戦国時代と聞けば、多くの人々は猛将たちが繰り広げる合戦の数々を思い浮かべるであろう。しかし、その華々しい武功の影には、大名の存亡を左右するもう一つの戦い、すなわち「外交」が存在した。列島に統一権力が不在であったこの時代、各地の戦国大名は独立した「地域国家」として存立しており、彼らにとって軍事同盟の締結、国境線の画定、そして中央政権との関係構築は、合戦の勝敗以上に死活的な意味を持っていた 1 。
この複雑で危険な外交交渉の最前線に立ったのが、「取次(とりつぎ)」あるいは「奏者(そうじゃ)」と呼ばれる家臣たちであった 1 。彼らは単なる書状の運び手ではない。主君の意図を正確に汲み取り、相手方の真意を探り、時には自らの裁量で交渉をまとめ上げる、高度な政治手腕と胆力が求められる「戦国の外交官」であった 4 。彼らの働き一つで、同盟は成立し、あるいは決裂し、一国の運命が大きく左右されたのである。
本報告書で光を当てる多賀谷政広(たがや まさひろ)は、まさにこの「取次」として、歴史の転換点において極めて重要な役割を果たした人物である。下総国の名門・結城氏の家臣として、彼はその生涯の多くを外交交渉に捧げた。特に、主家・結城氏が後継者不在と時代の荒波の中で存亡の危機に瀕した際、彼が成し遂げた一大交渉は、結城家の命脈を保ち、ひいては近世大名としての未来を切り拓く画期的な成果であった。
これまで断片的に語られることの多かった多賀谷政広の生涯を、史料を丹念に繋ぎ合わせ、「取次」という視点から再評価することで、彼の真価を明らかにする。それは、武力のみが全てではない戦国の世にあって、知略と交渉力がいかに強力な武器となり得たかを証明する試みでもある。
多賀谷政広という人物を理解するためには、まず彼が属した多賀谷一族の複雑な背景と、その中で彼が置かれた特異な立場を解き明かす必要がある。彼の揺るぎない忠誠心は、その出自と深く関わっている。
多賀谷氏は、武蔵国埼玉郡騎西庄多賀谷郷(現在の埼玉県加須市付近)を本貫とする武蔵七党の一つ、野与党の流れを汲む一族である 6 。小山義政の乱(1380年)の結果、多賀谷郷が結城氏の所領となったことを契機に、多賀谷氏は結城氏の家人となったと伝えられている 6 。
一族の歴史における大きな転機は、室町中期の「結城合戦」(1440年-1441年)であった。この戦いで主家・結城氏が幕府軍に敗れ滅亡の危機に瀕した際、多賀谷氏家(うじいえ)は落城寸前の結城城から幼い当主の遺児・成朝を救出し、その後の結城家再興に多大な功績を挙げた 6 。この功により、氏家は常陸国下妻(現在の茨城県下妻市)に所領を与えられ、この地に下妻城を築いて本拠地とした 7 。以後、下妻の多賀谷氏は、水谷氏、山川氏らと共に「結城四天王」の一角に数えられる有力な重臣として、また独立性の高い国人領主として、北関東に大きな影響力を持つ存在へと成長していく 11 。
しかし、この下妻を本拠とする多賀谷本宗家は、結城氏の重臣でありながら、しばしば主家の意に反し、自立を画策する存在でもあった。特に戦国後期、多賀谷重経(しげつね)の代には常陸の佐竹氏との同盟関係を強め、結城氏から半ば独立した勢力を形成するに至る 9 。結城氏側が編纂した『結城家之記』には、多賀谷氏の歴代当主が主君を弑逆したり、専横を極めたりしたことが記されており、「代々不忠」という強い警戒感が示されている 9 。これは、主家である結城氏にとって、強大化する多賀谷本宗家が常に潜在的な脅威であったことを物語っている。
このような一族の背景の中で、多賀谷政広は特異な出自を持つ。彼は多賀谷為広(ためひろ)の子として生まれ、系図上は下妻城主・多賀谷政経(重経の父)とは従兄弟の関係にあたる 9 。政広の生涯を決定づけたのは、彼の少年期であった。多賀谷氏が結城氏に反抗し、その後に和睦が成立した際、政広はその忠誠の証として結城家に人質として差し出され、そのまま結城家の家臣となったのである 14 。
