,500石 |
越前国内 |
1586年 |
堀秀政 |
8,000石 |
越前国内 |
1590年 |
豊臣秀長 |
不明(与力大名) |
大和国宇陀松山城主 |
1595年 |
豊臣秀吉 |
20,659石 |
大和国宇陀郡内 |
豊臣秀吉の死後、天下の情勢は徳川家康と石田三成を中心に大きく二分されていく。慶長5年(1600年)に勃発した関ヶ原の戦いは、多くの大名に究極の選択を迫った。豊臣恩顧の大名であった多賀秀種もまた、この歴史的な大戦において、自身の運命を賭けた決断を下すことになる。
関ヶ原の戦いに際し、秀種は最終的に石田三成らが率いる西軍に与した。史料には「初め徳川家康に誼を通じた」との記述もあるが 1 、これは当時の多くの武将が、情勢を見極めるために両陣営に接触を図っていた保険的な行動であった可能性が高い。
彼の経歴を鑑みれば、西軍への加担はむしろ自然な選択であった。秀種は兄・秀政の死後、豊臣秀長、そして秀吉本人から直接知行を与えられ、大名としての地位を築いた、まさに「豊臣恩顧」の武将であった 1 。西軍が掲げた「豊臣家のため、秀頼公のため」という大義名分は、彼の出自とキャリアを正当化するものであり、これに逆らうことは自己の存在基盤を否定することにも繋がりかねなかった。
事実、合戦が始まる直前の慶長5年7月、西軍首脳部は大坂城の防備体制を固めるが、その際、秀種は杉若氏宗と共に「玉造口」の警備を命じられている 2 。これは、彼が西軍から信頼される中核メンバーの一人と見なされていたことを明確に示している。彼のアイデンティティは、あくまで「豊臣の大名」にあり、西軍に与することは必然的な帰結であったと言えよう。
秀種は、関ヶ原の主戦場に向かうのではなく、毛利元康を総大将とし、立花宗茂、毛利秀包らが加わった別働隊の一員として、近江大津城の攻略戦に参加した 2 。大津城には、いち早く徳川家康支持を表明した京極高次が籠城しており、東軍にとって東海道と中山道が交わる交通の要衝を押さえる重要な拠点であった 18 。
西軍1万5千の兵力は、9月7日から大津城への攻撃を開始した 18 。この戦いにおいて、秀種は目覚ましい武功を挙げる。9月13日の総攻撃では、大和衆の一角として奮戦し、「一番乗り」を果たしたと記録されている 6 。さらに、この日の戦闘で5つの敵兵の首級を討ち取った功績は、西軍の奉行であった増田長盛と総大将・毛利輝元の連署による感状でもって賞賛された 6 。この事実は、秀種が単なる政治的な武将ではなく、戦場においても優れた武勇を発揮する実戦能力の高い指揮官であったことを証明している。
しかし、秀種個人の華々しい武功とは裏腹に、この大津城攻めは西軍全体の戦略に大きな影を落とすことになる。京極高次の頑強な抵抗により、大津城が開城したのは9月15日であった 18 。この日は、奇しくも関ヶ原で天下分け目の決戦が行われた当日である。結果として、秀種ら1万5千の兵力は、美濃の主戦場に間に合わず、西軍は本来あるべき兵力を欠いたまま東軍と戦うという致命的な状況に陥った。大津城の陥落という戦術的勝利は、その日のうちに無意味なものとなり、秀種の武功もまた、西軍の戦略的敗北の中に埋没してしまったのである。
関ヶ原での西軍敗北という報は、大津城を落としたばかりの秀種たちのもとにもたらされた。この敗戦により、彼の運命は再び暗転する。戦後処理において、秀種は西軍に与した大名として、大和国宇陀郡に有していた2万石の所領を全て没収(改易)され、大名の地位を失った 1 。