この「人質」という出自こそ、政広の生涯を貫く行動原理を理解する上で極めて重要である。下妻で独自の勢力基盤を持つ本宗家とは異なり、政広は幼少期から結城城で育ち、主君・結城氏の庇護なくしては自らの存立すら危うい立場にあった。彼のアイデンティティは「多賀谷一族」である以前に、まず「結城家臣」だったのである。結城家の安泰と利益は、そのまま政広自身の安泰と利益に直結していた。この構造的な立場の違いが、独立志向の強い本宗家と、絶対的な忠誠を誓う政広との間に、決定的な分水嶺を形成した。結城当主の晴朝が、時に不穏な動きを見せる本宗家を完全に信頼できず、自らの手元で育ち、利害を同じくする政広を、国家の機密に関わる外交の密使という枢要な役に抜擢したのは、必然的な選択であったと言えよう。
外交官としての活躍が際立つ多賀谷政広であるが、彼は結城家中において軍事・政務の両面で信頼される重臣でもあった。そのキャリアは、主君からの知行宛行(ちぎょうあておこない)や軍事拠点における役職の拝命といった具体的な事実から窺い知ることができる。
政広の活動が史料上で明確に確認できるのは、結城氏第16代当主・政勝(まさかつ)の時代からである。弘治二年(1556年)、結城政勝が宿敵であった常陸の小田氏治と雌雄を決した「海老島の戦い(第一次山王堂合戦)」において、政勝は結城城に重臣たちを参集させた。その中に「多賀谷安芸守政広」の名が見える 17 。この合戦は、北条氏康の援軍も得て小田氏を打ち破り、結城氏の勢力を最大版図に押し上げた重要な戦いであり、政広はその中核を担う武将の一人として認識されていたことがわかる。
こうした忠勤に対し、主君からの恩賞も記録されている。結城市に現存する『多賀谷季雄家文書』によれば、政広は海老島合戦と同年の弘治二年(1556年)2月2日に、主君・政勝から下野国下都賀郡内の延嶋(のぶしま)地内、上川原地内の35貫文の所領を与えられている 19 。さらに時代は下り、第17代当主・晴朝(はるとも)の代となった天正十四年(1586年)8月23日には、晴朝から常陸国小栗(おぐり)地内の50貫文の所領を加増された 19 。これらの所領宛行状は、政広が歴代当主にわたって継続的に奉公し、その功績が認められていたことを示す一級の史料である。
特に注目すべきは、天正十四年(1586年)に彼が常陸国の小栗城の在番(じょうばん)を務めたという事実である 14 。在番とは、城代や守備隊長に相当する役職であり、単なる城の留守番ではない。小栗城は、結城氏の領国の東端に位置し、外交・軍事の対象であった佐竹氏や宇都宮氏の領国と接する最前線であった 20 。このような戦略的要衝を任されたことは、政広が単なる外交の使者ではなく、有事には即応できる軍事指揮官としての能力と、平時においては国境地帯の情報を収集・管理する政治的能力の両方を、主君・晴朝から深く信頼されていた証左に他ならない。彼の外交活動は、この小栗城を拠点として行われた可能性も高く、軍事と外交が不可分であった戦国時代のリアルな姿を体現する役職であったと言えるだろう。
多賀谷政広の真価が最も発揮されたのは、疑いなく外交の舞台であった。彼が「取次」として活動した16世紀後半の北関東は、複数の大勢力が複雑にせめぎ合う、まさに混沌の坩堝であった。この中で結城氏が生き残りを図るためには、武力以上に巧みな外交が不可欠であり、政広はその生命線を担う存在であった。
鎌倉時代以来の名門である結城氏も、戦国時代にはその存続を常に脅かされる厳しい状況に置かれていた。西には相模の雄・後北条氏が勢力を拡大し、北には越後の「軍神」上杉謙信が幾度となく関東に出兵。そして東には常陸の佐竹氏、北東には下野の宇都宮氏という、いずれも一筋縄ではいかない伝統的勢力が国境を接していた 16 。
この中で、結城氏17代当主・晴朝は、絶妙なバランス感覚で巧み、かつ苦心に満ちた外交政策を展開した。基本的には佐竹氏や宇都宮氏らと反北条連合(「東方之衆」)を形成しつつも、時には北条氏と和睦して上杉氏と対峙するなど、状況に応じて立場を変えることで、巨大勢力の狭間での生き残りを図ったのである 17 。このような綱渡り外交を成功させるには、主君の意図を正確に理解し、相手方の情勢を的確に把握して交渉を進める、信頼できる現場の外交官が不可欠であった。
その重責を担ったのが、多賀谷政広であった。史料には、彼が晴朝の時代、主に佐竹氏、宇都宮氏、そして後北条氏に対する外交の使者として活躍したことが記録されている 14 。これらの交渉は、単に書状を届けるだけの任務ではない。同盟関係の維持、利害対立の調停、和睦の仲介、そして何よりも敵対勢力の情報収集など、高度な政治判断を伴うものであった 1 。
政広の外交活動は、結城氏の生命線そのものであったと言っても過言ではない。特に、反北条連合の中核である佐竹・宇都宮両氏との間に太いパイプを築き、その「取次」役を担ったことは、結城氏が北条氏の圧倒的な圧力に対抗するための重要な布石であった。彼は、主君・晴朝の意図を正確に伝え、相手の真意を探り、連合内に亀裂が生じぬよう細心の注意を払う、まさに「戦国の外交官」であった。晴朝が大胆な外交方針の転換を幾度も行いながら、最終的に家を存続させ得た背景には、政広のような忠実で有能な外交官の地道な活動があったのである。
天正十二年(1584年)、北関東の勢力図を大きく揺るがす大規模な衝突「沼尻の合戦」が勃発した。これは、上野国をほぼ手中に収めた北条氏直が、下野国へと侵攻したのに対し、佐竹義重・宇都宮国綱を中心とする反北条連合軍がこれを迎え撃った戦いである 24 。
この合戦において、結城晴朝は連合軍の主要メンバーとして参陣した。下妻城主の多賀谷重経や下館城主の水谷正村といった、結城氏と関係の深い国人領主たちも兵を率いて馳せ参じ、北関東の反北条勢力が総力を挙げて北条軍と対峙する形となった 23 。この戦いは、両軍合わせて数万の兵力が数ヶ月にわたって対陣する大規模なものであり、結城氏にとってもその命運を賭けた一大決戦であった。
この合戦における多賀谷政広の直接的な戦闘参加を記す史料は見当たらない。しかし、彼の役割を「取次」という観点から見れば、その重要性は明らかである。このような多国籍軍ともいえる連合軍が円滑に機能するためには、各将間の緊密な連携と意思疎通が不可欠である。特に、連合の中核をなす佐竹氏、宇都宮氏との間を取り持ってきた政広の存在は、作戦の立案から実行に至るまで、あらゆる局面で重要であったと推察される。彼は、戦場で剣を振るう以上に、同盟の結束を維持し、連合軍という一枚岩を保つという、極めて重要な役目を担っていたと考えられる。沼尻の合戦は、政広の長年にわたる外交努力の集大成ともいえる舞台であり、彼の働きがなければ、この大規模な反北条連合の結成自体が困難であったかもしれない。
戦国時代の最終局面、天下統一を目前にした豊臣秀吉の登場は、関東の政治情勢を一変させた。旧来の武力による領土拡大は否定され、中央政権との政治的な繋がりが各大名の存亡を決定づける新時代が到来した。この激変期にあって、後継者不在という最大の難問を抱えていた結城氏を救ったのが、多賀谷政広の生涯最大の大仕事であった。
天正十五年(1587年)、九州を平定した豊臣秀吉は、関東・奥羽の諸大名に対し、大名間の私的な戦闘を禁じる「惣無事令」を発布した 26 。これは、領土紛争の解決を全て秀吉の裁定に委ねさせるという画期的な法令であり、戦国時代を通じて続いてきた自力救済の慣習を根本から覆すものであった。これにより、関東の勢力図は事実上凍結され、もはや武力によって家名を高め、領土を拡大することは不可能となった。
この情勢の変化は、結城氏17代当主・晴朝にとって深刻な事態をもたらした。当時、晴朝には実子がおらず、後継者問題は結城家の存続に関わる最大の懸案事項であった 30 。かつて宇都宮氏から朝勝を養子に迎えたこともあったが、政治情勢の変化の中でこの縁組は解消されていた 17 。惣無事令が発布された新時代において、家を存続させるためには、もはや旧来の関東の諸大名との縁組では不十分であった。唯一の生き残り策は、天下を掌握しつつある豊臣政権という新たな権力の中枢と、いかにして強力な繋がりを持つかにかかっていた。晴朝と、その懐刀である多賀谷政広は、この難局を打開するため、千載一遇の好機を待っていた。
天正十八年(1590年)、豊臣秀吉が関東の雄・後北条氏を討伐すべく、20万を超える大軍を率いて小田原征伐を開始した。この歴史的な大事件こそ、結城氏が待ち望んでいた好機であった。結城晴朝は、時流を的確に読み、逸早く豊臣方に与することを決断。小田原に参陣し、秀吉への恭順の意を示した 17 。