しかし、彼は死罪を免れ、追放処分に留まった。その身柄は、東軍として北陸で戦功を挙げていた甥の堀秀治に預けられることとなり、秀種は越後福嶋(春日山)へと赴いた 1 。この比較的寛大な処置の背景には、甥である秀治が東軍の勝利に貢献したこと、そして徳川家康が「堀一族」という名家を完全に断絶させることを躊躇したという政治的配慮があったと推察される。血縁という最後の繋がりが、秀種を完全な破滅から救ったのであった。
全てを失い、甥のもとで蟄居生活を送ることになった秀種であったが、彼の人生はここで終わらなかった。不遇の時代を耐え忍び、時代の変化を冷静に見極め、彼は再び表舞台への復帰を目指す。その道のりは、彼の武将としての経験だけでなく、文化的素養や政治的嗅覚がいかに重要であったかを示している。
越後に赴いた秀種は、「鴎庵(おうあん)」と号し、静かな隠棲生活に入った 1 。敗軍の将として、歴史の表舞台から姿を消したかのように見えたこの時期、彼は『越後在府日記』という記録を著している 1 。
この日記の具体的な内容は現代に伝わっておらず、その詳細は不明な点が多い。しかし、近年の研究では、この日記の存在が秀種の持つ文化的素養の高さを示すものとして注目されている 23 。武勇が全ての価値基準であった戦国乱世から、秩序と教養が重んじられる泰平の世へと移行する時代において、日記を記すという内省的な行為は、彼が単なる武辺一辺倒の人物ではなく、知的な教養を身につけた文化人としての一面を持っていたことを示唆している。この文化的素養は、後に彼が再起を図る上で、武将としての実績と同じくらい重要な資質となった可能性が高い。不遇の時代にあっても自己を磨き続けたこの姿勢こそが、彼の再起の原動力となったのかもしれない。
平穏な蟄居生活は長くは続かなかった。慶長15年(1610年)、頼みの綱であった越後の堀家が、当主・忠俊(秀治の子)の代にお家騒動(越後福嶋騒動)を理由に徳川幕府から改易されてしまう 1 。これにより、秀種は再び後ろ盾を失い、完全な浪人となった。
その後、京都に移り住んだ秀種は、何らかの形で幕府からの赦免を得ることに成功する 1 。そして慶長19年(1614年)、豊臣家と徳川家の最終決戦である大坂冬の陣が勃発すると、彼はこの戦に「処士(しょし)」として出陣した 1 。
「処士」とは、官職に就かずに民間にいる有徳の賢人を指す言葉であり、彼が浪人の身でありながらも、世間から一定の敬意を払われる存在であったことを示している。彼がどちらの陣営で戦ったかを直接示す明確な史料はないが、その直後に前田家に仕官している事実から、徳川方として、あるいは徳川方に有利に働く形で参陣したと考えるのが最も合理的である。かつて豊臣恩顧の大名であり、関ヶ原で西軍についた彼が、この最後の戦で徳川方として参陣することは、過去を清算し、新たな支配者である徳川への忠誠を明確に示すための、計算され尽くした行動であった。これは、生き残りを賭けた巧みな自己演出であり、彼の処世術の集大成とも言える、人生最大の賭けであった。
秀種の賭けは成功した。大坂の陣が終結した元和元年(1615年)、彼は加賀藩三代藩主・前田利常に召し抱えられることとなった 1 。その待遇は、6,000石の知行と「組外頭(くみそとがしら)」という役職であり、浪人からの再仕官としては破格のものであった 1 。
この厚遇の背景には、いくつかの要因が考えられる。当時の加賀前田家は、外様大名筆頭として徳川幕府から常に警戒されており、藩の軍事力を強化するため、関ヶ原などで敗れた経験豊富な武将を積極的に登用する方針をとっていた。秀種は、関ヶ原や大津城攻めでの実戦経験が豊富であり、また「名人久太郎」の弟という「堀一族」のブランドも持っていた。さらに、彼の持つ文化的素養も、泰平の世における藩の運営に貢献できる人材として高く評価された可能性がある。これらの要素が複合的に作用し、秀種は加賀藩という新たな安住の地を得ることに成功したのである。