そしてこの時、晴朝の密命を帯びて歴史の表舞台に立ったのが、多賀谷政広であった。彼は主君の名代として、天下人・豊臣秀吉に直接謁見し、結城家の将来を賭けた一大交渉に臨んだのである 14 。その交渉内容は、結城家の養子として、秀吉の養子の一人である羽柴秀康(はしば ひでやす)を迎え入れたいという、大胆極まる申し出であった。
この交渉は、驚くべき成功を収める。羽柴秀康は、秀吉の養子であると同時に、小田原征伐後に新たに関東の支配者となる徳川家康の次男でもあった 34 。この養子縁組は、関係する三者すべてに利益をもたらす、完璧な構図を描き出していた。
多賀谷政広は、この三者の利害が完全に一致する一点を見抜き、それを実現させたのである。これは、長年の外交経験で培われた、情勢を的確に読む洞察力と、物怖じしない交渉力がなければ到底不可能な大事業であった。この世紀の交渉の成功により、徳川家康の次男・於義伊(おぎい)は「結城秀康」として結城家の家督を継承し、結城氏は滅亡を免れるどころか、徳川政権下で親藩大名として存続していく道筋を確固たるものにしたのである 17 。
結城家の命運を救った多賀谷政広の功績は、結城家内部に留まらず、天下の中枢からも高く評価された。その証拠が、豊臣秀吉および新当主・結城秀康から直接与えられた恩賞を記す古文書群である。
結城市に伝わる『多賀谷季雄家文書』には、この時の様子を生々しく伝える一連の史料が遺されている。まず、天正十八年(1590年)9月20日付で、天下人・豊臣秀吉が政広個人に対し、2,050石の知行を与えることを認めた朱印状が発給された 19 。そして翌21日には、結城家の新当主となった秀康からも、同様の内容を保証する朱印状が与えられている 19 。さらに同日付で、豊臣政権の奉行である増田長盛・牧村利貞から、その知行地の詳細な目録(内渡状)が渡された 19 。
福井県文書館所蔵の『越前史料「多賀谷文書」』にも同様の記録があり、その知行地の具体的な内容は「下野国小山領之内大宮千五百六十七石併細井橋本村四百八十二石都合弐千五十石」であったことが判明している 35 。
この一連の恩賞には、極めて重要な意味が込められている。第一に、豊臣秀吉から直接朱印状を受けたことで、政広は単なる結城家の一家臣という立場を超え、豊臣大名・結城秀康の家臣筆頭として、中央政権からも公認された特別な地位を得たことを示している。第二に、与えられた知行地が、旧来の結城領ではなく、小田原征伐の結果として結城氏の支配下に入った「小山領」からであったという点である。これは、秀康が旧来の結城氏の枠組みを超えた、新たな領主として君臨したことを象徴する措置であった。この2,050石という破格の恩賞は、政広の功績がいかに絶大なものであったかを如実に物語っている。
世紀の大交渉を成功させた多賀谷政広。彼が築いた礎は、息子・村広の代に結実し、一族の未来を確かなものとした。その一方で、独立を志向した多賀谷本宗家は、時代の変化に対応できず、対照的な運命を辿ることになる。
結城秀康の入嗣という大事業を成し遂げた後の、多賀谷政広自身の詳細な動向については、残念ながら史料に乏しい。生没年すら不明であり、墓所の所在も伝わっていない 14 。彼の歴史における役割は、結城家の存続を確定させたこの一点をもって、静かに幕を閉じたかのようである。
しかし、彼の遺産は息子・多賀谷村広(むらひろ)によって確かに受け継がれた。村広は父が築いた主君・秀康との強固な信頼関係を基盤に、新時代においても重臣として活躍する。官途は刑部少輔と称した 35 。
慶長五年(1600年)の関ヶ原の戦いにおいて、主君・秀康は徳川方として関東に留まり、会津の上杉景勝を牽制する重要な役割を担った。この時、村広も秀康に従って功を立てたとされ、戦後、常陸国・土浦城の城代に任じられている 14 。土浦城は佐竹氏の旧領に隣接する要衝であり、この抜擢は村広自身の武功と、父・政広以来の秀康からの厚い信任の証であった。
翌慶長六年(1601年)、秀康が関ヶ原の戦功により、結城10万石から越前国北ノ庄67万石へと大加増・転封されると、村広もそれに従って越前へ移り、福井藩士となった 14 。福井藩の慶長十五年(1610年)頃の分限帳(家臣の知行高を記した名簿)には、「多賀谷権太夫」という名で村広が登場し、父・政広が拝領したのと同額の2,050石(史料によっては1,050石)の知行を得ていたことが記録されている 37 。政広の功績は、息子・村広の代に福井藩重臣という形で結実し、多賀谷政広の家系は近世大名の家臣団として安泰の途を歩んだのである。