加賀藩に新たな人生を見出した秀種は、その晩年を藩の重臣として過ごし、子孫に確固たる家名を遺した。彼一代の奮闘は、個人の再起に留まらず、一つの武家を泰平の世に定着させるという永続的な成果に結実した。
前田家に仕官した翌年の元和2年(1616年)11月3日、多賀秀種は52歳(または53歳)でその波乱の生涯を閉じた 1 。墓所は、加賀藩前田家の庇護を受けた石川県金沢市の大乗寺に現存する 1 。
秀種の跡は、子の秀識(ひでのり、秀誠とも)が継いだ 27 。多賀家は「多賀数馬家」と称され、加賀藩の家臣団の中でも特に格式の高い「人持組(ひともちぐみ)」に列せられ、5,000石を知行した 1 。人持組は、数名の騎馬武者を抱えることが許された上級家臣団であり、藩の家老などの重職に就くことも可能な家柄であった 31 。禄高は時代によって変動があったものの、一貫して高い水準を維持し、加賀百万石の藩政を支える重要な一角を占めた 30 。金沢市の湯涌江戸村には、人持組5,000石の格式を誇った旧多賀家表門が移築・保存されており、その威光を今に伝えている 34 。
関ヶ原で全てを失った一人の武将が、最終的に子孫を大大名家における世襲の重臣として定着させたことは、特筆すべき成果である。これは、戦国から江戸への大転換期において、個人の武功や処世術が、いかにして「家」の永続的な資産へと転換され得たかを示す好例と言える。
武門として再興された加賀藩の多賀家であったが、泰平の世が続くと、その家風にも変化が見られる。幕末期の当主であった多賀直昌は、跡継ぎのいなくなった茶道宗和流金森家を継承するため、家督を譲って隠居し、茶道に専念したという逸話が残っている 1 。これは、武を以て立った多賀家が、時代を経て文化的な役割を担う存在へと変容していったことを象徴している。この背景には、不遇の時代に『越後在府日記』を記した始祖・秀種自身の文化的素養が、家風として脈々と受け継がれていた可能性も考えられる。
また、大正時代には、多賀家が家伝薬である「蜜丸」を製造・販売していたという記録も残っており 36 、武家の家格を維持しつつも、時代の変化に応じて柔軟に活動の幅を広げていたことが窺える。
多賀秀種の生涯は、兄・秀政の威光という順風に乗りながらも、養父の失脚、兄の急逝、主君の相次ぐ死、そして天下分け目の戦いでの敗北と、自らの力だけでは抗い難い時代のうねりに幾度となく翻弄されるものであった。彼は、歴史の主役となることはなかったかもしれない。しかし、その時々の状況を冷静に判断し、持てる全ての能力を駆使して決して埋没することなく、激動の時代を渡りきった。
大津城攻めで見せた確かな武功、危機を好機へと転換する政治的嗅覚、そして越後の蟄居生活を支え、再仕官への道を開いたであろう文化的素養。これらを併せ持った彼は、戦国乱世の終焉と江戸幕藩体制の確立という、日本の歴史における最も大きな社会構造の転換期を生き抜くための、一つの理想的な武士像を示している。
彼の人生は、華々しい英雄譚ではないかもしれない。しかし、それは、血縁、主君、そして天下の動向という制約の中で、自らの家と名を後世に遺すために奮闘した、一人の「次男坊」武将の鮮やかな肖像である。多賀秀種の生涯は、当時の武士たちが直面した冷徹な現実と、彼らが駆使したしたたかな生存戦略を、我々に具体的に示してくれる貴重な歴史的ケーススタディと言えるだろう。