多賀谷政広・村広父子の歩みを、下妻を本拠とした多賀谷本宗家の運命と対比するとき、戦国時代から江戸時代への移行期における武士の生き様が、より鮮明に浮かび上がる。
下妻城主・多賀谷重経は、結城氏の重臣でありながら、常陸の佐竹氏との関係を重視し、独立領主としての性格を強めていた。関ヶ原の戦いに際し、徳川家康からの再三の出陣要請にもかかわらず、同盟者である佐竹義宣が態度を曖昧にしたことに同調し、明確に東軍に与しなかった 9 。さらに、家康の小山本陣への夜襲を計画したことが露見したとされ、戦後、所領6万石は没収、改易の処分を受けた 9 。戦国的な独立志向は、徳川による新たな統一政権下では「不忠」と見なされ、淘汰される結果となったのである。
一方で、多賀谷政広は、一貫して主家・結城氏の存続を第一に考え、外交努力によってその未来を切り拓いた。その結果、彼の子・村広は新領主・秀康に忠勤を尽くし、福井藩士として家名を後世に伝えることができた。
この対照的な二つの家の運命は、時代の変化を読み、新たな秩序に自らを適応させることの重要性を示している。政広の行動は、単なる主家への忠誠に留まらない。それは、旧来の地域秩序が崩壊し、新たな統一権力が生まれつつあることを的確に見抜いた、卓越した先見性に基づいていた。彼の生涯は、乱世における「忠誠」と「先見性」がいかに大きな価値を持つかを証明している。
興味深いことに、改易された重経の実子・三経(みつつね、通称・左近)は、父とは袂を分かち、早くから結城秀康に仕えていた。彼もまた秀康の越前転封に従い、福井藩で3万2千石という破格の知行を与えられ、加賀国境の防衛を担う重臣となっている 9 。これは、政広の交渉によって結城秀康という新たな「主君」が誕生したことが、結果的に本宗家の一部の血筋をも救ったことを示唆しており、政広の功績の波及効果の大きさを物語っている。
比較項目 |
多賀谷本宗家(重経) |
多賀谷政広系(政広・村広) |
主要人物 |
多賀谷重経 |
多賀谷政広、多賀谷村広 |
拠点 |
常陸国下妻城 |
下総国結城城内、後に常陸国小栗城 |
結城家との関係 |
重臣だが独立志向が強く、しばしば対立・両属 9 |
人質として出仕し、一貫して忠誠を尽くす 14 |
対外関係 |
佐竹氏との同盟を重視 9 |
主君・結城氏の外交方針に従い、佐竹・宇都宮・北条と交渉 14 |
天正18年(1590年)時点 |
秀吉に所領を安堵されるも、結城氏の臣下として扱われる 13 |
秀康入嗣を成功させ、秀吉・秀康から直接恩賞を受ける 19 |
関ヶ原の戦い(1600年) |
佐竹氏に同調し、家康への態度を曖昧にする。夜襲計画も露見 9 |
主君・秀康に従い東軍として功を立てる(村広) 35 |
関ヶ原合戦後の処遇 |
改易・所領没収。一族は離散 9 |
土浦城代に任じられ、後に越前福井藩士として家名を存続 14 |
多賀谷政広の生涯は、人質という逆境から始まり、主家への揺るぎない忠誠心を胸に、激動の北関東を外交交渉によって渡り歩いた稀有な武将の物語である。彼の人生は、戦国乱世を生き抜くための武器が、必ずしも槍や刀だけではなかったことを雄弁に物語っている。知略、胆力、そして何よりも時代の大きな流れを読む先見性こそが、時に万の軍勢にも勝る最大の武力となり得たのである。
政広の歴史における最大の功績は、疑いなく結城秀康の養子縁組を成功させたことにある。この一世一代の交渉によって、彼は後継者不在に喘いでいた鎌倉以来の名門・結城氏を存亡の危機から救い、徳川家康の次男を当主に迎えることで、徳川の世における安泰の礎を築いた。これにより、彼は単なる結城家の一家臣という存在を超え、結城氏の歴史そのものを動かし、ひいては近世大名・越前松平家の成立にまで間接的に影響を与えた重要人物として再評価されるべきである。
歴史の表舞台で脚光を浴びることは少なくとも、その影で最も重要な役割を果たした「乱世の交渉人」。それこそが、多賀谷政広という武将の真価であり、我々が彼の生涯から学ぶべき教訓であろう。